*5-5-2*
剛腕が弧を描くたび、耳に凄まじい風切り音が届く。
荒くれ者の北風神の名を冠した聖堂の守護者として、共和国で彼以上に相応しい者は存在しないに違いない。
何者をも寄せ付けぬ荒れ狂う暴力。何者をも受け付けぬ鋼の肉体。
まるで戦車から繰り出される砲撃のような拳は、一見すれば見境の無い暴力のようにも見える。だが、リカルドという大男から放たれる一撃一撃は非常に狙い済まされた理知的な側面を併せ持っており、ただ闇雲に力の限り暴れているわけでない。
それが実に―― 実に厄介なのだ。
見渡す限りの大宇宙。星の大聖堂、ノースクワイア=ボレアースで邂逅した両者が闘争を開始してから未だ3分も経過していない。
であるにも関わらず、リカルドから繰り出される拳を避けることで手一杯のジョシュアとアルビジアは既に“追い詰められている”と言って過言ではない状況にあった。
『くそっ! 野郎、試してやがるな!』
目で追い切れぬほど速い拳を繰り出すことが出来るにも関わらず、ここに至るまで直撃の1発もないのは彼が“敢えて外しているから”であるとジョシュアは睨んでいた。
『こちらが殺す気で向かって来るまで待っているのか? 馬鹿な。そんなことをする意味がない。それとも何か? アルビジアが秘めた力を警戒しているのか…… 違うな。それを是としているのであれば、俺は既にここには立っていない』
極限の状況ではあるが、リカルドはなぜか常にぎりぎりの間合いで躱すことが出来る程度の拳しか放ってこない。
ただ、ジョシュアは“なぜ”かを考えつつも、風切り音が耳元まで届く拳に当たるなど真っ平御免だとも内心で考えていた。
『意図なんて考えてる場合じゃないな。当たったら無事では済まない。それだけが事実だ。
それに…… あぁ畜生! でかい図体の割に速い! 反撃する隙はおろか、体勢を立て直す暇すらまともにないときたもんだ。向こうに拳を当てるつもりがあるかは知らんが、考えるより早く体を動かさなければ確実に捉えられる!』
もはや考えることを止め、迫りくる暴風のような拳から逃げ惑うことだけに専念しつつ、視線を少し離れた位置で間合いを取り続けるアルビジアに向けた。
『ここで生き長らえる為には、アルビジアの力に頼らざるを得ない。絶対にこいつをあの子に近付けるわけにはいかん…… が、しかしだ! 俺が囮になっているこの状況で、どこまで耐えらえる!?』
もはや戦いとすら呼べぬ一方的な暴力の嵐。離れた位置からアルビジアを慮り、囮になって逃げ惑うジョシュアは答えの見えぬ自問を頭で繰り返した。
僅かに自分から視線を逸らしたことを見逃さなかったのか、リカルドはジョシュアに言った。
「余所見とは、随分余裕があるのだな?」
言われたところで文句を返す余裕すら無い。
「先の威勢はどうした? 逃げるばかりでは、いずれ力尽きよう」
『くそったれ! 会話がしたいなら、まずはその腕を止めろ! それか勢い余って舌でも噛めば良い!』
そうしてジョシュアは彼の顔を睨みつけ、嵐が止むのを祈るかのような感情を抱く。と、その時。真っ暗な足元に存在した僅かな段差に気が付かず、ジョシュアは足を取られて体勢を崩した。
『まずい!!』
思った時には遅かった。
リカルドの振りかぶった右腕がジョシュアの左肩へ直撃する。その瞬間、激痛と共に左腕全体が痺れる感覚が走った。
「っくぅ! あああ!!!」
悲鳴にも近い嗚咽を漏らしつつ、ジョシュアは錐揉み回転をしながら黒い大理石の床へと叩きつけられる。
『肩が…… 砕かれた、のか?』
後方へ吹き飛ばされ、叩きつけられた衝撃で再度左肩に激痛が走った。
「あぁ…… ぐっ……」
呻き声を漏らすことしか出来なくなったジョシュアを見下すように視線を落としたリカルドは、嵐のように動かし続けていた腕を止めて言う。
「分かっただろう。武器を使おうと異能を持とうと、端からお前達に勝機などない。なぜなら私は貴様らとはまったく異なる信義、忠義と信念を以てこの場に立っているからだ。
だが、貴様らの垣間見せる意志に見どころがないわけでもない。故に、今ここで退くと宣言するのなら見逃そう。そこで動けずにいる女共々だ」
ゆっくりと近付く彼をぼんやりとした視界に捉えつつ、ジョシュアは遠く離れた位置に1人で立つアルビジアを見やった。
『ここで俺が退くと言えば、少なくともアルビジアは助かる。だが――』
「アンジェリカ様は貴様らを殺せとの御命令を我らテミスへ下された。しかして、それは玉座の間へと至る為に、我ら共和国の理想を挫く為に敵として立つ者に対する処置としての話だ。
星の大聖堂ボレアースの守護者として繰り返す。貴様らが今この場で、我ら共和国へ向けた矛を収め退くというのならば、追いかけたりはせぬ」
アルビジア…… お前だけでも助かるのなら……
肩の骨を砕かれ、もはや立ち上がる気力すら失われようとしていたジョシュアにとって、眼前に立つ大男が語り掛ける言葉は地獄の迷宮に張られた一本の糸のようであった。
『アリアドネの糸、か。ギリシャ神話を信仰するこいつらが好みそうな話だ。糸を辿れば助かるというのなら、それもまた良いのかもしれん』
ジョシュアが再び視線をリカルドへと向け、どう答えを返すか吟味する最中にあって、彼は黙ったまま沈黙を貫きその場に仁王立ちしている。
混沌とする思考の中、ジョシュアは自身が考える答えの中で最も“自身の望み”に近い言葉を発しようとしていた。
俺がこの場で倒れても、アルビジアが難を逃れ、玲那斗やルーカス、フロリアンにイベリスが立ち上がってくれるなら……
そうしてついに思考の迷宮を抜け、喉に力を籠めて言葉を発しようとする。
一方、状況をただ1人離れた位置から見守っていたアルビジアは自身の無力さに唇を噛むと同時に、どのようにジョシュアを助けるかだけに意識を集中していた。
『隊長と彼の距離が近すぎる。私の力を使えば、傷を負うのはむしろ隊長の方……』
ダストデビル。塵旋風とも呼ばれる竜巻を意図的に引き起こし、数多の風の刃を絡めて対象を切り裂く異能。
アルビジアが攻撃の意志を以て行使する力の中で最も頼りにしている異能である。しかし、ダストデビルはその性質上からして“特定の対象”だけを狙い撃ちすることが出来ない。
ある一定範囲を巻き込む、言わば範囲攻撃という分類の異能な為、今この場でリカルドを目掛けて力を行使すれば確実にジョシュアを巻き込んでしまう。
『今この場に立つのが私ではなく、アイリスだったなら。或いはイベリスやロザリアだったなら。あの子達の力であれば確実に対象だけを狙い撃つことが出来たはずで、そもそも隊長を窮地に追い込むことだってなかったはず。それなのに――』
この事実をあのリカルドという大男は理解している。プロヴィデンスによるデータバックアップを自分達機構の人間が受けているのと同様に、過去にアンジェリカが自ら経験して手に入れた情報というものを彼らは全員が同じように共有しているのだろう。
おそらく、あの男は信念から武器を使うことを好まないのだろうが、それを差し引いたとして、事前に“こちらの弱点”を明確に理解していたからこそ射撃武器を用いた遠距離からの攻撃などという手段を取らなかったのかもしれない。
『未来予知…… アンジェリカには私達の誰がどこに現れるのか分かっていたということ』
道中にアムブロシアーによる抵抗が無かったのは、アンジェリカにとってその行為自体が無駄であるとわかりきっていたから。
無抵抗のまま勢力を分散させ、各神域聖堂へと通すことに成功してさえしまえばそれだけで良い。
『けれど、それでも私は――』
諦めてはいけない。諦めから得られることなど何もない。
アルビジアは自身の無力さを噛み締めながらも、自身にしか許されていない力を行使することでジョシュアの窮地を救うという決意を固めた。
ゆっくりと過ぎ去る時間の中、睨み合いを続けるジョシュアとリカルドの間ではこの戦いにおける結論が導き出されようとしている。
ジョシュアは気力を振り絞るようにして唇を動かし、言葉を発した。
「分かった」
その一言を聞き届けたリカルドは深く息を吐くと、身体に込めた力を一瞬緩めた。しかし、直後にジョシュアは言う。
「お前達が、俺達のことを“何も分かっちゃいない”っていうことがな」
この言葉を聞いたリカルドは瞬時に身構えると視線を遠くに立つアルビジアへと向けた。
見開いた眼で見つめる先には、美しいジェイドグリーンの瞳を輝かせる彼女の姿がある。周囲を包むように巻き起こる風によってアルビジアの髪はなびき、一帯で吹き荒れる強烈な風から発せられる甲高い音がリカルドの耳へ届く。
「俺達に“諦め”なんて言葉はない。俺達はただひたすらに“可能性”とやらを信じ続けて前へと進む。自己犠牲の果てに、他者の命を、仲間の命を、世界の危機を救いたいという考え。お前達が否定する、お前達で言うところの“愚かな信条”を持つ者が集まる場所。それが“機構”であり、俺達なんだよ」
そう言ったジョシュアは清々しい笑みを湛え、暴風を身に纏い戦い続ける仲間の姿を見据えた。
完全にジョシュアから視線を外したリカルドは、離れた場所に立つ彼女が何をしようとしているのかを見極めた上でひとつの結論を下す。
範囲破壊攻撃であるダストデビルを回避することはできない。であるなら、彼女自身へ攻撃を加える過程を鑑み、旋風が彼女から離れた位置に進行するまでに距離を縮めておくべきである。
その事実を瞬時に理解したリカルドは、敢えて真正面から荒れ狂う風へ飛び込み突き抜ける道を選んだのだ。
そうして、一瞬で深く息を吸い込んだリカルドは猛然とした勢いでアルビジアへ向けて突進を始めた。
リカルドが走り出した瞬間にアルビジアも溜め込んでいた力を解き放ち、目の前に迫りくる大男へ向けて渾身のダストデビルを解き放つ。
人為の理知的なる暴力と、大自然が生み出す無垢なる暴力。2つの激しい力がぶつかり合う。
「おおおおおお!!!」
獣たちの王を彷彿とさせるリカルドの咆哮が星の大聖堂に響き渡る。そうしてアルビジアが解き放ったダストデビルに正面から突っ込み、風の刃を生身の肉体で受け止めた。
アルビジアの放つ攻撃に正面から飛び込んだリカルドを見たジョシュアは驚愕の表情を浮かべて息を呑んだ。
『正気か!? あれを生身で潜り抜けようってのか!』
自然界が巻き起こすハリケーンに生身で飛び込むようなものだ。むしろ、そうした自然現象と比べ、かまいたちによる斬撃が加わっている分、よほど驚異的な破壊力を持っていることは確実である。
だが、ジョシュアの驚愕の感想とは裏腹に、リカルドは暴風を正面から受け止めると一歩一歩確実に嵐の中を突き進み、やがてアルビジア本人との距離を詰めていった。
風の刃で己の身体が傷付くことを厭わず、狂気に満ちた信念に沿って一歩ずつ、確実に。
“殺すつもりでかかってこい”とはリカルドが放った言葉であるが、まさにそうした気持ちが無ければ彼の突撃を止めることなど叶わないのだろう。
アルビジアは自身の心の中に迷いがあることを自覚していた。ダストデビルの威力を意図的に手加減しているわけでは決してない。にも関わらず、リカルドに対して細かい切り傷を負わせるのが精一杯で、有効な傷を負わせているとは到底言い難い有様であった。
『傷つけることに抵抗があるのは確かだけれど、こんなはずは…… 到底、普通の人が耐えられるものではないというのに。でも、もし仮にあの身体そのものがアンジェリカの力によって何らかの力の恩恵を受けているのだとすれば。テミスにのみ与えられた、絶対の法による加護。そうしたものが有り得るのだとすれば――』
アルビジアがリカルドの人智を超越した“力の正体”に気付き始めた瞬間であった。
「おおおおお!!!」
けたたましいまでの咆哮と共に、リカルドはダストデビルの暴風壁を突き抜けた。
そして、一瞬でアルビジアの目の前まで距離を詰めると、力を漲らせた右腕を素早く振り抜いたのである。
コンマ数秒ほど反応が遅れはしたものの、アルビジアも自身の周囲に風の防壁を張り巡らして応戦した。
しかし、“絶対の法”による加護を受けた彼より放たれた一撃は風の防壁をいとも容易く突き破ったのだ。
自身の身体の内側からぐちゃりとした鈍い音が響く。
アルビジアはリカルドの殴打が自らの腹部を直撃した瞬間を見た。その拳は、人間の腹部ではおおよそ有り得ないと思えるほどに深く撃ち込まれ、感覚的には背中を突き破られたような錯覚すら感じさせるものである。
何か言葉が口を突いて出ることすらなく、もはや何も思考することが出来ない。
嗚咽や悲鳴すら上げること無く、身体中の酸素が口から吐き出され、目からは涙が自然に溢れ出た。
腹部から背骨を伝って全身を駆け巡った激痛は身を強張らせ、手の指先から差し先までを瞬時に痙攣させる。
息を吸い込もうにも、痙攣を起こした体は言うことを効かず、肺に空気を取り入れることすら出来ない。
痛みが全身の神経を支配し、呼吸困難に陥ったアルビジアは彼方の床に叩きつけられると、そこで苦しみに身体を捩らせるのが精一杯であった。
「アル、ビジア……!」
ジョシュアは呻きにも近しい声で彼女の名を呼ぶが、殴打によって吹き飛ばされた彼女は痛みによる痙攣で震えたまま、その声に反応を示すことは無かった。
暴風を潜り抜け、彼女に致命的ともいえる一撃を浴びせたリカルドは深く息を吐いて言った。
「実に愚かである。私が動きを止めている間の虚を狙えば或いは、などと思ったのやもしれぬが、蒙昧な思考と断じるほかにない。
いや、貴様らの愚を言葉として語るより、今この場にある事実を見るだけで事足りるか。可能性がどうとか言っていたか? しかし、貴様らの最後の一手を受けて尚、私はこの場に立っている。並々ならぬ自信を漲らせ、嘯いた言葉の末にある結末の何と惨めなことか。
私が手向けたアリアドネの糸を自らの手で引きちぎった貴様らに残された道はただひとつ。死という地獄のみである」
そうして、うずくまったまま動けずにいるアルビジアを見やって続ける。
「小娘。アルビジア・エリアス・ヴァルヴェルデと言ったか。イングランドの地で長き眠りより覚めた、公国の麗しき忘れ形見。
千年を生きる貴様を滅ぼす為の方法など私は知らぬ。私の一撃をその身に受けて血の一滴も吐き出さぬところを見れば、その中身が常識では語ることの出来ぬ造りであることは事実なのだろうからな。
だが、今の一撃を放った際に受けた感触によれば、同時にその肉体はまさしく人としてのものと、そう大差があるわけではないということにも理解が及ぶ。
つまり、おそらくは心臓さえ抉ってしまえば、貴様はこの世界から消滅する。心臓に杭を打ち込むが如きとは、まるで吸血鬼の退治の仕方だが、人ではない貴様を屠るには最適な解のひとつであろう。仮定ではあるが、確信ですらある。そうすれば貴様は死ぬ。ただの人間と同じようにな」
悠然と口を動かし言葉を紡ぎ出すリカルドを睨みつけたまま、ジョシュアは呼吸を整えながら未だに思うように動かせずにいる自らの肉体に苛立ちを募らせた。
『お喋り好きな野郎だ。くそっ! 俺の命と引き換えになっても、アルビジアを守り通さなきゃならんというのに…… 動け、俺の身体!!』
その最中、“命と引き換えになっても”という思考からふいに家族の姿が脳裏に浮かぶ。
愛しい娘と、最愛の妻。自分がここで果ててしまえば、誰が彼女達を守るというのか。
『いいや、命と引き換えではないな。悪い考えだ』
冷静に思考を落ち着けてから、自らに残された選択肢を吟味して対策を考える。
『残された選択肢は少ないが、俺に許された選択はひとつしかない。手持ちのスタンガンを使って、時間を稼ぐ。はは…… アルビジアを守ると言いつつ、あの子の力がなければ突破なんざ不可能ときたもんだ。情けないことだが、仕方も無い』
リカルドの一撃目によってヘルメスを失ったジョシュアは、通信によるエマージェンシーコールを発信することも出来ない。それに、各々が同じような状況にあるという中で、そのようなコールを発信することがどうしてできるだろうか。
選ぶべき行動はひとつ。スタンガンを口にくわえると、動かすことの出来る右手でポケットの中から予備の弾を取り出す。
出来る限り音を立てないように慎重に電極針の弾を装填しながら、どのようにあの大男にそれを打ち込むかを思案した。
『残弾は3。1発の失敗も許したくない所だが……』
ジョシュアが考えをまとめている間、リカルドがアルビジアに向けて言う。
「ローマ人への手紙、第6章23節にある言葉だ。我らが主君が好んでよく口にされる、その言葉を手向けの言葉としてくれてやろう」
そう言ったリカルドはゆったりとした歩調でアルビジアに向かって歩き出しながら言った。
「“罪による報酬は、死である”」
この言葉を聞いた時、ジョシュアの脳内から悠長な思考は早々に消え去った。
アルビジアに、奴を1センチメートルですら近付けてはならない。考えるより先に動け!
「うぉおおお!!」
全身に渾身の力を籠めて這うように起き上がると、猛然とリカルドへ向かって走った。
か弱い唸りにも似た叫びはリカルドの耳に届いていたはずであるし、ジョシュアの動きに彼が気付かないはずはない。
だが、この期に及んで気に留めるべき対象でもないと判断されていたのか、リカルドは振り返ることなどなく、一歩ずつ確実にアルビジアとの距離を詰めていった。
「させるかああぁ!!」
叫んだジョシュアは背後からリカルドに飛び掛かり、スタンガンを握りしめた右腕で脚を力一杯に締めあげると全体重を後ろに逸らして進行の妨害を試みる。
しかし、鋼のような肉体はびくともしなかった。むしろ、しがみついた体が振り回されるといった有様だ。
「邪魔だ。どけ」
リカルドはそう言って、言葉通りにジョシュアを足蹴にしたが、それでも粘り強く脚へまとわりつくジョシュアを引き離せずにいた。
「貴様の抱いた信念に敬意を表して、仕留めるのは後回しにしてやろうと考えていたのだがな。あの女よりも先に死にたいというのなら望み通りにしてやろう」
右足にしがみついたジョシュアに対し、リカルドは左腕に力を籠めて振りかぶる。が、その瞬間だった。
脚に巻きつけられていた腕が解かれたかと思うと、リカルドのアキレス腱に刺すような痛みと猛烈な痺れが走った。
ジョシュアが手に持ったスタンガンを至近距離から撃ち込んだのである。
流された電流によって筋肉が瞬時に収縮し、動きが封じられた。
「貴様!」
「もう1発!」
動きを止めたリカルドに対し、ジョシュアは叫びと同時に、ほとんど同じ個所にスタンガンを撃ち込んだ。
どれほど頑丈な肉体をしていようと、どれだけ過酷に肉体を鍛えようとも“人間”である以上は弱点と呼ばれる場所は共通している。要は人体急所と呼ばれる部位だ。
機構に所属している隊員達は人々を守る為に、救う為に、人の身体のどこが急所と呼ばれる部位であるのかという知識を身に着けているが、それがよもやこのような形で活用される日が訪れるとは。
こうした知識を、他者を痛めつける為に活かす日など訪れなければ良いと思っていた。ジョシュアは己の行為に迷いも躊躇いも無かったが、かねてより心の中で抱いていた思いが現実に裏切られたことに対して、深い憤りを抱く。
スタンガンを撃ち込まれたリカルドの脚に再び鋭い痛みと共に電流が走る。収縮し続けて攣った筋肉に引きずられ、姿勢を維持することが出来なくなったリカルドは地面に膝をついた。
『やったか!?』
そのようにジョシュアは考えたが、安堵も束の間。リカルドは猛烈な唸り声を上げながら全身の筋肉の収縮に抗うように力を籠めると、上体を起こして右腕を大きく振りかぶったのである。
『冗談は止せ! なんで動けるんだ! 通常電極ではない、1発で象すら気絶させるレベルの代物だぞ!?』
ジョシュアが驚愕の表情を浮かべて地面に突っ伏す最中、リカルドは振り上げた拳を思い切り大理石の床へと振り下ろしてそれを砕いた。
大地を割ったのである。巻き上げられた大小の破片が周辺に飛び散るが、リカルドはすぐさま大きめの欠片を拳で掴み取ると大きく振りかぶり、アルビジアへと目掛けてそれを投げつけた。
「アルビジア!!」
万事休す。
投げつける寸前に彼女の名を叫んだが、おそらく虚空へと吸い込まれた名は本人の耳に届くことは無かった。
このまま彼女が起き上がることが無ければ、投げつけられた破片は簡単に彼女の華奢な胴体を貫くだろう。
リカルドが投げ放った破砕片には、そのような常識外れの思考を瞬時に抱かせるほどの凄みがあったのだ。
全ての終わりを覚悟し、ジョシュアは悲痛に顔を歪ませた。
だが、奇跡が起きる。
不思議なことに投げつけられた破片は彼女の身体へ届くよりも先に空中を滞空したまま“燃え尽きた”のである。
そして、不可思議な現象の直後に神域聖堂全体を包み込む空気が変化した。
信じられない光景を目の当たりにしたリカルドであったが、惑うことなく手近な破片を手に掴むと、先ほどと同じように大きく振りかぶって横たわる彼女目掛けて銃の弾丸の如く投げつける。
このような都合の良い奇跡が2度も起きるはずはなかった。
が、しかし。投げつけられた破砕片は直前と同じように滞空中に、それも彼女へ届く寸前になって蒸発するように燃え尽きるのだった。
刻一刻と変わりゆく周囲の空気に身を強張らせるリカルドは、事態が悪い方向へ動いたことを確信する。
『この男の時間稼ぎの賜物かもしれぬな。呼び起こしてはならぬものを目覚めさせてしまった。生と死の狭間を追い込まれたという事実が、あの娘の“真の力”を呼び起こしたか』
インペリアリス。それはリナリア公国出身である彼女達が持つ特別な力。〈帝王の〉、或いは〈最も優れた〉を意味するその言葉が示す能力とは、アンジェリカより聞き及んだところによれば単身で小国を壊滅させるほどの力であるという。
ミクロネシア連邦の地で、アヤメという少女の中に顕現を果たしたアイリスという少女が見せた奇跡を思い返せば、その言葉が真なるものであることは明白。
リナリア島を千年に渡って守護し続け、国連軍の艦体を僅か数分足らずで壊滅に追い込んだ、あのイベリスという少女の力も然り。
『この状況、一刻の猶予もない。ここで奴を仕留めなければ、追い込まれるの此方――』
リカルドは未だに動かぬ足を引きずり上体を完全に起こすと、周囲に散らばる大理石の破砕片を手当たり次第にアルビジアへ向けて投擲した。
「うおおおおお!!!」
猛獣の咆哮と共に、目視で捉えることはほぼ不可能な速度で放たれる破砕片であったが、やはり悉くが彼女へ届く前に空中で燃え尽きていく。
それはまるで大気圏で燃え尽きる流星のように。
星の大聖堂と呼ばれるノースクワイア=ボレアースが宇宙であるとすれば、今の彼女は大自然を抱く地球という惑星そのものとでもいうのだろうか。
咆哮を上げながら投擲を続けるリカルドであったが、ふいに巻き起こった破壊的な爆風がその身を襲った。
並々ならぬ殺意を内包し荒れ狂う暴風に気圧され、自身が抉った大理石の床に手をかけて身を屈める。巨体であるが故に、ほんの僅かでも風の抵抗を受けないような姿勢を取らなければあっという間に壁へと吹き飛ばされるだろう。
何が起きているのか理解が追い付かないという表情を浮かべたジョシュアはただ目の前で起きている事象を眺めることしか出来ない。
ただ、不思議なことに荒れ狂う暴風は意図的にジョシュアの周囲を避けるように吹いていた為に、リカルドが正面から受け止めているような破壊風を浴びることはなかった。
地へと伏せた2人は、この暴風を巻き起こす主であるアルビジアへと目を向ける。
視線の先に捉えたものを垣間見た2人は、言葉を失い驚愕する他になかった。
先程まで冷たい床に突っ伏していたはずのアルビジアの身体は立ち上がった姿勢のまま宙へと浮き上がり、彼女を中心とした半径10メートルほどの範囲内にある物質が崩壊を始めていたのである。
脚も腕もだらりと力なく下に伸ばしたまま、力なく宙に浮き下を俯くアルビジアの表情を見ることはできない。ただ、神域聖堂内で吹き荒れる暴風とは対照的に、彼女の周囲というのは恐ろしい程の静けさに満ちていた。
床を埋め尽くす、宇宙を思わせる風合いの大理石は捲れ上がって粉々に破砕されていくが、それは何らかの力の影響によって壊されているというよりは“空間での存在を維持できずに自壊している”というように見て取れる。
自壊した破砕片はゆっくりとした速度でアルビジアへ吸い寄せられるが、その全ては先にリカルドが投擲した破砕片と同様に火の弾となってやがて燃え尽きていくばかりであったのだ。
彼方で引き起こされている現象を目の当たりにしたジョシュアは、このような状況を引き起こす唯一の空間を頭に思い浮かべる。
『これが、アルビジアの持つインペリアリス。あの子の周囲にある空間は絶対零度。いや、絶対真空というべきなのか。そして、中央に浮かぶアルビジア自身が地球のような惑星そのものとでも……』
マイナス270.15度の絶対真空。ありとあらゆる気体の運動エネルギーは限りなくゼロに近付き、活動を停止すると言われる宇宙空間における温度。人工的に構築することは絶対に不可能とされる絶対零度の世界。
風を操るということは、気体分子、或いは分子を構築する原子の配列や動きそのものを意図的に操作しているということもできるだろう。
加えて、彼女は時間経過の高速化、言い換えれば時間の圧縮という奇跡の力まで備えている。
アルビジアはそうした自身の能力を限界まで引き出し、宇宙空間に限りなく近い状況をインペリアリスの力によって生み出したのだ。
彼女が周囲に展開する絶対零度の球体空間に取り込まれた物質は、神域聖堂の空間温度との温度差異によって、熱膨張と収縮を瞬間的に繰り返した末に自壊。
巻き上げられた破砕片はアルビジアが発しているのだろう引力によって引き寄せられ、周囲に展開された大気層へ突入した際の断熱圧縮により燃え尽きていく。
ジョシュアは目の前で起きる現象に理屈というべき見当をつけながら思う。
『有り得ない、などとは言っていられないな。目に見えるものだけが全てではない、か。だとすれば、いかにゆっくりとした動きに見えようとも、あの空間内に存在するものは全てが等しく第一宇宙速度で動いているということになる。つまり――』
アルビジアに引き寄せられなかった破砕片が、彼女が生み出した空間を突き抜けた場合に起きる事象。
ジョシュアが頭の中で仮定の結果を描き終えた直後のことである。
それまで顔を伏せていたアルビジアが頭を上げると、オーロラ状に揺らめく、美しいジェイドグリーン色を輝かせる瞳が露となった。
彼女はそれ以外に身動き一つしようとはしなかったが、じっとリカルドを見据えて何かを呟いたかと思った瞬間に“それ”は起きた。
突然、地に伏せていたリカルドの肉体が爆発したかのように裂け、皮膚に刻まれた裂傷から鮮血が飛び散ったのである。
暴風に抑え込まれ動けずにいるリカルドに対し、目で捉えられぬ何かが確実に彼の身体を切り裂いていく。
2度、3度、一定間隔で噴き上がる鮮血は暴風に巻き込まれて大聖堂へと散り、星の如く輝きを持った白い模様を赤く染め上げた。
地面に伏せ、力強く耐えていたリカルドの背中が徐々に沈んでいく。先程まで痛めつけられていた自分達との立場が完全に逆転した状況である。
暴風の風切り音に紛れ、彼が発しているかもしれぬ苦悶の声は届かない。だが、ひとつ確実なことは、このまま事態が進めばアルビジアは確実に“リカルドを殺してしまう”ということであった。
どんな災厄的な形であるにせよ、彼女を人殺しになどさせるわけにはいかない。
ジョシュアは自身に残された力を振り絞り、上体を起こして届くかどうかも分からぬ声を上げ、彼女の名を叫んだ。
「アルビジア!! やめろ!!」
当然の帰結ではあるが、彼女に声が届いている様子はなかった。
しかし、ジョシュアは“可能性”に賭けた。声が届かなくても、自分の姿が見えてなくても、これまで共に過ごした日々の出来事をほんの僅かでも思い出してくれるのであれば。
短い間に過ぎないが、その生活の中で共に分かち合った“想い”を、ほんの僅かでも思い出してくれるのであれば、と。
「もうやめろ! 十分だ! 奴に動くだけの力は残っていない! お前はその手を、血に染めたらいけないんだ!」
必死に声を上げるジョシュアの願いは届かず、アルビジアは手を緩めることなくリカルドの蹂躙を続けた。
このままでは、アルビジアは本当に奴を殺してしまう――!
リカルドの殴打を受けたことによって死を近くに感じたからなのか、その以前に自分が不甲斐なさによって殺されてもおかしくない状況に追い込まれたからなのか。
今のアルビジアがリカルドを徹底的に痛めつけようとする理由に思い当たる節などいくらでもあるが、最初から自分達の目的はテミスやアンジェリカを、共和国の人間を殺すことではない。
戦争を停止させる為に実力行使に打って出る必要はあるが、それは今彼女が行っているようなことではないはずだ。
アルビジアは自分とは違う、定命の存在ではない。もし仮に、アルビジアが本当にリカルドを自身の力で殺してしまったら―― これからも無限に続くだろう時の中で、そのことを未来永劫抱えたまま生きていかなければならなくなる。
「そんなことを、させてたまるか! うおおおお!!」
ジョシュアは荒れ狂う風が支配する聖堂の中で気勢を上げて立ち上がり、一歩ずつ、一歩ずつアルビジアへと近付いていった。
距離は遠く、そのような速度で歩いて行ったからといって何の意味があるのかすら分からない。
だが、何もせずに“傍観するよりはずっとまし”だった。
アルビジアの周囲から放たれる散弾銃のような大理石の投擲と、周囲を渦巻く風の刃がリカルドの鋼の肉体を尚も切り裂き続ける。
その度に、僅かながらに姿勢を支える彼の腕は折れていき、身体全体が深く沈みゆく。
見ただけで分かる。今ここで攻撃を止めたとしても、あの大男にはまともに動けるだけの体力などもはや残されてはいない。
ジョシュアはなりふり構わずに叫ぶ。
「アルビジア、もう止めてくれ! いつもの、お前に戻るんだ! あるがままの自然を愛し、穏やかな自然に囲まれることを愛した、いつもの心優しいお前に!」
それでも尚、言葉は届かずに一方的な蹂躙は続く。
ジョシュアは左肩から伝わる激痛に歯を食いしばり、足に力を籠めると歩くよりも早く、それでいて走るよりはゆっくりとしたペースで彼女への距離を詰めていった。
彼女が意図的に張り巡らせた暴風の壁。情けなく遠方で転がっている自分を助ける為に吹かせた風の隙間を縫いながら。
「頼む、アルビジア…… 俺の言葉を聞いてくれ。俺達はまだ、何も失っちゃいないんだ。お前が守ろうとしてくれた俺は、まだここに立っている。だから、お前が奴らから何かを “奪う”必要もないし、奪ってはいけない」
ふらふらとした足取りでアルビジアへ近付くジョシュアは右腕を伸ばし、懇願するような眼差しを彼女へと送った。
アルビジアとの距離を詰めるにつれ、周囲の空気が氷に閉ざされた世界の如く冷気を帯びていくのが実感できる。
『これ以上は、無理か……!』
限界だ。一定の距離まで近付いた時に、ジョシュアは彼女へ接近することがそれ以上は困難であると結論付けた。このまま近付けば、自身の肉体もあの隕石のような速度で撃たれる大理石の破砕片によって切り刻まれることとなる。
『アルビジア――!』
許された行為はただひとつ。祈ることだけであった。
膝を折り、左腕を庇いながら床に伏せたジョシュアはそっと目を瞑りながら彼女へ祈った。
神への祈りを捧げるかのように、心から想いを念じる。
“貴方がたが私と繋がり、また私の言葉が貴方がたに留まっているのならば、何でも望むものを求めるが良い。さすれば、与えられん”
ジョシュアの脳裏にヨハネによる福音書 第15章7節の句が浮かぶ。
もし、自分達とアルビジアの間に絆があるのなら。それを彼女が心に刻んでくれているのなら。
光を呑み込むような、この氷に閉ざされたような冷たい世界から彼女を引き上げ、元の光ある温かな世界へと連れ戻そう。
そのようにジョシュアが祈った時のことである。
ふいに、周囲で荒れ狂っていた風がぴたりと止んだ。
ジョシュアは恐る恐る目を開け、アルビジアの方へと視線を向ける。
すると、先程まで周囲で巻き起こっていた超常的な現象は見られなくなっており、そこには憂いを帯びた表情のまま大理石の床へ足を付け、無言で佇む彼女の姿があった。
リカルドへ目を向けると、呻き声を漏らしながら大理石の床へと突っ伏したままの姿が見える。
見立て通り、もはや動く力が残されているようには見えないが、呼吸によって上下する体躯を見るに意識はあるようだ。
アルビジアは彼を殺さなかった。願いが、祈りが届いたのだろうか。
ジョシュアは再び視線をアルビジアへと向け、右腕に力を籠めて彼女へと伸ばす。遠くて、届きはしない手を必死に。
その時、唐突にアルビジアは腹部を抑えながらその場にうずくまってしまった。リカルドに殴打された場所の痛みがなくなっているわけではないらしい。
苦しそうな彼女の姿を見たジョシュアは歯を食いしばり、全身に力を入れてもう一度自分の脚で立ち上がると、ふらふらな足取りで彼女の元へと歩み寄った。
聖堂で灯っていた照明の多くが破壊され、今や数少ないぼんやりとした淡い光だけが宇宙のような景色を映し出す。
薄暗がりの中を歩き通し、ついにアルビジアの元へと辿り着いたジョシュアは半ば倒れ込むように彼女の傍で膝をついて言った。
「大丈夫か? 痛みは?」
その声を聞いたアルビジアは顔を上げて言う。
「私は平気です。痛みが残っているだけで、怪我などありませんから。それより貴方の怪我を、早く……」
「すまない。何の力にもなれなかった。だが、お前さんが無事でよかった」
「隊長さん、自分の心配をした方が良いわ。そのまま動かないで」
そう言ったアルビジアはジョシュアの左肩に手をかざした。彼女の瞳が淡いジェイドグリーン色に輝くと、ジョシュアの肩に温かな光が注がれる。
プロヴィデンスには〈成長促進〉と登録されている彼女の力。主に自然界に存在する植物に対して時間経過を早め、将来あるべき姿への成長を瞬時に完成させる異能である。
ただ、基本的には草木や果実などの植物に対して用いられることが多いというだけで“人間を含めた動物”に対して使用できないというわけではない。
自己免疫力と再生力を極限まで高め、時間経過と共に治癒する怪我や病気であれば瞬時に再生することが可能な異能でもあるのだ。
アルビジアによる治癒の光が灯されたジョシュアの左肩から痛みがひいていく。そうして、およそ半年先に得られるだろう結果を強制的に引き出された左肩は、すぐに元通りに動かせるようになった。
「しばらくの間、痛みは残るかもしれない。無理と知って言うのだけれど、無茶をして動かさないようにして」
「あぁ、そりゃ無理な相談かもしれないな。ありがとう」
再び動かせるようになった左腕の感覚を試しながらジョシュアが言う。そして、両腕でアルビジアをしっかりと抱き締めて言った。
「良かった。よく、踏み止まったな」
「貴方の声が聞こえたのよ。暗い宇宙の果てにただ一人、取り残されたようになっていた私の耳に貴方の声は届いていた」
「そうか」
「えぇ、そうよ。何かの聖典の句のように思えた。私には、その言葉の意味は分からないし、ロザリアのような気の利いた言葉なんて返すことは出来ないけれど、これだけは言わせて」
アルビジアはジョシュアの鍛えられた大きな体に身を寄せて言う。
「私と貴方たちとの間には、既に確かな絆が存在するわ。過ごした時間がどれほど短くても、それは間違いなく、此処に」
その言葉にジョシュアは頷いた。
数ヶ月という短い時間を共に過ごしたに過ぎない自分達の間にも、確かな繋がりが存在していたのだと分かれば、これほどに嬉しいことはない。
だが、2人が互いの無事を喜び合っていたのも束の間。
背後の離れた場所から大きな唸り声が響く。即座に後ろを振り向いたジョシュアは床に伏せていたはずのリカルドが身をよじりながら仰向けに倒れ込み、次いで立ち上がろうとしている様子を視界に捉えた。
「なんてしぶとい野郎だ。そのしぶとさに感謝しないでもないが、立ち上がって来られるのも面倒だ」
ジョシュアはアルビジアから腕を解き、すぐにリカルドの元へと駆け寄った。
そして、ポケットに仕舞い込んだスタンガンを取り出すと、慎重に照準を定めて言う。
「悪く思うなよ。今ここで、あんたを立ち上がらせるわけにはいかない。俺達はこの先に進まなければならないんだ。否が応でも、しばらく寝転がっていてもらうぞ」
「愚かしい。この場で殺さなかったことを、後悔するぞ」ひゅーひゅーとした吐息交じりの擦れた声でリカルドは返事をした。
ジョシュアは大きく首を振って応える。
「殺したことを背負って生きるより、殺さなかったことを後悔する方がましだ。少なくとも、俺にとってはな」
「お前自身のことではなく、お前の身の回りにいる人間に危害が加えられたとして、同じ言葉を言えるのかどうか。見物でもあるな」
「いいや。たとえこの場でお前を殺さなかったとして、お前が俺達に対する復讐の為に、わざわざそんな行動をする輩ではないってことくらいは俺にも分かる」
「知った風な口を。お前達に、我々の苦悩の何が分かると?」
「知ったことか。いや、知りたくもない。だがな、俺達は少なくともお前が守りたいと願う者の命を奪う為にこの場に来たわけではない。むしろ俺の信頼する仲間は、あの子が千年に渡って抱え込んでいる呪縛からあの子を解き放つ為にこの場にやって来た」
「愚弄だな。アンジェリカ様は、貴様ら如きに己の道筋を示して欲しいなどと考えてはおられない。あの御方は、自らが信じた道を、自らが描いた理想の為に、弱き我らを導きながら今まで生きて来られた。その歩みを否定する非礼と無礼、万死に値する」
「お前だって本当は分かっているのだろう? 見た限り、誰よりも近くであの子の姿を見続けてきたお前には、あの子が本当に欲していたものの正体が分かっているはずだ」
「我らがあの御方に与えるのではない。あの御方が私達に与え、我々の弱さという罪の為に、その慰み物として力を分けてくださっているのだ」
「ヨハネの手紙の引用か。詩人だな。であれば、何か?“神はそのひとり子を世に遣わし、彼女によって共和国の民に平穏を与え給うた。それによって、共和国の民に対する神〈アンジェリカ〉の愛が明らかにされた”とでも言うのか」
「アンジェリカ様が我らの神、尊き主であるということに違いはあるまい。だが、あの御方の前で愛などと言う言葉を軽々しく口にすることは憚られる。罪による罰、即ち裁きこそがあの方の愛であり全て」
「さぁて、それはどうだろうな。本当の答えを知っているお前は、いつまでも自身の想いを縛り付けるべきではなかった。もっと早くに、あの子に伝えてあげるべきだったのかもしれない。そのことにいつか、気付く日がくるだろうさ」
そこで2人の会話は途切れた。
睨み合うジョシュアとリカルドの間に静寂が訪れる。
互いの信念は譲らないという強い意思がぶつかり合う。
見果てぬ語らいの末、揺るがぬ決意を以てジョシュアはスタンガンの引金にかけた指を引き、電極針の最後の1発をリカルドに撃ち込んだ。
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