*6-6-5*

 両親の愛が正しいものであったと、本当は頭のどこかで理解していたのかもしれない。

“貴族は皆、国民の支えによって生かされている”

 その対価として、貴族は国家が存続する為に必要な使命を遅滞なく、義務として全うすることが求められていた。責任を全うすることで得られる特権こそが、私生活の充足というものであったのだ。

 しかし、かつての私にとって、インファンタが背負う責務というものはあまりに重責であった。

 この世に生まれ出て数年の子供が、人を痛めつける為の教育を施されるという現実。


 使命を受け入れなければならない。

 義務を果たさなければならない。

 責務を全うしなければならない。


 今日と明日だけではない。

 明後日も、その次も、その次も……

 1年、5年、10年以上経っても変わることはないだろう毎日の為に――

 その為に、私は自らの感情を殺して、殺して、殺し尽くして日々を生きていた。


 嫌だと言うことは出来ない。

 背を向けることは出来ない。

 逃げることは出来ない。


 私はその責務を全うすることで国民に生かされている存在だった。

 そして何より。それこそが、それだけが【アンジェリカ】という私がこの世に生まれた意義だったのだから。



 あの時――

 アンディーンの今際にアンジェリーナが話したことを、実のところ私は彼女の中で息を潜めて聞いていた。

 バタードチャイルドシンドローム。責務による重圧に耐えきれなくなった私の心は壊れ、気付かぬ内に被虐待児症候群と呼ばれる症状を発していたのだという。

 その結果が、もう一人の私という彼女の存在の構築、顕現であった。


 あなざぁ・みぃ。でぃふぁれんと・みぃ。あるたー・えご、あんじぇりーな、あんじぇりーな?


 彼女は私に優しかった。

 彼女は私に温かかった。

 彼女は私の…… 全てだった。


 あぁ、それなのに、それなのに。

 もう私の中に“彼女はいない”。


 本当は知っていたのだ。

 もうすぐ、彼女という存在が私の中から消えてしまうかもしれないということを。


 私が、本当の“愛”に気付いたから。

 私が、本当の“愛”を知ったから。

 私が、本当の“愛”を知ってしまったから。


 彼の言った通りだった。

 ドイツ、ミュンスターの地でフロリアンが語ったという言葉を私は知っていた。

 私はただ言うだけで良かったし、誰かに伝えるだけで良かったのだ。

 何も特別なことはなく、ただ自身の欲するものが欲しいと願うだけで良かった。


 愛が欲しいと。


 でも、本当はそんなことすら言う必要もなく、私は願う必要すら無かったことも知っている。

 なぜなら、千年もの間、私が求めていたものはすぐ傍に、確かに存在したのだから。

 喜びを増やし、哀しみを分け合い、痛みを背負ってくれた彼女が私にくれたもの。


 私は彼女に何かをあげることが出来ていただろうか。

 痛みや苦しみを肩代わりしてもらってばかりで、私は彼女に何一つとして返すことなどできてはいなかったに違いない。

 こんなことを彼女に言えば、きっと彼女は機嫌を損ねて怒ってしまうだろう。私にはよく分かる。だって、彼女は紛れもなく自分なのだから。

 そんな彼女が、私の苦痛に対する代価を何も望まなかったのは、それこそがきっと“無償の愛”というものだったからだろう。


 あなざぁ・みぃ。でぃふぁれんと・みぃ。あるたー・えご、あんじぇりーな、あんじぇりーな?


 私は貴女の温もりに救われてきたんだよ?

 私は貴女の優しさに救われてきた。


 共和国という安住の地に辿り着くまでの間、数百年。

 誰も彼もが私を否定し、受け入れようとせず、蔑み、異端だと突き放したとしても、貴女だけは私のことを慈しんでくれた。

 私は貴女の想いを当然のものとして受け取り、貴女が傍にいることが当たり前だと思っていた。

 でもそれは、きっと奇跡以外の何者でもない。

 生まれる場所、生まれる時代。何もかも選ぶものを間違えてしまった私に神という存在が与えた、たったひとつの奇跡。

 ただ、私は彼女の存在を奇跡などと言いたくはない。

 私達にとって、互いの存在というものは“他者にとっての普通”であったのだから。


 今でも考えることがある。

 もし仮に、この世界がもっと平穏に満ちたものであったなら。

 もしも、私が生まれる場所や時代をきちんと選び、インファンタという呪われた家系の使命を背負うことなく、自由を謳歌して生きていたなら。

 或いは、リナリア公国に生を受けたとして、当時の貴族の家の別の誰かと立場が変わっていたなら。

 この世界が自由に満ちたものであったなら、自分が自由の身であったなら―― 私はまったく違う人生を歩めていたのだろうか。

 私は私の背負った道を背負うことになる別の誰かに、手を差し伸べることが出来ていたのだろうか?


 考えても意味のない空想だ。

 あの場所に私が生まれていなければ、私は貴女と永劫に出会うことは無かった。違う人生を歩んでいたのなら、私は貴女と生涯を通じて言葉を交わすことは無かった。

 自分自身の中という、ずっと近い場所にいたにも関わらず、永遠に。

 それは悲しいことだと思う。

 だから、今過去に戻って自由の道を選べるとしても、きっとその道を選ぶことはないと断言できる。


 そう言うと、私の幸せだけを願い続けてきた貴女は怒るだろうか?

 本気で私のことを叱ってくれるだろうか?

『本当にどうしようもない、おバカさん』と、私のことを優しい顔をして窘めてくれるのだろうか。

 でも、それで良い。“それが良い”のだ。

 AA as A。2人で1つ。考えるまでもない。貴女のいない人生というものが、私にとってどれほどの価値があるというのだろう。


 私は過去に戻って道を選び直せるとしても、きっと貴女と出会う道を、苦悩と苦痛に満ちた、真っ暗な呪われた道を選ぶに違いない。

 そうすることで再び貴女という光に会えるなら、私はそれ以上のことは望まない。

 背負わされた使命も、与えられた責務も怖くない。


 だって私は、貴女という“愛”を知ったから。知っていたのだから。


 アンジェリーナ。

 私は貴女を失い、自らの絶対的価値基準を示す“絶対の法”を失った。

 元々自分の中に在った、永劫の命という呪いだけを背負って生きていく。

 でもね?


 一人は怖いよ。一人は嫌だよ。私は、貴女とずっと一緒にいたかったのに。


 だから、そう。これが私に与えられた“愛=罪と罰”なんだ。



『でも、今の貴女は私がいなくても大丈夫でしょう?』


 貴女は、きっとそう笑いかけてくれる。

 私のことを、心から慕う人々が傍にいるからと。

 アンディーンを失い、シルフィーを失い、テミスという存在は2人きりになった。

 リカルドとアビーは私の傍にいてくれるだろうか。

 少しだけ不安になる。けれど――

 いいえ、考えるだけ愚かというもの。あの子達は私の傍から離れたりはしないと思う。


 なぜなら、彼も彼女も“私と同じ”なのだから。

 それに――


 私が寄り添うべきもの。

 私が守り抜くべきもの。

 それを私が護ろうとした時、あの2人は私のことを叱ってくれた。

 リカルドに至っては、自らの絶対的な忠義という信念を捻じ曲げてまで、私の前に立ちはだかって私を制止した。

“これが最初で最後の命令違反だ”と言って。


 どうして?

 私は数百年前、貴方達の先祖たちに約束したのに。

 エトルアリアス公国に住まう民を導くと。

 グラン・エトルアリアス共和国に住まう民の悲願を実現すると。

 彼らの幸福を守り、彼らを永劫に守り抜くと誓った。

 私は、その約束を、誓いを守ることが出来なかったというのに。


 絶対の法を失った私に、残された価値など無いと思っていた。

 私の存在が必要とされたのは、私が持つ絶対の強さがあったからこそ。

 だから、私という存在が生きることを許される為には、なんとしてでも国の地を踏み、みんなを守らなければならないと――

 そうしなければ、今度こそ本当に世界から“私の居場所が失われる”と思ったから。


 でも、その疑問に対する答えを私は…… もう知っている。


『貴女のいない共和国に、いったいどれほどの意味があるというのかしら?』


 あぁ、優しいアンジェリーナ。

 貴女が教えてくれたのね?


 許して、とは言わない。

 私は一度共和国を去り、冷たい海の中に浮かぶ第二の共和国へ身を隠すことになる。

 でもそれは決して、逃げることではない。イザベルが私に言ってくれたように、私はいつか必ず戻ってくるから。

 貴女のくれた優しさを、温かさを、愛を忘れない為に。

 私を慕い、私の帰りを待ってくれている皆の為に。


 私は、もう二度と迷ったりしない。恐れたりしない。

 私はもう一度、アンヘリック・イーリオンに、玉座の間へと戻ってくる。


 貴女との約束を守る為に。

 今度は私が、この手で―― “あの子”の夢を終わらせるんだ。




 One's well-beloved Angélina〈愛しいアンジェリーナへ〉


 The other me was all my joy〈貴女は私にとっての喜びだった〉

 The other me was my delight,〈貴女は私の楽しみだった〉

 The other me was my heart of gold,〈貴女は私の心の支えだった〉

 And who but my Angélina.〈私のアンジェリーナ。貴女以外に誰がいるというのか〉






 エトルアリアス城塞 アンヘリック・イーリオン

 神域聖堂 玉座の間 ローズ・オブ・ウィル-スローネ-より


 One's well-beloved Angélica〈愛しいアンジェリカへ〉


 Ah, the other me, now farewell, adieu,〈もう一人の私よ、さようなら〉

 To God I pray to prosper thee,〈貴女の繁栄を神に祈ります〉

 For I am still thy lover true,〈私はまだ貴女の真の恋人だから〉

 Come once again and love me.〈もう一度ここへ来て、私を愛してください〉




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