*5-5-4*

 水底で聞くような音が周囲に響く。

 培養液が満たされた用途の分からない巨大なボトル。その底から立ち昇る泡が弾けては消え、再び底から泡が湧き上がるという連鎖が繰り返される。

 薄暗い研究施設を思わせる空間の中で、他に聞こえる音と言えば規則正しい一定間隔で鳴る機械音やビープ音のみ。

 精神を徐々に蝕むような陰鬱な空間で歩みを進めるフロリアンにとっての救いは、すぐ隣に最愛の彼女の姿があることと、最も信頼のおける彼女の付き人の存在があることだった。

 彼女達2人が立てる品の良いヒールの音だけが唯一、日常的な響きとして耳に心地よく伝わってくる。

 フロリアンはマリアの横顔に視線を配る。彼女はそれに気付く様子こそ無いが、非常に余裕を湛えた表情で前を見据えていた。

『予言の花。マリーが何も危機を感じ取らない状況であれば問題ない、か』

 そのように思ったフロリアンは、彼女の美しい赤い瞳と横顔に見惚れつつも再び視線を進行方向へと戻す。


 ただ、気掛かりが無いと言えばそれは嘘である。

 自分達がこの場を目指した目的のひとつである“神域聖堂の主”に遭遇する気配がまるで感じられないのだ。

 突如姿を現した大量のアムブロシアーを撃退した後より、この場を歩き始めてどのくらいの時間が経ったのだろうか。

 歩いても歩いても目的地に辿り着く気配がない。どれほど広大な空間のように見えても、ヘルメスで確認する限り神域聖堂の一辺の距離はおよそ250メートル程度しかないはずなのだが。

 にも関わらず、かれこれ5分以上もの時間を真っすぐ歩み続けているのだから不思議なものである。

『こんな開けた空間で迷うものだろうか』

 フロリアンは思案した。こうした状況と類似する事象として、まず最初に思い浮かぶのは見知らぬ森で迷ったという場面だろう。或いは、広大な建物の中で目的地への道を見失った時。いずれにせよ、本質としては変わらない。

 特に森で迷ったなどというときは、真っすぐ歩いているつもりであって、実は同じところをぐるぐると周回し続けていただけであったというのはよく聞く話の筆頭である。

 マリアは何の反応も示さないが、先ほどから感じ続けているこの違和感の正体は探っておくべきかもしれない。

 目に見えるものが全てではないという言葉は、彼女に付き従うもう一人の公国の忘れ形見、アイリスがよく口にする言葉だ。

 ミクロネシア連邦での一件以後、幾度となく自分に助けを導いてくれている言葉なだけに、今回もその例に漏れず頼りにさせてもらおうと考えた。


『人の目で異常が見えないのなら、機械の目はどうだ。ヘルメスで記録した限り、確かに僕らはずっと一定方向に向かって前進し続けていたことになっている。とはいっても、明らかに歩調に対して、経過した時間から見る進行距離が一致しない。まるで、その場で足踏みをしながら、少しずつしか移動していないかのような…… もしくは、動く歩道の上を反対向きに進んでいるか。化かされているといった感覚だ』


 手に持ったヘルメスにちらりと視線を落としながら、フロリアンはそのように考えた。

 その時、すぐ傍を歩くマリアがふいに言う。

「フロリアン。私達がアムブロシアーを撃退した後から、歩き始めてからどのくらい経つ?」

「5分以上だ」

「君のヘルメスで見る限り、私達が歩みを進めている先は進行方向に対して“常に真っすぐ”で間違いないね?」

「その通り。僕らは先の場所から5分以上もの間、真っすぐに歩き続けたことになっている」

「良い答えだ。含みのある言い方をするということは、君も気付いているらしい。では、この辺りが頃合いだろう」

 フロリアンの返事を聞いたマリアは足を止め、視線を左に向けた。言葉の意味を汲み取ることが出来なかったフロリアンは、彼女が何を感じ取っていたのかを見極める為に黙り込む。

 マリアは視線を向けた先を指差すと、自身が最も信頼する神に向けて言った。

「アザミ、ここだ」

「承知いたしました」

 間もなく、先ほどと同じようにフロリアンの眼前を無数の鋭い黒棘が凄まじい速度で駆け抜け、直後には金属が切断される金切り音が聖堂内に鳴り渡った。

 フロリアンがそれを自身の目でしっかりと視認した時には既に、黒棘はマリアが指差した鋼鉄の壁面をばらばらに切り裂いていたのである。

 左壁面に何があるというのか。慌てて左の壁面へ目を向けたフロリアンは、そこから立ち昇る破砕煙の奥に異変を感じた。

 ぽっかりと口を開いた壁面の奥で、何やら無数の黒い影が蠢いている様子を見て、背筋に強烈な悪寒が走る。

「目に見えるものだけが全てではない。されど、今目にしているものを正しく理解することも疎かにしてはならない」

 無邪気な笑みを湛えながらマリアは言うが、フロリアンは煙の奥に蠢くものの正体が何であるか瞬時に理解しただけに心から叫びたい気持ちになった。

 恐怖を駆り立てる多足の足音に加え、耳に不快に響く羽音。百か二百か、或いは千か。どれほどの数が集まればこのような気色の悪い音が発生するのだろうか。

 近付いてくる異形の気配に背筋に悪寒を走らせたまま、フロリアンはついに頭の中で目の前に迫りくるものの正体を叫ぶに至る。

『間違いない、昆虫兵器の大群だ!』

 ケルジスタン共和国アメリカ軍駐屯地の映像で見たものと同じだった。蝶型、蜂型、蜘蛛型の超小型昆虫兵器。

 確かプロヴィデンスのデータベースにはそれぞれ【プシュケー】【メリッサ】【アラクネー】という名前で登録されていたはずだ。

 人体を簡単に切断できる見えない糸を張り巡らせることも、刺突によって猛毒であるCGP637-GGを人間の体内に打ち込むことも、自身が小型爆弾となることで連鎖爆発を引き起こすことも出来るという“対人殺傷能力”にだけ重点を置いた兵器。

 莫大な資金と資材を消費する、大艦巨砲主義や航空機による空中戦を是としてきた派手な戦争が終わりを告げ、その後の研究によって行き過ぎた科学が生み出したもの。

“いかに兵士だけを効率的に間引くか”という人の手によらない戦争を実現する為の中核を成す、悪魔の兵器であると言えるだろう。

 小さなドローン型の機械兵器は人の手による運用の必要がない。そしてこれらの兵器には当然感情も無く、人を殺すことに躊躇もない。プログラムされた命令を良心の呵責無く実行するだけの無機質な存在だ。

 ただひたすらに、殺害するべき対象が命果てるまで追いかけ虐殺することを目的とした兵器。それが今目の前に迫りつつある。

 煙の奥で蠢いていた昆虫型の影は、やがて黒々とした実態を曝け出しながら後続の大群を伴って3人へと一直線に向かってきた。

「良い趣味だとは言えないな。客人の歓待に差し向ける出迎えとしてはこれ以上ないほどに最悪だ。まだ、アムブロシアーの方がましと言えるだろう」

 すまし顔のままマリアは言う。そのすぐ傍で、フロリアンは顔を引き攣らせたまま一歩後ろにたじろいだ。が、そのように後ずさりしつつも、昆虫兵器の大群の面前に立ち尽くすマリアを庇うことは忘れなかった。

 いち早く彼女の肩を抱くと、自身の後ろへと力づくで引っ張り追いやったのである。

 マリアはその状況を愉しむように楽し気な声で言う。

「おやおや、庇ってくれるとは頼もしい騎士様だ。私の剣と盾になることを買って出てくれるだなんて、ね」

「当たり前だ。絶対に僕の後ろから前に出ないように」

 そう言ったフロリアンはポケットに忍ばせていたスタンガンを取り出すと、電気ショックネット型の範囲攻撃タイプのものを選び素早くマガジンに装填した。

「では、お言葉に甘えさせてもらうとして―― いや、待てよ。こういう時は堂々としているよりも、少し怯えた風に身を縮めて見せる少女の方が君好みかな? どう思う?」

『確かに後者の方が好みだ! でも、今そんなことを言っている場合じゃない!』

 マリアの言葉にフロリアンは内心で応えつつ、迫りくる昆虫兵器の大群に向けて銃を構える。だが、狙いを定めるタイミングは少し遅かったらしい。

 銃口が昆虫兵器を捉えるよりも先に、フロリアンの真後ろから黒い霧状のものが放出され、それはまるで熱光線のように眼前の兵器群を一瞬にしてドロドロに溶かしていったのだ。

 靄のような黒い粒子に捕えられたメリッサやプシュケーは瞬時に火の弾に変わり果て、爆発するよりも先に液状化して地へと落ちていく。壁や床を這っていくアラクネーの大群もその場で液状化し、流れるよりも早く蒸発して大気へと呑み込まれていった。

 迫りくる昆虫兵器の焼け落ちる音、溶かされる音、蒸発する音が悲鳴のように聖堂内に響き渡る。

 メリッサやプシュケーが蒸発する瞬間には粉のような虹色の粒子が舞うが、あれはCGP637-GGだろうか。

 セルフェイス財団より押収したとされる現物の記録写真に酷似した色合いの粉末だ。

 しかし、大気へと舞った薬品と思しき粉末も橙色の輝きを発したかと思えばすぐに火の粉となって燃え尽きるという過程を繰り返した。

 フロリアンはマリアを左腕で庇いながら、左後方へ視線を向ける。

 そこでは、黒いベールに覆われていることで表情こそ読み取ることができないものの、おそらくはすまし顔のまま立つアザミの姿があった。

『現存する紛れもない神の一柱。悪魔へと身を堕としたと言いつつ、所有する権能といった類の力そのものは変わらずといったところなのか』

 当然、フロリアンにとって神の力なるものが、そもそもどのようなものなのかなど知る由もない。

 ただし、先のバーゲストといい黒棘といい、今の黒い霧といい、後方に佇む人物から放たれる超常の力を垣間見る限りにおいてそれは、まさしく〈神の力〉と呼ぶべきものであることは自明の理だ。

「フロリアン、そこから動いてはいけないよ。そのまま、そのまま動かずに。あと、せっかくだ。右手のスタンガンを下ろして両腕で私を庇ってくれても構わない。いいや、そうするべきだね」

 人差し指を自身の柔らかな唇に押し当てるマリアから、囁くような甘い声が漏れ伝わる。

 こんな状況も、彼女の手に掛かれば合理的に甘える為の口実に早変わりといったところなのだろう。

 常人なら死を覚悟するだろう場面で、楽し気に我儘をねだる最愛の姫を前に、フロリアンは表情を引き攣らせたまま頷くのが精一杯であった。



 それから間もなく、神域聖堂は再び不気味な静寂で満たされる。

 昆虫兵器の大群の全てが消失すると同時に、虚空を舞っていた黒い霧も消失した。

 残されたのは陰鬱な景色と音だけだ。赤黒い薄明かりに照らされ、緑色に発光する巨大なビーカーに満たされた液体から立ち昇る泡の音と電子機器のビープ音のみが響く空間。

 パノプティコンで目撃したものと酷似する悪趣味な照明は、いつまで経っても慣れることはないだろう。

 ただ先程までとひとつだけ異なっていたのは、昆虫兵器の大群が押し寄せてきた空間にぽっかりと口を開けた通路の存在であった。

「さて、本題に戻ろうか。目の前に現れたのは隠し通路、というわけでもない。この通路は“特に隠されるわけでもなく、元々この場所に存在していたものに違いない”のだからね」

「どういうことだい?」

 マリアの言葉にフロリアンは思わず聞き返した。

「言葉通りだよ。私達は君の持つヘルメスが示した通り、確かにまっすぐな道のりを歩いていた。いや歩いていると思わされていた。

 この神域聖堂の守護者たる主人はね、他人を騙すことが得意なのさ。対象の視界に入る景色を、本来見るべきものとは異なる“誤った像”と結びつけることが出来る力。

 君が普段から接しているイベリスが、リナリア島でやってみせたことと同じといえばわかりやすいかな?」

 マリアの言葉によって、フロリアンは過去のリナリア島調査任務の際にイベリスが自分達にやってみせたことを思い出した。

「確かあの時、イベリスは実際に存在するリナリア島とはまったく別の場所に、リナリア島とまったく同じ虚像を作り出し、あたかもそっちが本物であるかのように見せていた」

「似たようなものだ。現象に名前を付けて呼称するなら〈錯視の力〉とでも言うべきか。トリックアートの類と近からずも遠からずといったものだろうね」

 そう言ったマリアは、フロリアンの目を見つめながらにこりと笑ってみせた。

「そうか。僕達の目に見えていたものは事実ではなかった、と。直進しているように見えて、実は同じ場所をぐるぐると回っていたということかい?」

「そうだね。君が頭の中で考えていた事象と同じではないかな? 森で迷う人々が陥る事象と同じこと。真っすぐ歩いているつもりなのに、気が付けば元の場所に戻ってしまっているというあれだ。ただ、この錯視は非常に特別なものでもある。何せ、神であるアザミの目ですら、ある程度までは誤魔化していたのだからね。まったくもって恐ろしい力だと思う」

「アザミさんの目を誤魔化すほどの力。絶対の法による加護――」

「まず間違いないだろう。何らかの研究の成果として得られた事象を、意図的に再現することで得られるような効能ではない。そして、この現象を唯一可能とするテミスの構成員はおそらくただ一人」

 マリアはそこまで言うと、自らの背に回されたフロリアンの両腕を優しく解き、目の前に口を開けた通路へと足を向けて進んだ。

 フロリアンとアザミも彼女の後に続く。

「2週間前、アンジェリカとの会合の場において1人だけ遅れて玉座の間へ足を運んだテミスの構成員がいるだろう?」

「あぁ、見るからに科学者然りとした出で立ちの。赤髪で背の小さな女の子だった」

「その彼女は、アメルハウザー准尉が売った喧嘩を買う形で突然にして彼の目の前に現れ、ロザリアの放った浄化の炎を完璧に躱してみせるという離れ業をやってのけた。

 でもその実、私の見立てでは彼女は最初から准尉の目の前に移動していたわけではないと見ている。故に、ロザリアの放った炎を躱したという表現も不適切だ。彼女は私達に自分がその場にいると見せかけていただけで、実のところ最初からそこに存在しなかったのだからね」

「それこそが、錯視の力によるものだと?」

「そう考えるのが妥当だと思う。あれは瞬間移動という類のものでもない。気配を感じ取れない、瞬間的に姿を消すといった力はシルフィーと呼ばれていた別のテミスの構成員が見せていたものだ。けれど、あれとは性質が根本的に異なっていたことがずっと気に掛かっていた。

 両者ともに人間では有り得ない超常の力を使うが、シルフィーが見せていた力は特にアンジェリカ本人も普段から行使しているものに限りなく近かった。

 だからこそ言えることだが、彼女達の能力はそれぞれがアンジェリカから与えられた特別の力なのだろうという想像がつく。であれば、各々に与えられる力が同一である確率は限りなく低いという結論も同時に導くことが可能だ。

 何せ、アンジェリカは律儀な子だからね。自身の力を分け与えて加護とするなら、それぞれの人物に最も適した力の付与を考えるはずだよ。

 例えば、私がアンジェリカの立場で、仮に君へ特別な力を授けるというのであれば、間違いなく未来視か、或いは過去視の力を選ぶだろう。なぜなら、勘の良さという君が先天的に持つ性質を鑑みた時、その2つの力を最もうまく活用できるだろうという確証があるからだ。

 しかし、これが例えばアメルハウザー准尉やブライアン大尉といった他の者に力を授けるという話であれば、間違いなく選択は異なったものとなる。身近な人物で考えれば、後の理由は察しがつくね? つまりはそういうことさ」

「なるほど、よく分かったよ。その考えでいくと、あの小さな子に最もふさわしかった力こそが錯視の力だったというわけだ。テミスの1人1人に与えられる特別な力、か。僕達はここで、あの小さな子の張った罠にまんまとかかったというわけだね」

 マリアの仮説に頷きつつ、フロリアンがそう言った時である。ふいに、狭い通路の上方からくぐもった声が投げかけられた。

『小さい小さいと、何度言えば気が済むんだい? 君は余計な一言が多いな。本人が気にしていることを軽々しく口の先に出すものではないよ』

 小さなスピーカーから発せられているのであろう音は、籠った音質で聞き取りづらかったが、この声は確かに聞き覚えがある。


【純粋科学の真理探究を捨て、人間にとって都合の良い思考に寄り添った成果物を生み出した時点で、君は科学者の道を外している】


 ルーカスに対し、そのような啖呵を切ったあの女性に間違いない。

『ボクの背丈が低いことには理由がある。自らの実験の失敗が招いた結末だが、今でもたまに後悔することがあるんだ。もっと背丈を伸ばしてからあの薬を飲むべきだったとね』

「いずれにせよ、飲むのか。飲まないという選択肢は無かったのかい?」

 愉快そうな表情でマリアが言うと、声の主は不機嫌そうな声色で返事をした。

『あるわけないだろう。当時開発したあの薬品は、全てボクの体質に合わせて調合したものだった。故に、他の誰かに投与すること自体出来なかったのさ。それを差し引いても、貴重な研究データを得る為なら自分の肉体だってどうなったって良いと思うことに変わりはない』

「奇特な人物だ。アビガイル・ウルカヌ・サラマドラス。他のテミスの連中とは明らかに異なる性質の持ち主であることは理解出来たよ」

『アンジェリカを神だと崇拝する連中と、ボクとを同じにしないでくれ。迷惑だ』

 歩みを進めつつも、警戒心を高めるフロリアンの目の前でマリアが実に陽気に彼女と会話を重ねている。

 アンジェリカを取り巻く近衛隊、或いは親衛隊の1人というべきテミスの1柱、アビガイル。玉座の間でアンジェリカからアビーという愛称で呼ばれていた女性で間違いない。

 フロリアンが彼女の声に耳を傾けていると、スピーカーから名指しで呼び掛ける声が聞こえた。

『そこの失礼な君。確か、フロリアン・ヘンネフェルトといったか。他人の名前を覚える主義ではないんだが、特異な体質を持っている奇特な人物だから君の名前だけは覚えたよ。まず君は、ボクに関する誤解をひとつ解いておくべきだ』

「誤解だって?」

『そうだ。君、ボクのことを子ども扱いしているようだがね? ボクはきちんと成人した、れっきとした大人だよ。こんな見てくれでも、それは厳然たる事実だ。故に、小さい小さいと連呼するのは控えたまえよ』

 何の話かと思えば、またその話だったのか。

 とてもこの状況で注意を受けるような内容ではない。間が抜けるような呼び掛けに拍子抜けした気分を味わいつつも、フロリアンはとりあえず彼女の気分を害したことを詫びる。

「それは申し訳なかった。気分を害したのなら謝ろう」

『ふむ、それで良い。そこの神の飼い犬も言っていた様に、素直であるのは美徳だ。真っすぐな心持ちは良い研究結果を得る為には必須の条件だからね』

 真面目に話をするつもりがあるのかどうかは定かではないが、アビガイルというこの女性は自分達がアムブロシアーと交戦していたときの様子を抜け目なく全て監視していたことは確かなようだ。

 バーゲストの存在や、語った言葉を把握していることからまず間違いない。

 だが、先ほどから会話の方向性がまるで見えてこないことが妙に引っかかる。訝しみながらもフロリアンは言う。

「僕らはアンジェリカの元へ行かなければならない。ここを越えるために、君と直接会って話がしたい」

 スピーカーの向こう側へと問い掛けたつもりであったが、次の返事は実に意外なところから返された。

「直接会いたいも何も、今ボクは君達の目の前にいるじゃないか」

 声と同時にマリア達一行は足を止める。

 慌てて視線をスピーカーのあると思わしき場所から目の前へと向け直したフロリアンは、数メートル先に見覚えのある姿を視界に捉えた。

 白衣代わりに纏う黒色の外套。テミスが身に着けるヒュギエイアの杯が刻印されたそれを羽織った彼女は椅子に腰かけたまま、何やら忙しそうにホログラフィックキーボード上で指を動かしながらモニターと睨み合いをしている。

 手入れがされているとは思えないが、それでいて滑らかで艶のある長い赤髪の隙間から覗く赤色の瞳。血の気の少ない白い素肌の彼女は実に気だるげな声を発するものの、その声は落ち着きと自信に溢れた大人びた声であり、瞳の奥に秘められた信念に関しても非常に力強いものがあるように感じられた。

 このような手合いは要注意であるとフロリアンは知っている。目の前に迫る脅威に対し、何食わぬ顔で相対することが出来るのは、偏にその事象そのものを“取るに足らないものである”と認識しているからだ。

 要は、アビガイルという女性は目の前まで迫った自分達3人のことを“大した脅威であると認識していない”ということになる。

 その自信がどこから来るのかは知れないが、科学者たる彼女の知能を以てして下された結論であるならば、何か明確な根拠が存在するはずだ。

 自分達を陥れる為の罠が既に仕掛けられているのか。フロリアンはそのように考え、これまで以上に警戒心を強めた。

 だが、アビガイルはそうした態度を気に留める様子も無く言った。

「そうそう、先のアムブロシアーとの戦いは実に見事だった。そこの長身の君の飼い犬はボクの興味を惹きつけるに十分な魅力があったよ」

 神の使役する黒妖精を不遜に二度も飼い犬呼ばわりした彼女は、敵である一行が自身のすぐ傍までやってきたということに対し、やはり特に関心を寄せているわけではないらしい。

 アビガイルはせわしなく手を動かしつつも言葉を続ける。

「知っての通り、この研究室は神域聖堂サウスクワイア=ノトスなんて名前で呼ばれたりもする。真偽の大聖堂ともね。アンヘリック・イーリオンの構造上、玉座の間へ至る為に必ず通過しなければならない経由地点。遠い昔の話だけど、ここへ来れば存分に研究をさせてくれるというからアンジェリカに付いてきたわけだが…… 部屋の立地条件としては最悪だ。とんだ迷惑を押し付けられたものだよ。現に今、こうして君達の相手をしなければならないという迷惑を被っている」

 視線のひとつも寄こそうとしない彼女に対しフロリアンは言う。

「無駄話に興じるつもりはない。先に言った通りだ。僕達はここを通り抜け、アンジェリカの元へ行かなければならない」

 決意を込めて放った言葉であったが、言われた当の本人であるアビガイルの返事は実にそっけないものであった。

「そうか。なら、好きにしたら良い。さっき、君達に放ったアムブロシアーと昆虫型兵器によって、アンジェリカに対する義理は果たしたと思っている。

 何せ、君達が会話していた通り、ボクには錯視の力しか与えられていない。それしかないのに君達と対峙して勝とうだなんて最初から思ってもいないし、以前に戦おうだなどとも思っていない。ここを通り抜けて玉座の間へ向かいたいならご自由に。出口はあっちだ」

 そう言ったアビガイルは左手で後方を指差した。彼女の指差した方を見やれば、そこには確かに出口と見られる扉が備えられている。

「見ての通り、ボクは常に研究で忙しくてね。今、外で行われている海戦によってカローンや各艦艇群が、大規模な海戦においてどの程度効率的な運用ができるか観察しているところなんだ。

 この戦争が終わってしまえば、こうしたデータを実戦から得られる機会は未来永劫訪れないかもしれない。生涯に一度の機会かもしれないんだ。だから、ボクの邪魔をしないままにアンジェリカの元へ行きたいというのなら好きにすればいいさ。その行動を君達が選び取ってくれるならば、ボクは心からそれを歓迎するよ」

 ふざけているのだろうか。フロリアンは怪訝な表情を浮かべつつ、しかし彼女に戦う意思が無いのであればそれもまた幸運なことだとも考えた。

「そうか。では――」

 フロリアンはアビガイルに向けた視線をそのままに、彼女が指で示した扉の方へ向かおうとする。

 だが、静止の声は思わぬところから聞こえてきた。

「待ちたまえ。そう急ぐことも無い」

 最愛の彼女から放たれた言葉に愕然としたフロリアンであったが、マリアへ向けようとした視線が彼女を捉えることは無かった。

 突然、背後から叩きつけられるような強力な衝撃を受けて意識が遠のいていったのだ。

 フロリアンは見た。自身を襲った打撃が誰の手によるものなのかを。自らの背後まで伸びる黒い影。辿った先に佇んでいたのはアザミの姿であった。

「アザミ、さん? 何、を――」

 そうして気を失ったフロリアンは膝から崩れ落ちそうになるが、瞬間的に彼の傍まで移動したアザミによって無意識のまま床へ叩きつけられる事態は回避された。

 慈しむようにフロリアンを抱き上げながらアザミはその場に立ち尽くし、一部始終を見て取ったマリアは安堵の息を漏らすように小さな息を吐いて目線をアビガイルへと向けた。


 周囲で起きた出来事に対し、ついに興味を注がれたとでもいうようにアビガイルがマリアへと視線を向ける。

「おや、早速仲間割れかい? あぁ、そういえば君はあれだ、国連の。ボクの知るところでは、君にとって彼はこの世で唯一無二というべき存在ではなかったかい?」

「その通りだ。彼は私の人生そのものでもある」

「それはそれは。随分と胸やけのしそうなことを言ってくれる。その言葉、アンジェリカの前では言わない方が良いね。それで? ボクに何か話があるんだい?」

「あぁ。聞きたいことはいくつかある。まず一つ目はアンジェリカと親し気に話していた少女についてだ。名をイザベルと言ったかな? 彼女は今どこに?」

 マリアの問いに対し、アビガイルは厳しい視線を送りつつ一呼吸ほど間を空けて答える。

「さぁてね。ボクの関知することではない。使用人が寝泊まりする宿舎か、そこが危険であると判断したなら別のところに避難したのではないかな。

 この城塞には無数の部屋がある。その中のどこにいるのかまではボクは知らない。何せ、城塞内の警備というものは実のところ目の粗いざるでね。

 監視カメラの類も必要最低限しか無いし、それを知り得るとしたらアンジェリカくらいのものだろうさ。ひとつ確実なのは、彼女の居場所がパノプティコンではないということだけだ」

 マリアはちらりとアザミを見た。その視線に対しアザミは軽く首を横に振った。

「そうか。では次の質問だ。急ぐことはないとは言ったが、暇なわけでもない。単刀直入に言おう。プロヴィデンスのシステム介入コードを教えたまえ。いいや、制御権移譲コードと言った方が正確かな?」

「へぇ、あれを使いたいと。アンジェリカの言っていた言葉はどうやら真実だったようだ。けれど、残念ながら君にそれを教えることは出来ない―― といえば、君はどうする?」

「逆に問うが、どうされると思う?」

 にやりと笑いながら言うマリアに対し、アビガイルは一瞬にして言い知れぬ不安感に襲われた。

「ボクを殺すというのならそうすれば良い。残念なことに、研究以外のことには興味が湧かなくてね。研究を止めるか、それとも自分の命を絶つかを迫られたなら、ボクは迷うことなく自ら死を選ぶ」

「殺しはしない。君が自ら命を絶とうとするなら、私はそれを許さない。答えを知る者の口を封じてしまっては意味が無いからね。さて、君の答えから察するに、それはつまりあれだ。君はプロヴィデンスの制御権移譲コードを知っているが、私に答えを教えるつもりは無い。教えるくらいなら死んだ方がマシだという答えだろう?

 けれど、ね。言葉の繰り返しになるが、残念ながら君に死んでもらうわけにはいかないんだよ。君がテミスの中で最も慕っていたあの女と同じようにさせるわけにはいかない」

「あの、女?」

 小さな身体を強張らせながら、アビガイルは厳しい眼差しをマリアへ送りながら言った。

 すると、マリアは嘲笑うかのような表情を浮かべて言ったのだ。

「何だ、知らないのかい? 君が最も心を通わせ、最も慕っていたテミスの1柱、シルフィーは既にこの世に存在しない。先程、エウロスに据え付けられたネメシスの彫像に圧し潰されて死んだよ」

 アビガイルは愕然とした表情を浮かべ、言葉を失ったまま右手をホログラフィックキーボードへと伸ばすと、イーストクワイア=エウロスの監視モニターを立ち上げて恐る恐る視線を向ける。

 エウロスはいつもと変わらぬ穏やかな風景が広がっているように見えるが、出口扉付近の上方に位置するはずの巨大なネメシスの彫像は影も形もなくなっていた。

 モニターに映る景色を下方へとずらすと、固定具が破壊され無惨にも落下したネメシスの彫像と、その白い瓦礫の山の隙間から流れ出る鮮やかな血液、それに細い白い腕が見て取れたのである。

 見慣れた淡い緑色のドレスの袖。ヒュギエイアの杯が刻印された黒衣の内側に、いつもシルフィーが好んで着用していた色合いの服の袖である。

 平常であったはずの心拍数が急に跳ね上がり、これまでに感じたことがないような感情が胸の奥底から湧き上げってくるのをアビガイルは感じていた。

 無意識に呼吸を乱す様を見やったマリアは、ゆっくりとアビガイルに歩み寄ると囁きかけるように言う。

「へぇ、事実は小説よりなんとやら、だ。言葉とは言ってみるまで分からないものだね? 研究の為なら自らの命すら惜しくないという君が、よもや他人の命の為にそこまで精神状態を乱すとは思ってもみなかったよ。

 けれど、私は幾重にも渡る枝先に綴られた未来の中で、君がシルフィーの死に対してだけは激しい動揺を浮かべるという事実を垣間見た。

 予言というものには嘘がない。ただあらゆる過程の変化に応じて“起きるか起きないか”の違いが生じるだけだ。この目で垣間見たものについて、間違いというものは存在しない」

 宝玉のように美しい赤い瞳を見開き、それを淡く輝かせる彼女を見たアビガイルは生まれて初めて“明確な恐怖”というものを実感した。

 アンジェリカのような存在を前にしても感じたことがないほどの恐れ。自律神経が麻痺したかのように脂汗が噴き出てくる。

 シルフィーを失ったという事実に自然と目が潤み、平静を保とうとする意識は目の前の天使のような悪魔によって激しくかき乱された。

「君にその気がなくても、私は自身が欲するものを手に入れる。その為に私はここまで来たのだから」

 甘美な声色で囁くマリアの言葉を聞いたアビガイルは、自分の認識違いを激しく後悔した。


 こいつの目的は最初からアンジェリカではなかった……!

 この女の狙い。アンジェリカという存在は、アンヘリック・イーリオンへ乗り込む為の口実に過ぎず、真の目的はボクだったんだ!

 ボクだけが握っているプロヴィデンスの制御権移譲コードを手に入れる為に、わざわざこの場所を選んで来た!


 アビガイルが正しい認識を得た時には何もかもが手遅れだった。

 マリアは彼女の首元を片手で掴み軽々と持ち上げると、近くに据えられた緑色に発光する液体で満たされた巨大なビーカーへと叩きつけたのだ。

 強化ガラスで作られていたはずのビーカーは衝撃によって簡単に破砕され、アビガイルは内側に満たされた液体の中に強引に沈められた。

「君の持つ特別な力。アンジェリカより与えられた異能。回避不能の錯視も“そうである”と分かってしまえば何のこともない」

 余裕の表情でマリアは言ったが、その言葉のほとんどはアビガイルには届かなかった。

 当然である。人間の、それも華奢な体躯から繰り出されたとは到底思えないほどの力によって、今まさに液体の中で溺死させられようとしているのだから。

 そのような凄まじい力によってビーカーの薬液に沈められたアビガイルはマリアの腕に両腕でしがみついて爪を立て、必死に振り解こうと抵抗を試みるが、首元を掴んだ彼女の腕はびくともしなかった。

 暴れながらも、薬液を飲み込まないように冷静さを保ち耐えていたアビガイルであったが、さすがに人間の限界というものには勝てない。

 肺の中の酸素が尽きかけるに従って徐々に自身の意識が遠のいていくのを実感した。


「そうそう。仲間割れか、という問いに対する答えがまだだったね。言ってしまえば、それは大いなる誤解というもの。

 世界でたった1人の愛する人の前で、自らが怪力を振るう様など見せたくないというのが乙女心というものだろう? 騎士より強い姫がどこにいる?

 百年、千年経とうと愛する人の前でだけは“か弱い少女”でありたいし、寓話で語られているような庇護欲を掻き立てる、騎士に護られる姫でありたいと願うのも普通な感覚であると思う。

 故に、このような私の振舞いを見られたくなかった。フロリアンに眠ってもらった理由は、僅かばかり残っている私の乙女心が導き出した羞恥によるもの。ただそれだけのことさ。

 そうして今、私の最愛の彼は深い眠りの中にある。それもただの眠りではない。彼の身に着ける黒曜石に込められた祈りによって“私が願うだけの時間”が経過するまで目覚めることも無い。であれば、このような振る舞いを見せたところで何に差し支えるわけでもないというもの」

『何が祈りだ! 人はそれを呪いって言うんだ!』

 息も絶え絶えになり、暴れなくなったことで薬液越しに聞こえるようになったマリアのくぐもった声を聞き、アビガイルは頭の中でそう思った。

 饒舌に語るマリアは、アビガイルの首を絞める力を一層強めながら続ける。

「それはそれとして、だ。君は今、自身の命を最優先で守る為にありとあらゆる肉体のエネルギーを生命の維持にまつわるものへと回さざるを得ない。

 そろそろ力尽きる頃合いだと見受けるし、どれほど強固な意思を以て、私の求めた質問に答えまいと望んでも、もはや思考の中で抵抗するだけの余力も残っていないだろうね?

 そうだ。それで良いんだ。私は君を殺そうなどとは思っていない。大事なことなので3度目を言うが、むしろ死んでもらっては困る。君はただひとつ、私の望む答えを教えてくれるだけで良い」


 割れたビーカーの中で抵抗を試みるアビガイルを押さえつけたまま、無邪気でありながらも狂気の笑みを浮かべながらマリアは言った。

『もう…… 無理か』

 締め付ける力が強められ、いよいよアビガイルが大きく息を吐き出して力尽きるというタイミング。

 最後の息をアビガイルが吐き出そうとした瞬間であった。その一瞬を見計らっていたマリアは、彼女をビーカーに満たされた薬液から引き上げると、その小さな身体を鋼鉄の機材が立ち並ぶ壁際へ思い切り投げつけたのだ。

 激しい衝撃音が研究所に響き、間もなくアビガイルの小さな身体は床へと叩きつけられた。

 呼吸困難に苦しみ喘ぐアビガイルのむせかえる声が研究所を満たす。彼女は、朦朧とする意識の中で飲み込みかけた液体を激しく口から吐き出し、くぐもった咳を繰り返し床に伏せしかなかった。

 マリアはゴシックドレスのポケットからハンカチを取り出し、未知の液体で濡れた手を淑やかな所作で拭いながらアビガイルの姿を横目に捉えて言う。

「十分な頃合いだろう。アザミ、あとを頼む」

 アビガイルはぼやける視界の中、その言葉を合図として出口付近にじっと佇んでいた長身の女性から黒々とした影が自身に近付く様を見た。

『悪魔め…… あの影に触れたら―― まずい』

 触れた後に何が起きるかなど知る由もない。しかし、胸の内からは湧き上がってくる強烈な警告は、あの影が自身にとって最悪の結末をもたらすものであると訴えかけ続けていた。

 しかし、今のアビガイルにはアザミから伸びる影から逃れる力など残されてはいない。

 アザミから伸びた影は、身動きひとつ出来ずに地へ伏せるしかないアビガイルにあっという間に達すると、彼女の全身を締め付けるように覆い包み込んでいった。


 身体全体を縄で縛られたかのような圧迫感がアビガイルを襲う。或いは、意図的に真空状態にされた袋の中に押し込められた気分だ。

 黒い影に呑まれたアビガイルの脳内には、不思議なことにありとあらゆる過去の記憶が走馬灯のように駆け巡った。


 幼い日に父の研究室へ忍び込み、色とりどりに輝くフラスコに興味を抱いて内緒で手に取った日のこと。

 それを見つけた父は、怒るでもなく化学反応による変化を見せて楽しませてくれたこと。

 その優しかった父が、大国の圧力によって命を絶った日のこと。

 以後から続く、空白の日々。

 心に空いた大きな穴は、研究に没頭することによって埋めようとしても埋め尽くせないほどに大きかった。

 その穴は、彼の研究を引き継ぎ、彼の目指した成果を見事確立させようと、自らの興味を駆り立てた研究や実験をどれだけ完成させようと変わることはない。

 その空白を唯一埋めてくれた存在であるシルフィーと過ごした日々―― しかし、彼女の魂ですら、もはやこの世界には存在しなくなったという。

 心を置き去りにしたあの日の記憶が蘇る。

 そうだ。全てを捨て去ったあの日から、何もかも始まっていたのだ。

 全知全能のAIがあれば、いつかこの虚無感を埋めてくれるだけの答えを教えてくれるかもしれないと作り出した〈神が全てを視通す目〉のこと……


 そして〈プロヴィデンスの制御権移譲コード〉が、ついに脳裏を掠めた。


 この時になって、アビガイルは確信した。

 走馬灯。人が死の間際にそのような光景を見ることがあると文献で目にしたことがあったが、今自身の脳に駆け巡るものは“間違いなくそれとは違う”。

『奴め、人の記憶を…… 読み取るのか』

 生命の維持に神経が集中されれば、記憶を読み取る行為を妨害しようとする意識は阻害される。つまり、意図的に思考を切り替えようとする力を働かせられないということだ。

 目の前に立つ女たちは、最初から言葉だけによってプロヴィデンスの制御権移譲コードを語らせるつもりなどなかったに違いない。

 もし、自分が口の先に出せばそれで良し。語らなかったとしても不都合などなく、力づくで記憶から読み取ればいいだけのこと。

 そしてたった今、何もかもに抵抗する力を無くした自分は迂闊にも過去の記憶から彼女達が最も欲する答えを思い浮かべてしまった。


 一瞬であったとはいえ、手遅れであることは分かっている。それでも、アビガイルは出来る限りの抵抗を試みようとするが、その行為は神の前にあまりにも無力であった。

 そして、影を遣わせた神は言った。

「マリー。貴女の望む答えが手に入りました」

 黒い影に呑まれ、薄れゆく意識の中で虚しい抵抗を続けるアビガイルを見つめたままマリアは言った。

「これで必要なものは手に入った。次は、不必要なものを排除する為に必要なものを揃えなくてはね?」

 そう言ってにやりと笑ってみせるマリアの横では、アザミから別の黒い影が伸びて蠢き、みるみるうちに人間の姿を形作っていった。

 その黒い影をアビガイルはぼうっと眺める。しかし、それがやがて見覚えのある形へと落ち着き、創り出されたものの姿を見て愕然とすることとなった。


『もう一人のボク…… ボクの姿をした人形だと――!?』


 黒い影がアビガイルをそのままをコピーした似姿の形になると、マリアは先程まで彼女が腰掛けていた椅子まで移動し、ゆっくりと腰を下ろした。

 背もたれに深く身を預け、安堵のような吐息をついてマリアは言う。

「千年に渡る私達の計画にとって、不必要なものが2つある。ひとつはこの城塞の主たるアンジェリカ。もうひとつは姫埜玲那斗の内に眠るレナト・サンタクルス・ヒメノの魂だ。

 私達は理想実現の為に不必要である、障害にしかなり得ないそれら2つの存在を何とかして消し去らなければならない。

 だが、この2つの存在を亡き者とする為には大きな問題があってね。ある意味、全能の逆説に近い話で、これらの排除の為にはそのどちらの存在も必要不可欠という話だ。

 アンジェリカを屠る為にはレナト王の魂、言わば彼が持つ絶対王政と呼ばれる力が必要であり、反対に彼を葬る為には唯一彼と敵対する勢力の中で、もっとも強大な力を持つアンジェリカの存在が必要なのさ」

 アビガイルは朦朧とする意識の中でマリアの話に必死に耳を傾けた。自分達の思惑を軽々しく語ってくれるのであれば、ここで聞かないという手はない。

 同時に、すぐに行き着く疑問に対する答えも、きっとこの話の中に秘められているはずなのだから。

『ボクのコピーを使って、何をするつもりだ?』

 すると、言葉にする気力すら残されていないアビガイルの思考を読み取るかのようにマリアは話を続けた。

「ただ、レナト王の魂を葬るといっても簡単な話ではなくてね。彼の魂を呼び起こす為には相応の唯一無二の事象、いわば魂を呼び起こす為の強烈なきっかけがどうしても必要となる。それこそが、姫埜玲那斗の殺害だ。どれほど言葉で取り繕おうと、死という恐怖は全ての概念の頂点に立つものであり、これより強い“トリガー”は存在しない。

 彼を殺す為にはさらにイベリスという絶対的な存在を先に封じ込める必要もあるが、それはまた別の話としよう。

 もとい。姫埜玲那斗の死によって彼の魂を呼び起こせば、リナリアに所縁を持つ者の力は全て封じられ無力と化す。公国の王として戴冠するはずであった彼だけが持つ、公国出身者の異能を強制的に無力化する力。〈絶対王政 -ゴビエルノ・レアル・アブソルート-〉

 この力は、私達にとって唯一アンジェリカに対抗する為の策だ。〈絶対の法 -レイ・アブソルータ-〉を万全の状態で用いる彼女を力でねじ伏せるにはこれ以外に道はない。

 故に、彼の目覚め無くして私達の勝利はない。逆に言うと、そうした事実をすべて知っているアンジェリカは、だからこそ玉座の間での決戦において迂闊に彼を殺すことが出来ない。自らの力が無力化されるということは、自ら死の危機を招くことに等しいわけだからね」

 そこで言葉を区切ったマリアは大きな溜息をつくと、ホログラフィックモニターに映し出された様々な景色に目を移しながら話を続けた。

「が、しかしだ。対するアンジェリカにとっても彼の力は是が非でも手に入れたい、発現させたいと思う有意なものでもあるのさ。

 自身が敵対する勢力の中で唯一、絶対に生かしておいてはならない存在を葬る為に必要な力という意味でね。そして、その対象は“私”だ。

 実に悩ましい問題だろう? 私達がアンジェリカを葬る為にもレナト王の力が必要だが、そのことを知るアンジェリカは彼を無闇に殺すことはない。

 ところが、私がその場に出向けば話は変わる。私が姿を見せた途端に、アンジェリカは私を殺す為に彼を殺害してレナト王の魂を呼び起こし、私達の力を無力化した上で殺しにかかってくるだろう。

 力を失った私はただの1人の女と同じだ。たとえ自らの行いでアンジェリカ本人の力が同時に無力化されたとしても、アムブロシアーのような別の脅威を差し向けられれば私は簡単に死ぬ。

 君が生み出したアムブロシアーには、どういうわけか不死殺しの力も備わっていたようだからね?

 そして私が死ねば、私と契約を結ぶことで存在を維持するアザミもこの世界に存在を保つことが難しくなる。

 マリア・オルティス・クリスティーとアザミという最大の障害の排除。これが実現することこそ、アンジェリカの描く最大の勝利への道筋。

 今のアンジェリカにとって、その他の存在など取るに足らない要素のひとつに過ぎない。

 彼女にとっての最大の脅威である私という存在が消え去ることで、共和国の勝利は揺るぎない絶対的なものとなり、間違いなく世界の秩序は破却という道を辿ることとなるのだから。

 しかし、どうにも私がその場に出向かない限りは決戦の幕引きは起きそうも無くてね。そこで、だ」

 マリアはモニターへ向けていた視線をアビガイルへと向け直して言った。

「アンジェリカに姫埜玲那斗を早々に殺害してもらう為に、君が私達を殺したという話をひとつでっちあげてもらうことにした。そして、この話は君の口から直接アンジェリカへと伝えてもらう。

 私という脅威が無くなったと知れば、アンジェリカは間違いなく即座に玲那斗を殺しにかかる。何せ、アンジェリカ本人にも多くの時間が残されているわけではないんだ。

 そこに私達が死んだという話をでっちあげれば、無駄な戦いを長引かせたくない彼女は、自らの勝利を絶対的なものにしようと考えすぐに彼を殺害する。

 レナト王の持つ力、絶対王政による公国出身者の力の無力化は、力の発動時に彼の周囲に身を置く者にしか効力を発揮しないが、それは言葉通りに絶対だ。

 力を失ってしまえば、イベリス、ロザリア、アルビジアといった存在ですらアムブロシアーに簡単に屠られてしまうかもしれない。

 だから私は自ら玉座の間に近付くことはせず、“その時”が訪れる時までここで暇つぶしをさせてもらうつもりだ。急ぐことはないと言った真意。要は経過観察、というやつだよ」


 それが全ての狙い、全ての筋書きというものか。納得は出来るが理解はできない。

 アビガイルが話を聞き終えて抱いた感想だ。

 どうして、自ら語ることで不利になるような話を、わざわざ敵である人物の目の前でする必要がある?


 言い終えて、にやりと笑ったマリアを睨みつけるように見据え、アビガイルは科学者らしく自らの疑問を解消する為にようやく擦れた声で言った。

「どう、して…… そんな話を“ボク”に、するんだ?」

 すると、マリアはきょとんとした表情を一瞬浮かべたかと思うと、次の瞬間には盛大に笑いながら言ったのだ。

「ふふふ、あはははは! 君は何か重大な勘違いをしているようだ。私は確かにアビガイルという女性に全ての話をした。私の目的を達成する為には全てを包み隠さずに話すことが何よりも大事だったからね。ただ、この場においてアビガイルという女性はもはや1人ではない」

 アビガイルは直感した。

『まさか――』

 マリアの言葉の意味することを理解すると、アザミの隣に立つ“もう1人の自分”にすぐさま目を向けた。

 アザミによって作り出された模造品。アビガイルのコピー人形はじっとマリアを見つめ、話の一部始終をしっかりと頭に刻み込んだように見える。

 背筋に悪寒が走った。マリアの言う、不必要なものを排除する為に必要なもの。つまり、アンジェリカを殺す為に必要なものとは……

「私はね、私の思う計画を完遂させる為に必要な情報を、“そこに立つ君”に知らせる為に全ての事情について話をしたんだよ。

 言っただろう? 私達が命を落としたという情報は君の口からアンジェリカへ伝えてもらうと。

 アンジェリカのテミスに寄せる信頼は絶対的なものだ。裏切りという行為をあからさまにおこなったアンディーンに対する処遇から見てもそれは明らかなもので、特に周囲の意見に流されること無く、自らの絶対性に自身をもつ“君の言葉”であれば尚更効果は高いだろう。

 思い返してみると良い。今の今までの長い人生の中で、アンジェリカが君の話に耳を傾けなかったことがただの1度でもあるかい?

 それに、いくらアンジェリカに対する尊敬の念や情が無かろうと、そこで無様に寝転がっている君ではその役回りを期待することなど到底出来はしないからね?」

 これまでの全ての話に繋がりを見出し、合点がいったアビガイルは奥歯を噛み締めた。

『か弱い姫に乙女心だと? ふざけたことを抜かすものだ。フロリアンという男を気絶させたのもそれが真の理由ではないか!

 彼を目覚めさせたままで、姫埜玲那斗という身内殺しの話など出来るはずがない。何せ、仲間の命を大事に思う彼に対し、その話を聞かれた時点で計画は破綻だ。

 しかし、ボクにアンジェリカを殺す為の仕事をさせる為に……か。くそっ! 気付け、惑わされるな! アンジェリカ――!

 君が本当に“愛”を否定し、罪を罰により裁く存在であるというのなら、ここで侵入者を見過ごそうとするという大罪を犯したボクのことなど切り捨てろ! 玉座の間へ向かうボク諸共、この身を裁け!』

 しかし、その想いがアンジェリカへ届くことは無い。

 苦々しい表情で視線をぶつけてくるアビガイルを見下しながら、マリアは実に楽し気な表情を浮かべ無邪気に愛らしくも透き通る声で歌を歌う。

 レクイエムに綴られし最後の審判。続唱より、怒りの日に続く詩を。


Tuba mirum spargens sonum per sepulchra regionum,coget omnes ante thronum.

〈奇怪なるラッパの響きが各地の墓から全ての者を玉座の前へと呼び集める〉

Mors stupebit et natura,cum resurget creatura,judicanti responsura

〈創られし者が、裁く者に弁明をする為に蘇る時、死も自然も驚くこととなる〉

Liber scriptus proferetur,in quo totum continetur,unde mundus judicetur.

〈この世の全てを裁く為に、この世の全てが記された書物が差し出される〉

Judex ergo cum sedebit,quidquid latet, apparebit:Nil inultum remanebit.

〈そうして審判者がその座に着く時、隠された真実は明かされ罪を逃れるものはない〉

Quid sum miser tunc dicturus?

〈その時、憐れな私は何を言えば良いのか?〉

Quem patronum rogaturus?

〈誰に弁護を頼めば良いというのか?〉

Cum vix justus sit securus.

〈正しき者ですら、不安を思うその時に――〉



 アンヘリック・イーリオン 真偽の大聖堂 サウスクワイア=ノトスには、千年に渡り追い求めた理想実現を前にした少女の笑い声がいつまでもこだました。



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