日胤村の秘密
聞きたいことなら、たくさんある。
ここ最近の村の人たちの態度や、比奈夫と一緒に調べている謎の単語について。
次々に明かされる、非日常の存在を指し示す聞き慣れない固有名詞。
それに、僕が19年間見てきた叔父さんと、周囲の印象との乖離。
曖昧に笑って黙殺されることが目に見えていたから、これまで叔父さんに直接聞くことはできなかった。
でも、今なら……。
「………」
しかし折角据え膳整ったところで、イザとなると尻込みしてしまう。
「どれが、本当の叔父さん?」と聞いたら「どれも、本当ですよ」と返ってきそうだけれど、万が一にも僕に見せている一面が……嘘、だったとしたら?
それでも、彼を信じる気持ち、信じたい気持ちは変わらないけれど……今と全く同じでは、いられないだろう。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
滅茶苦茶になってしまった食事は一旦中止されて、僕のお皿に残っていた食べ物は残念だけど流しに移動される。
いつもの煎茶を丁寧に淹れてくれる間、僕はお茶の準備が整うまでに覚悟を決めようと思っていた。
単純に、緊張で喉が渇いていたから水分を欲していたという理由もある。
「……あの、さ」
目の前に置かれたお茶からは優しい湯気が立ちこめている。
蜃気楼越しに、叔父さんの姿がボヤけて見えた。
適温に冷めるまでの間、まずは一番気になっていたことを尋ねる。
「叔父さん、って……誰かと、喧嘩してる?」
色々考えた結果、一番言い易かったのがこの言い回しだった。
「喧嘩、ですか?」
「うん。たとえばさ、ホラ、村の誰かとか。比奈夫の家とか、日胤川の病院とか……」
「あぁ、そういうことですか」
珍しく自分の分のお茶も用意していた叔父さんは、淹れたての熱さを物ともせずに一口だけ喉を鳴らして飲む。
「あの時のこと、そんなに気にしてくれていたんですね」
「そりゃ、気にするよ。すごく驚いたんだから」
「私にとっては日常茶飯事なので、気にしないで下さい。みんないつも、大なり小なり思っていることが、今はたまたま表面化しやすいだけです。だから、喧嘩……とは違いますね。
「……とても、そんなふうには見えなかったけど」
「まあ、誰だって
「だこ……?」
「ええと、まあ、ゴミ溜めのことですね」
「……叔父さんは、ゴミなんかじゃないよ」
さらっと飛び出す自虐につい反応してしまう。
「ありがとうございます。えっちゃんからのその言葉だけで、十分ですよ。だけど、事実ですから」
「それは……なんだっけ、えっと、叔父さんがイナエタってこと? イナエタって、なんのことか分からないけど……」
「そうですねぇ……」
叔父さんは僕へ伝える言葉をゆっくりと選びながら、
「まあ、順を追って説明しましょうか。えっちゃんが解るように。えっちゃんが連れていかれないように」
そのまま肘のあたりまで袖を捲る。
久しぶりに眼にする叔父さんの左手は、僕の記憶の中と変わらず全指が切断されていて、それはつるりと綺麗だった。
「この左手のお陰で、村の皆さんは私が『ワイラハイラ』だと思っています」
「……えっ?」
「対外的には、イナエタ=ワイラハイラだと思ってもらえれば。ほか、村の人たちにとってイナエタに関することはみなイナエタと総称されます。ワイラハイラは口にすることも忌避すべき禁名なので、このような言い換えができたのです。名前に神性を見いだして、別称を言い伝える風潮は、この国にはよくあることですよね。あ、ちなみにイナエタは否定の
イナエタ……否穢多、か。
分かってはいたけれど、決して良い印象ではない字面が並んでいる。
「対外的には……って、ことは、本当は違うの?」
「ほとんど同じですけどね。
「……てか、叔父さんはめちゃくちゃ言っちゃいけない名前を言ってるよね……?」
「私はいいんですよ、
「……なんか、まだイマイチよくわからないんだけど」
良い温度になった僕のお茶に口を付ける。
頭痛の名残の残る脳内と、カラカラに乾いた喉に爽やかなお茶の香りが心地よい。
「うーん……自分にとって当たり前のことを説明するのって、意外と難しいんですよねぇ」
「叔父さん、ライターなんでしょ? 伝えるのは得意じゃないの?」
「肝心なことを覆い隠して、おもしろおかしく伝えるのは得意ですけど。えっちゃんだって、なぜあなたは呼吸してるの?と、聞かれても簡単には答えられないでしょ?」
「そうだけどさ……実際、僕はなんにもわかんないんだから、がんばってよ」
「それじゃあ……善処します」
ここだけ切り取ると、本当にいつもと変わらない二人の時間だ。
普段は頑なに閉じ込めている、つるりとした左手が頻繁に視界に入ること以外は。
「むかーし、むかし……」
「ちょっと待って、それってどれぐらい昔の話?」
あまりにも悠長な語り口にイヤな予感がして、思わず話を遮ってしまった。
「少なくとも、平城京が都だった頃ですね」
「昔すぎる!?」
「だから、困ってるんですよ」
むぅ、と年甲斐もなく口を尖らせた叔父さんは指のない左手でこめかみを抑えて、「あ、そうだ」と立ち上がった。
「実物を見た方が早いですね。えっちゃんの家に行きましょうか」
「僕の家?」
「お兄さんのことも話さないといけませんし、いい加減、二階にも行きたいでしょ?」
僕の家の、二階。
そこは父さんが襲われたであろう場所だった。
半年たった今も、僕は未だに足を踏み入れられない。
どうしても必要な場合は、叔父さんにお願いしていたくらいだ。
そんな場所にわざわざ住むことはない、と周囲は言ってくれたけれど、別の場所に暮らすと父さんとの思い出まで消えてしまう気がして、無理を通して住み続けている。
「……う、うん」
いつまでも目を逸らしているわけにはいかないとは、思っていた。
でも一人だと、背負いきれないから逃げていた。
叔父さんと一緒なら……これもまた、日常の一部になるかもしれない。
「じゃあ、運転をお願いできますか? 道すがら、話せるところまで話しましょう。私の拙い説明で、良ければ」
叔父さんは先に席を立って、まだ少し眉間に皺を寄せていた僕を促す。
さっさと革の鞄を斜めがけにした叔父さんに続いて、僕も車のキーを手に取った。
「私、えっちゃんの運転好きなんです」
「そうなの?」
「流れる景色を見るのは落ち着きますし、それに、乱暴じゃないですから」
煽てられて悪い気はしない。
お下がりの古い軽トラックだけど、愛着はそれなりにある。
「そういえば、この軽トラっていったい誰のものなの? だって叔父さん、運転できないよね?」
「そうなんですよ。運転できないのに、車なんてあるから困っていたんです」
「てっきり、誰かに借りたか貰ったかしたんだと思ってたんだけど……」
戸締まりをしっかり確認して、一足先に白い軽トラの前で待っていた叔父さんが振り返って微笑む。
「これは、私のお父さんからもらったんです」
「お父さん……あっ、僕のお祖父さんか」
祖父は僕が物心つく前に亡くなったらしいから、全く面識はない。
それに、父さんも叔父さんも祖父の話なんて一切しなかったから、僕は自分に祖父がいることもすっかり失念していた。
でも、おかしな話だ。
だって僕がここに存在するためには祖父の存在は必要不可欠なのに、忘れるなんて。
「……お父さんは、私の嫌がることばかりするお茶目な人でした」
「お茶目って言えるの? それって?」
「まあ、昔の人ですから」
先に運転席に乗り込んだ僕が、叔父さんの手を取って助手席に引っ張る。
ゆっくりと動き出した車の振動に合わせるように叔父さんはポツリポツリと話し出した。
「……かつて。私たちのご先祖さまは、動物を解体したり皮を
運転に集中していても、叔父さんの話は聞き流さない。
そっか、そんな仕事があったんだ……。
「しかしある時、その人たちを『虐げても良い』という決まりが突然できてしまいます」
「えっ!? なんで!?」
「これは歴史の勉強ですから、詳しく言うとキリがないので省きますね」
「僕、高校で世界史選択してたんだけど……」
「中学校でも、チラッと出てきましたよ。まあ、それくらい、現代では忘れ去られたものなんです。それなのに……」
叔父さんは失った左指を流れゆく車窓に掲げながら、なんだか哀しげな顔をする。
「……それで、ですね。まあ、いきなり『虐げても良い』なんて言われた人たちは当然反発するわけですよ。差別反対主義者が、否穢多です。しかし、否穢多たちの団結力は乏しいものでした。悪臭を放つ仕事ゆえに、それぞれが距離をとって暮らしていましたから。ほとんどが単独で抵抗を行いましたが、
「ん? ひたねがわ? それって……」
「そうです、もう巧妙に隠されていますが、日胤村の住民そのものが否穢多だったのですよ。今では私一人だけがそう呼ばれていますけど。皮鞣しには大量の水が必要ですから、その職種が大きな川に集まるのは道理ですね。
「ふーん……。……あっ! 大丈夫だから! ちゃんと聞いてるから!」
うっかり生返事をするとまた叔父さんを不安にさせてしまうと思って、ちゃんと自己申告する。
「ふふ、ありがとうございます。……日胤村の人々は、邪眼持ちに願いました。当時の邪眼さんも、コミュニティから追い出された自分を受け入れてくれた日胤村への恩に報いたくて、切に願います。どうか、理不尽な差別に抵抗する力を……と」
叔父さんの話を聞く耳と、車の運転をする手足や視界はまるで別物のようだ。
ずっと、車を自分の手足のように扱う感覚が分からなかったけど、今になって少し理解できた気がした。
「そうして呼び出されたのが、『ワイラハイラ』なんです。目的のためなら、持ち主さえ滅ぼす力を持つ邪眼が呼んだ、かみさま」
気がつけば、いつの間にか僕の家に到着していた。
「ここからは、お家の中で話しましょうか」
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