*5-4-6*

 蒼炎を纏う大鎌が美しい放物線を描いた直後、世にも恐ろしい兵士の二分割された体が宙を舞った。

 楽園と形容すべきこの大聖堂を覆い尽くす黒い死の群れ。アムブロシアーの壁の向こう側で、死神のような天使が悪意を身に纏う兵士達を次々と亡き者にしていく。


 アシスタシアが奮戦する彼方の光景を見やりつつ、ロザリアの作り出した蒼炎の防壁に守られたルーカスも、この地獄のような時間を終わらせる為の糸口を見出そうと頭脳を使って奮戦していた。

『生体反応無し、熱源反応無し。あるのは明らかな死体の反応だけ。元気に動き回る死体の群れなんざ、映画の中だけで十分だっての』

 目の前に広がる映画さながらといった悪夢の光景に眩暈を感じつつ、ルーカスは内心でぼやいた。

『全部、あの女だ。急がないとな』

 先程から居場所の特定を試みている相手とは、もちろんシルフィーである。

 彼女は嘲笑の笑みを湛え、死の兵士を大量に顕現させるとすぐにどこかへ消え去った。

 とはいえ。あくまで勘に過ぎないにせよ、彼女自身がこの場から離れたというわけではないということは分かる。確信していると言って良い。

 なぜなら、相手の狙いが実にはっきりしたものだからだ。

『総大司教様のエネルギー切れを狙ってるってか。質の悪さは噂、というよりはデータ通り。最初から自分の手を汚すつもりすらないときたもんだ』

 持久戦に持ち込み、こちらが消耗したところを仕留めるという作戦。

 中でも、3人の中で核となるロザリアに目を付けていることは間違いない。彼女さえ討ち果たしてしまえば、自分達2人を無力化するなど容易いことなのだから。

 こうした仮説が前提としてあるが故に、状況を放置したまま彼女自身がどこか遠くへ離れたということは考えづらい。

 姿無き今も、時が来ればすぐにロザリアを仕留められるよう、自分達の近くで状況を見守っていると考えるのが妥当なところである。

 機会が訪れるのをじっと待ち続け、その時が来れば打って出る―― 何とも単純な作戦だ。

『情報の精査をする上で、やっぱり厄介なのはこいつらだな』

 ルーカスは視線を蒼炎の防壁の先に向け、再び内心で悪態をついた。

 目の前に溢れ出てくるアムブロシアーの大群は尽きることがない。無尽蔵に湧き出てくる彼らをどれだけ葬ろうと、どれだけ消し飛ばそうと意味がなく、終わりも無い。

 終わりなき命を持つ彼らは何度でもロザリアとアシスタシアの前に立ちふさがり、確実に彼女達2人の精神力と力を削ぎつつある。

『この世界に永久や無限なんてものは存在しない。あの2人が力を使い果たす前に何とかしてやらなきゃな。

 だが、同じことで不死なんてものも幻だ。こいつらは死なないんじゃなくて、死んでもすぐに元通りになっているだけ。元々、生があると言っていいのか分からねぇ死体と同じ奴に、死という概念があるのかも知らないが、こいつらは生と死という輪を連続で循環しているような存在。東洋では輪廻っつうんだっけか? ま、他の命に成り代わることなく“元通り”ってところで、そう言えるのかも分からないがな』

 そう。漆黒の不死兵とはよく言ったものだが、実質彼らは不死なのではなく“個体としての有限の命がない”だけなのだ。

 死ねば元に戻る。それを繰り返す屈強な兵士。死という概念が存在しないわけではなく、死んではいるがすぐ生き返るという代物なのである。

『ただのゾンビじゃねーか! あぁ畜生、そんなこと考えてる場合じゃない! っつーより、意味がないと分かっていても対処のしようがないのが悪い。あの兵士の相手をすることが究極の無駄であることはわかっているんだ。なら親玉であるあの女の居場所を探り当てて動きを封じるほかに手はない! っが、クソっ! どこにいやがる! 場所が分からない以上は奴らの相手をせざるを得ない…… 悪循環極まれりだな』

 ロザリアに背中を預け、ルーカスは内心に焦りを抱えたまま情報解析を継続する。大聖堂内の生体反応の全てをスキャンし、その中からシルフィーの生体データに該当する個体の位置を特定しようと試みるが返ってくる答えは常に一定だ。

『方法は間違っちゃいない。アンディーンから送られてきたデータで奴自体の判別はできるはず。アンジェリカの生体データがプロヴィデンスに登録されていたのと同じように、他のテミスのデータもしっかり登録されていたからな。

 だからこそ、データ上から奴のデータを抽出し、マップデータに照合を掛ければ位置特定なんざ、なんてことはないと踏んでいたが…… あの女、ハーデスの兜に類似する何かを使ってやがるな。まったく反応を見せやしない』

 そう言いつつ、ルーカスは自ら内心でこぼした愚痴に、有り得ない点があることを自覚した。

『ハーデスの兜―― いや、厳密には違う。この状況下でハーデスの兜の使用は有り得ない。奴は自ら望んで持久戦、消耗戦を仕掛けてきたんだ。ハーデスの兜は莫大な電力を消費して初めて姿の完全なる隠匿を実現できる外装。短期決戦における兵装としてはこれ以上ないほど優秀だが、長時間のかくれんぼでは“これ以上ない程不利な代物”と言える。である以上、あの女が使っているのはおそらくハーデスの兜とは別ものってことになる』

 集中して考え事をする最中、すぐ隣でロザリアが言う。

「極力、早くしてくださいまし。アシスタシアはともかく、わたくしが貴方の護衛を続けられる時間には限りがあります。時間が経過すればするほど、口にしたくはありませんが退かざるを得ない状況になるやもしれません」

 そんなことは分かっている! そう言いたいところであったが、存外に余裕のない声で言ったロザリアの声の様子から察するに、先の言葉は皮肉の類ではなく心からの本心なのだろう。

 彼女も、戦うことのできない自分の為に持てる力の全てを使って命がけで護ってくれているのだ。ルーカスは文句を言いたい気分をぐっと呑み込み、手間取っている申し訳なさも込めて言った。

「すまない、もう少し時間をくれ。何か1つだけ、ヒントがあれば……!」

 そのように返事をしつつも、焦燥感を増す内心ではあらゆる可能性についての精査と思考を継続した。

『えぇい! 電力を消費せずに完璧に姿を隠匿し続けられる存在。なんだってんだ! そんなものに該当は無い。やはり、あの力自体がアンジェリカの絶対の――』

 ところが、そこまで思いを巡らせた時であった。ふと、ハーデスの兜について閲覧した時の記載内容が頭に浮かんだのである。

『いや、待てよ。確か……』

“ゆっくり急げ”とはこのことだ。少し回り道になるかもしれないが、ルーカスは改めてハーデスの兜に関する試験データをヘルメスで再閲覧した。



MDCCLXVI - File code:GESW00357 TYPE:Classified〈機密情報〉

【ハーデスの兜】

 グラン・エトルアリアス共和国 特別兵装 第357番

 製作者:技術開発顧問 アビガイル・ウルカヌ・サラマドラス


 軍事隠密行動用外装。人間の視覚による目視、機械の目による認識、機械の探知能力による認識の一切を阻害するステルス性能を備えた布を加工して作る衣類や羽織りなどを指す。

 簡易には〈姿を透明にする生地を用いた服飾〉を示す。


 簡易仕様:特殊生地を使用して制作した衣類・羽織に電気的な信号を付与し効果を発現

 電源供給:太陽光充電システムを基本とし、その他各種電源からの充電を可とする

 開示素材:ニッケル酸サマリウム(SmNiO3)他 その他物質は非開示とする

 生成コード:MDCCLXVIデータベース上の各項目を参照のこと


 課題:

 エネルギー消費率に難あり。継続した充電が出来ない環境下において、エネルギー使用量過多の問題から使用に制限が課される。他、布地そのものに損傷を負った場合の修復は困難な他、兵装としての防御力は皆無である点に注意されたし。

 被験者ライアーは充電問題について太陽光充電に不足が生じた場合、盗難車両プラグからの充電を実施していた。


 その他、旧式のデジタルカメラや現代基準に満たない性能のデジタルカメラでの撮影によって、本武装を纏った者の姿が空間を歪めたような形で映り込む可能性を確認。

 国際連盟 セクション6 筆頭秘書官 アザミの撮影したデジタルデータによる参考画像は添付コード0012を参照のこと。


 上記両項目ともに修正対応の必要は無しと判定。課題は〈ギュゲースの指輪〉に引継ぎ改善を施すものとする。


〈ハーデスの兜 評価試験〉

 試験ステータス:実施完了

 承認日:西暦2031年10月

 承認者:総統 アンジェリカ・インファンタ・カリステファス

 評価:B+ 自発エネルギー源を持つ戦闘兵器の装甲素材へ技術転用を検討

 実験地:ハンガリー 首都ブダペスト

 実験日:西暦2031年11月から12月25日まで

 被験者:ライアー

 最終データ更新:西暦2032年1月



 閲覧を終えたルーカスはある1文に目を留める。


“上記両項目ともに修正対応の必要は無しと判定。課題は〈ギュゲースの指輪〉に引継ぎ改善を施すものとする”


『ギュゲースの指輪だって?』


 それはリュディアの民であったギュゲースが手に入れた、姿を完全に隠匿することが出来る指輪であり、ギュゲースはその力を以て王の座へと上り詰めたという。

 その時、ルーカスの脳裏に先程シルフィーがロザリアと言葉の応酬を繰り広げていた時の光景が蘇ってきた。

 遠目からだった為によくよく見たわけではないが、シルフィーが右腕を自身の胸の前に掲げた時、彼女の右手中指には確か金色の指輪が嵌められていたはずだ。

 思い返せば、歴史書などに描かれるギュゲースの指輪と瓜二つの代物であった。

『あれのことか!』

 思い立ったルーカスはヘルメスからプロヴィデンスのデータベースへアクセスを行い、これまで踏み込むことの無かった情報保管区域へのアクセスを試みる。

 士官などの立場でなければ閲覧することの出来ない機密データが収められた区域。閲覧する為には特別な許可が必要であり、今であればプロヴィデンスと接続されているイベリスへ許可申請を送り承認してもらうことが必要条件というわけだ。

『頼む、すぐに返って来いよ!』

 総大司教である彼女の隣に立ちながら、この期に及んで初めて“神頼み”などという思いに自分が至ろうなどとは思いもしなかった。

 僅か数秒が永遠のように感じられる中、イベリスへ送信した許可申請はあっさりと受諾される。

 焦る気持ちが押し寄せる中、一度深呼吸をしてから機密データ区分のデータ参照を開始する。

 そしてついに、目的のデータを見つけ出すことに成功して叫んだ。


「あった! これだ!」


                   *


 眼下に広がる楽園の絶景。一言で形容するのであれば“天界を思わせるが如く”と言い切ることに疑念の余地はない。


 堂々たる風情が大聖堂の荘厳さと相まって見る者の心を震わせる。歴史的絵画などの芸術品の世界に、自分自身が入り込んだと錯覚させるほどの圧倒的なまでに完成された世界観。

 故に、この聖堂に足を踏み込んだ者にとって一見すれば“何も無い”ように見えるが、実のところ第三者の目から見れば、足を踏み込んだ人間がいてこそまさしく“完成された芸術作品”となるのだ。

 もし仮に、この空間の在り方が世界に発信されたなら、瞬く間に賛美と賞賛の喝采が浴びせられるであろう。

 だが、他に類を見ないほどの芸術的な空間の存在は、この聖堂の守護者たるテミスの一柱にとっては当然のことであった。

 なぜなら、この聖堂の主である彼女は長い歳月をかけて“天界を思わせる至高の景色”そのものを作り上げてきたのだから。

 城塞の正面玄関を過ぎた回廊に飾られた幾多の絵画と同様、主君であるアンジェリカより与えられた神域聖堂も自らの感性に則ってデザインされた作品のひとつだ。


 そして今。至高の芸術作品たる神域聖堂には、他に類を見ない究極の芸術作品の姿が1人存在している。

 上方より階下に広がる広大な楽園を見下ろすシルフィーは、彼女の姿をじっと見据えて感慨に耽る。

 完璧なる超常の作品、世界に1体しか存在し得ない【女性美の極致】。蒼炎を纏う大鎌を軽々と振り回し、不死兵アムブロシアーの大群をいとも容易く次々と葬り去っていく。

 数にして、十、二十、三十…… 以後は数えるのを止めた。

『何て素晴らしい至高の芸術。千年を生き、カテドラルに座する彼女が生み出した人形。自らの記憶の中において、最も優れた容姿を再現したと言われる女性美の極致。1年前にアンジェリカ様より聞き及んで以後、じっくりとこの目で眺めてみたいと思っていた。

 わたくしの作り上げた至高の芸術、風の大聖堂エウロスに相応しき最後の欠片。あぁ、あぁ、彼女をこの手中に収めることが叶えばどれほど素晴らしきことか。

 叶わぬ欲望であるとはいえ、思わずにはいられない。思わずにいることなど、できはしない』

 母親の似姿こそが女性美の極致であるというのなら、母の面影を存分に引き継いだ自らもまた然り。

 誰の目にも映らず、気配すら感じさせることなく聖堂の全てを見渡す特等席に腰を下ろすシルフィーは、うっとりした表情のまま彼女の姿を追い続ける。

 しかし、同時に彼女の恐ろしさについて考えを巡らせないわけにはいかなかった。

『けれど、けれども。あのような恐ろしき力を持つ彼女を、このままにしておくなどという愚行を犯すわけにもいかないといったところ。至高であると認めるからこそ、壊さずにはいられない。彼女はわたくし達にとっての障害。故にこそ、排除しなければと―― 思わずにはいられない』

 

 無限に死に絶え、無限に再生しては顕現を繰り返す。彼女達へと襲い掛かるアムブロシアーの大群。

 彼らが感じているであろう通り、消耗戦を仕掛けているはずなのだが、今目で追いかけている彼女に対してだけはまるで意味を成していない。

 ただ、他の2人に対してはそのうち効果を発揮していくであろう。総大司教たる彼女がどれほど強大な力を持つ化物であろうと、力そのものが無限に行使可能なわけではないと踏んでいるからだ。

“無限”とは夢幻である。多くの人類が叡智をもって追い続ける永久機関が完成の日の目を見ぬのと同じことで、そんなものは夢、或いは幻の類でしか有り得ない。

 アビガイル曰く、ミクロネシア連邦で観測したデータを元に計算を行えば、イベリスを始めとするリナリア公国出身者が全力で異能を行使し続けられる時間はせいぜいが15分が限界であるという。

 能力の行使を制限した状態でも30分から1時間もすれば限界に達するのではないかという見立てであった。

『恐ろしき不可視の薔薇。他者の記憶を読み、心を読み、全ての結末を知った上で最善の行動や言動を選択することが出来る。人形を操り、必要とあれば他者を洗脳し、何もかもを自らの意のままに従えて頂点に立つ者。

 それが例え、死者の魂であろうとも。彼女の目の前に立つ者は、その存在自体が彼女に認められなければ世界に一個の生命として存在することすら許されない。なんと恐ろしき、そしてなんと傲慢な不可視の青薔薇。しかし――』

 シルフィーはアシスタシアに向けていた視線をロザリアへ移し替えてほくそ笑んだ。

『わたくしが目の前に立てば、彼女はわたくしの心を暴き、すぐにでも残酷な裁きを与えるのでしょう。それだけの異能、力を持っている。しかし、しかしてその力とは“相手の姿が見えなければ行使することが出来ない”というもの。見えない者の見えない心を暴くことは叶わず、最初から心の無きものの考えを知ることもできない。わたくしがこの場で姿を消し、気配を消し、心も無く、感情を持たぬアムブロシアーで応戦している限り、総大司教たる彼女は自らの持つ力を何一つとして十全に発揮することが叶わない。

 いつか無為に振るう力が尽き、立ち上がることすら出来ず、わたくしの前に膝を追って伏せる時が来れば、その時が貴女様の最期。

 その瞬間とはつまり、この場に侵入した至高の芸術作品たる彼女と、憐れなる子羊たる彼の命の終焉をも意味する。

 故にこそ…… 総大司教、ロザリア・コンセプシオン・ベアトリス。貴女様さえ攻略してしまえば、あとは何も、何も“恐れることは無い”』

 ロザリアとルーカスを中心として噴き上がる蒼い炎の壁が彼女らの周辺を覆い囲み、アムブロシアーの銃撃や接近の悉くを遠ざけてはいるものの、それがどれほどの時間持続できるかが全て。

『先に会話を持ち掛けつつ、どれほどの距離まで蒼き炎を操ることが出来るのか見定めてみましたが、せいぜいが10メートルから15メートルの距離が限界といった様子。それ以上の飛距離を以て蒼炎を放つことは叶わず。加えて、あの炎の放出は連射が効かない。付かず離れずで個別に応戦していれば、燃料切れの刻限も早く訪れるでしょう。

 また、こちらの様子を窺う為に人形をいくつか顕現させ、周囲を探らせているようですが無意味なこと。あれ自身に戦うだけの力もないことは、アムブロシアーの攻撃によっていともたやすく消失したことを鑑みれば明白もいいところ。

 憐れなる子羊さんへ多くの情報を与える為に奮戦する総大司教様。えぇ、えぇ、貴方がた、当人同士だけが気付いていらっしゃらないのでしょうけれど、存外にお似合いな御二人だこと』


 頭の中でそのようなことを思いつつ、シルフィーはくすくすと笑った。

 実に気分が良い。超常の力をもつ至高の芸術作品をじっくりと堪能しながら、同じく超常の力を持つ化物を自らの手で葬る瞬間は刻一刻と近付いている。


 千年を生きた不老不死のグランドビショップ。

 いいえ、いいえ、そんなはずはない。

 ロザリア様。貴女様の不死性はアンジェリカ様や、あの国連の御姫様の持つそれとはまったく異なる“紛い物”。

 当の昔に本人の肉体は失われ、今あそこにある肉体には何一つとして御自身のものなど残ってはいない。あるのは中に秘めたる魂だけ。

 貴女様は長い長い歳月の中で、自らの異能により自らと寸分違わぬ人形の器を作り、中身だけを入れ替えて延命し続けた。

 壊れた個所を修復し、痛んだ箇所を修復し、それを永遠に、永遠に繰り返し続けた。

 それが貴女様の人生。貴女様の言う不老不死の正体。

 何を求めてそのような道を選ばれたのかなど知る由もありませぬが、知りたいとも思いません。

 あぁ、しかして。貴女様の場合、或いはホムンクルスと呼ぶべきなのかもしれませんね?

 パラケルススが示したものとは異なる、アレイスター・クロウリーがムーン・チャイルドにて提言した魂の器。大きく異なるのは、魂を入れる器は赤子のそれではなく、完成された生きた人形であるという点――

 貴女様はそのようにして、人間の創造という領域に足を踏み込んだからこそ、カトリック教会内で恐れを抱かれる存在となり、よって総大司教という立場を手に入れるに至った。

 いずれにせよ、そのようなことはこの場では些事でありましょうが。


 血の通う人形など、どうかしているとは思う。

 だが、そのような存在が現実に目の前にあるのだから信じないわけにはいかない。

 とはいえ、所詮は紛い物の肉体。


 傷付ければ滅びることは必至。


 ならば答えは簡単なこと。

『刺せば死ぬ。撃てば死ぬ。人間が致命傷と呼ぶものをその身に受ければ滅びる。何、簡単なことにございます。貴女様の力が及ばぬ間合い、貴女様が自らも気付いていない死角から仕留めて差し上げます。わたくしが、貴女様に永劫の眠りを与えて差し上げましょう』

 

 その時は間もなく訪れる。

 シルフィーはじっとロザリアを見据え、頃合いが来たことを察した。

 眼下では孤軍奮闘するアシスタシアから離れた所に、機構の隊員を必死に守ろうとする総大司教の姿がある。守られている隊員は未だに突破口となる糸口すら掴めずにいるらしい。


 憐れ、実に憐れなことです。


 歪んだ笑みを湛え、右手を持ち上げて自らの隣にたった1体だけの特別性のアムブロシアーを顕現させる。


『終わりにいたしましょう。何もかも。貴女様の夢はわたくしがこの手で閉ざします。神を信じぬ不信心者である貴女様が、神の聖名の為に捧げた虚しき生を、この手にて、この場にて、間もなく』


 そうしてシルフィーは持ち上げた右腕を迷うことなく振り下ろした。


                   *


MDCCLXVI - File code:GESW00358 TYPE:Classified〈機密情報〉

【ギュゲースの指輪】

 グラン・エトルアリアス共和国 特別兵装 第358番

 製作者:技術開発顧問 アビガイル・ウルカヌ・サラマドラス


 Status:Unregistered〈研究実験段階にある兵装の為、詳細情報の登録無し〉


 本兵装に関わる情報は技術開発顧問 アビガイルによって非開示とされている。

 以下に研究開発段階における技術資料の一覧を提示する。


 1.眼球による物体の捉え方

 2.光の屈折率

 3.スネルの法則


 ~~~中略~~~


 参考画像:1

 参考画像:2


〈ギュゲースの指輪 評価試験〉

 試験ステータス:試験運用段階

 承認日:西暦2036年4月

 承認者:総統 アンジェリカ・インファンタ・カリステファス

 評価:S 実戦運用における効果証明。開発コストの高騰により量産は困難。

 実験地:エトルアリアス城塞アンヘリック・イーリオン

 実験日:西暦2036年4月より継続中

 被験者:シルフィー・オレアド・マックバロン

 最終データ更新:西暦2036年8月



 ルーカスは騒々しい銃撃音を発するアムブロシアーの襲撃を意に介することなく、ヘルメスが表示した共和国の研究データにかじりつくようにして見入った。

 評価試験項目の内、被験者欄にはっきりと彼女の名が記されていることからも自身の予感が正しかったことが証明される。

『間違いない。あの女が姿を隠匿している方法はこの兵装による効果だ。ハーデスの兜とは違う原理を取り込んだ兵装。目視による認識を困難とさせる唯一無二の存在』

 ただし、テミスの1人であるアビガイルの意向によるものか、研究に関するデータはプロヴィデンスへの登録自体が為されておらず、代わりにギュゲースの指輪と呼ばれる兵装の開発に関する資料が山のように登録されているだけであった。

 最終項目には試験的に開発されたサンプル品の画像が2枚登録されており、そこには特に何の変哲もないシンプルな金色の指輪が表示されている。

 簡易ではあるが使用方法の記載もあり、そこには“指に嵌めたリングを回転させることで効果を発揮する”とのみ記載されていた。

 しかし、肝心の原理に関わる記載がない為に今本当に必要としている情報は何も得られていないに等しい。

『くそっ、この兵装による姿の隠匿であることに間違いはない。だが、肝心な部分が抜けてやがる。兵装のみならず、その仕様までも不可視ってか!』

 ルーカスは唇を噛んだ。ようやく得られた貴重な情報ではあるが、ここで行き止まりである。

 今この瞬間から膨大な資料の山に目を通し、技術仕様を想定して対策を考えるなど絶対に不可能だ。

 自身の周囲ではロザリアとアシスタシアが決死の覚悟で迫りくるアムブロシアーへ応戦をしている。

 彼女達に突破口を示す存在は自分しかいないというのに、なんという体たらく。いよいよもって何も出来ない自分自身に、怒りにも似た感情が湧き上がるのを感じた。

 老獪な手を次々と繰り出すシルフィーという女が、このまま何もせずに状況を継続し続けるとは考えられない。居場所を探り、根本的な突破の糸口を早く示す必要がある。


 急げ! 急がなければ危険だ!


 フロリアンのような危機察知能力があるわけではないが、なぜか無性に本能が訴えかけてくる。

『何か、ひとつでも手がかりが……』

 周辺の雑音の全てが耳から遠ざかるほどに頭に神経を集中させて思考を巡らせる。そうして再びヘルメスのデータに目を落とした時、ふいにひとつの単語が視界に飛び込んできた。


 1.眼球による物体の捉え方

 2.光の屈折率

 3.スネルの法則


『光の屈折率だと?』

 瞬間、ルーカスの頭には一人の女性の姿が浮かんだ。

 自分達の仲間として一緒に行動を共にする少女。自分の大親友と千年越しの愛を成就させた天真爛漫な光のような存在。民を照らす希望の光。可能性を導く光の王妃。

『イベリスが姿を消す際に見せる、空間に生じる事象変化についてまとめたデータが確かあったな。確か内容は特定の条件下において、姿が本当に消失しているというよりは光の屈折の加減によって“限りなく姿が見えづらくなっているだけ”だったはず。であれば、ギュゲースの指輪の正体は……』

 大まかな技術的な仕組みなどどうだっていい。

 要は姿が見えなくとも“場所を特定できれば良い”のだ。

『可能性はある。奴の居場所を完璧に掴む方法がひとつだけ』

 大聖堂の中で姿を隠しているのだろうシルフィーを捉えるたったひとつの方法に思い至ったルーカスは、早速ヘルメスを情報解析モードとして大聖堂内全ての“光の動き”について精査を開始した。

『光が屈折せず、対象の物体ごと周囲の景色に溶け込む。それはまるで油に浸したガラスのように…… 有り得るのか? いいや、考えるな。こんなことが有り得るなんて考えたくもないが、仮説が正しければ返る結果はひとつだけだ』


 シルフィーが存在する場所は大聖堂内において、唯一光の反射が起きていない場所


『そんなことが可能なら、ヘルメスに表示された光の屈折・反射データには明確に1か所だけ、周囲とは明らかに異なる反応を示す場所が出てくる』


 どんな角度から“姿を見ようとしても目視することは叶わない”が“姿そのものではなく光の動きを見ることで居場所の特定が可能である”。


『暴いたぜ。お前の居場所を!!』


 大聖堂全体を俯瞰した際に捉えることの出来る光の屈折率から、局所的に周囲とは違う極端な数値を示す箇所が1か所だけ存在する。

 ネメシスの彫像のすぐ傍から壁を横一線に駆ける装飾の段差。ルーカスは異常を示した場所を真っすぐに見据えた。

 目視で何が見えるわけでもないことは分かっている。だが、その場所に存在していると確信できたのなら話は早い。

 この事実をロザリアとアシスタシアに伝えれば……


 だが、そう思った矢先であった。

 ルーカスが見据えた視界の先には、天使の彫像に紛れた白亜色のアムブロシアーの姿がはっきりと見て取れたのだ。

 景色に溶け込む為の擬態。巧妙に隠れた不死兵の動きは意識的に目を凝らさなければ見取ることなど出来ないほどのものであった。

 白亜のアムブロシアーを観察していると、それは銃身の長いライフルのようなものを構えてこちらに照準を定めている。

 やがて、白い悪魔が“何を狙っているのか”を直感したルーカスは反射的に叫び、頭で考えるよりも早く体を動かしていた。


「ロザリアっ!!!」


 ルーカスの声に驚き、振り向いたロザリアは彼の強烈な体当たりによって態勢を崩し側方へと突き飛ばされる。

 だが、同時にすぐ傍で空気が炸裂するかの如く音を立て、ルーカスが身に纏っていた隊員服の一部が弾け飛んだ。



 ロザリアの目には何が起きたのか捉えることが出来なかった。

 気付いた時には、自分を突き飛ばしたはずの彼の身体は不自然な方向へと弾き返されおり、胸元からは鮮やかな赤色の雫がにじみ出ている様が見て取れた。

 何とか態勢を持ち直し、彼の身体を掴もうと思わず伸ばした右腕も空を切るばかりで何も掴むことは叶わない。

 焦りに満ち、時間の流れが過酷なほどに早く過ぎ去っていく中にあって、まるで刻そのものが凝縮されて永遠となったかのような感覚が全身を駆ける。

 やがて彼の身体は床へと崩れ落ち、そのまま動かなくなった。


 現実の光景を受け入れることが出来ない。

 自身の感情が理解できない。

 状況を理解しようとする思考を脳が拒否している。


 ロザリアは目を見開いたままその場に立ち尽くし、大聖堂の床へと伏して倒れたルーカスの姿を呆然と眺めた。


「あ…… あぁ……」


 唇を震わせ、言葉にならない声を発することしかできない。

 ロザリアは周囲に蒼炎の防壁を張り巡らせたままではあったものの、アムブロシアーへの応戦を止め、ゆっくりとルーカスの元へと歩み寄ってすぐ傍に跪く。

 地に伏せた彼の身体を両腕で抱き上げると、彼が直前まで見ていた記憶の映像が脳裏に流れ込み、共に失われつつある彼自身の心の声が自らの中にこだました。

『無事、か? なら、良い。お前が無事なら、それで良いんだ。奴の位置は、ヘルメスに…… 後を、頼む』

 その言葉を最期に、彼の心の声は途絶えた。





 一方、その一部始終を目撃していたアシスタシアは、混乱する主君とは相反して遠目から何が起きたのかを瞬時に察した。

 ルーカスが吹き飛ばされた向きの対角線上の壁面へと視線を向けると、周囲のアムブロシアー全てを無視して一直線に目視した方角へと突き進む。

 間もなく大聖堂の壁面へと辿り着いたアシスタシアは、その場に存在した“白亜のアムブロシアー”へ向け大鎌を振り抜き、頭部と胴体部分の2か所を瞬時に切り裂き屠ったのだ。

 だが、アシスタシアが壁面から離れようとする間際。唐突に右大腿部に鋭い痛みが走った。

 痛みの方へと目を向けると、そこには先程までは存在しなかったはずのアイスピックが1本ほど突き立てられていたのである。

『近くに彼女がいる……!』

 姿の見えない相手に対し大鎌を横薙ぎに一閃するが、巨大な刃は何を捉えた様子でもなく空を切っただけであった。

 アイスピックが突き立てられた場所に走る痛みから意識を外し、すぐにその場から離脱したアシスタシアは極力アムブロシアーの群れが存在しない場所へと着地して態勢を立て直す。

『彼女は先程まで確かにあの場にいた。先の白亜のアムブロシアーの隣だったか。もし、今彼女が場所を移し替えて姿を現すとするなら――』

 答えはひとつ。

 遠目からでも分かる。蒼炎に囲まれているとはいえ、その内側の主君は戦意を喪失しかけて地に伏した姿勢を取ったまま動こうとしていない。

『ロザリア様!』

 痛む脚に力を籠めて最大限の力で大聖堂の床を蹴り上げ、全速力で黒い不死兵が蠢く隙間を潜り抜けながら蒼炎の壁が立ち上る先へと急ぐ。

『彼女がこの好機を逃すはずがない。ロザリア様に最大の深手を負わせることの出来る瞬間は、今を置いて他にない!』


 シルフィーが次に姿を現す場所とは、間違いなくロザリアの背後である。

 自分にそうしたのと同じように、姿を隠し、気配を隠し、目視も知覚も不可能な位置から一撃で心臓を射貫いて仕留めるつもりなのだろう。


 駆ける。ただひたすらに。

 守るべき主君の為に。守りたい者の為に。

“お前は彼女を守らなければならない”

 人形である自身の内にある、自我がそう訴えかけて止まない。


「えぇぁぁ!!」


 届け、届け、届け! 間に合え!

 柄にもない満身の叫びを発し、先程まで遠くに見えていたはずの蒼炎の壁を突き破ったアシスタシアは渾身の力を籠めてロザリアの背後へ蒼炎を纏う大鎌を振り下ろした。


 虚空を切っただけに見えた鎌は、先とは異なり確実に“何か”を捉えた。

 細い、人間の腕一本分ほどの感触が獲物の柄に伝わってくる。


 直後、アシスタシアの目には目を見開き、驚愕の表情を浮かべながら後ずさりするシルフィーの姿がはっきりと捉えられた。

 宙には、刀身の長いアイスピックが逆手で握られたシルフィーの右手首より先が舞い、その右手の中指には金色の指輪が聖堂の輝きを反射して光っていた。

「ちっ……!」

 痛みによる苦悶の表情を浮かべ、激しい舌打ちをしたシルフィーはすぐに目の前から姿を消し去る。

 アシスタシアがロザリアの前に立ち、息を切らせながら大鎌を構え直した矢先。シルフィーは前方に蠢くアムブロシアーの大群の奥へと姿を現したのであった。


「きひ…… きひひひひひ! あははははは! さすがは奇跡の総大司教が生み落とした至高の芸術。世界にただ一人、完全なる器に究極の魂を宿した人形! わたくしの行動など全てお見通しであったのでしょう。憐れ、憐れなわたくし。しかして、愉快かな、愉快かな!」

 気が触れているとしか思えない。

 正面から彼女と対峙するアシスタシアは生まれて初めて、人間の見せる感情に対して背筋に悪寒というものを感じた。

 正気を投げ捨てたか―― 朽ちることのない精神、捻じ曲げられぬ意思、身を滅ぼすほどの執念。

 今のシルフィーという女性からは、まるで自身が人間であることを放棄したかのような強烈な狂気が発せられている。

「あぁ、あぁ! 痛い、痛い、痛い、痛い!! 滴り落ちる自らの鮮血をこの目で眺める日が、よもや訪れようなどと。ただ、ただ傷を負った今であるからこそ理解できる言葉もあるというもの。かつて、アンジェリカ様がおっしゃっていた“人は痛みを感じることでしか生を実感することができない”という言葉の真意。

 これが、これこそが! アンジェリカ様の感じられていた痛み! 生の実感、命の、魂の存在理由〈レゾンデートル〉を証明する感覚!」

 呼吸を乱し、見開いた目でケタケタと歪んだ笑みを浮かべるシルフィーは、おもむろに左手で懐から注射器を取り出すと一切の迷いなく自らに針を突き立てて言った。

「しかし、しかして。わたくしはこの痛みによって己に課せられた責務から身を退くことも、それ自体を放棄することも出来はしない。わたくしは、アンジェリカ様より与えられた使命の為に、ようやく手に入れたこの感慨すらも捨て去り、目の前の“お前達”を殺さなければならない! 殺し尽くして、その美しき首を玉座の間にて我らの王へ献上いたしましょう。それだけが…… わたくしの!」

 そう言ったシルフィーは左手に持った注射器を投げ捨て、手首が失われた右腕を横に薙いだ。

 その動きに合わせ、動きを停止していたアムブロシアーの大群が一斉に手に持った武器を構え突撃の姿勢を取る。


『痛覚遮断剤の類か。これはいけない…… これだけの数をまとめてとなると、到底私ひとりで全てを捌き切ることはできない。せめて、この身と引き換えになろうともお二人の逃げ道を確保できれば』

 手に持った鎌を握りしめ、アシスタシアは決死の覚悟で眼前のアムブロシアーとシルフィーを睨みつけた。

『ロザリア様、立ち上がってください。感情に支配され、目的を見失うことがあってはなりません』

 口に出すことはできない。心の中で祈ることしかできない。

 それでも、愛すべき主君の為に願う。

 そうして、アシスタシアがアムブロシアーの群れを斬り伏せる為の一歩を踏み出そうとした、その時であった。




 アシスタシアの背後に、冷たい風が吹いた。

 これまで感じたことのないほどの殺気が満ち溢れ、それが大聖堂全体を支配するかのように気配を立ち昇らせている。

 踏み出そうとした足を止め、視線だけを後ろに向けたアシスタシアの視界に飛び込んできたのは、つい先程まで地に跪いてルーカスを抱きかかえていたロザリアがゆらゆらとした足取りですぐ傍を通り抜ける姿であった。

 彼女は顔を下に伏せたまま、ぶつぶつと何かを小声で呟きながら非常にゆっくりした足取りで前に歩み出る。

『ロザリア様……!』

 叫ぼうとしたが声が出ない。主君に対して恐怖を感じているとでもいうのか。彼女の発する強烈な殺気に中てられ、口を開けて動かすのが精一杯だ。

 このようなロザリアの姿など、未だかつてただの一度も見たことが無い。


 一歩一歩、自身に向かい歩いてくるロザリアの姿を見たシルフィーはケタケタとした笑い声を潜めるでもなく言う。

「それでこそ、それでこそでございます。貴女様を仕留めることは叶いませんでしたが、それも今は過去。もう間もなく、貴女方の現世での旅は終わりを告げる。長きに渡る夢想は潰え、還るべき場所へと魂を還すのです」

 シルフィーの言葉に連動するように、アムブロシアーが武器や銃を構えて一斉に突撃しようと動き出す。

 だが、その間際にロザリアは右腕を前に伸ばすと、下に伏せていた顔を上げて何か一言だけ呟いた。


 蒼い炎の輝きが、彼女の瞳に垣間見えた。


 武器を構えて突撃の姿勢を取っていたはずのアムブロシアーは次々と動きを止めて立ち尽くすと、ゆっくりと身を翻してシルフィーの方へと振り向き始めたのである。

「は?」

 何が起きた? 目の前の出来事を理解することも叶わないまま、シルフィーはこれまで発したこともないほどに間の抜けた声を発してしまう。

 ロザリアの周囲を取り囲んでいたアムブロシアーは次々と自分に向かって振り返るが、それらの目は常日頃見せるような赤い眼光ではなく、深い海の色を宿したように青く光り輝く眼光であった。

 振り返るアムブロシアーの中央に立ち、じっとこちらを睨みつけるロザリアの眼光も、まるで蒼炎そのものを宿したかの如く、オーロラのように揺らめきのある深く蒼い色に強く輝いている。

「っ!!」

 シルフィーが顔を歪め、自身の周囲に展開していたアムブロシアーを一斉に目の前に配置したその時、青い輝きを目に宿したアムブロシアーの大群が一斉にこちらに向かって銃撃を開始したのであった。


『馬鹿な! 意思のない、作られた個体を洗脳して操っているとでも!?』


 有り得るわけがない。そもそも、アムブロシアーには個々の意思など存在しないのだから。

 彼らの人工脳には、シルフィーの脳神経をトレースしたニューロモルフィックチップが埋め込まれているが、それによって可能であるのはシルフィー自身の思考パターンに添った行動を取らせるか、或いは遠隔によるシルフィーの意思そのものに従い行動するといったことだけであるはずなのだ。


『わたくしの意志を無視して、わたくしを攻撃するなど!』


 アムブロシアー同士による撃ち合いに際限など無い。

 そのような行いは不毛な争いと消耗を強いられるだけの無限地獄へと突入するだけである。

 シルフィーはたまらず左手を薙ぎ、ロザリアの周囲に展開していたアムブロシアーを含めた、大聖堂内に顕現している全ての不死兵を消し去った。

 苦み走った表情のまま、次の一手を打ち出す為に思考を高速回転させる。

『アムブロシアーがいなくなったとして、これだけの距離が離れていればあの総大司教も蒼炎による攻撃は出来ないはず。怪我を負ったあの人形が追い付くまでに態勢、を――』

 しかし、シルフィーの考えは遠くに佇む総大司教によって即座に否定されることとなった。

『蒼炎が、脚に!?』

 凄まじい熱気を足元に感じて目を向けると、いつの間にか自身の両脚は彼女の放つ蒼炎によって包まれていたのである。

『有り得ない。総大司教の放つ蒼炎がこの距離に届くはずがない!』

 そうして、ロザリアの姿を見据える為に今一度顔を上げ真っすぐ前を見た時、シルフィーは言葉を失った。

 眼前には先程まで存在しなかったはずの“彼女自身”の姿が在ったのだ。


「総大司教、ロザリア……!」


 驚愕を瞳に宿して自らの名を呼ぶシルフィーを意に介すことなく、ロザリアは右手で彼女の首を鷲掴みにして締め上げながら、ゆっくりとその身体を持ち上げて高々と掲げた。

 声にならない嗚咽を漏らすシルフィーの足元では蒼炎が激しく燃え盛り、それは一瞬にして彼女の両脚を燃やし尽くして灰に変える。

 痛覚を遮断したはずのシルフィーだが、脚を燃やし尽くした灼熱による激痛までは抑えることが出来なかったのか、身体を激しく捩りながら両目から大粒の涙を止めどなく溢れさせて呻き声を漏らした。


 ロザリアは悶え苦しむシルフィーに何を感じるという様子も見せず、興味を持つ風でもなく、青く輝く瞳をただ彼女に向けたままじっと見据える。

 そして、ぼそぼそと人の世界で語られる類のものではない言葉を呟くと、彼女を奥の壁面へと向け、まるでゴミを投げ捨てるかのように放ったのだ。



『離れなければ…… あの女から、離れ……』

 両脚を失い、壁際に投げられたシルフィーは仰向けに倒れ込んだ。

 ぐらぐらと視界が揺れて目の焦点が定まらない。投げ捨てられ、聖堂の床で頭を激しく叩きつけられた衝撃で軽い脳震盪を起こしたようだ。

 朦朧とする意識の中、シルフィーは力を振り絞って与えられた異能である転移を試みようとする。


 せめて、この命尽きるにせよ、一矢だけでも…… アンジェリカ様の理想の為に……!


 この期に及んでも執念を燃やすシルフィーであったが、はっきりとした思考すら保てない今の状況では空間転移の能力行使はもはや不可能な状態であった。

『そうか。わたくしの命もここで、終わりか。であるならばどのように、わたくしを殺してみせるのか。最期に、その高貴なる手で手ずからわたくしの命を奪え。清廉なるその手を、わたくしの呪われた血で汚すが良い』

 憎しみに満ちた視線をロザリアへ送りながらシルフィーは思った。

 ところが、視線の先に佇むロザリアは近付く素振りすら見せず、自分に見向きすらしないで上方を見つめ、天に向かって何かを呟くばかりといった様子を見せたのである。

 何をしているのかとシルフィーは訝しんだが、その答えはすぐにもたらされた。


 ロザリアを見据える視線の間に、いくつもの金属ボルトが落下し、甲高い音を立てて散ったのである。

『固定、金具……?』

 シルフィーはロザリアの視線を辿り、恐る恐る自身の上方へと目を向けた。

 するとその先では鈍く軋み、地鳴りのような低音を響かせながら今まさに落下を始めようとする、巨大なネメシスの彫像の様子が見て取れたのである。


「あ…… あぁ……」


 信奉していた女神が――

 君主たるアンジェリカの標榜する義憤の女神が自らを殺す。

 このような結末があってたまるものか!!


 認めない、認めない、絶対に認めない!!


 激しい怒りと憎悪を燃やすシルフィーは瞳に涙を溢れさせ、幾度も首を横に振りながら頭上から迫りくるネメシスの彫像を見つめるしかなかった。



 そしてその時は来た。

 芸術の粋を凝らした白亜の彫像は、聖堂の床に仰向けで伏せる妖艶なる女性の胸部へ直撃する形で落下し、轟音と共にぐちゃりといった鈍い音を交えながら大聖堂の床へと突き立ったのである。

 落下による激しい衝撃による振動が大聖堂そのものを激しく揺らし、頭上からは雹のように破砕された彫像の破片が周囲一帯に飛び散った。

 それでも、ロザリアは上方をじっと見据えたままその場から動こうとはしない。

 自らの権能により、この世に存在してはならないと見定めたものが地獄の彼方へと旅立った瞬間を、意図して視界に収めようとはしなかった。


 悪鬼は蒼炎を宿す神の代理人の手によることなく、自らが信奉する義憤の女神の怒りによって身を滅ぼす。

 清廉なる手を、呪われた血で汚せという悪鬼の執念は実を結ぶこと無く潰えたのだ。


 やがて落下した彫像の崩壊が収まり、周囲は再び穏やかな静けさで満たされる。

 白亜の彫像の隙間からは動かなくなった彼女の左腕と、彼女が纏っていた黒衣と緑の袖が覗き見え、その周囲は大量の鮮血で濡れていた。

 彫像は彼女の零した血を吸い上げるように赤色に染め上がっていく。


 頭上を見上げていたロザリアはようやく視線を下ろすと、義憤の女神によって圧し潰された共和国の賢者へ憐みの目を手向け、コリントの民に向けて使徒パウロが送った書簡に綴られた言葉を呟いた。


「“智者は、学者は、この世の論者はどこにいるのか。神はこの世の智慧を、愚かにされたではないか。この世は、自らの智慧によって神を認めるには至らなかった。それは、神の智慧、意志にかなっている。故に神は、宣教の愚かさによって信じる者を救うこととした”」


 そう言ってそっと目を閉じ、再び開いたロザリアの目からはオーロラのような青い輝きは失われていた。

 浮かべられていたのは憐みの眼差し。それをもって亡き者へ最後の言葉を送る。


「“神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い”のです」


 どれほどの智慧を持とうと、どれ程の才覚を備えようと、神が造り給うた人は創造主たる神そのものを超えることも理解することも出来ない。

 驕れる者の至る末路とは、かくあるべし。

 己の力と、自らの信じたものだけを過信したシルフィーの完全なる敗北であった。


 ただし、彼女との決戦に打ち勝ったロザリアの表情は浮かないものである。

 なぜなら、その勝利と引き換えに自らの“信じた者”を失うことになったのだから。

 表情にも、言葉にも表さぬ無念がロザリアの心を強く支配した。


 失った者は還らない。

 千年に渡る長き人生の中で分かっていたはずのことであった。

 だからこそ、自ら神が定めた摂理に背き、自らがこの世で最も愛した存在を形作るという行いをせめてもの慰みとしてきたはずなのだ。


 呆然自失とするロザリアは、行き場のない感情を押し殺す為に、唇を噛み手を強く握りしめた。

 ところが、である。背後から自身の名を呼ぶ声が響き、直後に“失われたはずの声”がこだましたのだ。

 厳密に、それは声というに及ばず。閉ざされた意識の底から這い上がって来た人間が立てる音。

「ロザリア様!」

 今一度、自身の名を呼ぶ声が聞こえる。

 ロザリアは彼女の声に応えたわけではない。何を考えるでもなく、ただ“二度と聞こえるはずがなかった男の声”に導かれるように後ろを振り返り、なりふり構わぬ無様な態勢でその声の方へと走った。


 そうして仰向けのまま床に伏す彼の元へと駆け寄ると、その体を両腕で抱きかかえて名を叫ぶ。

「ルーカス!」

 裂けた隊員服を血で濡らす彼の身体には温もりがあった。情けない呻き声を発しながらも、力強く息をするルーカスはふいに目を開けると、自身を抱き起こした彼女を見やって言った。

「初めて、呼んだな? 俺の、名前」

 ロザリアは首を振りながら言う。

「お互い様です。初めて自らの名を呼ばれる瞬間が、今わの際だなんてあんまりですわ。求められるのであればいくらでもお呼びします」

 その返事にルーカスは力ない笑みをこぼしつつ、周囲へ視線を配って言った。

「それで。終わった、のか?」

「はい。“わたくしが”終わらせました。この場には、もう脅威はありません」

 自分が終わらせた―― ということは、ロザリアはあの女を、シルフィーを殺めたのだろうか。周囲の状況は分からないが、水の流れが微かにしか聞こえない静寂という状況を思えば、彼女との決戦が終わったということは事実であるのだろう。

 しかし、そうであるならロザリアが超常の怪異ではなく、生きた人間を手に掛けたということになる。

 その考えが一瞬ルーカスの頭をよぎり、心を曇らせそうになったがすぐに気持ちを切り替えた。

 考えないようにしよう。そうしなければ恐らくは、この場にいる全員が反対の立場になっていたのだから。

「はは。それは、良い。何より、あんたが、無事で、良かった……」

 薄目を開き、擦れる声ながらも微かな笑みを見せて言ったルーカスにロザリアは言う。

「これ以上は怪我に響きます。喋らないでくださいまし」

 抱き締める腕に力が籠り、殺していた感情が込み上げ、押し留めていた涙が溢れそうな程に目尻へと溜まる。

「泣くなよ。総大司教ともあろう、者が」

「わたくしは…… わたくしは貴方が、その……」

「今わの際、ねぇ…… あの時、死んだ、と思ったんだろ? 俺もそう思ったさ。でもな――」

 そう言ったルーカスは痙攣して震える手を懐に忍ばせると、ポケットに入れていた“とあるもの”を取り出して言った。

「あんたの気持ちが、俺を救ってくれたんだ。神ではなく、あんたの想いがな」

 ルーカスが手に持っていたもの。それはパノプティコンを脱出する際に手渡した十字架のお守りであった。

 銃弾を浴びた際の衝撃によって粉々に砕け散っているが、上部の十字部分が僅かに残っている。

 それを見たロザリアは、押さえていた涙をついに堪えきれずに声を上げて泣き出したのであった。

 目の前で泣きじゃくる、ただの一人の少女を前にルーカスは言う。 

「あぁ、いや。前言撤回だ。泣け。思うままに、感情のままに。本心から、泣きたいなら泣くと良い。あんたは、そうすべきだ。ロザリア」

 ルーカスは今一度、彼女の名を呼んで微笑む。


 そうだ。誰かの為を想って流す涙に善も悪もなく、良いも悪いもない。

 自らの心の内を決して表に出さず、不可視の薔薇と呼ばれた彼女が他の誰でもない、自分の為を想って流してくれる涙の温かさにルーカスは自身の涙腺が緩むのを感じた。

 頬に彼女が零した涙が落ちる感触が伝わる。彼女の温かさと優しさに包まれ、そっと目を閉じて思う。

『死んでも良いと思ったさ。それでお前が助かるなら、別に良いって。だが、あぁ畜生。そんなに目の前で泣かれたら、こっちまで……』


 自分は機構の隊員だ。

 弱きを守り、多くの人々の命を守ることが使命だ。

 けれど、命懸けで誰か1人を守るのなら、それは――


「それがあんたで、本当に良かったよ。本当に、な」


 聞こえるか聞こえないかという小声で呟いたルーカスは、目を閉じたまま静かに涙を流した。




 共に涙を流し、互いの無事を喜び合う2人のすぐ傍で、アシスタシアは主君と同じく安堵の息をつく。

『彼の怪我は銃撃による表皮損傷と肋骨骨折。滲む血液の量は多くとも、致命的な喪失ではない。ロザリア様の十字架によるお守りで銃弾そのものがそれたことが功を奏したのですね。これなら、多少の痛みは残るかもしれませんが私の力で十分に治療が可能な範囲と推定します。しかし、それよりも……』

 同時に、冷静に先程ロザリアがシルフィーを葬った際に見せた力の行使について思いを巡らせていた。

 俯き泣きじゃくるロザリアの姿を見て考える。

『先に行使した力。あれがロザリア様の“インペリアリス”。自身の限界を超越する、絶大な力の行使が可能になるという御業。イベリス様方が行使されるというお話を耳にしてはおりましたが、実際にこの目で見ると……』

 あまりにも恐ろしい力。それがアシスタシアが抱いた感想であった。

 人間を超越した力を持ち、アムブロシアーといった怪異を瞬時に滅ぼす力をもつアシスタシアにすら恐れを抱かせるほどの異能。

『普段から滅多なことでは使用されない洗脳の御力をアムブロシアーに振るわれた。見ただけの印象で語るなら、意思があろうとなかろうと、生死どちらの身であろうと、動くものであれば構いなく、自身の周囲に存在する者全てを“自身の意思によって支配下におくことが可能”となる力。しかし、それだけではない。視界に捉えた者全てに対する生命の在り方を支配してしまうほどの力を、先ほどのロザリア様は――』


 アシスタシアは危機感を抱き思う。

 もし仮に、今しがたロザリアが見せたほどの力を他のリナリア公国出身者も扱えるのであるとすれば。

 ここでの出来事などとは比較にならないほどの死闘がこの先では繰り広げられることとなる。

 特にアンジェリカと、懸念すべきもう1人の存在。

『マリア・オルティス・クリスティー。彼女もまた、同じほどの力を持つのであれば…… けれども、それならばどうして――』


 自分達がそれぞれ、ばらばらに行動したことには別の意図がある。そう思わざるを得ない。

 言葉には言い表すことの出来ない不安と予感が心に渦巻く。

 少しずつ落ち着きを取り戻しつつある目の前の2人を見やりつつ、アシスタシアはこの場でただ1人、先に待ち受けるであろう死闘と、付随して起こりうる予期せぬ出来事に対する覚悟を決めた。



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