*6-4-2*

 一歩、二歩、お散歩。君がもし、上機嫌のままにこの回廊を歩いたなら、そのような言葉を口走っていたのだろうか。

 しかし、今やこうした無垢で無邪気な言葉遊びというものは、君ではなく私の心を躍らせるにふさわしきものとなりつつある。


 いや―― 既になったに等しい。


 君は気付いていただろうか?

 描いた理想の全てが、途中から私の掌の上にあったことを。

 リナリア島からイベリスの魂を解き放ち、自身の理想成就に向けて道を進みゆく中で、2036年にロザリアから唐突に告げられた報せに私は正直驚いた。

 だが、彼女達がこの世界に存在しているのなら、それもまた然りと。私はすぐにそう考えを改めたものだ。

 そう、君がこの世界に存在し、何食わぬ顔でどこかの王様気取りをしていたところで何一つ不思議なことではないとね。

 南の島でアイリスと関わりを持って事件を起こした君は、北の島でアルビジアと、欧州大陸南部でロザリアと向き合い、そうして世界に対して宣戦を布告するに至る。

 これが私にとっては好都合だった。世界特殊事象研究機構が持つ“あのシステム”を手中に収める為に、何か利用できることはないかと常々考えていたのだから。

 私に君自身の未来を読むことは出来なかったけれど、君の滞在した国、君の傍に仕えた者達の未来を読み取ることは容易だった。

 故にこそ、私は今ここでこうして、君と会い、君に別れの挨拶を告げる為に長い長い白亜の回廊を歩き続けている。


 君がセルフェイス財団を利用して、CGP637-GGを世界中にばら撒こうと計画した時、ダンテ・アリギエーリの神曲になぞらえて“天上の薔薇”に思いを馳せたことを私は知っている。

 だが、君が描く理想が煉獄を抜け、天国へ辿り着いたとしても、君自身がその境地に至ることはない。

 なぜなら、太古の昔よりその言葉が持つ意味とは一人の女性の雅称を示すものであったからだ。

 ローザ・ミスティカ -奇しき薔薇の聖母-

 世界に数十億という信徒を持つ世界最大の宗教。そのメシアたる人物の母である彼女は、全ての恩恵の仲介者とも呼ばれ、神へ恩寵を乞う人々の崇敬対象にもなっている。


 そして、彼女と同じ名を与えられた私は、人々の願う恒久的な安寧を実現する為に、人々が真の意味で願う理想郷を実現する為に、神の仲介者になると決めた。

 君が実現するのではない。君は君の理想の果てに、自らの罪に対する裁きを受ける側の者でしかない。


 私が与えよう。君達の信仰する、義憤の女神ネメシスに代わり。

 罪人の為に祈ろう。真なる恩恵の仲介者として。

 全知全能の神が全てを視通す目を以て。


 かくあるべし、と。




 不敵で無邪気な笑みを湛え、真偽の大聖堂 サウスクワイア=ノトスより玉座の間を目指し移動する少女は軽い足取りで白亜の回廊を歩く。

 遠く前を歩く科学者然りとした装いの彼女の後ろで、これから起きる出来事に胸を躍らせながら。

 黒いベールで顔を覆った親愛なる友が優しい口調で言う。

「マリー、彼女達は無事にサンダルフォンから離脱出来たようです。既にアンヘリック・イーリオン近くまで訪れているとのこと。声を、聞かれますか?」

「あぁ、そうだね。私の親愛なる天使達。そして、長き歴史の中で忘れることなどなかったあの子の魂の声も」

「承知いたしました」

 彼女がそう言うと、目の前の空間に大きな穴を穿ったかのように黒い影が浮かび上がった。

 品格あるヒールの音を立てて歩く2人の前に浮かぶ影は、やがて色鮮やかに染まりゆきひとつの空間を映し出す。

 すると、影の中から元気の良い少女達の声が聞こえた来た。

『おわぁ☆ これ、アザミの影? すっごいねー。こんな高い所を飛んでる飛行機をピンポイントで狙い打ちできるなんてさ☆ 神様って凄い!』

『こーら、ホルス。操縦に集中なさい。貴女がしくじったらみんな一巻の終わりなのよ?』

『分かってる分かってる~♪ でも、これ性能良いからさ。実のところ私何にもしてないんだよねー』

『ねぇ、アザミの影が、ここにあるってことは、マリア様がこのお話を聞かれていらっしゃるってこと、だよね?』

 あぁ―― なんて甘美なる声。甘く、可愛らしく、とても美しい天使達の声。

 彼女達の声を耳にしたマリアは優しい口調で語り掛けた。

「もちろん、聞こえているとも。私の可愛い天使達。機構への潜入とサンダルフォンからの離脱、ご苦労だったね。そしてアイリス、何もかも私の口から説明できなかったことを今この場で詫びたい」

 マリアが申し訳なさそうな口調で言うと、影の中にひょっこりと顔を覗かせたアイリスが満面の笑みを咲かせて言う。

『お気になさらないでください。全てはお姉様の計画の為、理想の為、そして何より、この子達と私の為であったと承知していますから』

「とはいえ、だ。実に心苦しく思っていたことも事実でね。言葉にして謝らなければ気が済まないというのが正直なところだ。私がそういう性分であることを、君は良く知っているだろう?」

『はい。深く存じております』

「なら、素直に言葉を受け取ってほしい」

『ありがとうございます』

 そう言ったアイリスは影の向こう側で深々と礼をした。

 ところが、そんな2人の会話をじっと聞いていた桃色髪の少女が目を潤ませて言う。

『アーイーリースばっかりずるいー! ねー、マリア様! 私達うまく離脱に成功しましたよ!』

『色々な意味でとても不安でしたが、こうして再び言葉を交わせることを嬉しく思います』

『私も、私も、とっても嬉しいです。あと、マリア様のところに、早く行きたいなって』

 目立ちたがりのホルテンシス、どこまでも清廉なシルベストリス、内気で愛らしいブランダ。みんなみんな、愛しい私の天使達。

 マリアはアイリスに続いて彼女達を労って言う。

「トリッシュ、ホルス、ブランダ。君達の活躍も十分伝わっているよ。それはこの場だけでなく、機構に潜り込んでいる間からずっとね」

 そうして穏やかな笑みを見せた後に言った。

「今、外の状況はどうなっているんだい?」

『はいはーい! 外は静かなもんですよ。共和国軍も大人しいし、連合艦隊も私達に対して何をするわけでもないしぃ?』

「連合軍は君達に手出し出来ないからね。共和国が世界各国を核の脅威で覆っている今、銃の弾一発だって撃つことはできはしない。けれど、共和国軍が手出ししないというのは偏に君達の努力の、力の賜物でもあるのだろう。

 君達とアイリス、アヤメが揃ってこその力。大天使の加護と大いなる力は素晴らしい相乗効果を発揮したらしい」

 大天使チャミュエル、ジョフィエル、ザドキエルの加護を持つ彼女達と、リナリアの忘れ形見であるアイリスと雷神の巫女であるアヤメの力。それらが組み合わせられた時の相乗効果は計り知れないものがある。

 また、ホルテンシスが秘めるもう1つの力の作用が大きかったにせよ、彼女達は現にそれらの力を存分に振るって共和国軍の敵意を鎮めるという離れ業までやってのけているのだ。

 マリアの誉め言葉に喜びを表しつつも謙遜を含みシルベストリスは言った。

『ミュンスターでの経験があってこそです。ホルスが祈り、アイリスとアヤメが伝える。そうすることで共和国軍の敵意を喪失させることが出来ました』

 その言葉に大きく頷きながらブランダが言う。

『そうそう。それで、トリッシュが危険予知をしてくれているから、危ないことも全部避けることができるもんね。あれ? 私だけ、何もしてない?』

「君の力が私の助けになるのはもう少し後だよ、ブランダ」

 言葉の終わりに、困ったような表情を浮かべた彼女を見たマリアが優しい口調で言うと、ブランダは朗らかな笑みを浮かべて見せて言った。

『はい! 早く、マリア様のところに』

『ねー☆ でも、出番はもうちょっと後かなー。主役は遅れて登場するものだっていうから、マリア様が玉座の間? っていうところに向かわれるのは、もう少し後なんでしょ?』

「それなら、間もなくとだけ言っておこう。全ての準備は整った。時が来たとき、君達はここに来てくれればそれで良い。何、すぐさ。ものの10分程度の話に過ぎないんだ」

 柔らかな笑みを湛えながら言うマリアのすぐ隣で、アザミが冷静な口調でこれからのことについて言い添える。

「タイミングは私が指示します。その時に備えて、付近で待機してくださいますよう。アンヘリック・イーリオンにおける玉座の間の位置は把握していますね?」

『もっちのろん! ねー、ブランダ☆』

『は、はいぃ。こういうのだけが、私の取り柄だから』

「大丈夫。頼りにしているよ」

 マリアはブランダに視線を向けて言った。

 彼女だけが持つ特別な力のひとつには、完全記憶能力というものがある。HSAMと呼ばれる力で、意識的に記憶したものはたとえ誰かが会話の中で一度だけ発した言葉であっても忘れることは無い。

 そんな彼女が記憶しているのは〈アンヘリック・イーリオンの全体構造〉だ。

 特に、今の彼女は最上階に存在する玉座の間が城塞のどこに位置しているのかについて、数センチ単位の誤差も無く指し示すことができる。

 アザミが呼び掛けるだけで、彼女達がすぐにでも玉座の間へ乗り込む用意が整ったと言えよう。


 ついに役者は揃ったと、マリアは感慨深いとでもいうような笑みを見せてから言う。

「もうすぐだ。もうすぐ私の理想の世界が実現する。差別も、迫害も争いもない、恒久的な安寧と平穏が約束された世界が間もなく完成する」

 しかし、その笑みは奈落の底に繋がるかのような仄暗さを想起させるものであった。

 その目は先程までの穏やかで優しいものとはまるで異なる不敵さを湛えたものであり、これから起こる出来事の行き着く先を示すかの如く陰湿なものである。

 宝玉のように美しい赤い目。その瞳に宿された強い信念に敬服を示して姉妹とアイリスは言った。

『マリア様の為に』

 彼女達が言い終えるとマリアは左手を上げ、影による通信を終わらせるようアザミに無言の指示を出す。


 空間に浮かんだ黒い影が消失し、マリアが再び前方に目を向けた時。

 遠く離れた場所を歩いていた“アビガイルの影”がついに目的地の前に立った。


「彼らの前で、色々と演じてきた甲斐もあったというものだ。私は全てを手に入れ、彼女達は全てを失くす。彼女の中にあるもう一人の彼女も然り。王妃と永遠を誓い合った国王も然り。勝機も可能性も、全ては私の掌の上。あとは“タイミング”の問題だ」


 そう言ったマリアは右手を胸の前に掲げ、指を弾いて言った。

「さぁ、行き給え。テミスの影よ。行って終わらせるんだ。その扉の向こうで行われている一方的な蹂躙を。そして、自らの主君に終わりを示し給えよ。千年の夢はここで潰えるのだと、君の手で伝えてあげると良い」


 悪意に満ちた笑みが花を咲かせる。

 遠くで見守るマリアとアザミの視線に捉えられたアビガイルの影は、命令された通り玉座の間へと繋がる巨大な扉を開いた。

 世界の行く末を決める、最後の審判者を玉座へと導く為に。



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