*5-5-3*

 グラン・エトルアリアス共和国 総統、アンジェリカの支配する神域聖堂、〈意思の支配者〉ローズ・オブ・ウィル=スローネ。 

 通称、玉座の間と呼ばれる城塞最上階に位置する巨大な空間には5つの回廊と大扉が存在し、それぞれの入り口たる大扉は“特別な資格を持つ者”しか通過することが許されない。

 この内、2週間前に機構、国連、ヴァチカンの一行が初めて城塞に足を踏み入れた際に通り抜けたのは荘厳な装飾の施された巨大な正面扉であった。

 巨大な正面扉は主として、総統であるアンジェリカ自らが城塞へと招いた客人を通す際に使用されるか、或いはテミスのような共和国の重鎮達が彼女への謁見の為に玉座の間=スローネを訪れた際に潜り抜ける“正門”である。

 アンジェリカの特別な意思によって大扉を潜り抜ける権利を与えられた者のみが通過を許される扉と言い換えることもできるだろう。

 では、彼女の許しを得ない者は如何様にして玉座の間へと至ることが出来るのか。


 答えは“不可能”だ。


 とはいえ、手段が用意されていないわけではない。

 彼女の許しを得ないものが玉座の間へと至る為に必要な道筋。それは4つの神域聖堂の内、1か所の聖堂を通り抜けることである。

 ただ、これらの聖堂はテミスの面々による厳重な管理、監視下に置かれており、部外者が侵入を企てた末に通り抜けることなど叶うはずもない。

 例えば、シルフィーの支配下に置かれている風の大聖堂、イーストクワイア=エウロスには常時“目には捉えられぬ”大量のアムブロシアーが息を殺して潜んでいるし、アビガイルの支配下に置かれている真偽の大聖堂、サウスクワイア=ノトスにおいても神が思わず溜息を漏らしたほどに強力なアムブロシアーが控えている。

 リカルドの支配下に置かれる星の大聖堂、ノースクワイア=ボレアースも然り。また、普段から共和国を留守にしていたアンディーンの支配下であった水の大聖堂、ウェストクワイア=ゼピュロスとて部外者を排除する為の仕掛けは幾重にも張り巡らされているのが常で、その突破が不可能であるという点において他の3つの聖堂同様に例外ではなかった。

 そもそも論、誰が侵入を企てようとも玉座の間どころか神域聖堂へと至る前にアムブロシアーによって排除されてしまうことが道理である。

 しかし今。玉座の間へと至る5つの大扉の内、水の支配下である扉の前には2人組の姿がある。

 攻略不可能、難攻不落とされた神域聖堂がひとつ〈ゼピュロス〉を越え、続く回廊を踏破したイベリスと玲那斗の2人は玉座の間へと繋がる大扉の前に立ち、最後の扉を開ける権利を得たまま、それを行使するタイミングを見計らっているところであった。

 西風神ゼピュロスや水の精霊ウンディーネ、義憤の女神ネメシスの彫刻や煌びやかな装飾が施された扉は近付く者を拒むかのように聳え立つ。

 間違っても歓迎されているという風に見ることは出来ない。

 この扉の向こう側にアンジェリカがいる。玲那斗はイベリスに目配せをし、扉を開けるか否かの意思を問う。

 一方、イベリスは扉の向こう側へ視線を向けるかの如く、じっと大扉を見据えたまま微動だにしない。

 今のイベリスにとって、プロヴィデンスに蓄積された情報がある以上はアンヘリック・イーリオンのセキュリティシステムを突破することなど実に容易いことなのだ。

 だが、思考の中にあるのはもっと別の考えである。扉を開けた瞬間という“最も無防備な隙”をアンジェリカが見逃すとは思えない。

 そうした懸念について、不用意な突破は控えるべきだという考えが拭えないのであった。

 扉の前に立って幾ばくか。未だ1分と時間は経過していないはずだが、随分と長くこの場に立ち尽くしている錯覚を覚える。

 玲那斗はイベリスの考えを汲み取ると、自らも視線を大扉に向けてそれをじっと見据えた。


 踏み込むべきか、否か。


 決意を固めきれずに足を止める2人であったが、この膠着は思わぬ形で解消されることとなる。

 2人が扉の解錠を試みたわけでもなく、触れたわけではないにも関わらず、セキュリティ解除を示す軽い電子音が鳴り響くと、大扉がひとりでに音を立てて開き始めたのだ。

 ゆっくり、ゆっくりと開く大扉。イベリスと玲那斗は互いに揃って1歩後ろへと身を引き、中からの襲撃に備えて身構えた。

 扉が完全に開かれた先に広がるのは無限に続くかのように見える暗闇。息を殺し、耳を澄まし、目を凝らし、全ての神経を玉座の間の暗がりへと集中する。

 ところが、開放された扉の先から何かが迫る様子もない。周囲に敵性体の存在がないかを探るイベリスですら首を傾げてしまうほどの静寂。

 闇が広がるばかりで何も見ることも出来ない空間を前に、2人は顔を見合わせて内部へ踏み込むべきか否かを思案する。

 その時だった。暗い闇の向こう側から、美しい歌声が聞こえてきたのは。


 甘く透き通るように澄んだ声は、それでいて物悲しい旋律を歌う。


 Alas, my love, you do me wrong,〈愛する人よ。貴女は残酷な人だ〉

 To cast me off discourteously.〈無情にも私を捨てるだなんて〉

 For I have loved you well and long,〈私は心の底から貴女を想い〉

 Delighting in your company.〈傍にいるだけで幸せだったというのに〉


 Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉

 Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉

 Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉

 And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉

 

 歌声が続く中、顔を見合わせたイベリスと玲那斗は互いに頷き合い、身構えた姿勢を解くとゆっくりとした歩調で玉座の間の闇へと足を踏み込む。

 天使の歌声。誰が耳にしてもそう言うだろう。愛らしくも悲しみを訴えかけるかのような歌声を耳にする2人は、その歌声を頼りに闇の中を歩んだ。

 2人が完全に神域聖堂の領域内へ歩んだところで、開かれていた大扉の口は厳かな音を立て閉じられる。

 そうして、周囲一帯が暗闇に満たされようかという瞬間。玉座の間全体に設置された、炎の揺らめきまで再現される非常に精巧なキャンドル型LEDが一斉に点灯し、聖堂内を淡く温かく染め上げた。

 暗闇に目が慣れつつあった2人は少しだけ目を細めるが、すぐに明るさにも慣れ周囲を見渡す。


 Your vows you've broken, like my heart,〈貴女の誓いは私の心のように壊れてしまった〉

 Oh, why did you so enrapture me?〈あぁ、なぜ貴女は私をこれほどまでに夢中にさせたのか〉

 Now I remain in a world apart〈離れた世界にいる今でさえ〉

 But my heart remains in captivity.〈私の心は貴女に魅せられたままだ〉


 2週間前、玉座の間を訪れた時。聖堂の両端に整然と隊列を組み並んでいたアムブロシアーの姿は今やどこにも見当たらない。

 ただそこにあったのは、桃色髪をツインテールに結った幼い少女の姿だけであった。

 彼女は大聖堂の中央に立ち尽くし、ステンドグラスが美しく燐光する上方を見上げたまま、自らが唯一知る歌を歌い続ける。


 I have been ready at your hand,〈私には全てを差し出す覚悟がある〉

 To grant whatever you would crave,〈貴女の望むものを全て与える為に〉

 I have both wagered life and land, 〈領土も、この命を賭すことも厭わない〉

 Your love and good-will for to have. 〈それで貴女の愛が得られるのなら〉


 If you intend thus to disdain,〈もし、貴女が私を軽蔑するのなら〉

 It does the more enrapture me,〈それはますます私を惹きつける〉

 And even so, I still remain〈それでも私の心は〉

 A lover in captivity.〈貴女に魅了されたままなのだから〉


 悲しき“愛の歌”を口ずさむ彼女の元へ、イベリスと玲那斗は並び立ち近付く。

 天使のような声で旋律を紡ぐ彼女、アンジェリカは2人の気配に気付いているのかいないのか、やはりただ上方の一点を見つめたまま動く気配も見せない。

“ただ、そのようにしたいからそうしているだけ”とでも言うように、2人に目をくれることもなく哀しみの詩を奏で続けた。


 My men were clothed all in green,〈私の家臣たちは緑の衣に身を包み〉

 And they did ever wait on thee;〈これまで貴女に仕えてきた〉

 All this was gallant to be seen,〈その姿はとても勇ましいものだったが〉

 And yet thou wouldst not love me.〈それでも貴女は私を愛してはくれない〉


 Thou couldst desire no earthly thing,〈貴女は世俗的なものを望むことはできない〉

 but still thou hadst it readily.〈それなのに、貴女は容易くそれらを手にしてしまった〉

 Thy music still to play and sing;〈貴女の音楽は今もまだ歌われ演奏されているが〉

 And yet thou wouldst not love me.〈それでも貴女は私を愛してはくれない〉


 Greensleeves was all my joy〈グリーンスリーブス、貴女は私にとっての喜びだった〉

 Greensleeves was my delight,〈グリーンスリーブス、貴女は私の楽しみだった〉

 Greensleeves was my heart of gold,〈グリーンスリーブス、貴女は私の心の支えだった〉

 And who but my lady greensleeves.〈私のグリーンスリーブス。貴女以外に誰がいるというのか〉



 イベリスと玲那斗が、アンジェリカに対して距離を5メートルまで詰めた時、彼女は歌うのを止めた。

 美しい声が消え去った聖堂内は打って変わって静けさで満たされる。

 時の流れが無限に引き延ばされたかのような錯覚を抱かせる空間。玉座の間=スローネだけが、まるで時を刻み続ける世界から隔離されたかの如くであった。

 ステンドグラスから差し込む、色とりどりの輝きがアンジェリカを淡く幻想的に照らし出す。

 天界より注がれる光に包まれたかのような彼女の姿は、この場における“絶対性”の象徴であり、玉座の間において唯一無二の存在であることを誇示するかのようでもあった。

 ローズ・オブ・ウィル。意思の支配者であるアンジェリカは今、何を思いそこに立つのか。

 イベリスと玲那斗は彼女が何を語り、どんな行動に出るのかを注意深く観察した。


 静寂の中で、自らの耳に届く音は他でもない。

 自らが立てる心音と血流の音のみ。いつ奇襲されるかもわからない。何が起きるのかすら分からないという不安と恐怖が呼吸を乱し、精神を蝕む。

 耳を刺激する静けさの中で、電子的な炎の揺らめきだけがそれぞれの影を揺らすばかり。

 虚ろに開いたアスターヒューの瞳をステンドグラスに向けたまま、アンジェリカは常に変わらず身動き一つしようとしない。

 一体、彼女は何を考え、何を思っているというのか。

 言葉を発しようとしないアンジェリカに対し、張り詰めた緊張の糸を震わせるようにイベリスが言う。

「貴女の望み通り、私達はここに来たわ」

 玲那斗は、イベリスのこの言葉に少し違和感を覚えたが、そのことについて思いを馳せる間など無かった。

 ふいにアンジェリカが言ったのだ。

「この歌はね、遠い遠い昔に物好きな看護師が私達に教えた歌なの」

 脈略も無く、イベリスの言葉に反応したというわけでもない彼女の言葉は、玲那斗の警戒心の全てを手繰り寄せるに足るものだった。

 しかし、当のアンジェリカは2人に構う様子も見せず、ただ自身の内にあるのだろう言葉を語る。


「今からおよそ300年前。西暦1747年の冬、私は1人の人間を殺した。

 イングランド、ロンドンに存在する王立ベツレヘム病院。ありとあらゆる革命によって刻一刻と世界情勢が移ろう、激動の18世紀という時代の一部を私が過ごした場所。

 私はそこで1人の人間に出会った。出会ったというより、物好きな人間が私に構っていただけとも言うのだけれど。

 当時、まだ現代で言うところの精神疾患が一般的なものであると認められていなかった時代。私のような特徴を持つ人間は“異常者”として次々に病院へと収容されていった。ただし、そこは病院とは名ばかりの紛れもない監獄。

 まるで、貴族たちが見世物を楽しむ為に設けられたような動物の檻。そういう風に形容したところで、それが間違いであると否定できるものは誰もいない。

 収容された人間にとっては地獄とも言うべき環境よ。けれど、数百年も世界を彷徨い、もはや行く宛ても無かった私達は自ら望んでその施設に足を踏み込んだ。

 生きる意味もなく、ただ生きているから存在しているというだけ。生に理由などなく、“死ぬことができない”が故に生きているという存在。

 けれど“私は”それでも良かった。私にとって守るべきは“この子”という存在であり、この子と共に在り続けることが叶うなら、それがどのような形であるかなど関係のない話。

 だから、地獄のような環境であろうとも、ただ無為な毎日をこの子と共に過ごす環境として、私達にとって王立ベツレヘム病院のような場所は悪い場所ではなかったわ。

 それが例え、見世物として笑われ、蔑まれ、ある時は杖で殴られるような場所であったとしてもね」

 アンジェリカはステンドグラスを見上げたままであった顔を俯けると、虚ろな目をそっと閉じて小さな息をついた。

 そうして再び目を開けると、イベリスと玲那斗に背を向け玉座へ至る階段へと歩みを進めながら続ける。

「今という時代においてこそ、研究が進み、理解が深まり、医学書においても明確に語られるようになった精神疾患。

【解離性同一性障害】

【被虐待児症候群〈バタードチャイルドシンドローム〉】

 ある特定の基準に照らし合わせるなら、私達は“そうである”らしいわ。でも、今と昔は違う。

 当時を生きた彼らは、私達を普通ではないと蔑み、理解できない者であると断じた上で化物だと罵った。

 檻の中で、慰みの見世物として扱われた私達を人間として扱う者などいなかったわ。


 けれど、あの女だけは違った――


 化物であると恐れられた私達の世話を好き好んで引き受けたのが、あの女だった。

 毎日毎日、朝と夜に私達の監獄を訪れては無駄な世話を焼き、無駄な話をし、特に意味もない歌をあの子に教えた。

 グリーンスリーブス。彼女は、それを“愛の歌”だと言った。

 どうしようもないほどに愚かな女。私の心を、この子の心を、私達を狂わせる危険な存在。だから私は、この手であの女を殺したわ。

 あの日、あの夜、あの女をこの手で殺した時。燃え盛った王立ベツレヘム病院の紅蓮の輝きは今でも鮮明に覚えている。忘れようと思っても忘れられないもの。

 とても綺麗だった。この子を絶望の淵に追いやった世界の一部が燃え盛る様は滑稽で、その象徴が失われる瞬間に見せる大火の輝きの美しさは筆舌に尽くしがたいほどのものだったわ。

 この世界には、私達2人の他には何も必要無くて、私達にとっては互いの存在があれば十分なのだと。

 常に間違っていたのは世界が歩んできた歴史だった。私達が裁くべきものは、常に私達の足元に存在する歴史そのものだったのよ」


 そこまで言ったアンジェリカは唐突に姿を消し去った。

 見失った彼女の姿を探す為に、イベリスと玲那斗は周囲を懸命に見回す。

 だが、焦燥に駆られて姿を探る2人を嘲笑うかのように、アンジェリカの声は頭上から響いた。

「ねぇ? 貴女達は部屋に差し込む太陽の光を見て、泣いたことがあるかしら?」

 悠然とした態度で玉座へと腰掛ける彼女の頭上には、棘の突き出したり消失したりを繰り返す光輪が浮かび、背中からは黄金色の光の羽が顕現していた。

 階下に立つ2人に向けられる、敵がい心が込められた低い声。怨嗟と怨恨に塗れた、この場における支配者の叫びにも等しい問いが放たれる。

「歴史をやり直すことが出来たなら、この子の人生はもっと違ったものになるかもしれない。何も無かった頃に戻れたなら、この子は人並みの幸福というものを手に入れられるかもしれない。結局最後まで、与えられることの無かった“愛”を、その手に入れることができるのではないか、と」

 アンジェリカの語る言葉は、まるで祈りや願いといった言葉のようであった。


 もしもあの時――

 なぜ、この子だけが――


 そうした悔恨の念が込められた言葉が、同じ時を生きたイベリスと、玲那斗の内に眠るレナトの魂へと向けられる。

「アンジェリカ…… いえ、アンジェリーナ。貴女は――」

「言いたいことは分かっているわよ。貴女達の誰もが思うように、私は“愛”というものを知っている。それがどれほど尊くて、人にとってどれだけ大切なものであるのかも。

 いいえ。正確に言うならば数か月前、フロリアンと直接話をしたことで自覚せざるを得なかった。

 彼は私が愛というものを本当は知っていて、ただ認めたくないだけであると言ったけれど、本当にその通りね。

 だけど…… 私ですら知っているその概念は、この子がこれまで歩んできた生涯において、ただの一度すら与えられたことのないものでもある。

 そうよ。私は知っているからこそ許せない。世界が歩んできた、歪んだ歴史が。貴女達のように、この子が苦しんでいることを“知っていたのに見てみぬふりをした傍観者達”が。

 間違った歴史を刻み続けるこの世界に、可能性などというものがあると信じ、嘯き、挙句、この子がたったひとつ求めたものを間違いであると断じて蔑ろにしようとする貴女達が」

 玉座から注がれる、蔑みの視線。

 ほんの僅かでも身動きをすれば殺されると、そう自覚できるほどに強烈な殺気がアンジェリカの周囲よりこの玉座の間全体を支配している。

 彼女が苦虫を噛み潰したように語る言葉に耳を傾けるイベリスは、俯きがちに言った。

「アンジェリーナ、貴女は人の優しさに触れることが…… アンジェリカを人の温かさに触れさせることが怖いのね。そうしなければ、貴女は貴女のままではいられない。

 愛というものを本当の意味でアンジェリカが理解してしまえば、貴女はその体の中に存在し続けられるかどうかわからなくなる。

 だから貴女は、あの子に分け隔てなく接しようとした玲那斗や、貴女の真実に気付いたフロリアンをあの子から遠ざけようとしていた。

 けれど、アンジェリカの意思によってそれはうまくいかなかった。でも、アンジェリーナ。貴女がアンジェリカに寄せる想いそのものだって……」

「黙れ。黙れ、黙れ黙れ!」

 これまでに無いほどに激しい口調でアンジェリカは言った。


 アンジェリーナがアンジェリカを大切に想い、慈しむ心の在り方そのものこそ“愛”である。

 しかし、そのことをアンジェリカが理解し、認めてしまえば彼女の中でアンジェリーナの存在意義はなくなってしまう。

 愛を得られなかったからこそ必要とされた存在は、彼女が愛を得てしまった時点でその存在理由〈レゾンデートル〉を喪失してしまうのだから。


 先程よりも強い殺気を放つアンジェリカを玲那斗はじっと見据える。

 これまでの人生で見たことも感じたこともないほどの絶対的な恐怖。高い頂に在る玉座へ座る幼い少女を前に、身体と心の震えが止まらない。

 それでも、自身の隣に立つ存在から有り余る程の勇気を貰い受け、この場でずっと考えていたことをついに彼女自身へ問い掛けた。

「アンジェリーナ。君はゼピュロスからの去り際に、これ以上俺達と語ることは無意味であると言った。ではなぜ、俺達に今の話をしてくれたんだ?」

「さぁ? ただの気まぐれでしょう。或いは気の迷いかもしれないわね」

「俺には、君が助けを求めているように聞こえた。遠い昔の話と、今自分自身が抱えている想いと、目の前に在る現実に対して君の心は揺れている」

「本当に、昔から変わらないのね。貴方が私の話に意味を見出そうだなんて、思い上がりも甚だしい。

 昔から今の今まで、そうやって他者を理解しようとする振りばかりして、何一つ真理と向き合おうとしない偽善者の物言いに、傾けるべき耳など持ち合わせていないし、答える舌も無い。先にゼピュロスで言ったことと変わりないわ。

 ただ、貴方に対して敢えて言うなら…… その態度によって進むべき道を絶たれ、生きる意義を見失ったのは私達ではなくマリアなのでしょうけれど」

「何だって? それはどういう――」

「あの子もあの子で可哀そうな人生を歩んだものだと思うわ。同情はしないけれど、そう感じると認めるくらいはしてあげてもいいでしょう。

 けれど、貴方にその真意を答える舌は無いと言ったはずよ。互いに言葉を交わし、議論を重ねることにもはや意味など無い。

 ただし―― 2週間前にも言った通り、貴方達が今からでも私たち共和国の側へ付き、世界の仕組みを一度滅ぼした上で、マリアの理想破却の為に手を貸すというのなら話は別。

 狂った歴史を共に粛清、修正しようというのであれば、私はこの場で貴方達を共和国の友として迎え入れましょう。その利用価値が、貴方達にはある」

「出来ない相談だ」

「でしょうね。最初から期待などしてはいなかったわ」

 アンジェリカは玉座に片肘を付き、退屈そうに溜め息を吐いて言った。

 常に変わらぬ蔑視を手向けるアンジェリカにイベリスが言う。

「私達は貴女の理想成就に加担することなど出来ない。今すぐに戦争行為を止め、理想の実現を諦めなさい。今からでも遅くはないわ。引き返しなさい」

「諦める? 引き返す? そうすることで戻る日常の継続が、人々が心から願う未来であると? 馬鹿馬鹿しい。どうしても、貴女は貴女の正しさを証明しなければ気が済まないというわけね。イベリス。やはり貴女は私達とは違う。生まれついての勝者、何をするにも不自由のなかった王妃様の戯言。

 貴女の言葉は常に正しく、周囲の言葉は常に間違っていた。けれどそれは、真に貴女が正しかったからではなく、狂った時代と人が定めた法によって“それが正しいと認識されていただけ”という話に過ぎない」

「いいえ、違う。勝敗や正誤が大事ではないの。私の言葉だけが正しさの全てではない。歴史が間違った道を歩んできたというのなら、この先に正していけば良いだけ。人は多くの意思を集めて、その道筋を照らし進んで行くだけの力を持っている」

「それは“全てを持つ者”の思考、意見、物言いよ。持つ者に持たざる者の気持ちを汲み取るだなんて無理な話。言い換えれば、貴女の言葉は多くの人々が理解する幸福の定義からはじき出された側の人間には到底理解できない愚かな言葉でしかない。だから、間違った歴史を正す為に私と私達共和国がその礎になろうと言うのに」


 アンジェリカが言い終えると、再び広大な空間が静けさで満たされた。

 イベリスと玲那斗、そしてアンジェリカとの間で睨み合いが続く。互いに絶対に譲ることの出来ない信念と信念のぶつかり合い。

 一方にとっては意味のない言葉の応酬も終わりを告げ、いよいよ刃を交えての決戦の時が訪れようとしていた。

 イベリスにとっては、心から避けたいと願っていた…… その時が。


 小さく息を吐いたアンジェリカは玉座から立ち上がって言う。 

「ひとつ。貴女は知らないでしょうから教えてあげるわ。一度壊れてしまったものは、二度と完全な形では元に戻らないのよ。それが物であれ、人の心であれ、何であったとしても」

 だが、その言葉の直後。自身の中で何かを感じ取ったかのような表情を浮かべたアンジェリカはそっと目を口と共に瞑った。


 間もなくであった。

 再び目を開いたアンジェリカは、先程までとは明らかに異なる甘ったるい声色と口調と共に大あくびをしながら言ったのである。

「ふぁ~…… よく寝たぁ~☆ およ? イベリスと玲那斗! いつの間にそこに?´・・` 来たなら来たって言ってもらわないと困るんだなー。ほら、あれあれ☆ 徒歩で来た! みたいな☆ きゃははははは>▽<」

 イベリスと玲那斗は横目で互いに視線を交わし合う。

 間違いない。先の話をアンジェリカ自身は聞いていない。

 アンジェリーナが意識を表出している間、自身は眠りの中にでもいたというのだろうか。

「でもでもー、ここまで辿り着いたことは褒めてあげよう☆ 歓迎しなきゃね? ここまで来たっていうことは、どうにもこうにも私達共和国側に付く気はないみたいだし?

 そういうことなら遠慮はナッシングぅで大丈夫だよね? ところがどっこい。マリアと怖い神様を何とかするまで生きていて欲しいとも思うし、さてどうしよう´・・` 困ったちゃん」

 傍から聞けばふざけた言動に聞こえるが、彼女から発せられる強烈な殺気だけは先程までと微塵も変化がない。

 少しでも気を緩めればあっという間に精神ごと呑み込まれ、隙を見せれば一瞬で殺されてしまうだろう。

 一歩後ろに身を退き身構える玲那斗と、すぐ傍でアースアイを輝かせながら臨戦態勢を取るイベリス。

 そんな2人の様子を見たアンジェリカはケタケタとした笑い声を上げながら言った。

「綺麗な輝きぃ☆ そう来なくっちゃ♪ 良いとも良いとも! ただのお話も退屈ぅっというか? 話をしていても無駄無駄~だからね? 私達が直々に遊んであげよう☆

 これまでの数年で張られた雑魚専のレッテルを覆す舞台が整ったというわけである^^

 玉座の間まで徒歩できた君達に敬意を表し、歓迎の意を込めて私のとっておきを差し上げようじゃないか☆」

 その言葉に呼応するように、アンジェリカの頭上の光輪と背中の翼は輝きを増す。黄金色の光を放つそれらは、これまで幾度も目にしてきたものよりも圧倒的であった。


 戦いを避けることなど出来はしない。

 アンジェリカが攻撃に移る瞬間を見逃せば死に至る。

 想像通り、状況としては最悪のものであったが対処方法が無いわけでもなかった。

 玲那斗とイベリスはアンジェリカの指先を凝視して“その時”を待つ。


 なぜなら彼女が絶対の法を行使する際には必ず指を――



 ところが、である。

 全神経を集中してアンジェリカの攻撃に備えていた矢先、2人の周囲が爆発したかのように光り輝くと同時に吹き飛んだ。

 玉座の間の中央に敷かれたレッドカーペットは焼け落ち、聖堂を構成する床は抉れて無惨な姿を晒している。

 2人は何が起きたのか理解するのに時間を要した。

 イベリスの機転により、散弾銃のように凄まじい勢いで飛散する破片から互いの身を守ることに成功はしたものの、全く動きを見せなかったはずのアンジェリカから攻撃されたという事実に度肝を抜かれてしまったのだ。

 指を弾く瞬間さえ見落とさなければ攻略の糸口はある。そう考えていた2人は愕然としたまま立ち尽くすしかなかった。

 驚愕の表情で事態を呑み込むことに必死な2人を尻目に、玉座の前に悠然と立ち上がった少女はゆったりした口調で言い放つ。

「読める。私には君達の心が読める^^ 指を弾かなきゃ力が使えない…… だなんて、私はこれまで一言たりとて言った覚えはないんだなー、こ・れ・が☆」


 天使のような姿をした悪魔。

 彼女が光の翼をはためかせる度に、光の粒子で形作られた黄金の羽根が虚空を舞う。

 テミスの面々が彼女を“神である”と認め、そのように言い切るのも道理という光景だ。


 これまで頑なに見せることの無かった真の力を解き放ったアンジェリカと、全知全能のAIの力と繋がりを得たイベリス、共に立つ玲那斗の最終決戦の火蓋が今、切って落とされた。



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