*6-2-3*

 ぼんやりとした橙色の灯りが明滅している。

 一面を囲う大理石によって構築された小宇宙。輝き色褪せること無き大聖堂の威容。それが今や瓦礫と砂埃にまみれた無惨なものへと変わり果てていた。

 星の大聖堂、ノースクワイア=ボレアースの中央付近でリカルドは仰向けに横たわったまま、遥か彼方にあるかの如く天井を見上げる。

 アルビジアに打ちのめされた体は未だいうことを利かず、ジョシュアによって撃ち込まれた電極針による痺れも取れてはいない。

 満身創痍とはこのことを言うのだろうか。長きに渡り、外敵との戦闘などしていなかった代償をよもやこの一大事に至って支払うことになろうとは。

 普段から身体を鍛え、万一に備えることに抜かりはなかったはずだが、如何せん経験というものが欠けていた。

 それも、一方的に相手を打ちのめす力による争いではなく、極限の状況下において自らが取るべき行動を取捨選択する為の経験値。機構に在籍するあの男との違いが明確に表れた点だ。


 リカルドは過ぎ去った戦いの中で、自身の何が至らなかったのかを考え続けていたが、ふいに考え続けることに意義や意味を見出せなくなった。

 自分は失敗したのだ。敬愛し、尊敬し、最も心を寄せた主君の命令を遂行することが出来なかったのだから。

『アンジェリカ様、申し訳ございません。結局、最後には貴女様の御手を煩わせることになりましょう』

 そう頭で念じたリカルドはそっと目を閉じ、過去の記憶を呼び起こす。

 アンジェリカに仕えると決意したあの日から数十年。今も昔も変わらぬ忠義を注いできた。

 過去にテミスであり、総統補佐官であった父の跡を継ぐことになって以後、今に至るまで何一つとして変わらない。

 彼女に親愛の情を抱き、いついかなる時であっても傍で仕え続けた。数百年も遠い昔より現代までの間、グラン・エトルアリアス共和国という国家を導き守り抜いてきた偉大なる王。

 彼女は絶対の法、加えてエニグマと呼ばれる特別且つ圧倒的なまでの力を持つが、それ以上に圧倒的なまでの政治的手腕を以て国家を成長させ続けてきた。

 今の時代において、自分達共和国の人間が何一つとして不自由なく現代の幸福な暮らしを享受できるのは、一から十に至るまで全て彼女のおかげといって過言ではない。

『アンジェリカ様。貴女様がいらっしゃなければ、この国は激動の時代の中で存在を消失させていたやもしれません。かつて存在した、貴女様の故郷。リナリア公国と同じ道を歩んだかもしれません。しかし――』

 苦楽に彩られたかつての記憶を思い返していたその時、ふいに頭上から激しい振動と共に、直下型の地震を想起させる巨大な揺れがボレアース全体を襲った。

 傷付いた体が揺さぶられ、痺れた四肢が引き攣り激しい痛みを全身に駆け巡らせる。

『あの男…… ジョシュア・ブライアンといったか。スタンガンを数発打ち込んできたが、奴らの所持する装備の中でも、これは本来人間に向けて撃つような代物ではあるまい。我らの力が未知数であるからといって、そのようなものまで持ち出すとは。まったくもって度し難いことこの上ないな』

 そこまで考えたが、すぐに先の思考を改めた。

『いや、殺す気でかかってこいと宣ったのは私か。度し難いのはこちらの方であったな』

 争いには敗れはしたものの、不思議と悪い気分にはならなかった。

 むしろ、互いに生と死の狭間で全力を以てぶつかり合ったことに誇りすら感じるほどだ。

 そう考えた後に深い溜め息をつき、再び目を開けて高き天井を見据える。

『しかし、ただ寝転がっていることしか出来ぬとは情けない。先の振動はスローネからであろうな。アンジェリカ様とイベリスの戦いが始まったとみて間違いないだろう。勝者がどちらとなるかなど、考えるまでもなく、疑う余地も無いが……』

 物事とは常に最悪の事態を想定しておくものだ。

 古くから意識している言葉である。

『我らにとって最悪な状況とは即ち、アンジェリカ様が言うようにレナト王の反魂により、アンジェリカ様が力を失ったうえで滅ぼされてしまうこと。それを可能とするのは国連の忌まわしき局長、マリア・オルティス・クリスティーとアザミという女。万一に備えて脱出口の確保程度はしておきたいところでもある』

 アンジェリカが戦いに敗れることなど想像すら出来ないが、当の本人が懸念を口にした以上は考慮に値する事案であることに違いない。

 身体が動かない以上、働かせることが出来るのは頭だけだ。

 先の戦いがあまりにも清々しさに満ちたものであったからか、自分でも驚くほどに思考だけは晴れやかであるから考え事においてだけは何も支障など無い。

 今出来ることを全力を以て取り組む。全ては愛すべきアンジェリカの為に。

 有り得るはずの無い“もしも”に備えて思考を巡らせた。

『中央格納庫へ収容したネメシス・アドラスティアの修復状況はどの程度のものか。スローネから…… いや、アンヘリック・イーリオン外部への脱出を図るのであれば、安全を確保する為にもあの艦艇の力は必要不可欠となるだろう。未だに空と海で、連合艦隊と交戦中のアンティゴネやトリートーンなどの艦船は当てに出来ぬからな』

 ネメシス・アドラスティアの収容された中央格納庫は、玉座の間へ至る正面大扉すぐ傍に存在する“緊急脱出口”から直通で向かうことが叶う。

 艦艇の修復がある程度完了しているならそこから安全に脱出はできるのだが…… 果たしてそれを利用する事態まで追い込まれることなどあるのだろうか。

 幾度となく思考を巡らせようとも最後に帰り着く疑問だ。

 そのような思考を続けている内に、リカルドは【緊急脱出口】に関する昔の話を思い出した。


 この城塞には“もしも”に備えた逃げ道がいくつか存在する。それは偏に、共和国の民であるテミスや城塞で働く兵士や使用人たちを外部へ逃がすために用意されたもので、内のいくつかが玉座の間=スローネに存在するのだ。

 アンヘリック・イーリオンほどの巨大城塞は外部から内部への侵入も難しいが、普通に考えると逆もまた然り。内部から外部への脱出も非常に難しい。

 そうした現実に対してどのように向き合うのかを考えた末に設計に組み込まれ、実際に生み出されたものといえよう。

 ところが、その脱出口の設計については紆余曲折あるらしく、話を掘り返すと最終的にはアンジェリカが強引に設計へ組み込んだものであるともいう。

 あくまで、かつての大人の口より語られた噂によって聞いた話でしかないが、緊急脱出口で揉めた事の経緯は次のようなものであったという。

 城塞建設当時、圧倒的な力を持つアンジェリカの存在さえあれば自国の敗北など有り得ないと考えた当時のテミスは、内部から外部へ向けた兵士達の脱出口など不要だと考えたそうだ。

 必要最低限、アンジェリカ本人の脱出口でもあれば充分であると。そうして、その考えは実際にアンジェリカへと伝達された。

 がしかし、当のアンジェリカ本人が『脱出口というものは、自分以外の者達を外部へ逃がす為に必要なものだ』という理由を以て、半ば強引に設計に組み込ませたというのだ。

 その時、総統補佐官を務めた自身の父は彼女に厳しい口調で次のように一喝されたらしい。

『私が脱出する為の道ならば必要無い。しかし、貴方達が危機に陥った時にどうするというのか。私は常々、この国の在り方は共和国の民によってこそ成り立つと言ってきた。第一に考えるべきは共和国の民である貴方達の身の安全でしょう? だというのに、その言葉を、私の意志を逸脱し、あろうことか自分達ではなく私の身を案じるなどと。それとも、貴方にはこの私の身を案じる程の強い力があるとでも言うのか。でなければ、力を持たぬ者が何を自惚れている。私の身より自らの身を案じなさい。城塞が完成した暁には、その統治を担う貴方達の末裔が使うことになるかもしれない道である。テミスの一柱として、何を守るべきか見誤らぬようになさい』

 自分には必要無いがお前達には必要だ。

 実に傲慢な物言いに聞こえるがその実、自分のことより共和国の民を最優先に考える彼女らしい優しさと慈愛に満ちた言葉であると思う。

 アンジェリカは自らの存在がある限り“自国の敗北など有り得ない”という慢心をテミスが抱いたことに対して激怒した。

 テミスが自国の安全保障を他人任せ―総統ではあるが、本来は他国出身であるはずのアンジェリカ任せ― にしようとしただけでなく、他者の力に自惚れて自らが為すべき責務を放棄したとみなしたからだ。

 ただし、このことを指して“彼女から共和国民に対する愛の形”などと口の先にでも出そうものなら、即首を刎ねられかねないのだが。

 とはいえ、そうした経緯を以て設えられた玉座の間=スローネから外部へ直接脱出する為の経路はアンジェリカ本人とテミスしか知り得ぬ機密事項でもある。

 なぜなら、脱出経路とはあくまで人がそのように呼ぶだけのものであって、外部と接続されている以上は【侵入口】にもなり得るからだ。

 長く仕えていれば分かる。アンジェリカはあのように見えて非常に繊細で用心深い。未来の先まで見据えた上で、考え得る最悪を全て想定して物事を決定する。

 一時期、彼女がよく発していた〈根拠は?〉という言葉にも思慮深さと用心深さはよく現れており、そのような彼女の習慣をすぐ傍で眺めている内に、いつしか自分も彼女を見習って同じように考える癖がついていた。

 そして今。遠い昔に彼女がテミスであった自分の父を叱った際に語った通りのことが起きようとしている。先見の明という言葉で片付けるにはあまりにも足りない。

 もし、かつて彼女がテミスの進言を受け入れ脱出口を設けなかったならば、今ボレアースに無様に寝転がる自分が万一に備えて思いを巡らせることがどれほど困難なものと化していたことか。想像するだけでも恐ろしい。


 リカルドは改めてアンジェリカの持つ凄みに感服しつつ、思考の先を万一に備えた行動へと向けた。

 と、その時である。唐突に脳内に聞き慣れた女性の声が響き渡った。

 というよりは、喚き散らされたといって過言ではない。

 思わず顔をしかめる程の音量で身体の小さな天才科学者が何かを喚いている。

【聞け、聞こえているか? リカルド、聞こえていたら答えろ。ボクだ、アビガイルだ。今すぐに、即刻君に伝えたいことがある】

 聞こえている。聞こえすぎている。

 リカルドは思いながらも彼女に対して念じた。

【やかましいほどに聞こえている。これは其方がかつて開発したという意思伝達の為のマイクロチップの仕業か? 妙なものを体内に埋め込まれた記憶が今蘇ってきたぞ】

【妙なものとは何だ。埋め込む前に散々説明したはずだ。万一に備え、どんな状況であっても脳波だけで意思疎通を果たせるような代物が…… いや、今そんなことはどうだっていい。とにかく話を聞け】

【聞かぬとは言っていない。其方がそれほどまでに取り乱しているということは、余程に重大な案件なのだろう? すぐに話せ】

 一人で取り乱して一人で喚くアビガイルに半ば呆れつつも、彼女がそこまで感情を露わにして詰め寄ってくる事態というものに妙な胸騒ぎを覚えた。

 リカルドが話せなどと言うまでも無かっただろうが、アビガイルは自身が取り乱している事情を端的に言った。

 その一言目を聞いた時点で、リカルドは自身の胸騒ぎが、悪い予感が事実であったことを思い知ることとなる。

【アンジェリカがヤバい。このままだと彼女はこいつらに殺されてしまう】

【どういうことか説明しろ】

 思考して言うよりも早く、言葉が相手に伝わっていた。脳内における反射で言葉を返したとでもいうのだろうか。

 リカルドの返事を受け流すように、アビガイルは早口でまくし立てた。

【国連の女と神にしてやられた。今ボクはこいつらに捕縛されて身動き一つ取れない状態だ。こいつらの目的は最初からアンジェリカではなかったんだ。

 こいつらの計画は非常に単純なもの。アンジェリカを葬った上で、どうやってプロヴィデンスの制御を乗っ取るかということだけに重点が置かれていた。つまり、必要としていたのは端から僕だけが所持していた〈プロヴィデンスの制御権移譲コード〉のみ。故にノトスを目指し、この場に辿り着き、目的を果たした。

 対するボクはコードを守ることに失敗し、今コードは奴らの手中にある。あれをプロヴィデンスとリンクしているイベリスという女に悪用すれば奴らの願いは叶うんだろう。

 そうしてこのまま奴らの思い通りに事が運べば、確実にアンジェリカは殺され、プロヴィデンスもこいつらの手に落ちる。そうなれば共和国の悲願とやらは立ち消え、こいつらが目論んだ通りの世界の完成だ。

 機械による世界統治。“全能の神が万物を視通す目を持つ機械神の降誕によって、人間が管理される世界”が実現されてしまう】

 アビガイルの言葉にリカルドは思考を停止した。


 アンジェリカ様が…… そのようなことが…… 有り得るはずが!

 そう思いかけたが、とっさにかつて父が言われたというアンジェリカの言葉が脳裏を駆けた。


『力を持たぬ者が何を自惚れている』


 そうだ。そうした考えは自惚れだ。しかも、他者の力に頼ることを前提とした愚かな自惚れだ!

 もし仮にアンジェリカの勝利が確定的で、世界の破滅が完遂するのであれば、この場で無様に寝転がされている自分は彼女の手によって断罪されるべきだと考えていた。そういう未来も悪くないと考えていた。

 しかし、それは大きな過ちだ。リカルドは力が入らない全身に力を籠めて唸り声を漏らす。

 その最中、アビガイルの声が脳内に響き渡る。

【リカルド、アンジェリカを助けろ! こいつらの願いが叶えば人の世は終わる。今、アンジェリカが人類の、世界の敵であったとしても遠くない未来にそれは覆される。シルフィーもアンディーンも失った今、アンジェリカを助けられるのは君だけだ!】

 彼女の声を聞き届けた時、信じられない言葉が含まれていると思った。


 シルフィーを失った、だと?


 風の大聖堂=エウロスの守護を任されていたシルフィーが、敗北を喫したとでも言うのだろうか。

【アビガイル。シルフィーを失ったというのは誠か?】

【口にしたくもない。だが、エウロスでヴァチカンの総大司教に殺されたというのが事実だ。ネメシスの彫像に圧し潰されて…… シルフィーは、もう】

 声を詰まらせたところを聞くに、彼女の言葉は全て事実だろう。


 アンディーンは断罪され、シルフィーを失い、アビガイルは拘束され、今この瞬間にもアンジェリカが危機に晒されている。

 遠い過去に懸念した現実が迫っている。

 全ての事情を呑み込んだリカルドはもはや頭で考えることを止めていた。

【おい、リカルド。聞いているのか? 返事をしろ! いや、返事をしなくてもいい。アンジェリカを保護してすぐに格納庫のネメシスへ行け! 自動修復プログラムを使い、潜水航行だけなら問題ない程度には修復しておく】

 相変わらず喚くアビガイルの声すら遠い。声の遠さに比例するかのように、それまで感じていた痛みや痺れももはや感じなくなっていた。


 自身の身体のどこに、そんな力が残っていたというのだろうか。

 考えることを止めたリカルドにとって、その答えが導かれることは無い。

 しかし、事実として彼は今自身の脚で再び立ち上がっているのだ。


 小宇宙を思わせるボレアースの大地に、2つの脚でリカルドは立ち上がり吠えた。

 全ては愛すべき主君の為に。自身のレゾンデートルの全てが彼女にある。

 自身の脚で立ち上がったリカルドは、ゆっくりとした歩調ながらもボレアースより玉座の間=スローネへ至る回廊に向けて歩き出した。


 そうしてようやく、アビガイルへ最後の返事を送る。

【アンジェリカ様の件、任された】

 自身に残された最後の家族を守る為、リカルドは玉座の間へと急ぐのであった。



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