*6-1-3*
サンダルフォンのブリッジを後にしたアイリスは、自身の背後で静かに扉が閉まるのを確かめると、おもむろに左右に視線を配った。
周囲に誰もいないことを確認すると、自室とは真反対の方向に足を向けて歩み出す。
フランクリンには嘘を吐いた。これから目指すべき場所は自室ではない。もちろん、カフェテリアでも無ければラウンジで伸び伸びと羽休めをするというわけでもない。
行き先は自分達2人には似つかわしいとは言えない場所、第四航空格納庫である。
向かうべき先は彼方。最後の別れ際に、艦長である彼に対して嘘を吐いてしまったことに罪悪感が無いと言えば嘘ではあるものの、これらは全て予定調和というものだ。
アイリスは数日前にマリアから言われた言葉の数々を思い出す。彼女は、セントラル1でノアの箱舟計画についての協議が終了した後、自分と2人きりになってこう言ったのだ。
『海戦が始まって数時間も経てば戦局は膠着状態に陥るだろう。戦闘を中止しろという声明は共和国側から発せられるはずだ。そうしなければ核を撃つなどと言ってね。
君はその時までサンダルフォンのブリッジであの艦の護衛役を担うことになるが、戦況が動かなくなった時点でフランクから“休め”という達しが出る。
そのタイミングで、艦の第四航空格納庫に足を運んでほしい。誰にも見つからないように。その後、“私の天使達”と一緒に私の元へと来ておくれ』
全ては予言の通りに。
不確定要素が多々ある中、これほどまでに的確な未来視をやってみせる絶対性。
本当のところ〈万物を視通す神の目〉とは、美しき予言の花と呼ばれる彼女のことを指すのではないか。常々そのように思う。
『お姉様のおっしゃったことは正しかった。幾重にも枝分かれする未来の中から、確実に実現すると分かっている未来だけを選び出し、行動を起こす。
きっと、この先アンヘリック・イーリオンへと辿り着きさえすれば、その後のことはお姉様とアザミが何とかしてくれるはず。私達はあの方の言葉に従うだけで良い。
確定した未来に沿って、正しき世界の在り方を実現する為に。でも、それは――』
選ばれなかった未来という、有り得た可能性を摘んでいくことと同義。都合の悪いものだけを切り捨てていくということに他ならない。
内心で思いつつ、静かに左右に首を振る。
『違う。違う。お姉様は正しい。数千年の間、変わることが無かった世界を変える為にはその程度のこと。傲慢だと、悪だと断じられようと、必要悪なのよ。そのことに僅かでも疑念を抱くだなんて、今の私の考え方はまるでイベリスのよう。それでは、何も変わらないというのに』
すると、アイリスの中でアヤメが言った。
『アイリス、迷っているの?』
いつも自分を支えてくれる優しい声。誰よりも優しい存在。彼女の問いにアイリスは答える。
『どうしてだろう。アルビジアと言葉を重ねれば重ねるほどに、イベリスのことが頭から離れなくなって、自分の考えがわからなくなりそうになるの。お姉様が間違っているはずないのに』
『それは違うわ』
『え?』
優しくも、律するような力強い声。アヤメの言葉にアイリスは困惑したが、すぐに彼女は真意を伝えた。
『正しさと誤り。この2つに思考が縛られてしまうのは良くないと思う。大事なのは正誤ではなく、自分の想いを信じること。私達はマリアお姉様のおっしゃることを信じ、あの御方の理想に殉じた先にある世界を見届けたいと願ってきたはず。アイリス、貴女はもっと昔からだから、尚更にね』
『それは、そうだけど』
『同じなのよ。私にはイベリスさんの言うことも、アルビジアさんがあの方を信じた理由も分かる。結局、人は最後には誰の言葉でもなく“自らの心に従う”ことしか出来ない。正しいか間違っているかを決めるのは、常に何かひとつの結末や結論を迎えた後』
『つまり?』
『お姉様の抱く理想、叶えたいと思う世界の在り方についての正誤は後の時代が証明するはずよ。だから、今の私達が考えても答えが出ないのは道理で、答えを出すこと自体が不可能であると思う。イベリスさんがお姉様の理想を否定するのは、今貴女が頭の中で考えたように、“自らの理想成就にとって必要の無いものを全て切り捨てる”という考えが自身の中でどうしても受け入れられないからに他ならない』
『あくまで、価値観の基準は自分自身であって、その考えに添わないから誤りであると断じているだけだということね』
『そう。突き詰めれば、アンジェリカだって同じよ』
『自らの信念、考え、理想、か……』
『アルビジアさんはイベリスさんを信じたいと考えた。でもそれは、あの方の思想全てが“正しい”と思ったからではない。本人が言っていたようにね』
アイリスはアルビジアが言った言葉を思い出す。
【私はただ試したいと考えているだけかもしれない。公国の未来を背負うはずであった王妃の描く理想というものが、真に人々を幸福へと導くことの出来るものであったのか】
そうだ。
確かに、アルビジアは彼女の考え方が“正しい”などとは一言も言っていない。
【ここに辿り着くまでの経緯に、マリアの理想実現の為の目論見があったとしても、たとえイベリスの想いのみに基づく結末ではなかったとしても、それでもあの子の望んだ結末は叶えられた。
であれば、この先に起きる出来事も、この先に結実する未来の在り方もきっとあの子の考えた通りになるのだろうという不思議な感覚が湧いてくる。
この一点に置いて“叶わないとは言い切れない”と私は思う。それが真実になるかどうか、見定めてみたいとも考える】
振り返れば振り返るほど、その言葉に込められた意思はあくまで〈興味を持った〉という話に帰結するようなものだった。
そうしてアルビジアは言ったのだ。
【私のことを私だと認めた上で、その在り方も正しいと、口にせずとも認めてくれたのはあの子だけだった。
その時、私は自分の中で何かが変わったような気がしたわ。思い返せばきっとあの時だったのでしょうね。私があの子に感化されたという瞬間は】
それだけ人を惹きつける何かがイベリスにはある。自分達がマリアという存在を絶対であるとしているように、人の感じ方とはそれぞれなのだ。
【いつの時代であっても、信じるか信じないかを決めることだけは人の自由なのだから】
アルビジアの言った言葉の意味。
彼女が決めたのは正誤ではなく“信じるか信じないか”ということだけだった。
「信じるか信じないかを決めることだけは自由、か」
思わず声に出してしまった。慌てて周囲を見回して、口を閉ざすが辺りに人がいる様子はない。ほっとして軽く溜め息をつく。
そうした過去のやり取りを思い返す中で、アヤメが言う。
『アイリス。これから起きる出来事の審判は未来が下すわ。正誤については後の歴史がどうであったかを証明してくれるはずよ。仮に、お姉様が間違っているというのであれば、きっとアルビジアさんの言う通りに〈自身の想いのみに基づく結末ではなかったとしても、それでも望んだ結末は叶えられる〉と思う』
『そうね。貴女の言う通りだわ』
『まだ引っかかっているのでしょう? 第六の奇跡を強行したあの日、イベリスさんに言われた言葉のこと』
アヤメに問われて、アイリスは過去にイベリスから投げかけられた言葉を再び頭に巡らせた。
【救いも自由も、それらは神の手によって得られるのではない。人々が自らの手で掴みとるもののはずよ】
それが真実なら、機械の神の意志による人類世界の統治という有り方は誤っているということになる。ただし、それはあくまでイベリスの価値観に基づいて導かれた答えに過ぎない。
何を信じて、何を信じないかを決められるのは自分の心だけ。
アイリスは迷いを断ち切り、しっかりと前を見据えてアヤメに言う。
『吹っ切れたわ。やっぱり私はお姉様の理想を“信じる”。変わらない者達を変える為には、必要でない者を間引くという悪も必要だと思う』
『“1つの腐った林檎が他の全ての林檎を腐らせるのだから、罪悪や罪人に慈悲を与えてはならない”ね』
『そうよ。他の果実を台無しにすることのないように』
『ふふ、その方が貴女らしいわ。とても真っすぐで』
晴れた表情を見せたアイリスにアヤメは言う。
『ありがとう。アヤメのおかげよ』
いつも自身を支えてくれる存在。彼女に礼を伝えたアイリスは足取り軽く目指すべき場所へと歩みを進めた。
そしてついに、マリアに指定された場所の入口へと辿り着く。
改めて周囲を見渡すが人影ひとつみることは出来ない。
それもそのはず。全隊員が持ち場についている戦闘中に、呑気に廊下を歩いている隊員などいるはずがないのだ。
念の為と用心してここまで歩いてきたが、無用な心配であったらしい。
加えて、対外への監視を最大としている今はサンダルフォン内部における監視体制が非常に緩いものとなっている。
常に居場所を特定されている機構の隊員とは異なり、特別な人員として乗艦している自分達はヘルメスとプロヴィデンスによる生体認証の対象から外されているわけで、そもそも行動を監視されるような立場にもない。
これも偏に、国際連盟の統括者たるマリアの影響力もあってのことだろう。
おそらく、この扉の向こう側も同じようなものであると思われる。サンダルフォンには全部で4つの航空格納庫が存在するが、主として運用されるのは第三航空格納庫までであると聞く。
マリアからの受け売りではあるが、サンダルフォンにおける第四航空格納庫とはあくまで緊急事態に陥った時に使用する特別なものであり、そういう状況でも無ければ人が近付くこともない場所だそうだ。
それを逆手に取り、脱走を企てようというのが今自分達がしていることの全貌である。
と、ここまでは計画通りではあるのだが、肝心な人物達の姿が見えない。
マリアが全幅の信頼を寄せ、自らの天使達であると言って憚らない彼女達の姿が。
『あの子達の姿が見えないけれど』
アヤメの言葉にアイリスは頷いて言う。
『そうね。私達より先にここにいるものだと思っていたわ』
この先、どうすれば良いのか。判断に迷い、悩むアイリスとアヤメ。
だが、その不安は一瞬のうちに解消されることとなる。
目の前にした扉の向こうから突如として鍵が解錠される音が鳴り、ゆっくりと開いたのだ。
前触れもなく開かれた扉にアイリスは警戒心を強めて見入る。
すると、開かれた扉の20センチメートルにも満たない隙間から3人の人物が突然顔を覗かせたのだ。
「っー!!!」
口を塞ぎ、悲鳴を上げそうになるのを必死に我慢したアイリスは3人の顔をまじまじと見つめると、それが探し人達のものであることをようやく理解した。
マリアが自らの天使達と呼んで憚らない、可愛らしい容姿の少女達。
「その顔の出し方はどうかと思うわ。とても古いホラー映画を思い出すし」
アイリスは狭い扉の隙間からこちら側を覗き込むように顔を出した3人が誰であるかを確認し、安堵と気が抜けた吐息を漏らしながら、最大まで声を潜めて言う。
「えっへへー☆ アイリスもアヤメも、こういうの好きかなーって♪ ホラー映画、よく見るでしょ?」
桃色の髪色をした少女がにこやかな笑みを湛えて言った。
「私は、反対したんだよ? 大事な、大事なところで、こんなことしたら、ダメだって」
「えー? でもどっきり大成功じゃない? 重要な計画の遂行前だからこそ、こういう気の抜き方も必要だって私は思うな~」
青紫色のパンキッシュな髪色をした少女のおどおどした言葉に対し、悪びれる風でもなく桃色髪の少女は明るく言う。
「ホルス、ブランダ。2人とも、やめなさい」
「そういうトリッシュだって割と乗り気だったじゃなーい?☆」
「それは、その……」
凛として澄んだ声。黄色がかった毛先に、全体が美しい白色髪の少女が言った窘めの言葉についても、桃色髪の少女は悪びれることなくきゃるんといった有様で返事をする。
乗り気だったことについて図星だったのか、それについて彼女は否定しなかった。
「分かった分かった。私に対するみんなの気遣いだってことは分かったから」
アイリスはそう言って彼女達に微笑んで見せるのだった。
今が戦争中であるということを根本から忘れさせるほどにゆるい会話を繰り出す少女達。
この3人の少女達こそ、マリアが“私の天使達”と呼び寵愛する存在。過去に難民施設からマリアが養子として引き取ったアネモネアという姓を持つ3つ子の姉妹である。
3つ子とはいえ、3卵生双生児である彼女達の容姿は似ても似つかないものだ。
淑やかで大人びた雰囲気を持つ白色髪の長女、シルベストリス。
明るい笑みで周囲を和ませる、非常にゆるい性格をした桃色髪の次女、ホルテンシス。
パンキッシュな見た目ながら、おどおどした様子が特徴的な青紫色髪の三女、ブランダ。
彼女達は3歳になった2021年にマリアに引き取られ、クリスティーの姓を新たに授けられ健やかに成長した。
アイリスと同様に心底からマリアを敬愛し、心酔し家族として暮らして来た3姉妹。
そして今、彼女達もまた壮大なるマリアの理想に殉ずる者としてこの場に身を置いているわけだが――
ピースを形作った左手をウィンクした左目にかざし、ゆるい笑みを湛えたホルテンシスは緊張感の欠片もなく言う。
「これで役者は揃ったというわけだねー☆ さぁ、アイリスも入った入った。格納庫の中はもぬけの殻。誰もいないから安心して」
「もぬけの殻って、肝心な航空機はあるんでしょうね?」
不安になったアイリスが問うが、あっけらかんとした風にホルスは返事をした。
「へっへっへ、もっちろん☆ さすがは天下の機構! 良い機体がありますぜ? 旦那!」
「少しは真面目にやりなさい」
「戯れも必要かと存じます! お姉様☆」
「あのね……」
呆れた様子で言うシルベストリスの言葉も右から左へ。溜め息交じりに遠い目をする彼女を上目遣いで見ながらブランダが言う。
「ねぇねぇ、私達がここを避けないと、アイリスが中に入れないよ?」
「それもそうね」
非常に尤もな指摘だ。ブランダの言葉に頷きながら、ようやく姉妹達はどこかの古い映画で見た体勢を崩して扉を開け放った。
開かれた扉の向こうには、機構の隊員服を身に纏う彼女達の姿がある。
一連のことに呆れつつ、どうすれば良いのかという迷いが断ち切られたことと、求めていた仲間と合流できたことを喜びアイリスは言った。
「まったく…… でも、貴女達のおかげで肩の荷が下りたわ。ありがとう」
「えへへー☆ やっぱり? そうだよねー☆」
「でも今が戦時中で、私達はお姉様の理想を完遂させる為の重要な役回りを任されているということは忘れないようにね」
アイリスの言葉に3人は表情を正して頷きながら口を噤んだ。戦時中であるという言葉が響いたのだろうか。
この海戦だけでも多くの船が沈み、多くの航空機が落ち、多くの人々が犠牲になった。
その犠牲の上に立って、マリアの理想を成就させるべくこれから行動しようというのだから、身を引き締めなければならない。
アイリスが格納庫に立ち入ると、ブランダが素早く扉を閉めた。
格納庫の内部を見渡してアイリスが言う。「それで、離脱用の航空機は?」
「こっちよ。私達についてきて」
シルベストリスの言葉を合図に3姉妹は歩み出し、アイリスは後に続いた。
そうして格納庫内の角を曲がった所には真っ黒に塗装された航空機の姿がある。戦闘機顔負けの精悍なフォルムをした機体だ。
一抹の不安を感じたアイリスが言う。
「ねぇ? これでお姉様のところへ…… アンヘリック・イーリオンに向かうの? これ、音速飛行機じゃない? 本当に大丈夫?」
だが、彼女の不安を意に介す風でもなくホルテンシスは自信満々に言った。
「ふふん! もちろん! 操縦なら私に任せてちょうだい☆ 一直線にあの城塞までかっ飛ばしていくからさ、きゃるん☆」
確かにホルテンシスが小型飛行機の免許を取得していることは知っているが、それとこれとは話が違う。繰り返すがホルテンシスが所持しているのは“小型飛行機免許”だ。
アイリスはちらりとシルベストリスとブランダに視線を配る。が、やはり彼女達も無言のまま不安な面持ちでその場に立ち尽くしているという有様であった。
『思うことは皆同じというわけね。でも、お姉様が大丈夫だと見込んだならきっと大丈夫。そうよ、お姉様に間違いなんて、あるわけが……』
『信じるしかないわ』
ここまで来たからには彼女の操縦技術を信じるしかない。アヤメにも促され、自らに言い聞かせるように覚悟を決めたアイリスは静かに首を縦に振って頷いた。
引き返すことなど出来はしない。
恐怖を伴う可能性は大いにあり得るが、その時は必ず来るのだから。
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