第5節 -意思の支配者-

*5-5-1*

 北西回廊=スキーローン。白亜の回廊を歩み進んだ先、イベリスと玲那斗はいよいよ第一に目指すべき場所、ウェストクワイア=ゼピュロスへと至る大扉の前に立った。

 薄く青みがかった灰色の扉には水を想起させる装飾や紋様が数多施されており、中央で分かたれる両扉には左右共に春の到来を告げる豊穣神、西風神ゼピュロスの彫像が埋め込まれている。

 ついに辿り着いた目的地。奥に待ち受けるものを想像し、玲那斗は俯きがちに身を強張らせるが、すぐ傍に立つイベリスの様子は実に淡々としたものであった。

 彼女は重厚且つ荘厳な装飾には見向きもせず、ただ扉の埋め込まれたセキュリティロックの操作パネルの前に立ち解錠の方法について思案している様子だ。

「突破できそうか?」

 今のイベリスはプロヴィデンスとリンクされている。自身の持つヘルメスを使うより、彼女自身の意志に判断を委ねる方が間違いがない。

 玲那斗はイベリスに問い掛けるが、当の本人は質問に答えることなく、まったく別の答えを返した。

「危険な仕掛けなどは見受けられない。中へ踏み込むことに障害は無さそうね」

 どうやら、彼女はセキュリティロックの突破方法を思案していたのではなかったらしい。扉そのもの、或いは開かれた扉の先に罠が存在していないかを確認していたようだ。

 ということは、おそらくセキュリティロックの突破方法については語るまでもないといったところなのだろう。

「正直、俺は怖いよ。扉の先に待つものを考えるとな。玉座の間へ至る為に必要な経由地点。4つに分けられているということは、君の言う通り1つ1つの聖堂をテミスが分担して守護しているという意味なんだろう。そして、俺の勘が正しければ――」

「西の大聖堂を守護神域とするテミスの1柱は彼女。アンがこの領域を護る立場にあると考えるのが自然ね」

「そう思っている。もし仮に、この扉の向こう側に彼女がいたとして、その時にどう向き合うべきなのか。覚悟を決めて、打倒していくしかないと分かっていても姿を見れば躊躇するんじゃないかって」

 小声で言う玲那斗に対し、イベリスはしばし考え事をする素振りを見せてから言った。

「貴方らしいと思う。えぇ、そうね。貴方らしいわ。ねぇ、玲那斗?」

「何だ?」

 一呼吸ほど間を空け、玲那斗の顔をしっかりと見つめながらイベリスは言う。

「この先で何があったとしても、その優しさを忘れないでいてね」


 彼女は穏やかな笑みを湛えてはいるが、同時に実に悲しそうな目をしていた。

 なぜそのような目をしているのか。もしかすると、彼女にはこの扉の向こう側に待つもの、或いはこの扉の向こう側で何が起きるのかが分かっているのではないか。

 理論的には大いにあり得る話だ。なぜなら彼女は今、〈プロヴィデンスの目〉を持っているのだから。

 全知全能の神が万物を視通す目。過去に起きた事象、今起きている事象、未来で起こりうる事象。そうしたことの全てが彼女の目には捉えられている。

 それならば、彼女が浮かべた表情に込められた意味とは―― 推して図るべきというところなのかもしれない。


 イベリスの言葉に対し、玲那斗は言葉なく頷くだけで返事はしなかった。

 それを良しとしたのか、イベリスは一度頷くと視線を目の前の大扉へ向け、扉に埋め込まれた電子パネルに向かって手をかざす。

 彼女の瞳が僅かに虹色に輝いたかと思うと、電子パネルからは実に軽い電子音が鳴った。セキュリティロックが解除されたようだ。

「行きましょう。私達の向かうべき場所に」

 イベリスがそう言った時、荘厳な大扉は重たい音を立てながらひとりでに開き始めた。まるで、この場にいる自分達2人を中へと誘うかのようにゆっくりと。

 大扉が解放されるにつれ、扉に遮られていた景色の向こう側、神域聖堂と呼ばれる空間が露わとなっていく。


 やがて大扉は固い音を立てながら完全に静止した。

 そうして扉が完全に開くのを確認した玲那斗とイベリスはしっかりと前を見据え、開け放たれた目的地の入り口へと踏み込んだ。

 聖堂内は照明の類が一切灯っておらず、闇に包まれていて周囲の状況を視通すことはできない。

 2人がウェストクワイア=ゼピュロスに完全に足を踏み入れると間もなく、背後の大扉が開け放たれた時よりも数段速い速度で口を閉ざした。

“逃げ道は無い”と。そう言うかのように、退路を断つかの如く。

 白亜の回廊から漏れ伝わってくる光が潰えると、本当の意味での漆黒が訪れる。

 視線の先に捉えられる範囲はせいぜい5メートル程度先までといったところだ。完全なる暗闇ではないということでイベリスの顕現は保たれているが、光が少ないという状況は自分達にとって決して有利な状況とはなり得ない。

 イベリスと玲那斗は身を寄せ合ったまま周囲の様子を探る。聖堂内に何があるのか。

 未だに状況は分からないが、足を踏み入れた途端に危機に陥るという状況にならなかったことは幸いというべきだろう。

 しかし、一切の油断はできない。イベリスがプロヴィデンスの演算によって得た未来予測と、この場で起きる事象が百パーセント同様であるとは限らないからだ。


 玲那斗はこの後、自らがとるべき行動について思案した。

 何も起きなかったことは幸いではあるが、踏み込んで尚、何か起きる気配もない。であれば、まずは周囲の状況を探ることから始めるべきだろう。

 こういった場合、暗闇の中で自らの居場所を知らせるかのようにライトを点灯させるのは悪手なのかもしれない。

 とはいえ一切の灯りがなく、周囲の様子が一向に掴めぬという状況では埒が明かない。

 耐えるだけでは道筋は示されないというものだ。痺れを切らした玲那斗は手に持ったヘルメスを掲げ、内蔵されている簡易照明機能を用いて周囲を照らそうとした。

 だが、ふいにイベリスがその行いを制止した。直後、こちらの意思を察したかのように遥か彼方、上方で無数の光が煌めいたかと思うと、一斉に眩いばかりの照明が灯ったのである。

 光のひとつひとつは淡いものであったが、それらが一瞬にして無数に灯火されたことで2人は思わず目を覆った。

 少しの後、光量に目が慣れた頃に目を覆った手を下ろし、周囲の状況を改めて確認する。


 そうしてついに露わとなったゼピュロスの威容。広大な聖堂に足を踏み入れた2人の目の前に姿を現した景色は圧巻という他になかった。

 データ上では、1辺が250メートルと表示される空間の壁面全てが透き通るガラス張りの空間。その向こう側には深海から南国の海まで、ありとあらゆる海域を思わせるような美しい色合いの水で満たされており、雪が舞うようなマリンスノーが幻想的な輝きを放っている。

 その場に佇むだけで、大海へ身を投じたかのような錯覚を覚えさせるほどの光景。

 あまりの絶景に玲那斗は言葉を失い、ただ自分が立つ場所の壮大さに圧倒されるばかりであった。

 そのすぐ隣で、イベリスも同様の感想を抱いている様子ではあったが、彼女はあまり周囲の様子を探ろうとはせず、ただひたすらに聖堂の中央へと目を向け続けている。


 ひとまず脅威となるものは存在しない。玲那斗は周囲の状況をしっかりと把握した後で、イベリスが見つめる視線の先を同じように見据えた。

 彼女が見つめていたのは、この国では見慣れてしまったネメシスの巨大な彫像である。

 義憤の女神。人が神に対して行う無礼、罪〈ヒュブリス〉を裁く怒りの具現。鋭利な剣を携えた彫像は堂々とした姿で彼方50メートルほど先に佇んでいる。

 玲那斗は一帯を改めて見回すと、アムブロシアーやテミスといった敵の存在が無いと見て言った。

「誰もいないな。このまま警戒しつつ先へ進むか」

 だが、そうして先へと進む為に一歩を踏み出そうとした時である。イベリスが片腕を伸ばし、歩みを制止して言った。

「待って。それ以上進んではダメよ」

「何だって?」

 彼女が意味もなくそのような行動をすることなど有り得ない。しかし、見た限りでは周囲に敵性存在は確認出来ず、特に足を止める必要性も感じないことも事実だ。

 怪訝な顔をして玲那斗は言う。

「何か、あるのか?」

 しかし、イベリスは何も言わなかった。

 イベリスはそのまま伸ばした右腕を下ろすと、玲那斗にではなく誰もいないはずの正面に向かって大きな声で言う。

「そこにいるのでしょう? 話しがあるのなら聞くわ」

 玲那斗はとっさに彼女の見つめる視線の先を追いかけた。見つめる先は先ほどと同じ、ネメシスの彫像がある方向だ。

 息を呑み、身構えたままじっと様子を窺う。すると、ふいに1人の人影が現れた。

 影の主は、ゆったりとした歩調のヒールの音を鳴らしながら2人の前に歩み出て言う。

「随分と久しぶりに感じるわね。僅か、2週間。その時間が永劫に続いていたかと思うほどに」

「えぇ、そうね。時の流れは誰にでも等しく一定ではあるけれど、与えられた時間の中で何を思い、何を為すのかは個人の意思によるもの。

 機構を去り、共和国へ戻るという選択をしたことで、貴女の中では時が止まってしまったのかもしれない」

 イベリスと会話した声の主の姿を見て、玲那斗は安堵を感じるとともに、抱いていた懸念が現実のものとなってしまったことを嘆いた。


 アンディーン・ナイアス・マックバロン。今、イベリスと玲那斗の前に立ち塞がった人物は彼女その人だったのだ。

 機構に在籍していた当時と変わらない、冷静で凛とした佇まいに威厳を感じさせる雰囲気を纏う女性。

 機構の隊員服ではなく、軍服にも似た服装に身を包む彼女は左腰に長身のサーベルを携えている。

 2週間前に見た時と同じく、漆黒の外套を身につけており、おそらく背後には共和国の重鎮たるテミス以上の人間が纏うことを許された紋章、悪意を抱きしヒュギエイアの杯が刻印されているに違いない。

 どこからどう見ても彼女ではあるが、その出で立ちから理解しなければならない。

 彼女はもはや、機構の隊員であった時の彼女ではない。ルーカスと共にプロヴィデンスの開発に携わった良き友であり、共和国への道のりを共に過ごした彼女ではないのだ。


 それでも、困惑の表情を隠し切れずにいたのだろうか。

 つかつかと近付いてくるアンディーンは、玲那斗の姿を捉えて言った。

「姫埜中尉。そのように身構えないでください。私はこの場において、貴方がたと争いをするつもりはありませんから」

「争うつもりがない? テミスの一柱である君が? そんなことをすれば、アンジェリカが黙ってはいないはずだ」

「私が、アンジェリカ様の御意思と御命令によってこの場に身を置いていたとしましょう。しかし、その先の行動については全て私個人に委ねられたものです。なぜなら、この神域聖堂ゼピュロスの支配者は他でもない私なのですから。誰に従い、何を為すのか。何を思い、何を掴み取ろうとするのか。そして、最後に何を選び取るのか。選び取る自由は私の手の中に在ります」

 アンディーンはそう言うと、左腰に携えたサーベルを鞘ごとベルトから取り外すと、それを左手に持って勢いよく側方へと放り投げた。

「何の真似だ?」

「見ての通り。私にはこの場で貴方がたと争う意志がないということの証明です。私は貴方がた2人に…… いえ、機構と国際連盟、及び世界連合軍へ無条件降伏を申し出ると言えば宜しいのでしょうか」

「何だって?」

 玲那斗の問いにあっけらかんとした表情で答えたアンディーンは、何を迷う風でもなく歩みを進めて2人に近付きながら続ける。

「分かりやすく言い換えましょう。私は共和国を裏切り、貴方がたに降伏します。先に申し上げた通りです。私は私の意思に従うというだけのことでしかありません。

 特にイベリス様はお気づきかと存じますが、先の海戦の折にネメシス・アドラスティアの機関が暴走をした主要因は全て私の行いによるもの。それが結果として、アンティゴネを沈めるという結末へと至り、貴方がたをアンヘリック・イーリオンへと導く為の突破口を開くことに繋がった。

 私は最初から、世界連合が共和国に対して、戦いを有利に運ぶことができるようにする為だけにこの地へ戻って来た。忠義や恩義より、自らを生かし育んだ世界というものを守りたいと思った。

 そう、全てはイベリス様。貴女様の言葉による導きがあればこそ。可能性を信じるという強さに憧憬を抱くと共に、やはり自らの気持ちに嘘はつけないと考えた末の結論です」

 そうして、アンディーンは2人との間合いを10メートルほどに詰めた所で足を止めた。

 僅かな間、イベリスとアンディーンの視線が交錯する。先程から黙って彼女の言い分を聞いていたイベリスが言う。

「もちろん、気付いていたわ。プロヴィデンスのバックドアを経由して送信された不正プログラム。ネメシス・アドラスティアの機関部を意図的に暴走させ、自滅させる為だけに用意されたもの。全てはシステムとリンク接続された私が、不正プログラムの実行を許可することが無ければ起こりえなかった事象。

 そんなことをやり遂げられる人物がいるとすれば1人しか有り得ない。私の言葉を信じ、貴女は貴女自身の心に従い、この結末を引き寄せた」

「はい。故に、ここで私の役目は潰えるのです。後のこの身の処遇についてはお任せします。如何な処罰も甘んじて受け入れましょう。もちろん、戦争犯罪人として断罪されることも含めてです」


 戦う意思はない。武器を捨て、降伏の意を示すアンディーンに対し玲那斗はほっとした気持ちを抱いていた。

 彼女を自分達の元へと取り戻し、無傷のままアンジェリカの元へと辿り着く。目的を念頭に置いて語るのであればこの上なく、理想の状況といえるだろう。

 だが、次にイベリスが発した言葉に玲那斗は耳を疑った。


「そう。では、この決戦の指揮を預かる者として貴女に申し伝えましょう。甘んじて処罰を受け入れるというのなら、貴女にこの場で与えられる罰はただひとつ。今すぐに、私達の前から消えなさい」


 何だって?

 玲那斗は思わずイベリスへと視線を向けて詰め寄る。

「イベリス? どうしてそんなことを!」

 2人の前に立つアンディーンも顔を伏せ、俯きながら悲し気な声で言う。

「イベリス様がそのように望まれるのであれば、それもまた定めであるということでしょう。言葉を素直に受け止めるのであれば、この場で自らの命を絶てと―― そういうことで宜しいでしょうか」

「待て! アンディーン! なぁ、イベリス。どういうつもりだ?」 

 訳が分からない。無抵抗の相手に対し、どうしてそんな残酷な選択を迫る必要がある?

 彼女が共和国に身を置いた人間だからか、それともさらに自分達を裏切る可能性があるからか。

 玲那斗はイベリスに縋るように詰め寄り、真意を問いただそうとした。

 しかし、イベリスは片時も目の前に立つ彼女から視線を外すことなく言った。

「玲那斗、彼女から目を離してはいけない。彼女は“私達の知っている彼女ではない”のよ」

「何?」

 この言葉を何度言っただろうか。混乱する頭では理解が及ばない。玲那斗は言われた通り、恐る恐る視線をアンディーンへと向け直すが、既に目線の先に彼女の姿はなかった。

 代わりに彼女の姿は“自身のすぐ眼前にあった”のだ。

「っな!!」

 酷い形相をしたアンディーンが、投げ捨てたはずのサーベルを振りかざし、今まさに切りかからんとする態勢で目の前に迫っていた。

『避けられない!』

 玲那斗は内心で思い、覚悟を決めて歯を食いしばった。ところが、彼女が振りかざした刃は振り下ろされる前に遥か後方へと弾き飛ばされ、空中で粉々に破砕されて見えなくなったのである。

「へぇ、やるー★ ねぇねぇ、いつから? いつから気付いていたのかな★」

 右手を数度振りながら、蔑んだ目をイベリスに向けたアンディーンは甘ったるい声を発した。

「いつからも何も、最初からに決まっているでしょう? 貴女の考えそうなことくらい、今の私には手に取るようにわかるのだから」

「きゃはははははは! あぁ、怖い怖い★ 機械と一心同体になった王妃様は、これだから」

 そう言ったアンディーンの姿をした誰かは身を翻し、一瞬の内に2人から距離を離した。

『アンジェリカ!?』

 事の顛末を見て、ようやく一連の出来事の真実を悟った玲那斗は苦み走った表情で遠くに立つ彼女の姿を改めて見据えた。

「んもぅ、待てど暮らせど誰も来ないからさー、退屈で干からびそうだったんだよ? しかも、やっと来たと思ったらさ。2人ともここに入ってからの行動がじれったいったらない! だーかーら、痺れを切らせつつも、せっかく歓迎の意を込めて一芸を披露してあげたっていうのにさ? そんなに冷たくあしらわれるとちょっぴり悲しいじゃない?´・・` 悲しくない? あ、そう。

 そーれーに、ここ! そもそもここはー、私の城! なんだよ? 部外者が堂々と~、無断侵入しているのをここまで見逃してあげているだけでも感★謝して欲しいなー^^」

 ケタケタと無邪気な笑い声を上げた目の前の女性は、赤紫色の光の粒子に包まれるとみるみるうちに幼い少女の姿へと変貌していった。

 見覚えの深い桃色髪のツインテール。赤紫色に輝く瞳を持つ、人形のように愛らしい姿をした少女。

 アンディーンへ擬態した姿から、正体を顕したアンジェリカが改めて言う。

「とーこーろーで。今の私に君達と争う意思がないというところだけは事実! 今の私は実態を持たないただの影。君達に直接、物理的な干渉をすることは叶わないのである! 素直に受け止め喜び、心に留めておいてくれたまえ! きゃるん☆^^」

「さっきの剣を見る限り、そういう風には見えなかったがな」

「んー? あー。まぁ、そうだね? 私自身は干渉できないけどー、剣が影、つまり偽物だなんて一言も言ってないしー?」

「ほら見ろ。つい今しがた、殺意を向けた相手によくもぬけぬけと言う」

 皮肉を込めて玲那斗が言うが、にこにことした笑みを浮かべたままのアンジェリカは楽しそうに答える。

「ノンノン! 嘘は吐いてないし、殺意なんて微塵も向けてない、ない☆ ただ驚かそうと思って演技しただけだからさー? 元々当てるつもりなんてなかったし。結果として、脅かそうとしたら分厚い光の壁がそこにはあってさ、剣は弾かれ粉々になり、私の腕がびりびりじ~んとなったというだけの話なんだなー、これが☆

 そ・れ・に、君ぃ。もし本当に私が玲那斗を殺そうとしていたならさ、君の隣にいるその怖い怖い王妃様が一歩も動かず、何もせずに言葉だけで済ませるはずがないじゃない?

 きっと今頃、収束された光によってこんがりと焼き上がった、焼きアンジェリカが完成している頃合いだと思う^^

 ね? ね? 説得力ある言い分でしょう? きゃははははは☆>▽<

 食べても美味しくないよ♪ きゃははははは!」


 確かにそれはそうかもしれない。玲那斗は苦虫を噛み潰した表情でそう思った。

 一理あるし、業腹ながら納得せざるを得ない。イベリスはこの聖堂に足を踏み入れた時から、いや、おそらくは足を踏み入れる前から彼女がここに潜んで何か企んでいることに気付いていたのであろう。

 しかしながら彼女から殺意は感じていなかった。故に、敢えて手を出すことも無く言葉によるやり取りだけを続けたのである。

 もし仮に、彼女が先に振りかざした刃を本当に突き立てる意思を見せていたなら、今この場でイベリスとアンジェリカが互いに立ったまま呑気な会話に興じているなどということは有り得ない。


 だが、そうなってくるとひとつの疑問が生じる。

 この神域聖堂、ウェストクワイア=ゼピュロスはどう見ても明らかにアンディーンが守護を担う領域だろう。

 であるならば、“なぜ、この場に彼女がいないのか”だ。

 嫌な予感が込み上げる。先の会話で、アンディーンに擬態したアンジェリカは彼女が共和国に対してどんな行為を働いたのかを明確に言ってみせた。

 イベリスも彼女の言葉を否定することなく、事実であると認めたのである。

 考えたくはないが、この状況から導き出される答えはひとつ。玲那斗は声を曇らせて言った。

「アンジェリカ。ひとつ君に聞きたい」

「良いともー^^ 玲那斗からの質問だったら何でも答えちゃう。王妃様はー、めっ! なんだけどね?」

 相変わらず人の気を乱す物言いをするが、これに構っている余裕などない。単刀直入に言う。

「この場はテミスが守護し、治める神域聖堂なんだろう? この聖堂の本来の守護者は君が化けていた通りの人物、アンディーンのはずだ。端的に聞きたい。彼女はどうした?」

 玲那斗の質問を聞いたアンジェリカはきょとんとした表情を浮かべたかと思うと、すぐに満面の笑みを湛えて答える。

「え?・_・ 殺しちゃったよ?^^ だって、あの子は私達を裏切ったのだから当然でしょう? 罪人には相応の報いを受けてもらう。罪過は罰にて償う。人の世の摂理も、私の中の摂理もそう大した違いはないと思うんだけどー、何か違う? そっかー……

 でもでもー、あの子は私に忠義を尽くしてくれたからさ。私が与えられる最大の“愛”を与えてあげたんだー☆」

 分かっていたことだ。ネメシス・アドラスティアを故意に暴走させ、撃沈寸前まで追いやるという裏切りを働いた彼女をアンジェリカが許すはずがない。

 とはいえ、実際に口の先に出された言葉を聞けば、堪えがたい感情が心の奥底から噴き上がるのを抑えるのは難しかった。

「アンジェリカ…… 君は――」

 怒りに震える声で玲那斗は言ったが、その言葉を言い終えるよりも先にアンジェリカが遮って言う。

「狂ってる。そう言いたいんでしょ? 分かってる、分かってるぅ☆ でーもー、当の昔に狂ってしまっているのは世界の方だしさ? 私からすれば、そんな世界に欠片ほども存在しない“可能性”を信じるだなんて真顔で言っちゃう君達の方がよほど狂ってると思うんだー♪」

「それでも!」

 玲那斗は前のめりになって言い返そうとしたが、会話を聞いていたイベリスが肩に手を置いて思いとどまるように促した。

 玲那斗はイベリスが肩へ置いた手を握り、止めないでくれという視線を向けるが、対する彼女は悲し気な表情をしたまま小さく二度ほど首を横に振るだけで、何かを言うことはしなかった。

 イベリスの表情を見た玲那斗は耐えて言葉を呑み込む。憤り、やるせなさ。そうした感情を強く抱いているのはきっと彼女の方であると感じたからだ。

 なぜなら、アンディーンが自らの心の内に秘めた想いに従い、共和国を裏切る最大のきっかけを与えた者こそイベリス自身なのだから。


 イベリスは玲那斗から視線を外すと、刺すような眼差しをアンジェリカへ送り、静かな怒りを込めた口調で言った。

「これまで、再三に渡って言われ続けてきたことだから分かっているわ。そして、貴女が理想であると考える正しさを一切曲げる気が無いということも十二分に分かっている。けれど、私達は貴女が夢と呼ぶそれを、理想と呼ぶそれを認めることは出来ない」

 離れた場所で静かに言葉を聞いていたアンジェリカは、ふいに表情を冷たく変化させ、同じように静かな口調で言う。

「だから力づくで止めると。嗤ってしまうわね? 結局、貴女だって最後にやっていることは私達と何ら変わりないじゃない。自らの正しさを証明する為に、大いなる力を以て敵を屈服させるというやり方」

 アンジェリカはそこまで言うと、興が醒めたとでも言うようにくるりと後ろを振り向き、つまらなさそうな声色で続けた。

「イベリス。貴女が理解できないのは私の考えや私の心ではない。人は千年経っても変わらないという事実。変わらなかったという事実。貴女はただ、その事実を認めたくないだけなのよ。

 可能性だなんて耳障りの良い言葉で、どれほど高尚な理想を唱えようとも全ては絵空事でしかない。貴女の語る言葉に惑わされ、踊らされた人々が辿る結末はとても悲惨なものになる。

 それこそ、私がこの手で殺した“あの子”のように。

 分かっているのかしら? 貴女が言葉を並べれば並べるほどに、長い長い歴史を直接この目で見て、この身体で感じて、痛みを味わってきた私達に対する侮辱が積み重ねられていくだけだということを。

 アンディーンのように、清廉なる言葉で語られる理想に踊らされ、自らを見失った挙句に悲劇を被る犠牲者が増えるだけだということを」

「それは誤解よ。私は――」

「黙りなさい」

 アンジェリカは僅かに振り返り、鋭く突き刺すような視線をイベリスへ向けて言った。

 先程まで見せていたような無邪気さは、もはやそこには存在しない。今のアンジェリカから放たれているのは禍々しいまでの殺気である。

 地獄の底から湧き上がる怨嗟の声が聞こえるかの如く。この世全てを呪い尽くすかのような重圧を彼女は放っている。

 とても幼い少女から発せられる気配とは思えない。ましてや、これが本体を模しただけの“影”から発せられるものであるなどと。

 ただ目にしただけで足が竦んでしまうような、一歩前に踏み出す勇気を瞬時に挫くかのような、絶対的強者しか持ち得ない凄みを前にして玲那斗は身を後ろへ引いた。


「話は終わりよ。もう、貴女達と言葉を交わすことに意味なんてない。絶対に相容れることのない意思と意思のぶつけ合いなんて、答えの存在しない問いに思い煩うのと同じくらい“意味の無い行為”だわ」

 前を向いたアンジェリカは背を向けたまま歩き出した。

 やがて、彼女の身体は赤紫色の光の粒子に包まれ、徐々に姿形を消していく。

 大聖堂ゼピュロスから完全に姿を消し去る前にアンジェリカは言う。

「貴女自身の正しさを証明したいのであれば、玉座の間へと来なさい。私の前に貴女達が立った時、改めて歓迎してあげるわ」

 そう言い、光の粒子を煌めかせながら彼女はその場から完全に姿を消し去った。


 同時に、先程までは存在していなかったはずの大きな扉が、遥か視界の彼方で大きな口を開いている様子が窺えた。

 ゼピュロスを抜け、暗闇に包まれたあの通路を越えた先に彼女が示した場所が存在するのだろう。

 玉座の間。意思の支配者〈ローズ・オブ・ウィル=スローネ〉。

 アンジェリカ自身が支配統治するアンヘリック・イーリオンにおける絶対の空間。

 辿り着いたなら引き返すことはできない。そこが正真正銘の、彼女との最後の決戦の場となる。


 視線の先に現れた、進むべき道を見つめてイベリスが言う。

「玲那斗、行きましょう」

「あぁ、そうだな」

 力強く頷いて玲那斗は言った。

 恐怖や不安がないわけではない。むしろ、そちらの気持ちの方が強いというのが本心である。彼女本人ではなく、ただの影が見せた凄みにすら身を引いてしまったのだから。

 身に宿す力を、躊躇なく最大限に振るう彼女と直接対峙した時のことなど考えるべきではないだろう。


 しかし、それでも…… である。


 イベリスと玲那斗は、どちらが何を言うでもなく互いの手を強く握り合った。

 人の歴史を照らす、希望の光たる少女と、彼女に無限の力を与える存在。

 互いが寄り添い合いさえすれば、圧倒的な恐怖を前にしても乗り越えることが出来る。


 長き歴史の中で、アンジェリカが決して手に入れられなかったものを胸に、イベリスと玲那斗はウェストクワイア=ゼピュロスを通り抜け、最後に目指すべき場所へと向けて歩き出すのであった。



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