畏ラ拝ラ【ワイラハイラ】
僕の家は、どこにでもある二階建ての一軒家だ。
玄関入って正面に、まず二階へ続く階段が鎮座している。
階段を避けて一階には台所、リビング、客間、風呂やトイレなどがあって、一番奥に叔父さんの部屋。
二階には僕の部屋と、父さんの部屋と、それと物置にしている空き部屋。
もともとこの家は、父・母・叔父・祖父の四人で住んでいて、二階は父・母・祖父が使っていたらしい。
父さんは無口で、当時まだ学生だったはずの叔父さんはなぜか頻繁に授業をサボって家にいて、僕と過ごしていたように思う。
特に、際だった思い出はないけれど……それが僕の日常で、いつもどおりの日々だった。
ほどなくして、叔父さんが出て行ってからは僕と父さんの二人きり。
父さんはマメな人で、無口ながらも仕事と家事を両立させて頑張っていた。僕もそれに応えようとできる限りのことはしてきたつもりだけれど……父さんがどう思っていたのかは知らない。
あんなに会話がなかったのに、よくもまぁ共同生活ができたものだと思う。
そんな父さんが、ひとつだけ僕に禁じたことがある。
それが、「じいさんの部屋に行くな」ということだった。
今は物置部屋として使っている、二階の父さんの部屋の隣。
父さん曰く、遺品の整理がつかなくてそのままにしている……と。
僕は祖父に出会ったことがないけれど、父さんにとっては父親だ。
身内とはいえ、肉親の死に関して必要以上の言及はできない。
だって、顔も知らない人の進退についてどんな感情を抱けばいいかなんて、誰も教えてくれなかった。
「お邪魔します」
かつて自分の家であった場所に足を踏み入れる時でさえ、叔父さんは馬鹿丁寧に頭を下げる。
「さて、行きましょうか」
とくに躊躇いも見せずに、玄関前の階段を目的地に定める。
近い将来、父さんの死に場所になってしまうかもしれない場所を、平気で横切って行こうとする叔父さんの服の裾を掴んだ。
「……ま、待って!」
「はい、待ちましょう」
「あ……、その、僕は……」
「そうですね、えっちゃんにとってここは、忌々しい場所ですよね。でも、思い出して下さい」
歩みを止めて僕へ向き直った叔父さんは、ひとつひとつ言い聞かせるように僕に説いた。
「おもいだす?」
「……あのとき、お兄さんは……どこにいましたか?」
「ど、どこに……って。あの、階段の踊り場に……」
「そうですね。だから、惨劇が行われたのは二階だと推測されます。では、なぜお兄さんはえっちゃんが学校に行っているような日中、仕事もせず自宅にいたのでしょう?」
「そんなこと……知らないよ」
「あの日の朝、お兄さんが外出する姿を見ましたよね?」
「うん……」
寝ぼけ眼で朝食を摂っている僕を横目に、父さんが家を出て行く。
続けて、僕も出発する。そして帰宅する。それだけの日になるはずだった。
「お兄さんは、誰かに呼び戻されたんです」
「誰か?」
「それに今から、会いに行きましょう」
叔父さんは未だ決心のつかない僕の腕を引っ張って踊り場へと導く。
「ちょ、ちょっと……!」
「大丈夫ですよ、えっちゃんなら、大丈夫です」
僕が二階に行きたくない理由は漠然とした不安だけれど、どこの誰が肉親の殺害現場に進んで足を踏み入れたいと思うのだろうか?
でも、叔父さんにはこの手の常識は通用しない。
少々強引に連れられた
流石にすこし、埃っぽい。
警察が何度か訪れて、なにやら調べていた名残も今はない。
「えっちゃんは、『わらみみ』みたいな代物は苦手でしたよね」
「……苦手じゃない人のほうが、珍しいと思うんだけど」
僕の小声での訴えを叔父さんは黙殺して、床を軋ませながら僕と父さんの部屋を通り過ぎる。たどり着いたのは、一番奥の物置き部屋。
「この部屋が、どうかしたの? ただの荷物があるだけで……」
最後に僕がこの部屋に入ったときは、室内には雑多な品物が入った段ボールが積まれているだけだったと記憶している。
「そうですね、なにも
叔父さんは珍しく心底イヤそうな顔で自分の鼻を摘む。
「私にとっては……この部屋は、とても、くさいです」
「くさい?」
くるりと部屋に背を向けた叔父さんは、切断された指をあえて見せつけるように空中で指揮者の如く振る。
「ワイラハイラはですね、どの伝承にも口承にもない、正体不明詳細不明のかみさまです。分かっているのは僅かで、何かの神であり現実改変能力があるということ。そして、身体がないということ。また、身体を欲しているということ」
「身体が……ない?」
「はい。古くから獣の内蔵を川に流し血肉を洗って生計をたてていた私たちの姿に、その神は惹かれたのでしょう。自分が欲しているものを、溝に捨てているものがいる。それなら、もらってしまおうと」
「もらう」
それがどんな意味なのか、僕には分からない。
「しかし、公的な神ではないワイラハイラは容易に我々と接触できません。そんな折、邪眼の力で異界の扉が開いてしまった。喜び勇んで出てきたワイラハイラは、日胤村だけは差別から解放することを保証して、その代わりにひとつの要求しました」
「………」
「自分のための身体を、用意しろ……と」
「からだ?」
「ここからは……私の口から言いたくありません」
叔父さんは左右非対称の眼を閉じて、細く長く息を吐く。
「えっちゃん、きみは私が護りますから、決して部屋の中を見ても逃げないで下さい」
「部屋の中……って、言ってもただ段ボールが……」
「背を向けて逃走することが、一番、良くないことなんです。堂々と向き合っていれば、まだ大丈夫です」
「………」
「わかりましたか?」
いつになく真剣な様子の叔父さんに気圧されて、僕は首肯する。
「ありがとうございます」
僕の形だけの頷きなんてお見通しだろうけど、それでもあえて叔父さんは扉を開けた。
室内は雑多に段ボールが積まれた見慣れた光景が広がっていて、僕は拍子抜けした気持ちになる。
「……んっ?」
さんざん思わせぶりなことを言っておいてなに?と叔父さんに抗議しようと思ったら、なんともいえない
「な、なに……これ?」
部屋の中に腐臭の源があるとは思えない。
それでも目を凝らして段ボールの山を見ていると……。
「……っ!?」
いつの間にか、室内の様子がガラリと変わる。
部屋の中をビッシリと埋め尽くしていたのは、叔父さんの仕事道具としてお馴染みの皮で出来た『本』だった。
それは所狭しと並べられていて、ほとんどが天井まで届いている。
そしてその全てから、耐え難い悪臭が放たれていた。
こんな場所で、僕は今日まで暮らしていたのだろうか?
絶対に無理に決まってる。
信じられない気持ちで、隣に立つ叔父さんに目を向けた。
「えっ?」
叔父さんは、左手にしっかりと鞄の中から取り出した『本』を持っている。
「な、なんで? だって叔父さんの左指、は……」
「この部屋の中なら、なくしたものも蘇ります」
叔父さんが手にした本を開けると、くり抜かれた部分に切断された小さな左全指が静かに収まっていた。
「これは、ワイラハイラのための左手です」
平静を偽る叔父さんの表情は、微笑みの形を創りつつも微かに震えている。
「そして、えっちゃんのための左手でもあります」
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