*6-5-5*
大天使の対の光輪が威容を示していたアンヘリック・イーリオンの尖塔が崩落する。
アザミが次元隔離を解除してからおよそ10秒後。正午を告げる鐘の音と共に姿を現した、この結末を予期していたかのように待ち受けていた漆黒の翼。
崩れた壁が舞い上げた砂埃は、黒翼の航空機が持つジェットエンジンの風圧に弾かれるように一瞬で霧散していく。
突如として吹き荒れた暴風にジョシュアは身を屈めてその場に何とか踏み止まり、立ち上がることすら出来ずにいるアルビジアを懸命に抱き留めた。
アンジェリカとの死闘によって抉られた地面の破砕片が吹き飛ばされ、蒼炎による防壁を失ったロザリア目掛けて一直線に襲い掛かる。
破砕片がロザリアに直撃するという間際で、間一髪ルーカスが彼女を抱えたまま地面へ伏せたことで難を逃れた。
身動きの取れなくなっているアシスタシアも向かい来る破砕片をぎりぎりの間合いで回避するのがやっとという状況だ。
疑似的な絶対王政によって力を制限された者達の、足掻きにも等しい身動きさえも封じた風は、漆黒の翼の降下と共に圧力を強めながら玉座の間を支配していく。
この場において選ばれし者だけを、その内に迎える為に。
唯一。玉座の間という神域聖堂による加護が働いているのか、アンジェリカの周囲に吹き飛ばされた破砕片は見えない力によって打ち砕かれ、彼女自身も暴風に巻き込まれる様子はない。
ただ、アンジェリーナを失ったという事実を未だに受け入れられないアンジェリカは、周囲で起きた新たな異変に注意すら向けることなく、その場にへたりこんだまま地面に視線を落として独り言をつぶやき続けるだけであった。
玲那斗は限界を超えて全身の力を振り絞り、瞳から光を失い、ぐったりとしたイベリスを抱きかかえてマリアを睨みつける。
そうして玲那斗とマリアの視線が交錯しぶつかり合う中、マリアの瞳が淡い輝きを増していくと、玲那斗の腕は自らの意思に関係なくイベリスから引き剥がされ、背後の壁に杭で打ち付けられたかのように磔にされ動けなくなってしまった。
「今の君は、彼女を守る力も救う力もないと悟るべきだ。王家の守護石も、もう一人の彼という存在も失った君に見るべきものなどなにもない」
吹き荒れる暴風の中であっても、マリアが発したその言葉だけは妙に鮮明に玲那斗の耳へと届いた。
「私の理想の完成の邪魔をしないでくれたまえ。私はもはや君に見るべきものは何も無いが、しかし。“彼”が君の排除を決して望まない以上、私達が君を手に掛けることもない」
そう言ったマリアは玲那斗から目を逸らし、じっとイベリスを見据え手を差し出す。
すると、マリアの背後から黒く長く伸びる影がイベリスの全身を覆い尽くした。
狙いを定めた獲物を呑み込む蛇のようにゆっくりとした速度で、イベリスを包む影は彼女の身体を暗闇の中へと引きずり込んでいく。
目の前で行われる仕打ちに対し、玲那斗は叫びを上げて制止しようとしたが声が出ない。
目的以外に何も見ず、何も聞かず、自らの理想を叶える為だけに邁進するマリア。
彼女の行いを止める者も、止められる者もなく、全てが予め決められた未来、予定調和に沿って結末を迎えようとしている。
やがて、マリアの背後から伸びた影が完全にイベリスを呑み込むと、その影は急速に縮小していきアザミに吸収された。
その時、甲高いエンジン音と爆風を巻き起こしながら空中静止するソニックホークから陽気な女性の声が響き渡った。
『あー、マイクテスっテスっ! 調子は良しっ! マリア様~♡ お迎えあがりました!』
まだ幼さを残す少女の声のようでもあり、それでいて大人びた印象も与える愛らしい声。
およそこの場に似つかわしくない物言い。集った全員が顔をしかめる中、その声が誰のものであるかに唯一気付いたロザリアとアシスタシアは驚愕の眼差しを航空機へと向けた。
ドイツの地でマリアに付き従っていた少女、ホルテンシス。彼女があの航空機に乗っているということは、おそらくシルベストリスとブランダも一緒にいるのだろう。
2週間前、セントラルへ初めて足を踏み入れたあの日。道中ですれ違った3人組の女性隊員達が彼女達、三つ子のアネモネア姉妹であることに気付いてはいた――
だが、よもやそれが“この時の為の布石”であったなどと。大天使の力を身に宿すとはいえ、彼女達自身に異能を持つ者達と対等に戦う為の力など有りはしない。
そんな彼女達を危険極まりないこの場に呼び寄せたということ自体が、マリアの理想完遂に関わる意志の固さと本気を示す重大な指針であるといえるだろう。
『機密文書館であの子達が調べていた情報…… まさか』
ミュンスターの地で語らった、マリアや彼女達の言葉を思い出しながらロザリアは唇を噛んだ。
一方、乗っている人物の正体が誰であるかを知ったアシスタシアは動かぬ体を無理矢理にでも動かして航空機へと近付こうとする。
『あの子達が航空機を操っているのなら、止める手立てが潰えているわけではない。ここで彼女達を逃がしてしまえば、世界は――』
アシスタシアは懸命に腕を伸ばし、なんとか蒼炎を纏う大鎌の残滓、いわば幻に等しいものを顕現させて黒き翼を裁ち落とそうとする。
その様子を傍で目にするバーゲストであったが、自らの主を迎えに来た航空機を落とそうとするアシスタシアを視界に捉えて尚、憐みの目で彼女を見据えたまま動こうとはしない。
間もなく、その理由が示された。
弾けるような炸裂音と共に、アシスタシアの伸ばした腕を掠めるように雷撃が降り注いだのだ。
直後、この場の誰もが聞き馴染みの深い声が響いた。
『動こうとすれば討つ。そこを動かないで。お願いだから』
アイリス―― 仲間として行動を共にした者達を討ちたくないという懇願にも似た感情の籠もる声色で彼女は言った。
驚愕の表情を浮かべる機構とヴァチカンの一行とは対照的に、玉座の間に舞い降りた天使たちの声を聞いたマリアは黒翼の飛行機へ体を向け直し、朗らかな笑みを浮かべて見せると、航空機へと向かって歩き出した。
一歩一歩を確実に踏みしめ、ソニックホークへと足を運ぶマリアの後ろにアザミも続く。
アシスタシアを見据えていたバーゲストも地鳴りのような唸り声を残し、アザミの影の中へと吸い込まれるように消えていった。
仕組まれた理想は間もなく完遂しようとしている。アンジェリカの想いを完膚なきまでに叩き潰し、彼女本人をも打ちのめしたマリアは航空機へ歩みを進め、あとはこの場から何者にも妨害を受けることなく立ち去るだけ。
そんなマリアは、アンジェリカの隣に差し掛かったところで足を止めた。
茫然自失とした状態で地面を見つめるアンジェリカを横目に見て、僅かな間に何かを考える素振りを見せるマリア。
しかし、すぐに視線を逸らしたマリアは左手を伸ばし、その手から黒棘を一槍顕現させて言ったのだ。「慈悲である」と。
アンジェリーナを失った悲しみを拭えないのであれば、この世界で彼女が生きる道はもう残されてはいない。
永劫に続く〈ひとりきり〉の世界を不死の身体で彷徨い続けることになるのだから。
誰にも変えることの出来ない運命。残された1つの道に耐え切れないというのならば、この場で唯一彼女の“結末”を変えることの出来る自分が慈悲を与えよう。
アザミの持つ不死殺しの力を以て、神に成り代わって。
「彼女と共に、逝くが良い」
直後、マリアの構えた黒棘がアンジェリカの心臓を急襲する。
やがて少女を狙った棘が肉体を突き破り、鮮血を玉座の間に滴らせたが、マリアの目の前で黒棘が貫いたものはアンジェリカの心臓ではなかった。
マリアの目の前では、2メートル近い大男が身を屈めてアンジェリカを抱きかかえている。
彼女の代わりに、黒棘で左腕を貫かれた男はマリアを睨みつけると、低くくぐもった声で言った。
「理想成就を前にした貴様の、その瞳に私の姿は映らなかったと見える」
「道化の戯言だね」
「どれほど滑稽だと嘲笑われようとも、私にはアンジェリカ様をこの命を賭してお守りする義務がある」
「テミスの一柱。リカルド・ランバス・ノームタニア。実に大義なことだ。望みであれば嗤ってあげよう。抗ってみせると良い」
「言われなくとも、そうさせてもらうつもりだ」
そう言ったリカルドの周囲に赤紫色の光の粒子が舞い散り、アムブロシアーの軍勢が10体ほど沸き上がる。
顕現したアムブロシアーの一個小隊は手に持った銃剣を一斉に構え、マリアを亡き者とする為に凄まじい速度で彼女へと迫った。
『マリア様!』
ソニックホークから悲鳴にも似た叫びが響くが、マリアの一歩手前で足を止めたアムブロシアーの全個体が一瞬の内にばらばらに切り裂かれた。
アザミから伸びる影が黒棘を形成し、アムブロシアーの全個体を貫いたのだ。
不死兵に注視していたマリアは再びリカルドに視線を向けるが、そこには既に彼の姿は無かった。
リカルドはアンジェリカを抱えたまま、玉座の間の正面大扉へ向けて走り出していたのである。
彼の姿を捉えたアイリスが動きを止めようと雷撃を乱射するが、人の身を超越した速度で動く大男に命中させることは出来なかった。
その様子を見たマリアはソニックホークへ右手を伸ばし、追撃を制止しろというジェスチャーを見せる。
不死兵を仕留め、マリアのすぐ傍に歩み寄ったアザミが言う。
「彼と、彼女を追わなくてよろしいのですか?」
「目的は達したんだ。永劫に死に損なった者達を今さら、わざわざ深追いする必要もないだろう」
「承知いたしました。では、あの子達の元へ参りましょう」
その言葉と共に再び航空機へと歩み出したマリアの後ろに、ぴたりと寄り添うアザミは歩きながら思考した。
アンジェリカを救出する為に姿を見せたリカルドの存在。
彼がここに訪れるという未来が、マリアには視えていたのだろうか。
いや、ラプラスの悪魔の力を十全に使いこなす今の彼女に、視えていないはずがない。
であれば、なぜ――
頭の片隅によぎった疑問を払いながらアザミはマリアの後ろを歩くが、その考えを見透かしたようにマリアが言った。
「この場に、彼女を残したままにしておく方が問題だった。それだけの話さ」
振り返らず、自分にだけ聞こえるように言ったマリアの後ろ姿を見たアザミは、敢えて返事をせずに内心で思考を巡らせた。
この後も時間は無限に続いていく。彼女と言葉を重ね合わせる中でいずれ答えは明確になるだろうと。
ソニックホークへ近付いたマリアにアザミは言う。
「では、乗り込むとしましょう。天使達がお待ちかねです」
直後、マリアとアザミの姿は玉座の間から消え去り、同時にソニックホークの甲高いエンジンはさらなる唸りを上げ、空中制止の態勢から徐々に高度を上げていった。
やがて黒翼はアンヘリック・イーリオン尖塔に穿った穴を通り抜け、完全に姿を眩ませる。
彼女達が去った玉座の間に残されたものは静寂の他にただひとつ。
目標を見失った機構とヴァチカンの一行の姿だけであった。
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