*6-2-4*

『……リカルドは動き始めたか』

 つい今しがた、尊敬したこともない主君を“助けてくれ”などと、これまた尊敬したことすらない仲間に懇願するという、柄にもないことをやってのけたアビガイルは、何とか思った通りの成果が得られたことに安堵した。

 シルフィーの脳神経を完全にコピーし、アムブロシアーへと埋め込んだニューロモルフィックチップ。その開発過程において偶発的に生み出された産物。

 脳波コントロールによって他者との意思疎通を可能とするマイクロチップ。グラン・エトルアリアス共和国の、しかもアンヘリック・イーリオン内部でのみ双方向通信が可能な代物だ。

 適当に試しておけば何かの役に立つかもしれないと、ただの興味本位でしかない思い付きでリカルドに埋め込ませてもらったチップが、よもやこのような非常事態で役に立つことがあろうとは。

 物事は“良い準備が全て”とはよく言ったものだ。

『過去のボク自身の好奇心に救われるなどと。奇妙な感じだな』

 そう思いつつ、思いつく限りの最善手を全て講じたことで、今自らを襲う危機的な状況への不安が幾分か和らぐのを感じ取った。

『後は、そうだな……』

 アビガイルは目下最大の難題へ視線を向ける。


 視界の先に映る、黒のゴシックドレスを纏う人形のように愛らしい人物の姿。

 彼女は先程まで自身が腰掛けていた椅子に座り、優雅に足組をしてホログラフィックモニターに映る光景をじっと見据えている。

 映し出されているのは玉座の間=スローネの現在の様子だ。意気揚々とスローネまで辿り着いた機構の2人組を、アンジェリカは楽し気な笑いを響かせながら一方的に蹂躙し続けている。

 天の弓、空間転移、赤い霧といった超常の力に加え、自らが研鑽を積んできたのだろう体術と剣術による抜け目のない波状攻撃。

 あのとても小さな身体のどこにそれだけの力が蓄えられているというのか。

 研究分野にしか能がない自分でも、今のアンジェリカの凄みというものは十分に理解できる。実に興味深い研究素体のひとつだと、ほんの数刻前までの自分なら思っていたに違いない。

 あれは“天使のような悪魔”。一言で言ってしまえば化物。その言葉に尽きるだろう。

 同じく異能を持ち、プロヴィデンスによる完璧なまでの状況分析と未来予測の力を手に入れたはずのイベリスという女が、ああまでも簡単に痛めつけられている。

 しかし――

『マリア・オルティス・クリスティー。こいつはヤバい。2週間前に目にした時とはまるで違う。こちらに真意を悟られないように演技をしていたか、或いは猫を被っていたか。いずれにしても同じことか』

 アビガイルはモニターへ向けた視線を、赤い目を持つ悪魔へと移し、浅い呼吸から得られる埃混じりの空気を必死に肺へを送りながら、視界の先に佇む少女の恐ろしさに身を縮めた。

 無様にも研究室の床に寝転がされたまま、何一つとして出来ることのない自分へのもどかしさを感じつつ、この状況を招いた自分自身の愚かさを悔いる。

『アンジェリカは端からこいつのヤバさにだけ警戒心を向け、こいつを何とかする為に他の奴らを利用しようと考えていた。どうあがいても敵にしかなり得ない機構へ塩を送るような真似をしたり、協定を持ち掛けたりしたのも全てはその為。敢えてヴァチカンに対する敵意を抑えていたのも全部が全部…… その危険性を直接言葉で伝えられたにも関わらず、そのことに気付くことが出来なかった愚か者はボクらの方だった。いや、気付くことが出来なかったんじゃない。気付こうとしなかったんだ』

 アンジェリカさえいれば安泰である。そうした慢心が全てを悪い方向へと導いた。

 彼女は常々、この国の未来は自分の手によってではなく、この国に生きるこの国の民の手によって紡がれるのだと豪語していた。

 これまでそういった彼女の言葉は、全て強者による慰めの類のものかと思っていた。だが実のところ、アンジェリカの言葉の真意とは全てが戒めの言葉であったのだ。


 知らず知らず、彼女に甘えてしまっていた自身の愚かさを今になって悔いたアビガイルは視線を少し逸らし、この部屋に佇むもう一人の人物へと向けた。

 神から悪魔へと変性した者、アザミ。彼女もまた、科学の力では解き明かすことの出来ない絶対的な力を持っている。

 神の持つ権能。悪魔の持つ力。

 そうした彼女の持つ力によって今、自分は情けない姿を晒すことになってしまっている。

 アザミから伸びる黒い影に覆われ、締め付けられたまま身動きひとつ取れない中、アビガイルは必死に何か出来ることが無いかを探った。

『リカルドへ状況は伝えたし、シルフィーもアンディーンもいない状況で他に出来ることなど他にはないだろう。

 おそらく、万が一の時にリカルドはアンジェリカを連れて中央格納庫へ向かうはずだ。派手に壊してくれたネメシス・アドラスティアへ全ての希望を賭けて。

 であれば、ボクに出来る仕事はひとつ。一刻も早くネメシス・アドラスティアを航行可能な程度まで修復させることと、良くない者をあれに近付けさせないようにすること。出来ることというよりは、“許されたこと”と言うべきかもしれないが』

 自嘲気味にそう思いつつ、アビガイルはネメシス・アドラスティアの自動修復プログラムの起動に取り掛かった。


 アンヘリック・イーリオン内部のありとあらゆる仕掛けというものは、アンジェリカ以外にテミスの一員である者にもそれぞれ使用が許可されている。

 アムブロシアーの顕現や配備、警報の作動、各大聖堂に設えた仕掛けの起動、そして――

 特にアビガイルにのみ実行が許可された権限の中には【共和国全艦船に対する自動修復プログラムの起動】というものが含まれている。

 一見、誰が所持しても優位に見える権限がアビガイルにしか与えられていないのは、テミスの中において各兵器の構造的な仕組み全てを把握しているのが彼女だけであるからというのが理由だ。

『左舷スラスターはまるで使い物にならないな。だが、幸いなことに切り離し部分に関する損傷は顕著ではない。これは修復というよりは総とっかえした方が早い。右舷バーニアも同じく。

 各種兵装に関しては…… 度外視だ。予備パーツを格納庫に放り込んでおけば後は行った先で何とかするだろう。

 問題は原子核融合炉の再稼働と安定について。緊急事態による稼働停止であって、本体に損傷は見られない、か。であれば話は簡単。アンジェリカめ、危機的状況の中でよくやる』

 頭の中に流れ込んでくる艦体の損傷具合を確認しつつ、明らかに早期修復を想定した意図的な被害削減が施されたであろう破損状況にアビガイルの心は沸き立った。

 映像で確認していた爆発具合から見て、本来破壊されていなければおかしいはずの部分が綺麗に残されていたりするなど、実際の破損状況が不自然に過ぎる。

 焼けただれたバイデントの砲身などは除き、艦の航行に関わる部分に関してはすぐにでも修復して運用再開できるよう、アンジェリカが絶対の法の力によって意図的に被害をコントロールしていたことに疑いの余地はない。

『これなら…… まだ希望はある』

 為すべきことを見定めたアビガイルは、ネメシス・アドラスティアの修復に関して必要な指令を脳波コントロールによってプログラムへと打ち込んだ。

『これでいい。今ボクに出来ることの全てだ。後は――』

 そうして視線をホログラフィックモニターに釘付けにする少女に移し替えると、敢えて嘲笑を含んだ物言いで言った。

「ボクを殺さないのか?」

 映し出される映像について、興味深そうな面持ちを浮かべるマリアはホログラフィックモニターに視線を釘づけたままアビガイルに返事をする。

「必要がない。それとも、君は失った親友の元へ向かう為に生き急ぐというのかい?」

 無邪気で愛らしい、穢れ無き声色。甘くもあり、爽やかでもある物言いはこうした状況でなければ心地よく感じたのかもしれない。

 敵意を剥き出しているにも関わらず、そのように感じてしまうということは即ち、アンジェリカとはまたタイプの異なるカリスマ性を持つ人物であると否が応でも思い知らされる。

「プロヴィデンスの制御権移譲コード。君が欲しかったものは既に手に入れたはずだ。ボクを生かしておく必要こそないと思ってね。研究者として浮かんだ、ただの疑問を口に出したまでだ。そう、君の行動は論理的ではない」

「君達の常識に当てはめて論理を語ってもらわれても困る。私達は私達の求めた理想実現の為だけに行動をしているのだからね?」

「理想実現の為だけ、か。それで、制御権移譲コードを悪用して何を為そうというんだ?」

「知っているだろうに。“アレ”は私の長きに渡る理想実現において唯一欠けていたものでね。そういえば、アレは元々君が生み出したものだったか。この場を借りて礼を言っておこう。いずれにせよ、そのような奇跡の産物を機構が手に入れたと知った時は大層喜んだものさ。これで私の理想は完遂するとね」

 嬉々とした表情で語るマリアを睨みつけながらアビガイルは言う。

「まるで既に理想が叶ったかのような言い回しをする。随分と余裕なんだな」

 すると、マリアはモニターに向けていた視線をついに外し、アビガイルへと振り向き立ち上がって言った。

「おや、この期に及んでアンジェリカの絶対性を信奉する気にでもなったのかい? それとも、自ら窮地に陥る経験をしたことで、今さら彼女に対する尊敬が芽生えたとでも? それこそ、君という人物にとって論理的な話ではないだろうに」

「ボクの立ち位置は変わらない。アンジェリカを神であると崇める連中と同類に考えないでくれ。ただ、だからこそ今ここでボクを殺さないという判断をしたことを後悔しなければ良いと思ってね。君達の理想を破綻させる要因がまだ残っているとするなら、それは君達が心に抱く慢心だろう。致命的なミスとは常に、起こそうと思って起きるものではない。しかし、だからといって“偶然起きるわけでもなく、それは常に必然性を以て起きる”」

「つまり、私達の余裕が仇になると? まるで自分の経験則のように語る。今君は、何か後悔していることでもあるのかい?」

 研究室の床に横たわるアビガイルの傍まで歩み寄ったマリアは腰を屈め、思い切り顔を覗き込むように近付けて言った。

 アビガイルは、彼女の赤く美しい瞳の内側に自身の姿が映されているのを見て取って言う。

「目に見えるものだけが全てではない」

 彼女の瞳が捉える今と未来。そこに比重を置くマリアは過去を顧みることなどないだろうと考えて発した一言だった。

 過去を振り返らない人間は、いずれ自身が蒔いた致命的な失敗の種によって足元を掬われるのだから。そう、今の自分のように。

 しかし、自信に満ち溢れた彼女の耳には届かないに違いない。繰り返される嫌味に新たなバリエーションがひとつ追加される程度のことだろう。そう思っていた。

 ところが、である。その言葉が存外に彼女の中に響いたらしく、この大聖堂に踏み込んでから見せたことの無い表情を湛えて言ったのだ。

「――その言葉、教訓にさせてもらうよ」

 理由は分からないものの、マリアは真剣な面持ちを浮かべてそう言うとすぐに立ち上がり。踵を返して研究室の出口扉へと歩いて行った。

「そろそろ頃合いだ。私の理想を実現する為には、イベリスに消滅されてもらっては困るからね。主役は遅れて登場するものとはいえ、舞台が終わり、観衆が立ち去った後に登場したのでは意味が無い。君はそこでせいぜい自身の思い描いた仮説と、私がこれから実行する現実を対比した上で“本当は何が正しかったのか”について熟考を重ねると良い。そして祈るんだ。どうかもう二度と、悲しい出来事の起こらぬ世界になりますように、とね」

 そう言い残したマリアは、フロリアンを抱きかかえて立ち尽くしていたアザミに目配せをし、アビガイルのコピーを引き連れて研究室を後にしたのであった。


 自身を捕えているアザミが研究室から距離を離すごとに、徐々に影による拘束が緩んでくるのを感じる。

 ただし、これが緩み切ったところですぐに動けるようにはならないだろう。時間にして1時間程度はこのまま床の上に這いつくばっているしかなさそうだ。

『誰かが迎えに来る可能性を信じて、アムブロシアーをノトスの入り口に放っておくとしよう。 ……ふっ。可能性、ね』

 自らを自嘲したアビガイルはマリアが残した言葉の一句を思い返す。

『祈りか』

 その上で、昨夜中央庭園から外れた花壇でイザベルと会話を重ねた時の自分の言葉を思い出した。


【だからせいぜい祈ろうじゃないか、互いに。明日という日が終わりを告げた時、これまでと変わらぬ日常がここにありますように、と】



 アビガイルは静かに歯を食いしばり、唇を噛み締めて想う。

 二度と還らぬシルフィーの姿を。自身に優しかった父の背中を。どんなに鬱陶しいと罵ろうとも、最後まで自分を信じ続けた君主“アンジェリカ”のことを。

 そうして吐き捨てるように言った。


「もう失うのは、たくさんだ」


 閉ざした瞼の裏には、自分が“いつの間にか”愛していた人々の姿が鮮明に蘇り、最後には愛らしく笑みを投げかけるアンジェリカの姿が映し出されるのであった。



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