*6-4-5*
視界の端に映し出された悪魔の姿。
人々の目には彼女が天使のように映るのだろうが、今の自分から見たあの少女は、禍々しい狂気を身に宿した悪魔そのものだ。
アンジェリカはこの時になってようやく、先程まで目前で力なく横たわり消えかかっていたイベリスが、聞こえぬほどの小さなか声で何を呟いていたのかを悟った。
あの言葉は命乞いか、或いは玲那斗へ手出しをしないでほしいという懇願であると考えていたが、しかし。その思い込みは実に愚かな考え違いだったのである。
プロヴィデンスの目を持つイベリスは、この先に訪れる確定的な未来を垣間見ていた。レナトの再臨と消失、玲那斗の蘇生の後に訪れる未来。
その結末が如何なものであるのかについて、ずっと警告を送っていたのだ。
『アンジェリカ、逃げなさい』と。
イベリスを殺そうとするアンジェリカの前に姿を現した少女は、彼女の行く手を遮って立ちはだかり言う。
「よもや、私達の味方であり、君の敵である彼女の言葉が君を助けてしまうとは。事実は小説よりなんとやら、だ。これでは、君の狂気から彼女を守る為に機会を見計らって出てきた私の立つ瀬がないというもの」
アンジェリカは光の長剣による突進の構えを解くと、思い切り地面を蹴り上げとっさに身を翻し、その場から離れ後ろへと飛び退いた。
着地したアンジェリカが顔を上げ目にしたものは、つい先程まで自分が進んでいた道筋に突き出した無数の黒棘の存在である。
イベリスの言葉が無ければ、あの忌々しい棘に全身を貫かれていた可能性は否定できない。
敵に塩を送る女の言うことを聞いたという事実にも苛立ちが募るが、それはそれとしてまずは目の前の化物の相手をすることが先決だろう。
攻撃の姿勢を保ったまま立ち上がってアンジェリカは言う。
「死体が喋っているならまだましだけれど、どうやらそうでもないようね」
「自らの死を演出してみせるなど、こんな貴重な経験は今後出来ないだろうね。傑作だっただろう?」
「えぇ、実に悪趣味な映像だったわ。まるで貴女達の心の内が垣間見えたようで反吐すら出そうな程に。それと、貴女達だけはこの場に招いた覚えはないわよ。マリア」
名を呼ばれた少女は嬉しそうな笑みを湛えて言った。
「おや、招待状は確かに受け取っていたはずだが? それに先に言っただろう。“こんな千載一遇の機会に帰れと言われたところで帰ってやるものか”とね」
アビガイルの姿を模した化物が言った言葉だ。自身の臣下を良いように弄ばれたアンジェリカは怒りを滲ませて言う。
「化けて出たか、高度な複製を用いたかは知らないけれど、あんなものを私に差し向けるだなんて良い趣味してるじゃない」
「あれも良い出来栄えだったと思うけれどね。アザミの最高傑作だ。何より、その言葉を君に言われたくはない。憎き敵であると見定めた私の姿を象り、偽り、恥も外聞もなく私の愛する人を殺そうとした君にはね。これは因果応報と言うものだ。ミュンスターでも伝えたはずだよ」
ぶつけられる殺意をものともせず、あっけらかんとした様子で言うマリア。
間違いなく、今の彼女はこれまで対峙してきた彼女とは違う。この時の為に、その身に秘めた全ての力を惜しみなく発揮した“本来の彼女の姿”だ。
まともに相対するのも馬鹿馬鹿しい。今の彼女は、そう思うほどに強大且つ圧倒的で、時に退屈を思わせる強さを秘めている。
自身が力を全力で行使できる状態ならいざ知らず、こうなってくると事態の収拾を付けるのは困難極まると言ったところか。
正午までの時間稼ぎも兼ねてアンジェリカは言う。
「アビガイルはどうした」
「臣下の身を案じるとは、君にも一応は主君としての心得らしきものがあるらしい」
「あの子が私の臣下ですって? 何にも分かってないのね。あの子は自らの利益の為にここで研究を続けているだけよ。結果としてそれが私達の役に立つから、私達は彼女をここに置いているというだけのこと。いなくなってしまうと困るのよ。色々とね」
その言葉について、歪んだ笑みを見せてマリアは返事をした。
「嘘だね。わかっていないのは君自身だ。いや、正確には君が内包するもう一人のアンジェリカと言った方が良い。そうだろう? アンジェリーナ」
「あら? その話は長くなるのかしら。残念だけれど、貴女達には話に花を咲かせる余裕なんてないはずでしょう? もたついていると、核の雨が世界に降り注がれるのだから」
「いいや、これは実に大事な話だから続けさせてもらう。それに、案ずることはない。時間ならまだたっぷりと残されているのだからね」
アンジェリカは視線をアザミへと送り思案した。
そうして、自らの仮説を確かめる為に絶対の法の力により玉座の間全体を俯瞰して見渡した結果、ある事実に辿り着くこととなる。
『時刻は午前11時59分50秒で止まったまま。ちっ、あの女。玉座の間ごと時間経過の無い時空軸に置いたか。ここに集まる者は誰一人として逃げ出すことも出来なければ、逃がすつもりもないというわけね』
マリアが慌てる素振りを見せない理由を理解したアンジェリカは、敢えて口上に乗ることに決め、攻撃の姿勢を解いた上で光の長剣も消し去って言う。
「そう。気の乗らない話ではあるけれど、案外とそれも良いかもしれないわね。だって、私達はまだ、お互いの質問に答えていないわけだし?」
「意外と物分かりが良いんだな。君のそういうところだけは嫌いではないよ」
「お生憎様。私は貴女のことが大嫌いよ」
「これは辛辣な言葉だ」
そう言って笑うマリアに業を煮やしてアンジェリカは言葉で噛み付く。
「話相手くらいにはなってあげましょう。けれど、私は貴女に抱く感情と同じ程度に無駄話が嫌いなの。先の質問に早く答えてくれないかしら?」
「ん? あぁ、憐れなる子羊をどうしたのか、という質問だったね。別にどうもしていない。私は彼女に尋ねたいことがあって、それを尋ねた末に求めた答えを聞き出した。それだけのことさ」
「どうだか。知っているでしょう。私はこの城塞内で起きた出来事であれば、その全てを知覚することができると。そこに棒立ちしている腐れ悪魔が小細工を解いた今、垣間見える情報を読み取る限り、貴女の言葉にはいくつかの嘘が含まれている」
「私は嘘など吐かないよ。私の言葉はいつだって真実だ。純粋に、私と君とで言葉の受け取り方に違いが生じているという問題に過ぎないのではないかな?」
「どの口がほざく。殺していないというだけで、殺そうとしたことに変わりないでしょう」
「それも違う。本人にも伝えたが、私は彼女を、アビガイルを殺そうとなどとは微塵も考えていなかった。ただ、少しばかり自立した意識を弱めてもらう必要があったというだけのこと」
「それ見なさい。身体を痛めつけて必要な情報を聞き出すなど、ほとんどマフィアのやり口じゃない」
「そのマフィアのやり口とやらこそ、君の特技だろうに」
アンジェリカの言葉に、マリアはにやりと笑い皮肉を返した。
不敵な笑みを浮かべ続けるマリアの狙い。それは間違いなく自分の命だ。
その背後で起き上がったイベリスは、今のマリアにとって失ってはならない絶対的に重要な価値をもつ人物であるが、そんな彼女の命を奪うことを何よりも最優先し、この世界そのものを滅ぼしてしまおうという人物など目の上のたん瘤以外の何者でもないのだから。
ふいに途切れた会話であったが、マリアが話を仕切り直すように言う。
「そろそろ私の話の続きをさせてもらおう。とはいえ、そうだね。もう一人の君は“それ”については知らぬままにしておいた方が良いだろう。
安心したまえよ。私は彼女に対して、彼女が知りたがっている感情のことについて話すつもりも教えるつもりも毛頭ない。それに、彼女に唯一それを教えることの出来る存在を今からこの手で葬るつもりですらある」
間違いない。マリアの狙いはこの場で自分を殺すこと。あとはタイミングの問題だ。
アンジェリカはマリアと、付随する神と黒妖精の動きを同時に見極めながら話を続ける。
「何を言いたいのかしら?」
「言葉通りだよ。この場で君を殺す。いや、君達を殺す。その為に私達はここまで来た。そして今この瞬間なら、それが叶うはずさ」
言葉の直後に発せられた殺気に中てられたアンジェリカは、反射的に光の長剣を顕現させて身構える。
そうして無言のまま、今出すことのできる力の全てを籠め、可能な限りの天の弓を発現させてからマリアへ向けて投擲すると同時に、自らもマリアを刺し殺すために転移によって彼女の背後へと回り込むのであった。
しかし、爆発的な勢いで射撃された光の矢の全てはマリアの前で不自然な軌道を描き逸らされ、背後の壁を崩落させたに過ぎず、背後から見舞った渾身の剣戟は難なく躱されてしまう。
次にアンジェリカがマリアの姿を目にした位置は、自身の間合いから一歩外に踏み出しただけの非常に近い場所であった。
正面からアンジェリカを見据え、余裕の笑みを浮かべたままマリアは言う。
「後ろの王妃様に手を出さなくて良いのかい? 君に残された道はそれだけのはずだ。
けれど、そうだね。今や叶わないと言った方が正確だろう。今の私から目を逸らすこと。それが自らの敗北に直結すると賢しい君は悟っている。
もう一度、種明かしをしよう。なぜ私が絶対の法の力を振るう君に後れをとることなく動き回ることが出来るのか。それは偏に私にだけ与えられた力によるものだ。
因果律に基づき、未来に起こり得る事象について全ての力学と物理状態を合わせ、それらを完全に把握と解析を行う超常的な知性を指し示すもの。特定の事象がもたらす結末を、自らの知性のみで確定的に導き出す力。これが私にだけ与えられたインペリアリス。絶対的な未来予知〈ラプラスの悪魔〉だ」
ミュンスターで聞いた言葉が繰り返される。
あの時はまだ、アンヘリック・イーリオンの隠匿の為に力の6割を抑えた上、イングランドで単独活動をするもう一人の自分と力を分け合ったが故に、マリアの使うこの力の前に為す術がなかった。
全ての力を十全に使える状態であれば或いは…… と考えたが、絶対王政による残り香的な副作用が働いている中ではやはり及ばないらしい。
幻想的に見える黄金色の雪が消え去らない限り、まともに渡り合うことは出来ないだろう。
しかし、そうなるとひとつの疑問が湧き上がってくる。
アンジェリカは素直にその疑問をマリアへ問うた。
「レナトの絶対王政による力の残滓はまだこの空間に残っている。それはリナリアに所縁を持つ貴女には例外なく効力を発揮するものだと思っていたのだけれど、どうやら例外と言うものが存在するのかしら?」
「今の君が私を捉えられないということがおかしいと? そう思っているならば考えを改めるべきだね。むしろ、十全に力を使える状態の君であっても、“私を捉えられると考えること自体がおこがましい”」
そう言ったマリアは退屈そうに後ろ手を組み、見下すような目つきを向けて続ける。
「君はとっくに気付いているはずだ。今この場がどういう状況であるのかを」
「なるほど。神様の力を借りないと自分の身一つでは何も出来ないお姫様らしい答えだわ」
「君がその言葉を言うのかい? では、共和国の民に同じ言葉を手向けてみると良い。ただ、自ら神を気取っておきながら、大事な臣下1人の命も守れないようでは、それ以前の話になるのかもしれないがね。それ故に、清廉なる水のせせらぎも、自由なる風の流れも失ってしまったのだから」
この言葉はアンジェリカの逆鱗に触れた。
マリアが言葉を言い終えた時にはもう、アンジェリカの姿はマリアの眼前にあり、右手に構えた光の剣で彼女に斬りかかっていたのである。
意図的であることは明白だった。マリアはアンディーンとシルフィーの死を揶揄して先の言葉を放ったのだ。
アンジェリカが渾身の力を籠めて振り下ろした剣は黒棘に阻まれ、彼女の顔先で輝きを放ったまま微動だにしなかった。
マリアは何を思うようでもなく、並々ならぬ激しい怒りと憎悪を湛えたアンジェリカの鬼気迫る形相を眺めて言う。
「もはや言葉にする必要も無いだろう。それが君の答えなのだから。無自覚を装う君が、先ほどから頑なにアンジェリカ本人の人格を表に出したがらないのには意味がある。今の君の行動が、自身の最も忌避する感情から来る衝動的な行動であると同時に、それこそ君が彼女に最も知られたくないと思っている感情であるからだ。
先のアビガイルの影の人形にしてもそう。君は“アレ”が本物の彼女ではないと、アンジェリカよりも先に感覚的に見抜いていた。自身の大切な者に裏切られるという脅威、心に負うだろう傷を彼女に代わって引き受ける為に、強制的に人格を入れ替えて表に出てきたのだろう?
故に君の中で眠らされたままのアンジェリカは、幸せなことに未だにアビガイルの影に裏切られたという事実すら知らぬままでいるわけだ。これを“愛”と言わずに何という?」
「それがどうした。お前が私の心の内を知ったところで何の意味がある。あの男に出会うまで、自身の心の内にある感情を曝け出すことすら出来なかったお前が、他人の心の内に干渉してくるなど、それこそ“おこがましい”とは思わないのかしら?」
「私が知るのではない。君の内で眠らされているもう一人の君が知るべきことだ。だが君は彼女に答えを永遠に打ち明けることもないのだろうね。
可哀そうなアンジェリカ。自身の求めたもの、答えを知るものが自身の内側にありながらも、それを享受される機会を自らの現身に永遠に奪われ続けるだなんて。
かつてフロリアンが言っていただろう? 君は彼女を甘やかすのではなく、自身の知っていること、知ったことをはっきりと伝えるべきだったと、私もそう思う。伝えた上で、本当に欲しかったものを、ただ“欲しい”と言わせるだけで良かったのだと」
マリアはそう言うと、アンジェリカが振り下ろす剣を左手で難なく掴み、大して腕に力を籠めることも無く彼女の身体ごと振り払った。
渾身の力を籠めて打ち込んだ剣戟を振り払われたアンジェリカは、即座に自身の周囲にアイスピックを実体化させてそれを一斉に投擲し、自らも手に持った剣で再びマリアへと斬りかかった。
アイスピックが時速数百キロという超高速で空間を駆けるが、マリアの周囲に蠢く黒い影はそれらを全て撃ち落とし、横薙ぎに一閃したアンジェリカの剣戟も難なく弾き飛ばす。
マリアは何事もなかったかのような素振りで天上に輝く見事なステンドグラスを見やりつつ、アンジェリカには視線を配せることも無く言う。
「しかして、現実は残酷なるかな。いくら君が取り繕おうとも、アンジェリカ自身はそのことに気付き始めている。君が十全に自らの力を行使できない理由がまさにそれだ。
絶対王政の残滓による影響? 違うね。君は今、己の力を見誤っているのさ。君の母体であるアンジェリカが“愛”というものについて、言葉の定義や概念を越えた“意味”を理解しつつあるからこそ、その隙間を埋める為に生み出された君という存在は必要無いものとして消されようとしている。
それ故に、君自身の力も知らず知らずのうちに削がれ、今では本来持ち得る力の全てを出すこともままならない。身に覚えがあるはずだよ。アビガイルの影の奇襲によって打ち消された天使の光輪、光の翼を再度顕現出来ない理由だってそうなのだから」
その言葉に激昂したアンジェリカは、目にも留まらぬ速度で何度も何度もマリアへ斬りかかりながら叫んだ。
「黙れ! お前が私を語るな! 愛など知らない! 愛などいらない! そんなものが無くとも、私達は私達だ! これまでも、これからも! 与えないと決めたのはこの世界だ! 与えなかったのはお前達だ! 私達が私達で在り続ける為に、今さらそんなものなど…… 必要無い! 必要なんて無いのに!」
光の剣と黒棘がぶつかり合う、甲高い音が大聖堂に響き渡る。
怒りや憎しみといった感情の全てをぶつけるように、心に溜めてきたもの全てを吐き出すかのように、絶叫にも近い声を上げるアンジェリカと、その剣戟を受けて立つマリアの姿。
生と死を越えた狭間でせめぎ合う2人の姿をイベリスをはじめとした全員が見守る。
同時にこの時に至って初めて―― 彼女が叫ぶ言葉を聞いてようやく、この場に集った全員が彼女の本当の気持ちを理解した。
アンジェリカが世界を滅ぼす理由と、アンジェリーナが世界を滅ぼす理由は似て非なるものであったと。
マリアへ幾度となく剣戟を繰り返していたアンジェリカはやがてその手を止め、彼女との間合いぎりぎりに立ち尽くす。
息を切らせ、それでいて怨念の籠った刺し貫くような視線をマリアへ送りながら言った。
「愛なんて知らなければ、知ることも無ければ、私達はこれからも今までと同じようにいられたはずなのに。
遠い昔から、世界というものはこの子を認めようとはしなかった。この子を産んだ親でさえも、自分達の権威と責務の為にこの子を利用しようとするばかりで、誰一人としてこの子の心に寄り添おうとしなかった。
ここにはいないアイリスもそうだったし、ここにいるリナリアの子供たち全員もそう。レナト、イベリス、ロザリア、アルビジア、そしてマリア。お前達もそうだった。
千年の間に誰一人として、助けを求めるこの子の手を取ろうとはせず、無関心を装ったというのに。それなのにお前達は現代に至っても尚、この子がたったひとつ抱いた理想を間違っていると断じ、その想いを認めようとはしなかった。
そんなことは間違っている。この世界がこの子に愛を与えないというのなら、私にとってこんな世界は存在する意味も価値もない。
自らの傲慢さによって間違った歴史を生み出した元凶を壊し、間違ったもの全てを壊し、私達が私達の手によって新たなる世界を作り出す。
そうすることでしか、この子の居場所はこの世界に創り出されない。だから、私が与えると決めた!
それなのに、なぜ今さら…… 自らに都合が悪くなった時だけ、お前達は――!」
アンジェリカ―― いや、アンジェリーナが口走った言葉が全てだった。
これこそが彼女達の憎しみの元凶。想いの全てだったのだ。
アンジェリカの話を聞き、マリアは思う。
何が正しくて、何が間違っていたのか。
立場が変われば、想いや思想も変わる。
それは常々、自らの思考に留めてきた考えでもあり、戒めとしてきたことでもある。
可能性を信じた人々と、可能性に裏切られた人々との間で絶対に埋まらない溝はこうして生まれていくのだと。
極論してしまえば、彼女は自分の同類である。
善悪二元論では世界は変わらない。だが、何かを悪に仕立て上げ、自身の正当性を示さなければ前に進むことが出来ないというのも人間の常である。
アンジェリカは自らを認めず、迫害し続けてきた世界を悪と断じ、罪と定義し、同じ境遇にあった共和国の民と共にそれらを粛清して正すと決めた。
そのことについて、彼女の立場に立って彼女の思考で物事を考えたのなら、それは否定することができない真実なのだろう。
アンジェリカの口から、ようやく嘘も偽りも無い本心を聞いたマリアは言う。
「アンジェリーナ。君がアンジェリカへの愛の為に、彼女の為に世界を滅ぼすことを理想とし、それを現実のものにしようとしたことの正当性を私は認めている。
インファンタ家が背負った呪いのような宿命によって、君が遠い昔に受けた仕打ちを考えれば当然の答えであり、思想として当然の帰結であると考えるからだ。
もし、この世界が違ったものであったなら。もしもアンジェリカが他の子らと同じような自由を謳歌出来ていたなら、あの子の未来はもっと違ったものになっていたのではないのかと。それが君の描いた空想の夢。そして君はこの現実を理想として描いた。
同じ境遇を背負い国家を形成してきたエトルアリアス公国の民を先導し、グラン・エトルアリアス共和国を建国して世界の罪を裁こうとした理想は認めよう。だが、私はそれを認めはするが受け入れはしない」
「黙れ、黙れ! 同情してくれなどと頼んだ覚えはない。私達には他人の同情も憐みももはや必要無い。世界を壊し、新たな歴史を私達の手で作り上げる。もう二度と――」
もう二度と、自分達のような存在が生まれて来ないように。
もう二度と、アンディーンやシルフィーのような運命を辿る者が出ないように。
もう二度と…… ハンガリーで散った子犬や、バニラのような犠牲を生み出さない為に。
アンジェリカが口ごもると、マリアはようやく視線を寄越して言った。
「同感だね。認めはするが受け入れないと言った。故に同情もしなければ憐みもしない。私は君をここで殺し、私の思い描く理想を実現させる」
「本性を現したわね。高い所から講釈を垂れる貴女だって結局、突き詰めれば私と同じ穴の狢なのよ。想像したくもないことだったけれど、事実を事実ではないと認めぬほど私も落ちぶれてはいない。
さぁ、これで長話も仕舞よ。お前の敵はここにいる。神の力に頼らず、自らの力で向かって来なさい」
「生憎と、暴力は得意分野ではなくてね。君のように他人を傷つけることや、自らが傷付くことに快楽を覚える質ではないんだ。それに餅は餅屋というだろう? 誰もが得意なことと苦手なことをもつものだし、適材適所の役割分担を心がけるのも上に立つ者としての務めであると私は思う。故に、ここはアザミの力を借り受けたいところではあるが……」
マリアはそこで言葉を区切ると、身体ごとアンジェリカへ向き直り、赤く輝く美しい瞳で彼女を射貫き言い放った。
「君の心よりの言葉を聞いて気が変わった。君の純粋たる思想に敬意を表して、私手ずから君の理想を打ち砕こうと思う」
「やってみなさい。出来るものならね」
「言葉通り、すぐにでも」
時を止めた玉座の間 大聖堂ローズ・オブ・ウィル=スローネ。
アザミとバーゲストが対角に監視する中、その中央に立ち向き合うアンジェリカとマリア。未来視を持つ者同士、睨み合った両者は互いに身構えたまま動きを止めた。
どちらが先に動くのか。間合いぎりぎりの位置から動き出しを見計らう先の読み合い。
動き出せば一瞬で勝負が決まるであろう、言葉通りの最後の戦い。
もはや手出しなど叶わない争いを遠目から見つめるマークתとロザリア達は、決戦の行方を見守るしかなかった。
その中にあってイベリスは思う。
どうかこの戦いに結末など無く、互いに矛を収めて退いて欲しいと。
なぜなら、イベリスはプロヴィデンスの力によって、この後に起きる結末までが予測できていたからだ。
どうかこのまま争いが終結するようにと―― 思い願うイベリスの祈りはしかし、彼女達に届くことは無い。
『マリア。貴女が自身の理想を真に意義あるものとしたいのであれば、ここでアンジェリーナを殺してはいけない。アンジェリカを殺してはいけない。
そしてアンジェリカ…… いえ、アンジェリーナ。どうか、生き急がないで。貴女には、この先の結末が視えているはずよ』
引き返すことなど出来ないところまで歩みを進めてしまった者達にもたらされる結末。
最後の審判の時が訪れようとしていた。
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