*6-6-4*

 虹色のノイズが走るホログラフィックモニター、真っ黒に染まったまま通電しなくなったモニターがところどころに見える円形の荘厳なる第二の玉座。

 義憤の女神の名を冠する空中機動戦艦は新たな出航に備え、静かに息を吹き返しつつあった。


「機関モニタリング、正常域。原子核融合炉、3基の安定稼働を確認。ゲインアップ、ジェネレーター出力は40パーセントで推移」

「ブリッジ遮蔽、艦体制御システムをマニュアルモードへ移行します」

「火器管制システム遮断。補助兵装、エネルギーリプレニッシュメント。生成エネルギーはシステムハーデスへ優先せよ」

「バーニア、スラスター換装後の最終稼働チェックシーケンス、スタート。1番から5番まで異常無し」

「出航に際し、メインスラスターの最大出力は50パーセントまでとせよ」

「アイギス-ミラージュ・クリスタル稼働率40パーセント。鏡面角は艦体深度による自動制御へ」

「システムハーデス稼働率80パーセントへ到達。艦体隠匿率は92パーセントを突破」

「全システム、航行に支障のない範囲で稼働中。ネメシス・アドラスティア、出航準備良し」


 間に合った。

 ボレアースでおぼろげながら耳にしたアビガイルの言葉。

 彼女の言う通りに玉座の間でアンジェリカを救出し、ドックのネメシスまで足を運んだリカルドは、遮蔽されたブリッジにおいて艦長席の隣に堂々と立ち、次々と艦体状況に関して報告を上げる兵士たちの声を聴き安堵の息を漏らす。

 アビガイルの自動修復プログラムの効力によって、予備パーツへの換装などを含めた応急処置が施されたネメシス・アドラスティアの機関に火が灯ると、懐かしく感じられるような振動が艦艇全体を包み込んだ。

『この艦は、まだ生きている』

 アンジェリカが気に入っていた艦船を喪失することは無かった。戦う為の力が残されていなくとも、今はそれだけで十分だ。

 理想成就に向け、今朝までは多くの者の心を昂らせ、震わせていた艦体に伝わる機関の振動音は、今となっては不透明な未来への先行きを慰める安らぎの音である。

 しかし、そうした慰めも敬愛すべき主君にとっては何の意味も成さない。

 自らの隣で悲痛な面持ちのまま塞ぎ込み、小さな身体を震わせるアンジェリカを見やってリカルドは唇を噛んだ。


 理由を聞いたわけではない。

 むしろ、どうして理由など聞くことなど出来ようか。

 玉座の間で、マリアという災厄に危うく殺害されるところであった主君を庇い、この場所に辿り着くまでの間ずっと、彼女は泣いていた。

 何が起きたのかなど知る由もない。自分が玉座の間に到着した時にはもう、およそ人間が触れてはならぬと直感が告げるほどに禍々しい“光の壁”がそこには張り巡らされていたからだ。

 次元隔離。絶対の法を用いる主君が見せていた絶技。それに匹敵するか、或いはそれ以上。

 そのようなものに覆われた玉座の間に自分は一歩たりとも足を踏み入れることが叶わなかった。

 故に、玉座の間で起きた出来事の一部始終を見ていたわけでもない。一体全体どうして絶対的な力を持つ彼女がこのような状態に追い込まれたのか、皆目見当がつかないというのが正しい状況だ。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 それは、彼女がこれまでに見せたことも無いほどの落胆を見せて“誰かの死”に対する悔恨を抱いているということだ。

 彼女が誰かの死を悼む? そんなことがこれまでにあっただろうか。

 アンディーン、シルフィー…… 同じテミスの同胞である彼女らの喪失が彼女をこのようにさせたのか。

 否、絶対に違う。それだけで説明できるほど穏やかなものではない。

 とはいえ、考え得る“最悪の結末”が事実であろうこともまた、明白であった。

 身体を震わせて泣く彼女の口から零れゆく言葉を聞けば誰にだって分かる。

 彼女は絶えず口にしていたのだ。


 私をひとりにしないで、と。


 その言葉を聞けば、嫌でも現実に何が起きたのかについての見当はつく。

『アンジェリーナ様が――』

 殺されたなどと言葉にするつもりもない。本音を言えば思考の中によぎらせるだけでも不敬な考えである。

 ただ、死と無縁であったはずの主君が自身のかけがえのない一部を喪失したと考えれば、彼女の抱く悲しみの一端を我が内にも感じ入ることは出来た。


 口を一文字に結んだまま、リカルドが主君に対する想いを巡らせている時、ふいに兵士のひとりが言う。

「リカルド様。アンヘリック・イーリオン地下シェルターより秘匿回線にて通信接続要求です。いかがいたしましょう」

 こんな時分にわざわざ通信を寄越す人物など一人しかいない。リカルドは考える間もなく言った。

「繋げ」

「はっ」

 兵士が返事と共に通信接続要求を許可する。ノイズまみれのホログラフィックモニターが相手の姿を映すことはなかったが、スピーカーからは長い間に渡り聞き馴染んだ声が聞こえてきた。

『具合はどうだ?』

 いつも気だるげな声で話す彼女が、やけに神妙且つ真面目な口調で言葉を発したように思う。

 テミスの生き残りであるアビガイル。彼女の第一声はそれだった。

 僅か半刻前。ボレアースにおいて、特殊な状況ながら言葉を交わしてそう時間が経っていないというのに随分と懐かしく感じられる声だ。

 彼女の言う“具合”が、ネメシスの稼働状況を指しているのか、それとも主君を慮ってのものなのかは知れない。

 ただ、感情論ではなく論理的な思考を重視する彼女のことだ。状況から鑑みれば、ネメシス・アドラスティアの再稼働状況を確認したとみて間違いないだろう。

 とは言いつつ、聞かれたことに答えるより先にリカルドは思ったことを素直に口にした。

「其方が無事にシェルターまで辿り着けたことに安堵した」

『余裕なんてないがね。本当の地獄は恐らくこれからだ。それより、ネメシスの具合はどうなんだ?』

 やはり。論理的に会話を推し進める彼女の言う“具合”とは想像通りの内容であったと、感慨に耽りながらリカルドは言う。

「稼働状況に異常はなく、航行にも支障はない。システムハーデスとアイギスの一部以外の兵装は使用できないが、問題は無いだろう」

『それで良いんだ。戦うことが目的ではない。いや、戦うなどということを考える時ではない』

 先ほどからアビガイルが発する言葉の尾に違和感を感じるリカルドであったが、それよりもさらに驚愕の一言が彼女から発せられたのを聞いて、一瞬頭の理解が追い付かなくなる。

『それよりもリカルド。大事な報告が抜けている。アンジェリカは?“彼女の具合はどうなんだ?”』

 正気か? いや、そのようなことを思ってはあんまりというものだろう。しかし、俄かには信じがたい発言だ。アビガイルがアンジェリカの体調を気に掛けるなど。

 長きに渡り、共にテミスの一員として過ごしてきたが、未だかつて先のような言葉を彼女の口から聞いたことなど有りはしなかった。有り得ないとすら思っていた。

 そういえば、思い返せばボレアースで言葉を交わした際もやけにアンジェリカのことを気に掛けていた様に思う。

 真意を掴むことなく、主君の身の安全の確保の為に無我夢中で動いていたが故に、ここまでは気に掛けるべきことでもないと思考から外していたことだが――

「アンジェリカ様はご無事だ。ただ……」

 口にすることも憚られる。どうして言葉にして伝えることができようか。それも、本人を隣にした中で。

 口ごもったリカルドの言葉を聞いたアビガイルはその感情を察したのか、深く追求することなく言った。

『ならばいい』

 口下手であり、他人との会話が苦手な癖に、こういうところで妙に他者の心情を汲み取る術に長けているのも彼女の特徴だ。

 他人の心情を的確に掴み取るその有様はまさしく、研究の為に観察するかの如く、だ。


 安堵の息を混じえ、アビガイルは躊躇いがちに言う。

『おい、リカルド。ネメシスから“外の状況”はモニタリングできているか?」

「無理だ。今のこの艦の状況でアルゴスはまともに運用できぬ。有視界から入る情報のみが全てとなる」

『では、先ほどの“声”は聞いたか?』

「声だと? 何のことだ?」

『奴も、さすがに海中まで自らの声を届けることは叶わないか。聖母の奇跡の有効範囲は地上に限定される。実に良い記録になった。

 いや、そんなことは今はいい。アンヘリック・イーリオンで得た情報をすぐにそちらに送る。目を通せ。そして何も疑うことなく情報を信じ、ネメシスを発艦させて“その場からすぐに離脱しろ”。

 収容したばかりのようだが、護衛として隣のアンティゴネも連れていけ。ネメシスに自動追従するよう、プログラムはこちらで何とかする』

 そう言ったアビガイルからすぐに“情報”は送られてきた。

 データ受信を確認した兵士が言う。

「映像データの受信を完了しました。再生します」

 そうして兵士が再生するデータがホログラフィックモニターへ映し出され、ネメシス・アドラスティアのブリッジに集う全員の視線を釘付けた。



『全世界の人々へ告げる。刻限は此処に。これより語られるは聖母マリアの御言葉である。全ての生きとし生ける者よ、心して耳に留めるが良い』


 リカルドはこの声を知っていた。近い過去に語られた言葉。

 虹の架け橋と呼ばれる、聖母の奇跡の再演によって幾度となく耳にした声であるからだ。


 1年前に南国の島で起きた奇跡を彷彿とする声が音声としてブリッジに響く。

 映像は流れ、北大西洋に浮かぶ黒色の雲が黄金色に染まったかと思うと、突然雲に巨大な穴が穿たれ天空城塞と呼ぶにふさわしい“世界における異物”が姿を顕した。

 少女の言葉は紡がれ続け、そして――

 神罰の証左として共和国沿岸で隊列を為すネーレーイデスが、赤い雷に焼き尽くされた。



『サタンの滅びである。

 人の子よ、見よ。これが天上の意志であると。

 人の子よ、恐れよ。これが主の威光であると。

 第三次世界大戦の悪夢を生み、驕りによって世界を混沌へと陥れた者達に神の怒り、神の雷霆は注がれ燃え尽きた。

 贖罪無き者に、これより降誕する世界に居場所などないと知れ』



 サタンなどと。よくもぬけぬけと言ったものである。

 明らかに、共和国に対する敵対意思。

 言葉を紡ぐ主はアヤメ・テンドウ。リナリア公国の忘れ形見、アイリスの魂を宿すこの世界に生きる少女のものに間違いない。

 今は国際連盟 機密保安局を取り仕切るマリアの傍に身を置く彼女が、このような大それたことをする意味。

 つまり、アビガイルの言っていた【機械による世界統治。“全能の神が万物を視通す目を持つ神によって、人間が管理される世界”】が実現することを示す証左ということだろう。

 空に浮遊する巨大な城塞。

 アンヘリック・イーリオンと規模は同等といった巨大構造物の背景は夜空のように黒く染まり、流星が幾重にも渡って注がれ幻想的な光景を描き出している。

 美しくも見えるその光景―― ただ、リカルドは内心に込み上げる怒りの炎を燃やしながら、忌々しい声と共に流れゆく映像を凝視した。


 しかし、声が人々に祈りを呼び掛けてすぐのこと。目を疑うものが映像に飛び込んできた。

「あれは、何だ?」

 リカルドは思わず口にしたが、そのように思ったのは彼だけではなかったはずだ。

 青ざめた馬にまたがる騎士の姿。国と国とを横断するほどに巨大な威容はその一騎だけに留まらず、あらゆる角度から観測された映像を見れば全部で四騎の姿があることがわかる。

 リカルドはすぐにそれが何であるかを理解した。これは終末論、ヨハネの黙示録に語られる子羊が解くとされる七つの封印の内の最初の四。


 第一の封印 白い馬が勝利の上に、更なる勝利を掲げようとする

 第二の封印 火のように赤い馬が戦火をもたらす

 第三の封印 黒い馬が飢饉をもたらす

 第四の封印 青ざめた馬が死をもたらす


 人ならざる者を使って世界統治を目論む彼女らは、聖書に語られる預言書通りの手順に沿って新たなるエルサレム、【千年王国】の実現を目指しているとでも言うのか。

 であるならば、機械による統治というものは即ち、“プロヴィデンス”とリンクしたイベリスという少女を媒介にして生み出した王を、キリストの再臨と見立てた上でもたらされることとなる。

 奇しくも、聖母と同じ名を持つマリアという少女が行う世界再編であると考えるならば、是非もない。

 彼女達が“罪人”と定めた者は地獄の業火に焼かれ、選ばれたものだけが地上の楽園にある幸福を享受する。

 なるほど、言葉にして言えば誠“理想郷”であるのだろう。

 しかし、それはグラン・エトルアリアス共和国が理想とした世界の仕組みを滅ぼし再構築するというもの以上に、残酷なものであるに違いない。

 神に選ばれたものだけによる世界運営、選民主義の極致。共和国へ降伏の意を示せば、誰もが新たなる世界の仕組みに加わることが出来た共和国の目指した理想とはまるで違う。

 彼女達が正そうとしているのは仕組みなどの無形概念ではなく、“人”そのものなのだから。

 そして、何を差し置いても確実だと言い切れることは、その世界にグラン・エトルアリアス共和国という国とその民が加えられることはないということだ。


 リカルドが目まぐるしく思考を働かせる中、アビガイルが言う。

『聖典ナードの君には分かるだろう? いずれ、第五、第六の封印が解かれる。この後に待ち受けるものは生き残る資格を持つ人間の選別。新たなる神、つまりは機械の知能を使って理想郷に住まう資格のある者を測り、資格無き者は切り捨てる。未来にボクたちの席はなくなったということだ。共和国は間違いなく滅ぼされる』

「今、共和国の民はどうしている?」

『ボクの権限でテミスの託宣を発し、国民の全てをアンヘリック・イーリオンの地下シェルターへ誘導した。残存しているアムブロシアーを動員し、出来る限りね。収容した国民の統率はあのうるさい大統領が行っている』

 リカルドはアビガイルの声の向こう側に、アティリオの声が微かに聞こえることにようやく気付いた。

 ノイズのような音は、周囲の国民たちのざわめきだったのだ。

「街はどうなっている? 全国民の避難は完了したのか?」

『質問はひとつずつにしてもらいたい。まず、国民の避難は8割がいいところだ。残りは…… 街の様子を伝えれば理解できるだろう』

 アビガイルが言うと、ネメシス・アドラスティアのホログラフィックモニターに映し出される映像が切り替わり、グラン・エトルアリアス共和国市街地の様子が映し出された。

 だが、そこに映ったものを見た全員が即座に言葉を失うこととなる。


 黒い影のような塊が、人を殺害している。

 まるで、黒く染まった花が人型を模して出来上がったような異形、化物だ。

 怪異は国民の傍に近寄ると、何やら口元を動かしながら呟いた後に一人一人を殺害していった。それも、異常なまでに丁寧に、入念に。執念や怨念といったものが籠められているかの如く。

 凍り付いたネメシス・アドラスティアのブリッジに、再びアビガイルの声が響く。

『何とか逃げ伸びた民に話を聞いた。奴らは人の理解できる言葉を喋ってはいなかったが、絶えずある単語を発していたらしい。唯一聞き取ることの出来た言葉は“フューカーシャ”だったそうだ』

「フューカーシャ?」

『それが何を示すのかは分からないし、単に奴らの名前なのかもしれない。現時点においては意味の無い単語だ』

 そう言ったアビガイルは息を潜めながら言う。

『これが共和国の地上で起きていることだ。いや、おそらくは全世界で同じことが起きている。四騎士の顕現に合わせて黒い花の化物が姿を現し、人々の選別を開始した。

 いいか? リカルドだけじゃなく、ネメシス・アドラスティアに乗艦している全員にもう一度言う。何も疑うことなく情報を信じ、ネメシスを発艦させて“その場からすぐに離脱しろ”。奴らは今のところ地下に対して影響力を行使できないらしいが、この先どうなるかは未知数だ。

 あの国連の愚者を止めることを思うなら、今ここで“失ってはならないもの”が何であるかは分かるだろう? そこにいるボクたちの王は絶望的な状況を変える為の希望だ。何としても守り抜かなければならない』

 アビガイルの言葉を聞いたリカルドは、これまでアンジェリカの身を案じたことすら無い彼女がどうして、この期に及んでその身を慮るのかを理解した。

「そうだな」

 目まぐるしく回転を続ける思考を押し留め、ようやくリカルドが口から紡ぎ出した言葉はその一言である。


 あまりの事態に周囲が絶句したまま硬直し、驚愕の現実が次々と明かされる中でテミスの2人が言葉を交わしていると、リカルドの隣で俯き座っていたアンジェリカが唐突に立ち上がって呟いた。

「……行かなきゃ。私が行って、彼らを守らないと」

「アンジェリカ様、なりません!」

 即座に彼女の意図を察したリカルドが慌てて制止するが、アンジェリカは静かに首を横に振って言った。

「ううん。行かないと。共和国の民は、私が護ると約束したの。数百年の、昔のことだよ」

「承服しかねます! それに今の貴女様には――」

「たとえ、絶対の法が使えなくてもこの身が不死であることに違いはないの。私が痛い思いをすれば、その間に彼らが逃げる時間を稼ぐことくらいはできるかもしれない」

「なりません……!」

 動揺するリカルドはアンジェリカの前に立ち塞がって行く手を塞ぐ。

 すると、彼女の小さな呟きをかろうじて聞き取ったのだろうアビガイルが声を荒げながら言った。

『絶対の法が使えないだと? いいや、そんなことは後回しだ! ボクの話を聞いていたのか? アンジェリカ、間抜けなことを言っていないでさっさと共和国から離脱しろ!』

「私に対して、そういう物言いはー、めっ! なんだよ? それにね、アビー。これは私と貴女達、共和国を生きる民の先人達とのお約束。私がその約束を違えることも、めっ! なんだから」

『おい馬鹿! 何を考えている! 立場の話などどうだっていいだろう! リカルド、意地でもそいつをこちらに来させるな!』

 テミスの2人が束になってアンジェリカを思いとどまらせようと奮闘するが、肝心の本人は首を横に振って聞こうとはしない。

 そうしてついに、艦長席を離れたアンジェリカが踵を返し、リカルドを振り切ってブリッジの出口へ向かいかけた時のことである。

 幼さを残す少女の声がネメシス・アドラスティアのブリッジに響いた。

『アンジェリカ様、私からもお願いいたします。この恐ろしい行いを止める為には、貴女様の御力が必要であると信じています。でも、それは今ではなく―― この瞬間に、貴女様がこの国から離れられることを逃げることだとは思いません。いつか時が来たときに…… どうかその時に今一度、我らをお守りください。きっと、バニラもそれを望んでいます』


 イザベルの声を聞いたアンジェリカは足を止める。

 そして、アンジェリカは“バニラ”という名前を聞いた途端にその場で顔を俯けると、小さな肩を震わせながら強く奥歯を噛み締めて涙を流すのであった。

 リカルドはアンジェリカの背後に近付き、両手を彼女の肩に置いて言う。

「我らの王よ、貴女様の意志に逆らうことをどうかお許しください。これが、我らにとって最初で最後の命令違反となりましょう」

 すぐにリカルドは後ろを振り返り、兵士達に言う。

「ネメシス・アドラスティア、及びアンティゴネ2番艦、グラン・エトルアリアス共和国より離脱せよ」

 兵士たちから返事は無かったが、言葉を呑み込み悲痛な面持ちの彼らは命令に忠実に行動を開始した。

 格納庫の先に存在する第四海中ゲートへ繋がる区画への扉が開かれる。両艦艇が区画へと移動した後に収容ドックに繋がる背面ゲートが閉じられ、海水注入が完了次第出航ゲートが解放される手筈だ。


 一連のやり取りを黙って聞いていたアビガイルが言う。

『行き先は決めているのか?』

「行く宛てなどない。だが、幸いにして海中でも長期に生活できるだけの備蓄があるはずだ」

『宛無しか。ならばコクマーに向かうと良い』

「アンディーンのいた? なるほど。確かに、地上と隔離された場所のあるあそこであれば、身を隠すには良いのかもしれぬな」

 世界特殊事象研究機構 情報技術開発研究支部 ブランチ2-コクマー-。

 長くアンディーンの在籍していたその場所は大勢のグラン・エトルアリアス共和国出身者で構成されており、テミスの統括する実質的な共和国の支部だという見方も国内にはあるほどだ。

 隠れ蓑とするには確かにうってつけの場所である。

『コクマーであれば、ネメシスの完全修復も叶うだろう。可能であれば太平洋のアンフィトリーテも向かわせる。来たるべきとき…… くるかどうかも分からないが、その時に備えて。その時がくるまで、ボクたちはボクたちでせいぜい生き延びてみせるさ。

 何、案じることは無い。核ですら吹き飛ばせぬアンヘリック・イーリオンの地下だ。外ではきっと、赤い霧から沸いたアムブロシアーと黒い化物が、化物同士よろしくやっていることだろうから、ボクたちが“アレ”に襲われるとは考えづらい。

 食料も十分にあることだし、精神ケアなら賑やかしを飛び越えた大統領もいるんだ。何も問題ないはずだ』

「万一、ラオメドン城壁が突破されたとして、シェルターの守りはどうなっている?」

『ウェストファリアの亡霊とアムブロシアーの大群が常時周囲を見張っている。時に、子供の遊び相手にもなりながらね。ほら、安心しただろう? 安心したなら振り返らずに、さっさとコクマーへ行け。早く。ボクからは以上だ。通信を切るぞ』

 アンジェリカを慮って、落ち着いた口調でアビガイルが言い終えようとした時、まるで空気を読まない誰かが、猛烈な勢いでけたたましい声を張り上げながら近付いてきた。

『おぉぉアンジェリカ様! アンジェリカ様万歳! アン……』

『くそっ、遅かったか! えぇい、騒々しい奴め! 空気を読め! 少しは静かにし――』

 アビガイルとアティリオの短いやり取りが繰り広げられる最中に、通信は切断された。


 ブリッジは再び静寂で満ちる。

 間もなく、ドック内にホログラフィックビーコンが投影され、これより艦隊が進むべき道筋を描き出した。

 その道を待ち侘びたかのように、ネメシス・アドラスティアのスラスターとバーニアが白色の大火を灯し、ゆっくりと艦体を浮上させて第四海中ゲートへと進行していく。

 アンティゴネを引き連れたネメシス・アドラスティアがゲートへ到着すると、背後ゲートが閉ざされ、ゲート内に勢いよく海水の注入が開始された。

『共和国の民を―― 頼んだぞ、アビガイル。』

 海中に沈みゆくネメシス・アドラスティアのブリッジで前を見据えたリカルドは、頭の中で願いを強く抱きアビガイルへ祈った。

 海水が満たされるにつれ、徐々に視界が水中の景色へと移りゆく中、一方のアンジェリカはその場で佇んだまま動こうとしない。


 ものも言わず、じっと硬直したまま立ち尽くした彼女の美しい瞳からは、とめどなく一筋の涙がこぼれ落ち続けるのであった。



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