日常の境界




「いーゔぃる、あい?」


 聞き慣れない言葉を反芻すると、叔父さんが解説を始める。


邪眼じゃがん……と言った方がこの国では通じやすいですかね。邪な、眼でジャガンです。悪意や妬みなど負の感情を持って対象を睨むことで、相手に呪いをかけ意のままに操る瞳のことです。それは人間相手にとどまらず、装飾品などの無機物にも適応されます。これだけ聞くと有益な力のように思えますが、邪眼は多くの場合生まれつきで、持ち主が意識せずとも発動してしまうのが厄介なところです」

「まさか……真子が、その、邪眼の持ち主だって言うの?」


 真子の、赤茶けた印象的な眼を思い出す。


「彼女に限らず、藤堂の家は皆そうですよ。あそこの家系は必ず邪眼を持って生まれてきます。そして、邪眼には人間世界の些細な機微なんて全く理解できないので、当然の帰結として邪眼持ちはどのコミュニティからも排除されていきます」

「な、なんで……?」

「邪眼持ちの願いは、必ず叶います。たとえ、どんな犠牲を払っても。たとえば宝石を望めば、持ち主を死に至らしめても自分の元へ呼び込みます。たとえば愛を求めれば、対象人物の周囲を焼け野原にしても自分へ意識を向けさせます。そして、あまりにも強力な力は、当人さえ蝕んでいきます。邪眼で見つめられた者は、たとえ自分自身であっても例外ではありません。藤堂の家が代々村長なのも、いざというときに何を犠牲にしてでも村を護るためです。ただ、ここぞという場所以外で邪眼を発揮されては村の統率がとれなくなるので、普段は無能を装って周囲でどうにかしようとしているんですよ」

「………」

「真子さんは、えっちゃんと仲良くなることを望んだばかりに他の人間を徹底的に排除してしまいました。真子さんと一緒にいると、それまで一緒にいたはずの人が急に席を立つことなど日常茶飯事だったでしょう? 彼女は村長の娘さんでしたから、一見するとお嬢様の我が儘のように映ったかもしれませんが……あえてそう振る舞うことで邪眼の持ち主であることを隠そうとしたのなら、それもまた、親心ですね。加々美さんに頼んで、自己防衛の手段を学ばせたのも頷けます。だけど、もって生まれたものはもう、仕方ないんですよ。鏡越しの自分の視線さえ危険であっても、それを正しく理解してもらうのは難しかったようですね……なんともはや」


 叔父さんはそこで言葉を切って、パスタに合わせて淹れたほうじ茶を啜る。

 ようやくワサビから逃れたらしく、もう涙は滲んでいない。


「ふぅ。でも刺激的ですが、美味しかったですよ。ありがとうございます」

「………」


 明らかに繋がらない文脈なのに、叔父さんは日常会話を続けようとする。


「一人暮らしをしていると、冷蔵庫の整理って、しようしようと思ってもなかなかできることじゃありませんよね。えっちゃんには本当に感謝です」

「………」


 半年前、自宅が凄惨な事件現場となってしまった僕は、生活の拠点は自宅としつつも食事の時間は頻繁に叔父さんの家にお邪魔していた。

 だって、いくら考えないようにしていても、いくら現実から目を逸らしても……父さんが『誰に』『なぜ』やられたのかということを考えると、いてもたっても居られなくなる。

 父さんの鮮血はゆっくりと階段を伝って階下へと滴っていた。

 一階に、争った後や血痕は全くない。

 事件現場は二階。

 僕は、半年たった今でも二階に足を踏み入れていない。

 なんとなく、イヤな予感がしている。

 自分の家なのに、入れない場所があるなんておかしな話だと思う。

 一階の客間に布団を敷いて眠る日々。

 叔父さんの部屋はもともと一階にあったから、そこに荷物を運び入れることならなんとかなっていた。

 そうやって騙し騙し、日常生活を取り戻して生きていた半年間。

 驚いたのは、父さんが目覚めなくても目覚めても、朝日は昇るし日は暮れるということ。

 僕の大事な人のことなんて、全くお構いなしに日々は巡る。

 至極当たり前のことだし、分かってたつもりだし、まさか自分が世界の中心だなんて思ってもいなかったけれど……いざ目の当たりにすると、そうそう正論を振りかざしてばかりもいられない。

 事件の直後、あまりのことに混乱甚だしい僕の前で叔父さんは全くの平静だった。

 その『いつもと変わらなさ』にひどく安堵した僕は、叔父さんに乗っかる形で自分の日常を取り戻したと言ってもいい。

 叔父さんが哀しいであろう事は僕も哀しいし、叔父さんが喜んでくれたら僕も嬉しい。

 だから……。


「………」


 なんてことのない顔で、非日常の話をする叔父さんをどう受け止めていいのか分からない。

 いろんな人からいろんな話を聞いたけど、僕から見える叔父さんはいつだって普通の人で……僕は、彼を信じ、そして味方でいたいと思ったはずなのに。

 そのために、本当のことを知りたいと願って、友達と調べようとまでしていたのに。

 叔父さん自身は再三、『識らなくてもいい』と言ってくれてはいたけれど……。


「………」


 いざ、聞いてしまうと僕は平静を装えない。


「あれ? えっちゃん、どうしました?」


 不自然に黙りこくってしまった僕を心配して、また「やっぱり、つまらない話でしたよね」としょげそうになる叔父さんを気遣う余裕もない。


「その……話は、本当?」


 意図せず、少し強い口調になってしまったことをすぐに後悔する。

 ちがう、詰問したいわけじゃないんだ。

 ただ、僕一人だけでは受け止めきれないことを、誰かに背負って欲しいだけ。

 そして、願わくば僕も誰かの荷物を背負いたいだけ。


「どの話ですか?」

「だから、ええと……じゃがん?ってヤツ」

「はい、本当です」


 間髪入れずに叔父さんは応える。


「だけど、お兄さんの事件と邪眼は無関係ですから、安心して下さい。えっちゃんとの時間欲しさに、お兄さんを手に掛けたわけではないです」

「いや、そんなこと思ってないけどさ……」

「オカルトな眉唾話ですし、無理に信じる必要はないんですよ?」

「信じるか信じないかは別にして……真子が、そんな呪いに苦しんでいたなんて知らなかった……」

「まあ、表だって吹聴するようなことではありませんから」

「なにか、僕にできることはあるかな?」

「今まで通り、真子さんに接してあげるだけで良いと思いますよ。彼女にとってもそれが救いでしょうし、えっちゃんがいる限り、自分は邪眼持ちではないかもしれないという一縷の希望を持つことができます。なにせ、えっちゃんには邪眼は効きませんから」

「えっ? どうして?」

「ふふっ」


 叔父さんの話に聞き入って、すっかり伸びてしまったパスタをフォークに巻き付けたまま硬直している僕を見て叔父さんは口元を右手で隠しながら小さく笑う。


「えっちゃん、やっと、ようになったんですね。聞く耳を持ってもらえてうれしいです」


 聞こえる?

 ……なんのことだろう?

 ほんとに……なんの、ことだ?


「たくさん、『わらみみ』を捧げた甲斐がありました」


 目映い光を受けるがごとく、左右非対称の眼をぎゅうと細めた叔父さんは失った左指で僕を指さした。


「貴方こそ、我々がおそおがめるです」



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