*6-5-2*
彼女が伸ばす腕は、この世ならざる場所に最愛の人を引き込もうとしている。それは天使か悪魔か、或いは神と呼ばれるものの誘い。
イベリスに迫る腕を目にした玲那斗は、迷いも躊躇もなく、もう一人の自分に救われた命を顧みるでもなく、その腕の道を遮る為に身体を盾として立ちはだかった。
真紅に輝く、宝玉の目が射貫く。言葉にしなくても分かる。
“お前に用はない”のだと言いたいことくらい。
これまでもそうであったように。これからは尚のことそうであるように。
何の力も持たぬ身で彼女の前に立ったところで、状況が好転するわけではないことくらいは理解しているつもりだ。
『それでも、ここでイベリスを彼女の手に渡すわけにはいかない。何より、俺は認めない。イベリスは、俺が守るんだ。彼に代わって、今度こそ』
内心で気勢を上げるが、目の前に立つ脅威はその気概を指先ひとつで捻り潰してしまうほどに、どうしようもないほどに強大なものである。
心の奥底までを射貫くかの如く向けられる赤い視線に耐え、歯を食いしばり、強張る筋肉に言うことを聞けと命令しながら両手を広げて彼女の前に立つ。
焦点が定まらなくても、脚が震えても、それでも――
絶対の法を操る神に等しき存在を難なく打ち破り、神と妖精を従えて立つ彼女、マリアの前に玲那斗は立ち塞がった。
目前で伸ばす腕を止めたまま、しばらく無言を貫き通していたマリアであったが、玲那斗の頑なな決意を察したように言う。
「王の魂は消滅した。もはや何の力も持たぬ君が彼女の前に立つことに、どれほどの意味があるというのか」
「マリア、俺は心底から君を見損なった。数日前にイベリスが君に手向けた言葉を、想いを踏みにじり、嘘を塗り重ねた上で、味方を裏切ってまで理想を実現させようとする君のやり方は軽蔑に値すると思っている」
「味方? 誰が? 前にも言ったはずだよ。“何を今さら”、と。そういう君は未だかつて、誰の心情をも裏切ったことがないと、心からそう言い切ることができるのかい?」
侮蔑の視線をマリアへぶつけながら言う玲那斗に対し、彼女はさらに冷たく突き放す視線を浴びせかけて言った。
まるで感情を込めていない口調でマリアは続ける。
「君の正義は実に独りよがりなものだったと私は記憶している。明確には君ならざるもう一人の君のことだがね? しかして、それも君という存在、概念が持つ側面のひとつであることに違いはない。
君やイベリスという存在は奇跡などではない。世界に対する呪いそのものだ。
遠い昔、レナトと呼ばれる男は自身の愛が報われなかったという思いを、世界に対する情念へと変貌させ、溢れる憎しみによって自らに手を伸ばそうとした一人の女を“殺した”んだ。私はそれを知っている。
彼は誰の言葉にも耳を貸そうともせず、誰の助けを受け入れようともせず、この世界から消えたはずのただ一人の王妃だけを想い世界を呪った。
千年に渡る呪いの果てに、自分達の愛こそが全てであると嘯いた君達の傲慢さの果てが、今という状況を生み出したことにすら気付いていないのだろう?
アンジェリカが間違っている? 私が間違っている? もし、本気でそう思っているとすれば君の正気を疑おう。とんだお笑い種だ」
彼女の言葉に眉間に皺をよせ、怪訝な表情を浮かべながら玲那斗は言う。
「君は、何を言って……」
心当たりがないわけではなかった。むしろ自分は全てを正確に知っているし、彼女の言葉の全てが理解できる。
ただ、この心の本質は――
「認めたくないのだろう? 君達が信じた可能性とは、常に君達の為だけに都合の良いものであり、その為ならば周囲の人間の犠牲など厭わないという類のものであったのだから。
君と同じように、もう一人の自分を失った憐れな彼女や、今君の目の前に立つ哀れな女はね、そうした綺麗ごとが生み出す欺瞞と、君達の傲慢さが世界に生み出した呪いそのものでもあるのさ。
だから君と王妃様は、そこで打ちひしがれる彼女や私達の願う理想を、正義を絶対に受け入れることが出来ない。受け入れてしまえば、自らの祈りや願いを否定することに繋がるのだから。
私達を悪と断じることで、ようやく自らの正当性を担保することができる。言い換えれば、私達という存在が悪を演じていなければ、君達は自らの正当性を示すことすら出来ない。
この意味が分かるかい? いや、分からなくても良い。もうじき世界には答えが示される。全能の神が万物を視通す目を以て、嘘や偽り無く、争いや差別もない理想が描き出される。
その時大衆は、どちらを正義であるとみなすか。これは私達、リナリア公国に所縁を持つ者達に対する“最後の審判”だ」
そう言ったマリアの言葉に呼応するように、玲那斗の側方から人間の手の形をした巨大な黒い影が突然襲い掛かったかと思うと、影は玲那斗の身体を掴んで彼方の壁際まで投げ飛ばしたのであった。
声を出す間もなく、悲鳴を上げる間もなく玲那斗は壁に叩きつけられ崩れ落ちる。
「玲那斗!」
手を伸ばしながら叫ぶイベリスであったが、間髪入れずにこの空間を支配する者の怒気を孕んだ声が注がれた。
「君が見るべき相手は彼じゃない。イベリス、私を見たまえよ。私を、見ろ」
漆黒のドレスを身に纏う、赤い瞳の少女の視線がイベリスを射貫く。
身動き一つ出来ず、呼吸をすることすら忘れるほどの重圧に呑み込まれたイベリスは彼女の言う通り、その宝石のように透き通る赤い瞳をただ凝視するしかなかった。
マリアは再びイベリスに手を差し出して言う。
「私の手を取るんだ。そうすれば争いも差別も無い、理想的な完全平和がもたらされる。君が思い描く、人が持つ可能性を具現した未来を私は作り上げると約束しよう。
その為の礎として、君の持つ力が絶対に必要だ。
しかし、良いことじゃないか。人が持つ可能性を最大化した世界の到来。夢にまで見た理想を、一瞬で叶えることができるところに今君は立っている。
何を選び取るかは君の自由―― と言いたいところだが、生憎と君には選ぶ権利はない。
嫌と言おうが、この場で泣き喚いて抵抗しようが、私は君を連れていく」
イベリスは目の前に突き出された腕から逃れるように、へたり込んだまま後ずさりながら、震える声でマリアに言った。
「い、や…… 嫌よ。マリア、貴女の理想の果てにある未来は、決して人々が自らの意思で幸福を生み出すような社会ではない。何者かの意思に従い、幸福を“演じさせられる”だけの世界。そんなものが真に正しき理想であるはずがない」
「その何者かとなる者。それが君だと言っている。全知全能の神の目を持つ君が、この世界をより良いものへと導けば良い。そうだろう? “民を導く希望の光、光の王妃”よ」
魔眼に捉えられ、石化したように動けずにいるイベリスに一歩、二歩とマリアは間を詰める。
そうして、伸ばされたマリアの腕がついにイベリスの頬に触れるかと思った刹那。
マリアの背後で、青白い炎が湾曲の孤を描き出した。
美しいローズゴールドの髪と黒衣が宙を翻り、死神のような姿をした天使が地面へと舞い降りる。
炎が描き出した軌跡は完璧にマリアを捉え、その軌道は彼女の上体を真っ二つに引き裂いていた。
はずであった。
「王の慈悲によって生きながらえた者が王の意志に反し、よもやすぐにその身を投げ出しに来るとは。とはいえ、君が向かって来るということは明確に君の主の意思に基づく裁定ということかな」
こことは違うどこか。
空間の中に存在する異界から響く声は四方八方を反響し、正確にその者が存在する位置を悟らせまいとするように各々の耳に届いた。
真っ二つになったマリアの姿は一瞬にして黒い影となって霧散し、跡形もなく消え去る。
イベリスの窮地を救う為に奇襲を仕掛けたアシスタシアの一撃はあっさりと躱され、標的となったマリア本人の姿はどこにも見当たらない。
茫然とした表情でアシスタシアを見つめるイベリスは、彼女の背後に揺れる影を見た。
「アシスタシア!」
彼女の危機を察してイベリスが叫ぶとほぼ同時に、黒い影は徐々に少女の姿を形作る。
そうして赤い瞳の少女と共に周囲に顕現した無数の黒棘が、彼女の見下すような視線と重なり合いながらアシスタシアを強襲した。
だが、アシスタシアは背後に視線を向けることなく手に持った大鎌を背後へ振り抜き、自身に迫りくる神速の黒棘全てを討ち払う。
弾き飛ばされた黒棘が蒼炎に包まれ燃え尽きる中、背後に揺れる影に視線を手向けることなく凛とした口調でアシスタシアは言った。
「これはロザリア様の意思に基づく行動ではありません。ロザリア様は貴女の言う理想について〈見極めをしなければならない〉としか私にはおっしゃらなかった。そして今も、その言葉の答えを私には告げていません。故に今の私の行動は、ただ私が“気に入らない”と思ったから、そうしたいと思ったからしているだけの行動です」
揺れる影は完全にマリアの姿を形作ると、やや呆れた口調で言葉を返す。
「主君の意志を無視した行動。自我を持った人形の、初めての我儘を向ける対象がよもや私になろうとは。現実とはつくづく……」
「マリア・オルティス・クリスティー。貴女は私の主のことを何もわかってなどいない。その我儘さを素直に示すことこそ、私を形作ったあの方の最大の望みであるということを」
アシスタシアは言葉を言い終わるか否かという刹那、低い姿勢を保ったまま、背後へ振り向きざまに大鎌を横一閃した。
だが、肉を絶った感触が柄に伝わってこない。刃先はマリアを捉えることはなく空を切っただけに終わる。
これが予言の力。
確実に、人間の動体視力では反応できない速度で獲物を振るっているというのに、マリアは予めそのことを分かっていたという動きで難なく攻撃を躱しきる。
しかも、それは彼女の肉体的な動きによるものではない。影を自在に操るアザミの力を、マリアはラプラスの悪魔を通じて自在に行使しているように見受けられた。
アシスタシアは空を切った大鎌を下げて立ち上がると、姿を消したままのマリアへと言う。
「貴女にはこの先に起きる未来の出来事が確かに見えているようです。しかし、同時に貴女に見えているものは“それだけでしかない”ということも私には分かります。
今の貴女は私の主のみならず、今を生きる全ての人の心が見えていない。都合の良い可能性を追い求め、自らに都合の良い理想を実現しようとしているのは他の誰でもなく、貴女自身です。そんな貴女が、我々の神に成り代わり、人々の願いを叶えようなどと」
アシスタシアが言うと、彼女の眼前に赤い瞳の少女は姿を現して言った。
「思い上がりも甚だしいと? 人形が、人の心を語るのかい?」
その囁きが聞こえるほどに近く。互いの息遣いが感じられるほどに近くで冷たい視線を交錯させる両者。
蔑みの目を向けるマリアに、怯むことなくアシスタシアは言う。
「人ではない私が人の心を語ることと、神ではない貴女が神の御意思を語ることに何の違いがありましょう。今の貴女に、世界が歩むべき道筋や理想を語る資格はないと見受けます。人形である私にも分かることを見失った貴女には」
この言葉が、両者の間で決定的な引き金となった。
互いが鞘を投げ捨て、剥き身の刃だけを以ち、どちらかが倒れるまで力と力の衝突を繰り返す。そのような闘争の始まり。
絶対に交わらないもの。水平に引かれた直線的な言葉同士による対話に意味などない。
それらは交じり合うことも、溶け合うこともなく、互いの憤懣を募らせた挙句、より醜い争いが起きるという結末を導くだけだ。
気配も音もなく、アシスタシアの周囲に顕現した黒棘が彼女を狙い済まして降り注がれる。
対するアシスタシアは手に持つ大鎌を軽々と振るい、それらを難なく全て撃ち落とすと、すぐにイベリスの傍から離脱した。
力を振るっているのがマリアであるのか、或いはアザミであるのかは分からないが、どこへ向かおうとも黒棘は四方八方からアシスタシアを仕留めようと沸き上がり、降り注がれる。
黒い攻撃に意識を集中するアシスタシア。大鎌に切断され、打ち砕かれて蒼炎によって燃え尽きる影の棘が大聖堂へ散っていく最中、ふいにもうひとつの影が彼女の近くに姿を見せた。
猛獣の形をした巨大な黒い影。射貫くような赤い眼光を輝かせ、地を抉るような咆哮を上げながらバーゲストはアシスタシアへと襲い掛かる。
一瞬、反応が遅れたか。アシスタシアがバーゲストの存在に気付いた時には、猛獣の姿は彼女の目前へと迫っていた。
それまでジョシュアとアシスタシアのすぐ近くに陣取り、徹底して監視の役目だけを担っていたはずの黒妖精。
牙の攻撃を回避するにはもう間に合わない。であれば、傷を負ってでも反撃を加えた方が得策だ。
いつ動き出したかも知れぬ脅威が目の前に迫る中、アシスタシアは自らの片腕と引き換え程度で事は済むと考え、敢えて回避行動を取らずにバーゲストに向かって踏み込もうとした。
そうして黒棘が周囲を覆い、バーゲストの牙がアシスタシアを捉え、アシスタシアの大鎌がバーゲストを捉えようとした瞬間。
両者の前に見慣れた“蒼炎の防壁”が突如姿を現した。
『ロザリア様――』
決定的な瞬間を邪魔されたバーゲストは憤怒の声色で、青き瞳の聖職者を睨みつけて言う。
【汝が敵対を示すということ。つまり、それが貴様らヴァチカンの総意か。人形風情の独断による蛮行であったなら、救いもあっただろうに】
地鳴りのような声を轟かせるバーゲストに対し、ロザリアは無言を貫いたまま返事をしなかった。
受け答えに応じようとしないロザリアを見たバーゲストは、その行為を軽く鼻で嗤い再び獣の咆哮を炸裂させる。
無言は肯定を示す。少なくとも、黒妖精はそのように解釈した。
バーゲストは燃え盛る蒼炎の防壁を迂回するように影を伸ばすが、ロザリアはその動きに追随して炎の壁をさらに築き上げていく。
絶大な力を誇る黒妖精であろうと、元よりこの世ならざる存在である以上は、生命に対する絶対の裁治権を有する彼女が天敵であるということに違いはない。
他の有象無象の超常の存在より抵抗力を持っているとはいえ、不死殺しの力を宿す蒼炎に軽く触れる程度ならまだしも、直接浴び続ければその身がどうなってしまうかは未知数だ。
ロザリアの放つ蒼炎の防壁を境界として、アシスタシアとバーゲストは互いの間合いを保ったまま激しい牽制攻撃をぶつけ合う。
清廉なる修道女の獲物と、黒妖精の牙とがぶつかり合い、甲高く鈍い音が大聖堂に鳴り響いた。
当初とは目的の異なる戦いに身を投じる者達の攻防は、その苛烈さとは裏腹に膠着状態に陥っているように見える。
どれほど継続しても勝敗がつきそうにもない争いが繰り広げられる中、最初のきっかけを生み出した少女が赤い瞳を輝かせながら一歩前に踏み出した。
マリアは視界の先で鎬を削るバーゲストとアシスタシア、ロザリアを視界に捉えて思考する。戦いが終わったという結末を仮定し、戦いを終えるために必要な要素を逆算して現実のものとする為に。
そうして、ラプラスの悪魔を用いた“結末”をマリアが己の手で具現化させようとした時である。
戦場に風が吹いた。
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