*6-5-4*

 時折、部屋全体を…… いや、おそらくは城塞全体を激しく揺らしていたであろう振動が止んだ。

 時刻は正午を回り、アンヘリック・イーリオンの時計塔より鳴り響いた十二回の鐘の音が聞こえなくなってから30秒が過ぎ去ろうというところである。

 想い出の地下室に身を寄せていたイザベルは、少しの間考え事を頭に巡らせていたが、やがて顔を上げ自らの脚で立ち上がった。

 メモリーチップに示された〈予言〉の通り、行動を始めるべきだと直感したからだ。


“西暦2037年10月9日

 もし、戦いの最中に貴女がこの部屋へ足を運んだのであれば、この戦いがどのような経緯を経て決着を迎えるかを問わず、同日の正午を迎えるまでの間、貴女はこの部屋から一歩たりとも外へ出てはならない。

 天使は片翼となり、冠は崩壊する。時計の鐘が十二穿たれた時、玉座-スローネは静寂で満ちるだろう。

 鐘の報せが貴女をあるべき場所へ導く。この部屋から外へ出て真偽の大聖堂へ向かうと良い。そこに幽閉された、火の名を持つ不変なる掟に従え。

 崩壊の冠は新たな災厄の始まりを告げ、機械の神が送り込む四人の騎士により世界は混沌で満たされる。

 立ち止まるな。貴女の道は光に満ち、選ぶべき答えは常にその心の中にある。

 為すべきことを為せ。自らの心の赴くままに。心の意志に従って”


 この予言はアンジェリカがわざわざ自分に宛てて残したメッセージに違いない。

 そう思う根拠はいくつもあるが、そもそもこの部屋の存在を知る者がグラン・エトルアリアス共和国という国の中で自分以外にいないということが一番の理由である。

 テミスの4人ですら知らない部屋。アンジェリカが授けてくれた家族、愛犬バニラとの温かな想い出がたくさん詰まったこの部屋に、彼女は自分にしか分からないものを通じてメッセージを残していた。


 イザベルは手に持ったアンジェリカ人形を上質な絨毯の上に置き、じっと見つめる。

 バニラの大のお気に入りであった人形。敬愛するアンジェリカの意思が、今は亡き家族であるバニラの意思が自分を導いてくれているように感じられた。

 戦争の惨禍という一大事。愛するものを失った直後であるというのに、妙に冷静さを保っていられるのはそうした温かな愛情に包まれ、彼が遺した想いに守られていると実感できているからに他ならない。

 ひとしきり思考を巡らせた後、イザベルは足を出口へと向けて歩き出した。

 扉の前に立ち、そっと耳を澄ませて外の様子を探る。特に不審な音はない。むしろ、恐ろしいほどの静寂に包まれているといっていい。

 静かに鍵を解錠したイザベルは、外に足を踏み出すことが正しいのかどうか迷った。

『紛うこと無きアンジェリカ様のメッセージ。私は、あの御方の御心に従うまで。けれど――』

 言い知れぬ恐怖に心が囚われそうになる。

 疑心が襲い、迷いが脳裏を掠める中、ドアノブを握る手を離しそうになったが、ふいに誰かに背中を押されるような感触があった。

 勇気づけられるような、とても温かな感触。それが誰のものであったかを感じ取ったイザベルは心の中で決意を宣言する。

『バニラ、アンジェリカ様。私は、行きます』

 内心で覚悟を決めたイザベルは、静かに部屋の扉を開き地下の廊下へと歩み出た。


 視界の先にあったのは、見慣れてしまったアンヘリック・イーリオンの地下通路。

 後ろ手に扉を閉めた後、未練から振り返る。そこに見えたのは子供部屋の入り口のような原始的な扉と、アンジェリカが手書きで書き記したルームネームプレートであった。


【親愛なるイザベルとバニラへ】


 少し斜めに歪んだ幼い文字が、アンジェリカらしさを思わせる。

 周囲の静けさに中てられているのか、夢幻を見ているのではないかという感覚がどうにも消え去らないが、目にしているものは普段からこの目で見続けてきた景色に他ならない。

「よし、行こう」

 誰に語り掛けるわけでもなく、独り言を言ったイザベルは小走りで地下廊下の出口を目指した。


 目指す先はひとつ。

 神域聖堂と呼ばれるテミスの居城。真偽の大聖堂 サウスクワイア=ノトスであり、ノトスへ辿り着く為にはまず、各神域聖堂の中央に座するセントラルクワイア=アイオロスを目指す必要がある。

 地下廊下の出口を抜けたイザベルは、大回廊へと踏み出す間際に一旦足を止めた。

 ゆっくりと顔を覗かせ慎重に辺りの様子を窺いながら、付近に人影が無いことを確認すると素早く正面玄関からほど近い特殊エレベーターへと向かう。

 本来であれば正面玄関突き当りの隠し大階段からアイオロスを目指すのが定石ではあるのだが、そうした正規の道筋を辿ると到着までにかなりの時間を要してしまう。

 そこで選んだのが、ネメシスの彫像2体が立ち並びセキュリティを敷く、内部関係者専用の通路だ。


 イザベルはネメシスの彫像に施された生体認証を通過すると、開かれたエレベーターのゲートを素早く潜り抜けた。

 間もなく、エレベーターは上階への上昇を開始し、あっという間にアイオロスへと辿り着く。開かれた扉を潜れば、アイオロスの中央に出る仕組みだ。

 エレベーターの扉が開くと同時にイザベルは南方へと向かって駆け出し、およそ100メートルの距離を走り抜け、一見すると何も存在しないように見える白亜の壁の前で立ち止まった。

『専用エレベーターから降りて一直線に進んだ先。確かこの辺りに……』

 昔の記憶を呼び起こしながら手探りで“あるもの”を探る。

 そうして、美しい装飾の中に隠されたくぼみを見つけ出すと、そのくぼみにアンジェリカから手渡されていた鍵を差し込んだ。

 すると、それまで切れ目ひとつなかった壁面が音を立てながらゆっくりと動き出し、白亜の回廊へと繋がる出口が姿を現したのであった。


 アンヘリック・イーリオンに在籍する使用人の中でも、ごく一部の限られた者には城塞内の移動を効率的に行えるよう、アンジェリカから直々にセキュリティー解除キーが手渡されている。

 今から数年前、イザベルはアンジェリカから直々に使用人たちの代表となることを言い渡され、この鍵を授けられた。

 その際、たった一度だけ各神域聖堂へと案内されたことがあったのだ。リカルドやシルフィーの支配領域であるボレアースやエウロスを初め、当時は不在であったアンディーンの支配領域であるゼピュロスにも立ち入ったことがある。

 あの時は各神域聖堂の美しく壮観な造りに圧倒され、言葉で説明されたことのほとんどは記憶に残らなかった。

 だが、輝かしい記憶の中において唯一の例外が今目指しているノトスだ。

 美しさに重点を置いた荘厳なる他の大聖堂とはまったく異なり、薄暗い赤い光と培養液に満たされたビーカーが連なる不気味な研究所は、内部の造りを眺めるよりもアンジェリカの言葉に集中する方が気が楽だったというのが理由である。


 白亜の回廊に足を踏み入れ、小走りで先を急ぐイザベルは、当時のアンジェリカの言葉を思い出す。

『ここは小さな研究者、アビーの居城。不気味な見た目をしてるし、陰湿で薄気味悪い所だけどー。この部屋の持ち主はとっても奇策…… もとい、気さくで面白い子なんだぁ☆』

 研究が忙しいという理由で、聖堂の主であるアビガイルとは直接言葉を交わすことも無かったが、アンジェリカの語る言葉のおかげで苦手だと思った場所の印象は随分と違うものになった。

 そして、あれから数年の歳月が経ち、昨夜にアビガイル本人と言葉を交わしたときに思ったのだ。

 アンジェリカが話した『部屋の持ち主は気さくで面白い子』という話は真実であったと。


 昨夜、アビガイルは言った。

【だからせいぜい祈ろうじゃないか、互いに。明日という日が終わりを告げた時、これまでと変わらぬ日常がここにありますように、と】

 その言葉が、永劫に叶わぬものとなったことに失望を感じているのは間違いない。

 神への祈りは届かなかったのか。いや、まだ分からない。

 この世界で、この国で、この城塞で生きる自分にとっての神、アンジェリカが今どうしているのかはわからないのだから。

 とはいえ、当の本人が残した不吉な予言の詩の内容から察するに、彼女自身が無事であるという保証などどこにもない。


“天使は片翼となり、冠は崩壊する。時計の鐘が十二穿たれた時、玉座-スローネは静寂で満ちるだろう”


 その言葉の意味は分からないが、“冠は崩壊する”という言葉が妙に胸をざわつかせる。

『冠…… アンジェリカ様の御名前。カリステファスを示す花、アスターが象徴とするもの』

 嫌な予感は拭えないが、しかし暗く後ろ向きなことばかりを考えるのも良くはない。

 イザベルは走りながら首を横に振り、頭を支配しかけた嫌な感情を振り払った。


 白亜の回廊に施された見事な装飾などには目もくれず、一直線に走った先に巨大な鋼鉄製の扉が見えた。

 アイオロスの隠し扉を抜けた直後から視界に入っていたものではあるが、実際に目の前にしてみると存外に巨大な扉である。

 イザベルは扉の中央に据えられたネメシスの彫刻へセキュリティー解除キーを翳す。

 直後、複雑に暗号化されたセキュリティーキー〈個人識別番号〉、及び生体認証を用いた双方向通信による照合が完了し扉のロックが解除された。

 不安を拭えぬ心持ちで扉が完全に開放されるのを待ち、鋼鉄製の扉が開き切るのを確認してからノトスの内部へと足を踏み込んだ。


 そこは数年前に目撃したものと同じ、薄暗い聖堂内を赤い光が満たすという陰湿極まりない空間であった。

『間違いなく、ここで合ってるよね』

 自分に言い聞かせたイザベルはゆっくりと奥へと歩みを進める。

 予言に示された通りにノトスへと辿り着いたはいいものの、この後にどこへ向かうべきなのかは見当もつかない。

 一口にノトスとはいえ、一辺が250メートルもある巨大な空間だ。目標も、行く宛てもなく歩き回るには広すぎる。

『“幽閉された、火の名を持つ不変なる掟に従え”だったっけ。間違いなくアビガイル様を示す言葉。でも幽閉って? ここはアビガイル様の居城で、あの御方が守護する神域聖堂。囚われの身にでもならない限り、そのような言い回しには……』

 考え事の最中に、悪い予感だけが脳裏をよぎり、心拍数を上昇させる。

 暑くも無いのに冷たい汗が滲み出るような感覚に襲われる中、薄暗がりを進むイザベルはただひたすらに真っすぐ歩いた。

 数年前にアンジェリカが言っていたことを思い出す。

『ノトスは別名〈真偽の大聖堂〉! 何が正しくて、何が間違っているのかは己の眼で判断するしかない、ない☆ 今、自分達が歩いている道が本当に存在するものなのか、正しくノトスにあるものなのか、或いは足を踏み込んではならない場所であるのか。ただこの場に身を置くというだけでドキドキがいっぱいの楽しいお化け屋敷みたいな場所だね~♪ だ・か・ら、迷子にならないように、気を付けるんだぞ^^ 焦って中を走ったりしたらー、めっ! なんだよ?』

 その言いつけを守りながら歩みを進めた。

 焦らず、走らないように、道を見失わないように、一歩ずつ確実に。今の自分に出来ることはそれしかない。

『アビガイル様、どこにいらっしゃるのかしら』

 この場に本人が本当にいるのかどうかすら定かではない。敵の襲撃を受けてどこか別の場所に移動したのではないか。

 そのような考えが頭を巡った時である。

 ふいに赤い光が満たす空間に眩しい白亜の光が差し込んでいる場所を見つけた。

『あれは…… 南東回廊=アペリオテスに繋がる扉。どうして――』

 そう思いかけてすぐに息を呑んだ。

 視界の先にはばらばらに引き裂かれた鋼鉄製の扉が散乱していたからだ。

 何か鋭いもので抉られ、切り裂かれたようにばらばらに粉砕された扉が辺り一面に散らばっている。

『やっぱり、この場所をあの方たちが襲って…… だとしたらアビガイル様は』

 引き裂かれた扉を見つめる目は恐怖に引き攣る。

 さらに周囲に目を配れば、液体が満たされた巨大なビーカーの数多くが砕かれ破損している惨状が視界に飛び込んだ。

 間違いなく、悪意を持った者がこの場所を襲撃したという証明。

 そのように、不安が的中したと思った矢先のこと。

「きゃっ」

 前方から目を逸らしていたイザベルは、歩いている方向に立つ何かに勢いよくぶつかった。

『この場所に誰が……!』

 心は一瞬で恐怖に呑み込まれる。怯えた顔を前に向け、自身がぶつかった者へと視線を向けると、そこには意外な存在が立ち尽くしていた。

『あ…… アムブロシアー?』

 屈強な肉体を持ち、身長は2メートルを超える巨大な漆黒の不死兵。

 この場所に存在すること自体は不思議ではないにせよ、この状況でただ1体だけが目の前に姿を現すというのはどうにも奇妙な感じがした。

 赤く鋭い眼光を光らせるアムブロシアーは、その視線をイザベルへ向けてじっと見据えた。

『え…… 何? 私、侵入者と間違われているんじゃ……』

 そう考えた途端、突然体の震えが止まらなくなった。

 一歩ずつ後ずさり、漆黒の不死兵から距離を取ろうとする。

 だが、三歩ほど後ろに下がる間に、不死兵はまたも意外な行動を示して見せたのであった。


 アムブロシアーは首を垂れ、膝を折って身を低く屈めると、まるでイザベルに忠誠を誓う姿勢を示すかのように跪いたのである。

 その姿を見たイザベルは、このただ1体の兵士が自らを敵対者としては認識していないことを悟った。

 後ずさりすることを止めたイザベルが、恐る恐るアムブロシアーへ近付くと、兵士はゆっくりと顔を上げ、大きく長い腕をゆっくりと前へ差し出したのである。

 まるで、〈危害を加えるつもりはない〉と丁寧に伝えるように。言葉を発することの出来ないアムブロシアーに出来ることと言えば身振り手振りで自身の感情を表現することくらいだが、感情と呼ばれるものがこの兵士達に備わっているかといえば怪しい所だ。

 ただ、何となく目の前の兵士が表現する動作を見るに〈自分を怖がることなく信じて欲しい〉といった素振りを見せていることだけは伝わってくる。

 加えて、この優雅な身のこなしはまったく別の場所で見覚えのあるものでもあった。

「貴方、シルフィー様の……」

 アムブロシアーには彼女の脳神経をそのままコピーしたニューロモルフィックチップが埋め込まれていると耳にした事がある。

 共和国が持つ最先端技術によって生成されたニューロモルフィックチップを不死兵に埋め込むことによって、たった一人の指揮官の存在で数万の兵を自由に手足として動かすことができるのだと。

 言い換えると、そのたった一人の指揮官とはシルフィーのことを指し、彼女の意思によって行動をしていたのだろう目の前の兵士というのは―― つまり。

 イザベルは目の前の兵士の事情を察して言う。

「貴方を信じるわ。それと、貴方にお願いがあるの。私をアビガイル様のところへ案内してくれるかしら」

 その言葉を受けたアムブロシアーは伸ばした腕を下ろし、再び首を垂れて深々と礼をする仕草をするとすぐに立ち上がった。

 そうしてイザベルへ近付いたアムブロシアーは彼女に手を伸ばし、軽々と身体を持ち上げ横抱きにして抱えたのである。

『わわっ、びっくりした! でも、これで私をアビガイル様のところまで運んでくれるっていうことよね?』

 内心で驚嘆の声を上げつつ、自身の目的が達せられそうなことにイザベルは安堵する。

 同時にほんの僅かな不満が心に内に湧き上がってきた。

『目的が達せられそうなことは良いのだけれど、初めてお姫様抱っこされる相手がアムブロシアーというのは…… 浪漫がないわね。うーん、私の初めての御姫様抱っこが……』

 目の前の不死兵に恐れを抱かなくなり、さらにこの場で唯一信頼できる味方であると認識した途端、いつもの調子が戻ってくる。

 しかし、そう思ったのも束の間。

「きゃっ!」

 イザベルは再び情けない悲鳴を上げることとなった。理由は明白だ。

 アムブロシアーが人智を越えた速度で移動を開始したからである。

 およそ人間には実現不可能な速度で移動するアムブロシアーはあっという間にノトスの中を駆け抜け、ある小部屋のような場所へと辿り着いた。


 ノトスの入り口から一瞬で内部の小部屋に辿り着いたイザベルは、アムブロシアーの腕に抱きかかえられたまま辺りを見渡した。

 だが、その有様を見てすぐに屈強な兵士の身体に自身の身を密着させることなる。

 巨大なビーカーや用途の分からない研究機材の数々が破壊され、やはり見るも無残な姿を晒していたからだ。

『やっぱり、あの人たちがこの場所を襲ったんだわ。であれば、アビガイル様は――』

 等間隔で鳴り渡る無機質なビープ音が否が応でも恐怖心を煽る。

 今、この言い知れぬ恐ろしさを乗り越えるためには、自身を抱き上げている無機質な兵士に縋るほかにはない。


 と思っていた時のこと。

 ふいにアムブロシアーで閉ざされた視界の背後から大人びた女性の声が聞こえてきた。

「おい、そこのポンコツ兵士。行き過ぎだ。呼び出した主を踏み越えていくんじゃない。後ろを振り返れ。今すぐにだ」

 大人びて、どことなく気だるげな声色の持ち主。しかも、今の感じからは妙な情けなさのようなものまで漂ってくる。

 イザベルは急に冷静な心持ちになって言う。

「あの、アビガイル様?」

「もう忘れたのか? 様付けはいらないと言ったはずだ。アビーと呼んでくれたまえ」

「いえ、そういうわけには」

「では好きなように呼ぶと良い。いや、今はそんな話が大事というわけではないんだ。おい、そこのポンコツ兵士、良いから早く後ろを振り返れ。そしてイザベルを下ろすんだ」

 そう言われてようやく、アムブロシアーは後ろへと振り返りイザベルを優しく地面へと下ろした。

「ありがとう、アムブロシアー。名もなき兵士さん」

 イザベルが言うと、アムブロシアーはさながら騎士のように深々と礼をして後ろへと下がった。

 そうしてイザベルは視線を前に向けるが、その先にアビガイルの姿は無い。だが、ふいに下を見やると、そこで頭から水を被ったように派手に濡れたアビガイルが、ぐったりとした様子で倒れ込んでいる姿を見つけた。

「アビガイル様!?」

「具合のことなら心配しなくて良い。こう見えて怪我のひとつもないんだ。ボクを襲った奴らの手際の良さと言ったら、それは見事なものだったと言わざるを得ない」

 イザベルが言おうとした言葉を先回りするように言ったアビガイルは、床に横たわったまま彼女に言う。

「真面目な話、イザベル。君がここに来てくれて助かった」

 真剣な表情で言うアビガイルを見て、イザベルは傍に歩み寄り、彼女を抱きかかえて上体を起こしながら答える。

「アンジェリカ様が教えてくださったのです。いえ、導いてくださいました。正午の鐘の音が鳴り止む頃に、ノトスを目指せと」

「アンジェリカが?」

「はい」

 短く返事をしたイザベルは、自身が託されたメモリーチップの中に予言めいた言葉が仕込まれていたことや、その内容について手短に話をした。



「なるほどね。予言の力を持つアンジェリカらしいやり方だ。いや、その内容から察するに、君に言葉を託したのはアンジェリカであってアンジェリカではない。だが、今はそんなことはどっちでも良いか」

 そう言ったアビガイルはようやく自身の腕だけで身体を支えて半身を起こすと、周囲を見渡してから言った。

「イザベル、中央管制室に連絡が取りたい。そこの通信機の使い方はわかるかい?」

「使用人宿舎にあったものと使い方が同じであれば、何とか」

「よし、君は優秀だ。ボクの見立て通り。いいかい、イザベル。残念ながら昨夜君に話した願いは叶うことはない。同じ平和な明日が訪れることはないだろう。先に君が教えてくれたアンジェリカの予言の詩からもそのことは明確に読み取ることが出来る。

 であれば、今からボクたちがすべきことはひとつ…… いや、ふたつ。双方とも同じことと言えるが、来たるべきもうひとつの災害に備えて事前に手を回しておくことだ」

「来たるべき災害? 事前の手回し? でしょうか」

 話を進めながらも、手振りで通信回線を中央管制へ繋ぐように示したアビガイルに従い、イザベルは彼女の傍から立ち上がって通信機へ向かうと、すぐにホログラフィックモニターを起動させた。

 画面に立体表示されたボタンに触れ、〈Central control(中央管制)〉を指定選択して接続を試みる。だが、エマージェンシーコントロールが動作している影響か、通常回線での接続は拒否された。

 不安げな表情を浮かべるイザベルに対しアビガイルは言う。

「そのまましばらく待つだけで良い。テミスの指示によって発せられたエマージェンシーコントロールであろうと、同じテミスが守護する神域聖堂からの直通回線へ対する接続要求であれば、そのうちリダイレクトされる。ボクらの優先権は常に対等だからね」

 そう言ったアビガイルの表情は心なしか暗い。その脳裏に〈自由なる風の象徴〉がよぎったからだ。

 決意を持ったアビガイルの言葉にイザベルは静かに頷く。

 そうして再び凛とした眼差しでモニターを見つめるイザベルを視線で捉えながらアビガイルは続けた。

「先の話の続きだが、ボクを襲った連中は国連の機密保安局に籍を置く奴らでね。初めて見た時から胡散臭いことこの上ないと思っていたが、奴らの実現しようとしていることを聞けば実に質が悪いものだということが分かった。おそらく、もう間もなく世界中が第三次世界大戦の比ではない災害に見舞われるだろう。

 故に、ボクたちが成し遂げなければならない事前の手回しとは、その迫りくる災害から“アンジェリカの代わりに”共和国民を守る為の指示を各命令系統へ出すことがまずひとつ。もうひとつは他でもない。“自分達の身の安全を確保すること”だ」

「アンジェリカ様の、代わりに?」

「そうだ。先に言った通り、予言の詩を真に受けるのなら平穏な明日が訪れるなどという可能性は潰えたに等しい。そして、アンジェリカの身にかつてないほどの危機が訪れていることも明白だ。そうでなければ、正午の鐘が鳴ったと同時にボクの元を訪ねろなどという詩を残すものか。何せ、ボクはテミスの中でも一番の薄情者だからね。リカルド達と比較した信用度で言えば下の下であると自負している」

「私はそうは思いません。アンジェリカ様は、テミスの方々の誰においても心より信頼なさっていたと思います」

「そう思いたければそう思うが良い。本人の目の前で答え合わせをする日が来ることを願って、ね。もとい。とにかく今は中央管制を通じて大統領府に対し国民を安全なシェルターに誘導するよう指示を出すことが先決だ。“テミスの託宣”と一言添えれば、下の下であるボクの言葉であろうと嫌でも従うだろう」


 あぁ、なんて自らを卑下なさる御方。


 これは偽らざるイザベルの心情であった。

 研究に対して垣間見える絶対の自信とは裏腹に、自分自身に対する自信というものや他人からの評価というものが極端に低く考えられている。

 昨夜、彼女は言った。


【言えば殺されてしまいかねないから言わないが。あの人は無自覚にも、内心で“あるものを”常に欲し続けているのさ。だからこそ、あの人には確実に“君の祈りが必要”だ】


 愛を与えられなかった者

 愛を失った者

 愛を“知らない”者


 それがアンヘリック・イーリオンに集う者達の共通性であると。

『そうかもしれないけれど、でも―― 内心で“あるもの”を常に欲していたのは』

 ある考えに行き着いたイザベルは視線をアビガイルへ向けようとするが、しかし唐突に研究室にノイズ交じりの通信接続音が鳴り渡った。

 間もなく、スピーカーの向こうからくぐもった男の声が流れる。

『こちら、中央管制。非常事態につき機密回線にて接続要求を承認しました』

 すると、間髪入れずにアビガイルが言う。

「サウスクワイア=ノトスより、アビガイル・ウルカヌ・サラマドラスがテミスの一柱として命じる。大至急、大統領府に全国民をアンヘリック・イーリオンの地下シェルターに避難させるよう緊急事態宣言を発令させろ。一刻の猶予もなく、迅速果断に行動を示せ。これはテミスの託宣である」

『アビガイル様、御無事で何よりです。悪い報せばかりが届く中、アビガイル様が国連の侵入者を排除したとの報告で皆が士気を保っていたところでした』

 兵士の言葉を聞いたアビガイルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるも、そこで敢えて間違いを正すようなことは言わなかった。

 兵士は続ける。『受けた指示はすぐに大統領府へ。ウルタード大統領より全国民へ、緊急事態宣言として指示を伝達します』

 中央管制も混乱しているようで、応答の背後でざわつく声がスピーカー越しに聞こえてくる。

 指示の伝達をすぐに受け入れた中央管制へアビガイルは続ける。

「それで良い。それと、これから言うことを何も疑わずに愚直に実行してほしい。約束してくれ。何も疑わずに、だ」

『もちろん、テミスの御言葉に疑いを抱くなどもってのほかです。アンヘリック・イーリオン尖塔に顕現していた天使の光輪が消失してからというもの、中央管制に集う兵士たちの統率も乱れ始めておりますし、アビガイル様の直々のご指示を賜ることができるのであれば、我らとしてもこれ以上望むべきこともありませぬ』

 応答する兵士の言葉を聞き、何とも言えない表情を浮かべたアビガイルは小さな溜め息をついて言う。

「他の3人のようにうまく伝えることは出来ない。簡潔に言う。洋上に展開しているアンティゴネ、トリートーン、ロデー、ベンテシキューメーをすぐに後退させろ。ネーレーイデスは周囲に対する警戒を厳としたまま待機。加えて、正面に展開している連合艦隊に撤退を促せ。どんな手段を使っても良い。彼らを一刻も早く共和国周辺から離脱させるんだ」

『つまり、我らの戦争は終結したと?』

 震える声で言った兵士の言葉に被せるようにアビガイルは言った。

「戦争の結末は棚上げだ。もはやそれどころではない災厄が間もなく訪れる。話を続けるぞ。各艦隊に対する指示プログラムを送信した後は、中央管制に残る兵士もすぐに地下シェルターへ移動し自分達の身を守れ。それと、ネメシス・アドラスティアの緊急発進シークエンスを開始しておけ。コントロールは全てあちらに移譲した状態で、だ」

『はっ、承知しました。ですが、ネメシス・アドラスティアは未だ修復中の――』

 戸惑いがちに言う兵士の言葉をついに遮ってアビガイルは言う。

「構わない。潜航推進できる程度までは修復が進んでいるはずだ。武装放棄している今の状態なら、核融合炉の全てが稼働している必要もない。あの艦だけはこの国から離脱させなければ。それが、ボクたちの今後を決定づける重要なファクターになる。それと、後退させたアンティゴネを護衛として追随させることも忘れないように。ボクからの命令は以上だ」

『……はい。承知いたしました』

「貴官らもすぐにそこから離れるように。接続を切るぞ」

『アビガイル様も、どうかご無事で』

 その言葉に、アビガイルが返事をすることは無かった。


 ノイズ交じりの通信回線が遮断され、研究室は再び無機質なビープ音だけが鳴り響く空間に戻った。

 イザベルはアビガイルへ視線を寄せるが、当の本人はじっと下を俯いたまま顔を上げようとはしない。

 そうして、ぽつりと呟くように言った。

「他人から心配されるということに慣れていないんだ。何て答えるべきだっただろうか。彼らの無事を祈念する言葉でも、送るべきだったのだろうか」

「いいえ、貴女の御心は彼らに伝わったと思います」

「だと良いのだけれど」

 アビガイルが言って僅かな間、沈黙が訪れる。

 だが、黙り込んだ当の本人がすぐに静寂を破って言った。

「感傷に浸る暇も、ぼうっとしている暇もない。玉座の間から伝わっていた激しい振動が消えたということは、上での決着は既についたということなんだろう。しかも、ボク達にとっては最悪の形で。中央管制の兵士が言った天使の光輪消失の報告がまさにそれだ。イザベル、すぐにここから離れる必要がある」

「ですが、どこに向かえば? 私一人では、アビガイル様を支えるだけでおそらく精一杯になってしまいます」

「こんなところで転がっている体たらくに“様付け”は止めた方が良い。それと、向かう先は地下シェルターだ。20万の命が集まろうとしている。誰か一人でも、指示を出す人間がいなければ混乱してしまうかもしれない。慣れないことをやるものではないと分かってはいるつもりだけれど…… きっとこれが他人のことに無関心を貫いてきたボクに対する罰ってやつだと甘んじて受け入れるつもりだ」

 そう言ってアビガイルは右手の指を軽快に弾いた。

 すると、奥に下がって佇んでいたアムブロシアーが唐突に動き出し、イザベルの身体を軽々と持ち上げる。

「きゃっ」

 突然後ろから抱え上げられたイザベルは悲鳴を上げるが、アビガイルはその様子を笑いながら見やって言う。

「移動に関する答えは“ソレ”だ。振り落とされないようにせいぜい必死に掴まっていると良い。あとは…… おい、そこのポンコツ。ボクを置いて行くなよ?」

 言葉に呼応するようにアムブロシアーはアビガイルへ近付き、イザベルを抱えたのとは反対の腕で彼女を抱き上げた。

 若干、溜め息にも近い唸り声がアムブロシアーから漏れたような気がしたが、アビガイルは敢えて聞こえなかったことにして続ける。

「それで良い。目指すべき場所は地下シェルターだ。さぁ、行け」

 言うが速し。アムブロシアーは鋭く光る赤い眼光を灯して研究室の出口、ノトスからアイオロスへと繋がる白亜の回廊へ向けて走り出すのであった。



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