*6-6-2*

 北大西洋上空に広がる乱層雲の彼方。

 暗く分厚い雲を突き抜けた先に広がる空という大海。無限に続く果て無き深海の途上に“それ”は存在する。


 高度5000メートル上空。

 機首を高々と持ち上げ、蒼空の深海を突き進む漆黒の翼。国際連盟 セクション6の一行を乗せたソニックホークは間もなく、人類に新たなる叡智を授け、新時代を切り開く為に生み出された〈永遠の理想〉へ辿り着こうとしていた。


“それ”は誰に知られることも無く空中を浮遊していた巨大城塞。この世に唯一現存する神の一柱の創造物。

 不可視の城塞にソニックホークが近付いた時、機体内部の通信機が暗号受信を告げるアラームを鳴らした。


〈高度を維持したまま空中静止状態を保ち待機せよ〉


 いつもの愛らしい笑みを潜め、真剣な面持ちで操縦桿を握るホルテンシスは暗号の通りにソニックホークを空中静止姿勢へと移行させた。

 深呼吸をしながら前方を見つめるホルテンシスにマリアが優しく語り掛ける。

「良い操縦だ。そのまま、落ち着いて前を見据えると良い。そうすれば“見るべきもの”が見えてくるはずだよ」

「は、はいっ!」

 心を落ち着かせる柑橘類を想起させる甘い香り。マリアから発せられる甘美な芳香に心を蕩かしそうになりながらホルテンシスは返事をした。

 言われるがまま目を凝らし、太陽の光に照らされる青の先を見据える。

 シルベストリスとブランダ、アイリスもじっと押し黙ったままホルテンシスと同じ先を見つめて息を呑んだ。


 甲高いエンジン音だけが航空機内に反響する。

 そうして10秒、20秒が経過した頃、ホルテンシスはそれまで決して目に見えなかった破線の羅列を視界に収めた。

「視えました! ホログラフィックビーコンによる誘導線……!」

「素晴らしいね。そのまま機体をゆっくり前進させよう。大丈夫、あとは“彼女”がうまく導いてくれるはずだ」

「承知しました!」

 ホルテンシスは操縦桿を操作し、機体を慎重に前進させる。ホログラフィックビーコンが示した光の道筋に沿ってゆっくり、ゆっくりと――


「間もなく、太陽の光は遮られて視界は暗闇に閉ざされる。景色が途絶えたからとて慌てず、そのままの状況を継続するんだ」

 ホルテンシスがサイドスティック型の操縦桿を握る右手にふわりと自身の手を被せ、マリアは囁くように言った。

 これから起きる出来事は姉妹達やアイリスにとっては全て未知の領域、経験となる。少しでも緊張を和らげる為に、マリアは彼女達の中心に座して優しく導く。

 やがて、機体が光の導線の終点まで近付いた時、マリアが言った通り周囲の景色が突如として暗くなった。

 上空から差し込まれていた陽光は目に見えぬ何かに遮られ、辺り一面が真っ暗闇の空間へと突入したのだ。

「大丈夫。私達は目指すべき場所に、意たるべき目的地へ“辿り着いた”のさ」


 事前に何が起きるか言われていたにも関わらず、不安を拭いきれなかったホルテンシスの心をマリアの一言が救う。

 マリアが言葉を述べてすぐ、再び機内の暗号受信機がアラームを発した。

 神経を研ぎ澄ませるホルテンシスに代わり、シルベストリスが内容を読み上げる。

「前進を止め、空中静止せよ」

 シルベストリスの言葉に従い、ホルテンシスは前進を止め再度空中静止の姿勢を取った。

「機体姿勢制御をオートコントロールへ移行せよ。後の誘導はこちらが引き受ける。貴殿の努力を賞賛す」

 最後の一言で、この暗号文の送り主が誰であったのかを姉妹達とアイリスは悟る。

 指示通りに機体制御をオートコントロールへと移行したホルテンシスは大きく深呼吸をし、微かに震えていた手を操縦桿から離す。

 座席の背もたれに軽く寄りかかり、上昇しきった心拍数を元に戻すために努めて深い呼吸を繰り返す最中、後ろから小さな手が頭を撫でる感覚があった。

「お疲れ様。良い空旅だったよ」

 親愛なる人、マリアの手に頭を撫でられたホルテンシスは気が抜けてしまい、言葉こそ発することが出来なかったがその日一番の笑みを湛えて安堵の息をついた。


 徐々にソニックホークが高度を下げていく。暗闇の中にいて、周囲の様子が分からないとしても、身体の中の水分が持ち上げられる独特の感覚だけでも状況を掴むには十分過ぎる。

 間もなく、機体の警告ランプが点灯した。

〈耐衝撃姿勢、耐衝撃姿勢〉

 繰り返し明滅する警告ランプを見つめ、全員が座席にしっかりと腰を下ろして着地の衝撃に備える。

 間もなく、全員の身体に機体のタイヤが地に着地した感触が伝わった。

 仰々しい警告ランプの指示とは対照的に、実に柔らかく心地よいものであった為か、3姉妹は拍子抜けしたという表情を浮かべて互いの顔を見合わせ笑い合っている。


 徐々に甲高いエンジン音が鳴りを潜めていき、制御パネルのステータスが〈Standby〉という文字へと移り変わった。

 短くも長い空の旅が終わり、ようやく目的地に着いたのだと一行は感慨に耽る。

 と、その時。暗闇に閉ざされた空間に黄金色の光が灯され、周囲一帯が輝かしい眩しさで満ちた。

 暗闇に慣れかけていた目を手で覆った姉妹達は、恐る恐る指の隙間から周囲を覗き見る。が、しかし。目に飛び込んだ景色があまりにも威容を誇るものだったから――

 声を上げることも忘れ、すぐにその手を跳ねのけて首を大きく振りながら両眼でくまなく周囲を見渡すのであった。


 照明に照らされた景色。

 降り立った場所は無機質な航空格納庫だろうと思っていた姉妹の視界に入った光景とは、西洋に見る大聖堂の礼拝堂のような場所であったのだ。

 巨大なドーム型の聖堂の中央に着地したソニックホークから辺りを見れば、目に入るのは趣向を凝らした黄金色の装飾や芸術的な絵画の数々。

 天上のステンドグラスから差し込む溢れんばかりの燐光と、周囲の照明から注がれる光は天界の景色を脳裏に想起させるには十分なものであった。

 これまで世界中の聖堂を見てきた3姉妹もそれらを遥かに凌駕する、目の前にもたらされたあまりに現実離れした荘厳な空間に口を開けたまま魅入っている。


 感嘆とした面持ちを浮かべまま周囲を見つめて硬直する姉妹達。彼女達を慈愛の眼差しでマリアが見つめる中、大聖堂を思わせる空間の正面大扉が開かれ、よく見知った人物が場に足を踏み入れた。

 三姉妹とアイリスがその人物に視線を移した瞬間にホルテンシスの口から出てきた言葉。

 それもおおよそこの場には似つかわしくないものであったに違いない。

「げっ……!」

 言った瞬間、ホルテンシスは思わず両手で口を塞いだ。

 そんな彼女を見やりながらマリアはくすくすとした笑いを湛え、その隣ではアザミも微笑ましそうな表情を浮かべているように見える。

 顔を青くする姉妹達の背後で、アイリスはひとり目を背けて苦笑いを浮かべた。


 視界の先からゆっくりとソニックホークへ歩み寄ってくる人物。背の小さな、かなり高齢の女性だ。

 その女性は見た目の年齢よりずっと若々しい所作でソニックホークへ深々と礼をすると、マイクを通して凛とした口調で言った。

『マリア様、長きにわたる夢想と理想の成就。心よりお祝いを申し上げます。そして、貴女様が無事この場へ到着成された事、セクション6並びにクリスティー家に仕える我ら一同を代表して喜びを申し上げましょう』

 機内に伝わる彼女の声に、マリアは嬉しそうに返事をした。

「アキレア、出迎えご苦労様。労いの言葉、感謝するよ。そちらも首尾よく物事が運んだようで何よりだ」

『はい、ジュネーヴの自宅からこちらへの移動も実に順調なものでした。北大西洋で戦火の火蓋が切って落とされるよりも前に、何もかも準備は整えられましたが故』

「結構なことだね。積もる話も山のようにあるとはいえ、まずは私達もするべきことをしなくてはならない。ひとまず、機体を降りるから待っていてくれたまえ」

『承知いたしました。足元に十分お気を付け下さい』

 言葉を交わし終え、機内の全員がマリアに続いて動き出そうとした時、アキレアと呼ばれた女性の声が再び響く。

『それと、ホルス。後で話があります。時間を空けておくように』

「へぁ、ひゃぃ!」

 びくっと背筋を伸ばしたホルテンシスは声をやや裏返しながら返事をする。

「あーぁ、やっちゃったね。お説教ターイム」

「口より先に理性を動かすべきだったわ」

「そんなぁ~ 私だけ酷い;;」

 ブランダとシルベストリスが笑う中、やれやれといった表情でアイリスは3人を見つめ、その後姿をマリアとアザミが見つめた。



 微笑ましいやり取りが続くが、それもここまでだ。

 理想を成し遂げる為にはやるべきことがまだ残っている。

 緩めた表情を引き締め直し、マリアは自らの持つ地位と役目を背負うものとしての目をして前を向いた。

 ソニックホークの搭乗ゲートが解放され、3姉妹とアイリスがまず聖堂格納庫の地を踏みしめる。

 先に降り立った4人は通路脇に控え、これからこの地に降り立つ彼女へ深い敬意を示して礼をして佇んだ。

 搭乗ゲートより降り立ち、アイリス、シルベストリス、ホルテンシス、ブランダが囲む道を通り抜けたマリアの後に続いてアザミが降り立ち、その背後に4人はついて歩く。

 マリアは未だ最敬礼の姿勢を崩さぬ女性へと真っすぐと歩み寄って言った。

「改めて言おう。お出迎えご苦労様、アキレア」

「労いの言葉は有難く頂戴しますが、以外の言葉はまだ尚早にございます。為すべきことは多く、まずは“聖母の御言葉”を地上の人々へ伝達せねばなりません」

「裁きの書は我が手中に。全能の神が全てを視通す目を以て、新たな時代の幕開けを告げる、か。アキレア、多くの人々から見た今の私はきっと“悪”と呼ばれるものなのだと思う。君はどう思っているんだい?」

「知れたことを。半世紀に渡り貴女様に仕えてきたこのアキレアを見くびってもらっては困ります。我が心は常に貴女様と共に。でなければ、このような母なる大地を離れた城塞などに足を運んだりはしませぬ」

「清々しい物言いだ。実に心地良い」

「地を離れたとはいえ、ここはまさしく“聖母”の城塞。我らに道を示し、理想世界の構築を実現しようとなさる方の御殿にございますれば。今のわたくし共にとって、この地【天空城塞 イデア・エテルナ】こそが〈第二の母なる地〉となりましょう」

「そうであることを祈る。そうあってほしいと。けれど正直、私にはまだ実感というものが無い。かの有名な聖母と同じ名を持ち、それを利用して“神の降誕”を行うなどという実感がね」

「間もなく叶います。その為の礎として、イベリス様をここまでお連れになられたのでしょうに」

 彼女の名が出た途端、マリアは伏し目がちに視線を落とした。

「この場で申し上げることではないかもしれませぬが、敢えて問いましょう。かつての親友を利用なさるのはお辛いのではありませんか?」

「過去のことだ。今の私には関係のないことだよ」

「左様でございますか。それならば良いのです。全人類を導こうとなさる御方に迷いなどあってはなりませぬ」

「そうだね。君の言う通りだ」


 そう言ったマリアはアキレアの傍を通り抜け、大きく口を開けた正面大扉へと足を向けて歩みを始めた。

 振り返ることなく、マリアは言う。

「アイリス、アヤメ。君達にこれから大きな一仕事をしてもらう。私の後についてきたまえ」

「はい」

 アイリスは速足でマリアに追いつくと、彼女の後ろにぴったりと付き添った。

 アザミと三姉妹、そしてアキレアも後に続いて正面大扉を潜り抜けると、華美な大扉は静かにその道を閉ざすのであった。



 マリアは前を見据え歩く。

 アンヘリック・イーリオンの神域聖堂に連なる白亜の回廊とはまた趣の異なる大回廊の先を見つめ、これから起きる天変地異にも等しい己が所業に想いを馳せる。


『私は唯一無二の名を以て、この世界に至福千年期をもたらそう。恐るべき終末の後に、人々の理想たる聖都降誕を願って』




 マリア・マグダレナを許し

 盗賊の願いをも聞き入れし主は

 私にも希望を与えられた

 私の祈りが価値無きものであれど

 優しく寛大であらんことを


 私が永遠の業火に焼かれぬよう

 私に羊の群れの中の席を与え

 牡山羊から遠ざけ

 主の右席に置き給わんことを願う


【聖歌 レクイエムより -思い出したまえ-】



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