第5節 -奇しき薔薇の花-

*6-5-1*

 1歩、2歩…… 3歩の間合いを維持したままアンジェリカとマリアは静かなる睨み合いを続ける。

 これは世界の行方を決める為の戦いではない。自らの理想を賭けた戦いでもない。

 アンジェリカ、アンジェリーナとマリアによる想いと想いの衝突。互いの信念を賭けた意地の決闘である。

 先に動き出すのはどちらか。マークתと公国に所縁を持つ者達、マリアに忠誠を誓う者達が固唾を飲んで見守る中、2人の最後の戦いの火蓋はついに切って落とされる。


 マリアは交錯する視線の周囲に、赤い霧を見た。

 ドイツ、ミュンスターの地で用いられた超常的な物質。通常では目に捉えられぬはずの、悪意の具現。

 解離による下意識を呼び起こし、その人の持つ心の傷、或いはその人が最も忌避する対象を目の前に実体として顕現させる性質を持つ。

『なるほど。空間の理がこちらにあるのなら、空間のさらに内側で自らの理を作り出そうという魂胆か。しかし、私には通用――』

 マリアがそう思った時である。ふいに自身の周囲で爆発的な光が噴き上がり、玉座の間を構成する地面が粉々に吹き飛んだ。

 ずっと、アンジェリカだけを捉えていた瞳に激しい光量が浴びせられる。目には強烈な痛みが走り、瞬時に視界が遮られた。

「ちっ」

 吐き捨てるように舌打ちをしたマリアは自ら目を瞑り視界を塞いだ。


 とはいえ、この後に何が起こるかなど“既に知っている”。


 アンジェリカの目的は単純だ。これらは全て、こちらの視界を塞ぐことが目的ではなく、こちらに向けられている“アザミの視界”を一時的に塞ぐことだけを目的としているのだろう。

 しかし、そのような小細工に意味などありはしない。


 それを証明するように、目を閉ざす自身の背後で皮膚を貫き、肉を抉り断つような薄気味悪い音が聞こえた。

 一度きりではなく、何度も、何度も。

 背後に蠢くのは例の青白い腕だろう。この目で実際に見たことは無いが、話だけであればフロリアンから聞いているし、開示されたプロヴィデンスのデータベースでも情報は閲覧した。

 対象の自由を封じ、時間をかけて獲物を痛めつけるやり口はアンジェリカの常套手段だ。

 そして今、自分を捕えようとしている青白い腕はアザミの放つ黒棘によって貫かれ続けているに違いない。

『無意味なことを』

 マリアはそう考えながら、閉じた瞼を開き再び前を向く。


 淡く輝く、宝玉のような赤い瞳が再び景色を捉えた。

 視界一面に広がる赤い霧。

 解離による下意識を呼び起こす脅威を前にしたマリアであったが、しかしそれを意に介すことなどない。あるはずがない。


 心の傷など過去に捨ててきた。絶望の日々など捨て去った。

 私に手向けられた彼の手が、私を暗い暗い闇の中から救ってくれたのだ。


 ラプラスの悪魔の力によって、赤い霧を排除する為に必要な事象を逆算し、その理論を順序立てて組み上げ実行する。

 マリアの赤い瞳が淡い光を放つと同時に、周囲に立ち込めていた霧は弾け飛ぶように、文字通り霧散した。

 そうして開けた視界の先ではあったが、先程までアンジェリカが立っていた場所に彼女の姿は既にない。

 代わりに目で捉えることが出来たのは空間に浮遊して投擲の時を待ち侘びる無数の光の矢、天の弓である。

 マリアが光の矢を目視して間もなく、もはや数え切れないほど数多顕現していたそれは一斉に投擲された。

 まさに神速。矢の速度は人間が目で追うことが可能な範疇を大いに逸脱したものであり、矢が付近を通過するだけで離れた位置に存在する肉体が風圧により弾け飛ぶほどの威力を誇っている。

 瞬く間にマリアの元へ飛来した光の矢であったが、それらは当然というように1本たりとも対象を捉えることなく不自然な軌道を描いて逸らされていく。


 巨大城塞アンヘリック・イーリオンが再び縦に揺れる。

 大聖堂を抉る矢の衝撃によって巻き上げられた瓦礫や砂塵が、周囲で決闘を見守る全ての者に襲い掛かるが、アザミとバーゲストは難なくそれを凌ぎ、アルビジアとロザリアとイベリスに護られる形でジョシュアとルーカスと玲那斗も各々が事なきを得た。

 離れた位置ではアシスタシアも危機を自力で回避したようで、隙を見てロザリアの元へと舞い戻っていたようだ。


『その一歩は、果てしなく遠い。君は何をしても、私には届かない』


 マリアは内心で思いながら、天の弓を躱した際に生じた砂塵を自身の異能によって振り払う。

 が、次の瞬間。マリアは視界の下方に彼女の姿を見た。

 振り払った砂塵の中から、視界の死角となっていた下方にアンジェリカは潜んでいたのである。

 マリアが彼女を認識するよりも早く、先の動きを予知するよりも早く動き出したアンジェリカは右手に構えた光の長剣をマリアの心臓目掛けて突き穿つ。

 そうして放たれた神速の一撃の後に響いたのは、人間の皮膚を抉り貫く湿った音であった。


 交錯する2人の視線の間で、アンジェリカの光の長剣を伝い、マリアの足元に鮮血が滴り落ちる。

 互いの息遣いが分かるほどに、額がぶつかるほど近くに顔を寄せ合う2人の内、先に言葉を発したのはマリアであった。


「実に見事な一突きであったと思う。けれどやはり、私には届かない」


 遥かに遠い紙一重。

 アンジェリカが放った一撃はマリアの心臓を捉えることは無かった。

 刺し穿たれたのはマリアの左手であり、彼女は自身の左手を犠牲とし、それを彼女に貫かせることで心臓から目標を逸らしたのである。

「もし君が、アンジェリカの意識を眠らせることなく、万全の状態で私と相対していたのであれば、私は君の前に敗北を喫していたかもしれない。神に成り代わって人類に裁きを下すという大仰な戯言が、限りなく真に迫るほどに君の持つ力は強大であったのだから。そう―― 或いは私の傍に立つ真正の神を凌駕するほどにね」

 そう言ったマリアは左手を後ろへ引き、体勢を崩したアンジェリカの首筋を右手で鷲掴みにして高々と掲げた。


 小さな手が細く白い首筋を締め上げる。

 苦しみに喘ぐアンジェリカも、マリアの右手に爪が突き刺さるほど強く力を籠めて必死に抵抗を示すが、しかし。どういうわけかマリアの手はびくともしなかった。

 互いの体格差にそれほど大きな違いがあるわけではない。それなのに、マリアの華奢な体躯から繰り出される力は圧倒的であり、到底人間のものとは思えぬほどの力がアンジェリカの首を容赦なく締め上げた。


 地面から脚を剥がされ、宙吊りにされたまま言葉を発することも出来ないアンジェリカは首だけで自身の全体重を支える形になり、苦悶の表情を浮かべて嗚咽を漏らす。

 脚をばたつかせ、マリアを思い切り幾度か蹴り上げるが、その一撃が彼女に届くことは無かった。周囲に張り巡らされているのだろう、見えない壁のようなものに阻まれ触れることすら叶わないのだ。

 暴れれば暴れる程、喉元に食い込むマリアの細い指先は加減というものを知らないらしく、どんどんと締め付ける力を強めていく。

 そんな中、苦痛の声を漏らし喘ぐアンジェリカは、自身の心臓が唐突に大きな脈動を打ったことを感じ取った。

 自分の心の中にあったはずの“大事なもの”がすっぽりと抜け落ちたような感覚に襲われると同時に、マリアの背後に信じられないものを目撃することとなる。


『もう一人の、私―― アンジェリカ……! どうして!』


 マリアの背後には力なく地面に座り込み、茫然自失とした様子で首を締め上げられる自分を見つめるもう一人の自分の姿があったのだ。

 アンジェリーナがアンジェリカの姿を見つけると、この時を待っていたというようにマリアが言う。

「そろそろだと思っていた。もはや君は君自身の力で彼女と同一の存在で在り続けることはできなくなっている。

 自身でも、薄々気付いていたのだろう? 自分に残された時間が僅かしかないことを。本人が知らない感情について、無自覚に気付いていけばいくほどに、君という存在は不安定なものとなってしまっていた。

 忠臣であるテミスにも隠し通してきたようだが、利口な彼らはそのことにおそらく気付いていたはずだ。

 にも関わらず、当の本人であるもう一人の君。君を生み出した本人である“彼女だけ”がその事実に気付いていなかった。

 可哀そうな彼女は、“元々君が持っていた絶対の法”を行使することも出来ずに君の最期を見届けることになる。

 千年にも渡って彼女を守り続けてきた健気な君は、“元々アンジェリカが持っていた不老不死”の力を失い、ついにここで果てるのさ。

 もはや、今の君には絶対の不死性などない。そう、“君の夢は終わった”んだ」

 アンジェリーナは憎しみの目をマリアへ向け、掴まれた手を振り解こうと最後の抵抗を試みる。

 その一方で、絶望の表情を浮かべ、力なくへたり込むアンジェリカは声を震わせながら言った。

「マリア……? ねぇ、何をしているの? 何を言っているの? ねぇ?」

 アンジェリーナに眠らされていたという彼女は、突然目の前にもたらされた光景に頭の理解が追い付いていない様子であった。

 先程まで放っていたような重圧もなく、無邪気な狂気も殺気も無い。その姿は、ただの弱々しい一人の少女そのものである。

 自身の内での眠りから覚めたアンジェリカが、この場で理解したことはただひとつ。マリアがアンジェリーナを殺してしまうという現実だけであった。

「嫌だよ。アンジェリーナに何をするの? やめて、マリア。お願いだから、アンジェリーナを殺さないで…… 私から“私”を、アンジェリーナを奪わないでよ。ねぇ……?」

 自身の背後に縋りつき、懇願するアンジェリカの言葉をことごとく無視しながらマリアはアンジェリーナへ向けて言う。

「これが君達に対する私からの“愛”だ。受け取りたまえよ。罪を犯した者には罰という裁きが必要なんだろう? 思い出すと良い。君が常々口にしてきた言葉を」

 言葉を発することすら出来ず息も絶え絶えに、声にもならない喘ぎを漏らし体を震わせるアンジェリーナに対し、そう言ったマリアは自身の右手に渾身の力を籠めて言い放った。

「罪による報酬は、死である」

 直後、アンジェリーナの中で何かが砕け散る乾いた音と共に、その周囲にあったものが握り潰されたような湿った音が響き、彼女の四肢はだらりと垂れ下がったままぴくりとも動かなくなった。

 上を向いていたアンジェリーナの顔が力なく下がり、ぼんやりと開かれた瞳からは急速に光が失われていく。

 間もなく、アンジェリーナの身体を赤紫色の光の粒子が包み込み、肉体の消失が始まった。

 足元から頭部にかけて、まるで砂上の楼閣が風によって消し去られるように。

 その光景を見つめるアンジェリカは声を震わせて何かを口走り、懸命に右腕を伸ばしてアンジェリーナに触れようとしたが、その想いが叶うことはない。


 やがてアンジェリーナの身体が全て消え去ると、マリアは掲げていた右腕を下ろす。

 同時に、アンジェリカも伸ばしていた腕を力なく地に付けて何も無い虚空を見つめるのであった。



 アンジェリカの脳裏に、もう一人の彼女と過ごした日々の記憶が走馬灯のように駆け巡る。

 遥か昔、千年前から今に至るまでを共に過ごした日々の記憶の数々。

 喜びは二倍に、哀しみは半分に。それでいて彼女は、アンジェリカという存在が受ける痛みのほとんど全てを背負ってくれていたのだ。


 ふいに、ある日彼女が言った言葉が思い起こされる。

 18世紀のイングランドにて過ごした日々の最後、燃え盛る病棟を背に向けて彼女は言った。

『ねぇ、アンジェリカ? あの歌、私にも教えてちょうだい。貴女がいつも歌っている、あの歌を』

 自分達を世話していた看護師が歌っていた歌。教えてくれた詩。

 その歌を、彼女は本当は嫌っていたはずなのに。

 あの時、自分はただ自身が好きだと思ったものをもう一人の自分と共有できるという、そのことだけが嬉しくて彼女に歌を教えた。

 看護師が言った〈愛の詩〉を。


 何もない虚空から、先程まで確かに彼女が存在した場所から彼女の歌声が聞こえた気がした。


 Well, I will pray to God on high,〈私は天上の神へ祈りを捧げよう〉

 that thou my constancy mayst see,〈彼女が私の変わらぬ想いに気付き〉

 And that yet once before I die,〈私が死ぬ前に一度でいいから〉

 Thou wilt vouchsafe to love me.〈私を愛してくれるようにと〉


 聞こえるはずのない声はとても美しくて、優しくて、温かくて、心の隙間を満たすように心地よいものであった。

 自身が知ることの無かった“愛”。しかし、本当の愛は千年にも渡ってすぐ傍にあったことにようやく気付いたというのに。

 それなのに、この世界で唯一自分を愛してくれた人の声を聞くことは、もう二度と叶わない。


 叶わないと知った時、自身の脳内に再び聞こえるはずのない声が響いた。

『アンジェリカ、ごめんなさい。私はもう、貴女を守ってあげられない。それでも、私の想いはこれからもずっと貴女と共に。あと、最後にひとつだけ。アンジェリカ、私は貴女のことを、心の底から“愛していた”わ』



 声が完全に途絶えてから間もなく。

 偶然か、必然か。

 アンジェリカの特徴的なツインテールを結っていたリボンの片方が解けた。

 結び目を失い、垂れ下がる髪が肩にふわりと覆いかぶさる。


 アンジェリカとアンジェリーナ。

 2人で1人であることの証の為に、自分達が強い絆で“結ばれている”ことを象徴する為の結び目が失われたのだ。

 それはアンジェリカの心にとって、紛れもなくアンジェリーナという“もう一人の自分”を完全に失ったことを意味していた。



 愕然とした表情のまま地面に顔を俯け、ぴくりとも動かないアンジェリカを一瞥したマリアは、その視線を再び何も無くなった虚空へと向け直して言う。


「ノアの箱舟計画。第三次世界大戦という地獄の悪夢を越え、煉獄によって世界の仕組みに殉じる者達を忘却の彼方に追いやった後に訪れる理想郷。私達が辿り着くべき場所。天国とは即ち“私の理想の完成”を指す。

 アンジェリカ。残念だが君の目指す理想、要は天国とやらが実現される可能性は今ここに潰えた。

 君は天上の薔薇が別名、何と呼ばれているか知っているはずだ。

 ローザ・ミスティカ。それは偏に“奇しき薔薇の花”と呼ばれ、聖母マリアの雅称を示しているということを。

 最初から最後に至るまで全て、天上の薔薇とは同じ名を持つ私の描く理想世界の完成を意味し、君がどのような行動を起こそうと起こすまいと、実現される未来には何ら影響など与えることはない。

 私は私の理想を完成させる為に、唯一にして絶対的な障害であった君を、君の大切なものを今ここで打ち砕いた。

 罪による報酬は死である、と。それが私からの君に対する“愛”だ」

 マリアはそう言うと身体をイベリスへと向け直し、ゆったりとした歩みで彼女に近付いていく。

 その最中、顔を俯けたまま静かな口調で言葉を綴った。

「奇しきラッパの響きが、各地の墓から全ての者を玉座の前に集め、作られし者が裁く者に弁明する為に蘇る時、死も自然も驚嘆の声を上げる。

 最中に、ひとつの書物が差し出される。真理が書き記された、この世界を裁く書物が。

 そうして審判者がその座に着く時、隠されていた真実がすべて明らかにされ、罪を逃れる者はない。その時哀れな者は何を言えば良いのか。誰に弁明を乞えば良かったというのか」

 イベリスの目の前に歩み寄ったマリアは、かつての親友に慈悲の籠った視線を向けて言う。

「“正しき人”ですら不安に思うその時に」


 レクイエムに綴られた言葉。

 マリアはこの詩を現実のものとした。


 終わりに向かう世界の中で、玉座の前に集められたリナリアの忘れ形見達。

 プロヴィデンスとリンクを確立したイベリスが消滅の間際に蘇り、隠されていた真実はマリアの口から告げられ、アンジェリーナは罪の清算の為に犠牲となった。

 審判者として立つマリアの前に、哀れなアンジェリカは何を言うことも出来ず、誰に弁明を乞うことも出来ず、可能性を信じた“正しき人”であるイベリスですら惑いと不安を隠せずにいる。


 だが―― この詩の中にはまだ、ひとつだけ達せられていないことがある。

“真理が記録された、この世界を裁く書物”は未だ、審判者の手に差し出されていない。


 マリアは言う。

「神が万物を視通す目。完成されたその存在こそ、世界の真理が記録された書物に他ならない。この世界の過ちを正す裁きをもたらす、完全平和と平等という安寧をもたらすための書物。私は“それ”を手に入れる為にここに立っている。今の君には、この意味が分かるだろう?」


 マリアの姿を見つめ、不安と恐怖に揺れるイベリスの中で、プロヴィデンスがしきりに垣間見せる言葉があった。


『Standby for execution : Right to control,transfer code』(実行待機 : 制御権移譲コード)


 表情を強張らせるイベリスに、マリアは優しく右手を伸ばしながら言った。

「世界に光をもたらす王妃よ。神が万物を視通す目と共に、その身を私に委ねたまえ」



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