*5-4-5*

 白亜の回廊の突き当りで、マリア達はおおよそ場の雰囲気にそぐわない無機質な鋼鉄製の扉の前に立った。

 明るく輝かしい絢爛たる回廊とは真逆の印象を与える陰湿且つ仄暗い扉は、何の模様もない実に殺風景なもので、特徴らしい特徴といえば全体が錆びた鉄を思わせる赤褐色をしているという程度のことだ。

 趣味の悪い実験を日夜実施する、どこかの研究施設の地下にでもありそうな雰囲気の扉の前に立ったマリアは、じっとそれを見据えたまましばらく何かを思案しているようであった。

 上から下までを、細部まで観察するように一通り眺めてから言う。

「目的地に到着したわけだけれど、厳重なセキュリティによるロックが掛けられているらしい。当然と言えば当然ではあるが、さて……」

 セキュリティの解錠について思案するマリアを見て、フロリアンが言う。

「厳重とはいえ、僕らにはこの城塞に関する全てのデータが揃っている。ヘルメスによる解析を行えば、少しの時間でセキュリティの突破も可能なはずだよ」

「ん? あぁ、そうだね。けれど――」

 マリアはフロリアンに笑みを向けながら提案を聞きつつも頷くことはなく、代わりに右手を上げる仕草を見せた。


 何かセキュリティを解除することに躊躇いでもあるのだろうか。フロリアンは口を閉じ、先の自分の発言をほんの少しだけ後悔した。

 少し考えてみればわかることだが、扉に関するセキュリティ解除キーが走査によって簡単に取得できることなど、わざわざ自分が言わずともマリアには分かっていたはずだ。

 であるなら、セキュリティ解除の為の走査を自分に依頼しないことについて、何か他に意味があると考える方が自然だろう。

 フロリアンは彼女がどんな決断を下すのか様子を窺うことにした。しかし、様子を窺うまでもなく、マリアの中ではこの時点で既に答えが決まっていたらしい。

 彼女が軽く持ち上げた手を振り下ろした瞬間、後方から凄まじい勢いで無数の黒い影が走ったかと思うと、棘上に変化したそれは一瞬にして鋼鉄の扉を貫いたのだ。

 扉を串刺しにする黒い棘は、次第に刃物の如く鋼鉄を切り開きながら縦横無尽に動き回り、あっという間に巨大な扉を粉々に粉砕し尽くす。

 そうして扉が完全に破壊され尽くすと、何事もなかったかのように存在を消し去ったのである。

 僅か10秒足らずの出来事にフロリアンは驚愕して言葉を失ったが、それがすぐ隣に立つアザミによる行いであることだけはすぐに理解出来た。 

「驚かせてしまい、申し訳ございません」

「いえ、アザミさんが気にすることでは」

 アザミの謝罪に対し、フロリアンは何とかその言葉をひねり出すのがやっとであった。

 セントラルの自室で、アンジェリカとアンディーンの計略による襲撃を受けた際に既に目にしたものであるし、特にこれが初めてというわけでもないのだが何度見ても慣れることができない。


 アザミ。彼女の真名ではないが、彼女が現代を生きる正真正銘の神であることは確かだ。

 この2週間の間で、これまで彼女について知らなかったことを色々教えてもらい、彼女自身が神から悪魔へと身を堕とした存在であることなども告げられていた。

 同時に言われたのは『正体を明かすことでが自身が忌避されるのは構わないが、マリアの傍からは決して離れないでほしい』ということであった。

 当然である。天変地異が起きようと、明日世界が消えてなくなろうと、自分がマリアの傍から離れることなど有り得ない。

 誰がどういった存在であれ、そのことを理由として忌避などするものか。それは偏に、イベリスやロザリア、アイリスやアルビジア、アンジェリカといった人々の話にも関わることであるし、何より――

 愛すべきマリアが最も信頼を置き、大事に思う人のことを忌避するなどもってのほかだと考えることも理由のひとつだ。

 実際、ハンガリーでは彼女に幾度も助けられたし、同じ時を過ごして楽しい時間も共有した間柄である。

 今になって正体が明かされたからといって、過去のそうした出来事の何が変わるわけでもない。

 彼女が人間である自分に、マリアのことに関して懇願するように話をしたのはきっと、【神であるが故に人の心が分からない】からなのだろう。

 フロリアンは改めて心の中で思いながらアザミへと言う。

「今、この場で言うことではないかもしれません。ですが、これだけは改めて言わせてください。貴女が何者であろうと、僕の貴女に対する印象や接し方に変化が生じるわけではありません。ハンガリーで出会った時から何も変わらずに。驕った言い方かもしれませんが、相互理解があれば神と人だって共存できると思っていますから」

「左様ですか。その言葉を再度聞かせて頂いて少し安心いたしました。何せ……」

 アザミが言葉を言いかけると、その先を引き取ってマリアが言った。

「この先に進めば、嫌でも自分達と異なる存在であるという事実を突きつけられることになるのだから。そうだろう? アザミ」

「はい。わたくしに“人”として接してくださることには感謝申し上げます。ただ、そのように接して頂いているからこそ、躊躇することもあるのです。

 何がどうあっても、わたくしは人ではありません。神という地位を失い、悪魔へと身をやつした者。怨念や悪霊に近い類と言い換えても過言ではない。そのような存在を見て、人は……」

「化物であるという。無論、私のような存在を含めてね」

 マリアは再び彼女の言葉を引き取って言うと、他に何を話すでもなく、身振りをするでもなくゆっくりと扉の残骸が散らばる先へと歩みを進めた。

 彼女の後にアザミとフロリアンも続く。進んだ先は、ほとんど照明らしい灯りなどない、実に薄暗い空間であった。


 フロリアンは視線を落とし、ヘルメスが表示する立体マップに目を向ける。

 マップによれば、この場所こそ目指した目的地。玉座の間へと至る為に必要な経由地点。〈真偽の大聖堂〉サウスクワイア=ノトスであると示されている。

 ぼんやりと赤い照明によって照らされる聖堂内は、まるで“工廠”と言うべき内装であった。

 数多くの実験道具らしき代物が投げ捨てられるように置かれ、ところどころに立ち上がるホログラフィックモニターが怪しく光りを放つ。

 緑色の液体で満たされた巨大なビーカーの中では、何か生き物らしきものが蠢く様子が見られるが、それが何であるのかはまるで見当がつかない。

 この場所を言葉として言い表すのなら端的に“実験施設”というものが相応しいのだろう。

 用途不明の機械群から発せられる赤色や緑色の典型的なシグナルランプの規則正しい明滅が、この場の陰鬱さをより一層掻き立てていた。

 いくらマップ上に神域聖堂という表記がされていようと、この場所を【聖堂】と呼称することについては深い抵抗を感じるし、憚られるような空間だ。

 多くの機械が立ち並ぶにしてはほとんど作動音もなく、不気味なほどの静寂が空気を支配している。先に目にしたビーカーの中で発生する気体が立てる、ごぼごぼとした音が容易に聞き取れる程に――

 フロリアンは手元のヘルメスをじっと覗き込み、今自分達がいる場所の全体像の把握に努めた。

 広さにしておよそ6万平方メートル。所狭しと置かれた機材などの影響で、まったくそのような印象は受けないが、聖堂内の一辺は丁度250メートルの長さで構成されているらしく、きちんとした正四角形型の空間であるらしい。


 広いのか狭いのか分からない聖堂内を歩く、マリアとアザミのヒールの音が遠くへと逃げるように響き反響する。

 普通、このような得体の知れない場所へ侵入した時は音を立てないように気遣うものだが、彼女達にはそうした恐怖から来る慎重さというものは必要無いのだろう。

 わざとであるかのように、大胆にヒール音を響かせる彼女達に対してフロリアンがただ1人だけ、足音を殺すように慎重に歩みを進めた。

 そんな心情を察したのか、マリアが無邪気な声で言う。

「フロリアン。もしかして、この場の空気に中てられているのかい?」

「否定はしないよ。研究施設であるということは分かる。けど、これほど陰鬱な気が満ちた場所に足を踏み入れたことは無いからね。パノプティコンを思い出すようだ」

 2週間前の経験を振り返りながら言った。

 しかし、マリアはそのことすら一笑に付して言う。

「考え過ぎだね。少なくとも、この聖堂の守護者たるテミスの1人が陰鬱な気を纏う人物であるということは事実だろう。しかし、放たれる悪意の度合いから言えば脅威の程度は実に低いものだよ。あのシルフィーという女と比べるなら、脅威の度合いに天と地の差があると言って過言ではない。この神域聖堂の支配者たる本人に至ってはむしろ、ある種の“純粋さ”まで感じられるほどだ」

「純粋? こんな施設の持ち主が?」

「なりふり構わぬ成果を求める科学者の行き着く先とは、往々にしてこのようなものではないかと思うのだけれど。違うかい?」

「僕の知っている限り、偉大な科学者は複数のタイプに分かれると思う。准尉の部屋はもっと、こう…… 散らかってはいたけれど、生活感に溢れていた。普通と言ったらおかしいけれど、他の誰とも変わらない平凡さがあったよ。間違ってもこんな光景とは程遠いものだった」

「あはははは! 何だいそれは? 特段、科学とは関係のない話だと思うのだけれど」

「そう。突き詰めて科学のエキスパートとは言っても、生活する部屋の中までこうなるって考えると、僕はこの聖堂の支配者…… いや、持ち主にある種の狂気を感じずにはいられない。

 2週間前、アンディーンがサンダルフォンで教えてくれたことがあるんだ。“人が視覚から得た情報は、当人の精神にどのような影響を及ぼすのか”ってね。視界から入る色の種類が変わるだけでも、精神状況に強い差が生じると彼女は言っていた。

 それを踏まえると、僕にはこの聖堂が、まともな精神性を持つ人物のものであるとは思えないんだ」

「なるほど。それも一つの意見だろう。ただし――」

 無邪気な笑い声を上げたマリアは落ち着きを見せ、言葉尻を囁くようにして呟くと、続けてこう言ったのである。

「いずれにせよ、それはこの聖堂を守護する本人の話であって、侵入者を排除する“例のアレ”に関する話ではないという点も、ひとつ気に留めておく必要があるだろうね」

 直後、歩みを止めて制止したマリアは前方の暗闇に向かって大きな声で言った。

「さぁ、出てきたまえよ。諸君らが待ち侘びた首はここにある。狩りの目標が、わざわざ自らの足で歩いてきたんだ。少しは喜びを以て歓待したまえ」

 不敵な笑みを浮かべたまま前方へ言葉を放ったマリアを見て、フロリアンは困惑した。

 無論、すぐさまヘルメスの人体感知センサーなどの類に視線を向けるが、計測値を見る限りでは周囲に人がいる反応を示していない。


 一体誰に話し掛けている? 見えない敵が潜んでいるのか?


 フロリアンは身構えた。

 こういった場合、機械の目よりも“彼女らの目”の方が正確で的確であることを身に沁みて理解しているからだ。

 今にして思えばハンガリーでの一件も然り。ミュンスターで初めてウェストファリアの亡霊を目撃した時も、自室で罠にかけられた時も、パノプティコンでアムブロシアーの大群に相対した時も然り。

 それに、マリアが意味もなくこのような行為に出るはずがない。

 間違いなく、この先にいるのだ。見えない敵、彼女の言うところの“例のアレ”。

〈不死兵アムブロシアー〉が。


 この予感は正しかった。

 フロリアンが前方を見据えたまま身構えていると、厚手のコートか何かが擦れる音や刀剣、或いは銃の類を構えるような音が耳に聞こえてきたのである。

 ひとつやふたつといったものではない。何十という単位の大群が立てるような音だ。

 敵の存在を確認したマリアは、未だ完全に姿を見せない相手に言う。

「どうしたんだい? 遠慮することは無い。私達は君達のように逃げもしなければ隠れもしない。君達が私達の首を求めるというのなら、今すぐ姿を見せて襲い掛かって来れば良い。

 しかし、君達はひとつ忘れてはならないことがある。君達が私達に用があることは無論承知しているが…… “私達は君らに用はない”ということをね」

 挑発の類が通じたというのだろうか。

 言葉の直後、暗闇から赤い2つの光が次々と浮かび上がった。陰鬱な狂気を宿す光。パノプティコンで見た時と同じ、アムブロシアーの眼光だ。

 2週間前に見た時よりも強い眼光であると感じられる。挑発による怒りを沸き立たせているか、或いはあの時の個体とは全くの別物という可能性も否定は出来ない。

 暗闇に溶け込んでいたそれらは、ゆっくりとした速度で前へ歩み出た。軍隊が行軍するように、規律あるしっかりとした足取りで、一歩一歩確実に。

 それらはマリアとアザミからちょうど一定距離を保ったまま二手に分かれて進むと、半月を描くように3人の周囲を取り囲んだ。

「心も無く、感情も無く、死という恐怖を知ることも無い。そんな君らが私の言葉に乗せられて出て来るとは思っていなかったが。いやはや、言葉というものは口にしてみるまで何が起きるかわからないものだね?」

 余裕の表情でマリアが言うと、集団のリーダーと見られる一際大きな体格のアムブロシアーが左腕を持ち上げた。恐らくは群体の指揮官のような存在だろう。

 それを合図にするかのように、周囲のアムブロシアーが一斉にライフルを構えて発射姿勢を取る。

 3人の中で唯一、フロリアンは自らが置かれた状況にたじろいだ。


 大丈夫であることは分かっている。

 アザミさんの力は銃の射撃でどうこうできる類のものではない。

 ものではないが、これは……!


 いつ発せられるか分からない銃声。迫りくる銃撃の不安に、心音は過去最高速度を記録しそうな勢いで早まっている。

 ここまで鼓動が早まるのは、マリアにぐっと顔を近付けられた時以来だ。そういう類の早鐘なら歓迎するが、これは遠慮願いたい部類のもので間違いない。

 思い出す場面としては、そう。アンジェリカと目の前で相対した時である。だが、感覚としては言葉が通じる彼女を相手にしたときよりも質が悪い鼓動の早鐘だ。

 何もしていないのに息が詰まる。


 早く…… 早く終わってくれ……


 祈る気持ちが募りゆく中、ついにその時が訪れた。

 コンマ1秒のずれもなく、アムブロシアーは手に持ったライフルを一斉に射撃したのである。

 大聖堂内に銃声が轟く。雷が落ちたかと錯覚するほどの巨大な炸裂音だ。

 あまりの衝撃音にフロリアンはぎゅっと目を閉じた。っが、何も起こらなかった。

 恐る恐る片目を開いて周囲の様子を窺うと、アムブロシアーの集団が揃いも揃って一歩後ずさりした様子が見て取れる。

 当然、自分達3人の誰かに銃撃が当たることも無かったが、後ずさりした以外にアムブロシアーに何か変化が起きるわけでもなかった。


 何が起きた?


 ふいに視線を彼らの足元に向けると、そこには綺麗に縦二つに切断された無数の銃弾が散らばっている。

 これが神速の神業というものなのだろう。紛うことなく言葉通りだ。

 鼓動を早めたままのフロリアンが生唾を呑み込み立ち尽くす最中、すぐ隣でアザミが小さな溜め息をついて言った。


「実に面倒な性質を。マリー、少々騒がしくしても?」

 すると、マリアは言葉の意図を察したように頷くと、両手で耳を塞いだ上で無邪気に嗤いながら囁いた。

「Feel free to do whatever you want.(やりたいようにやればいい)」


 彼女達の話にどんな意味が込められているのか、ただ一人状況が呑み込めないフロリアンは困惑したまま状況を観察するしかなかったが、このすぐ後には“なぜマリアが耳を手で覆ったのか”についてのみ、身を以て思い知ることとなった。


 それは突然やってきた。


 けたたましく吠えたてる猛獣の咆哮。先の銃撃の炸裂音の比ではない。地の底から響き、大地を震わすほどの重圧を纏った叫びが大聖堂を一瞬で支配した。

 フロリアンも慌てて耳を塞ぎながら、何が起きたのか把握しようと両眼だけは見開いて辺りを見回した。

 しかし、見るべき場所は周囲ではなく、すぐ隣であったことに気付く。

 傍に立つアザミの影が徐々に肥大化していき、やがて巨大な犬にも似た猛獣を形作った“ソレ”は凄まじい勢いで身近なところに立っていた複数体のアムブロシアーへ襲い掛かったのだ。

 猛獣の影は獲物を捕食するようにアムブロシアーへ襲い掛かると、肉食獣のそれよりも圧倒的に残酷な有様で彼らの胴体を真っ二つに引きちぎった。

 感情を持たないはずのアムブロシアーの絶叫にも近い嗚咽が漏れ、肉が裂け、骨が砕ける音が周囲一帯に響き渡る。

 それは音を聞くだけで何が起きているのか想像でき、思わず背筋から身体全体を震わせてしてしまいそうになるほど残虐な音であった。

 銃撃を行った彼らが後ずさったことにの意味。その行為は明確な恐怖心の表れだったのだ。

 しかして、彼らは目の前の人物達に銃撃が通用しなかったことに恐れを抱いたというわけではない。

 3人の中の1人から滲み出る“本物の狂気”というものに中てられたに違いない。

 猛獣の形をした影は次々とアムブロシアーへと襲い掛かり、その肢体を無惨なものへと変えていった。元の形がどうであったのか分からぬほど食い散らかされ、荒らされた彼らの死体は、僅かな間を置くと次々に赤紫色の光の粒子となって散っていく。

 侵入者を仕留めるという本来の目的を放棄し、逃げ惑うように高速で移動するアムブロシアーであったが、影はそのような状況を狩りとして愉しむかの如く丁寧に丁寧に彼らを追い詰めては食いちぎるという動作を繰り返す。

 そうして、徐々に数を減らした彼らの最後の1体が噛み砕かれ塵となって消え果ると、巨大な猛獣の影はアザミの元へ近付いて唸りにも似た声で言った。


【まずい。呑み込むに能わぬ味の悪さだ。食いごたえなどまるでない、粗末な代物であった。だが、致し方あるまいな? このような輩とはいえ、神である其方の殺意をある程度まで無力化するなどという細工が施されていては。ははは、愉快であるぞ。此度も、特にこれといった役回り無く終わるものだと考えていた故に】


 黒い影は、地に響き渡る声でそう言いながらゲラゲラと笑った。

 フロリアンは影をじっと見つめながら、その存在が何者であるかを悟る。

『これが、黒妖精バーゲスト。アルビジアから話は聞いていたけれど、実際に目にすると圧倒的だな』

 しばし笑いこけていたバーゲストは、ふいに真っ赤に輝く眼光をフロリアンに向けると、ぐいっと影で形作った鼻先を圧し付けるようにして言った。

【人間の匂い。知っている。知っているぞ。当然だ。しかし、お初にお目にかかると言った方が良いか? マリアの愛しき相手ならば、最低限の礼は示さねばな?

 小僧。常にアザミの影から貴様の様子は見ていた。マリアが身を焦がすほどの情熱を滾らせる相手が、どのようなものか興味があった故に。だが、影の中から見た貴様と、実際に目にする貴様とでは少々趣が違うか。

 あぁ、実に良い色をしている。マリアの想い人でなければ、今この場で食い殺していたであろうと…… そう思ってしまうほどにな?】

 バーゲストを目の前にしたフロリアンは、悪意を放つ強烈な気に中てられそうになったがなんとか正気を保った。

 マリアから渡された黒曜石の守護が働いているのだろう。アルビジアも言及していたが、この怪物を目の前にして正気でいられる人間など恐らくは存在しない。

 もしくは、バーゲスト自身が意図的に重圧を与えないように配慮してくれているのかもしれない。

 とはいえ、彼が放つあまりに濃密な重圧にフロリアンが何も答えを返せず立ち竦んでいると、アザミが助け舟を出すように言った。

「いつもにも増して騒々しい。用が済んだのですから戻りなさい。ここで油を売っている暇はないのですから」

【相も変わらずせっかちな奴だ。常日頃の我の気まぐれとは異なり、此度は其方に乞われて出てきてやったというのにこの扱い。如何ともし難い。主人を選べぬ身というのは辛いものだな?

 だが、まぁ良い。実に僅かな時間の戯れであったが、久々に享楽の時が得られて満足であったぞ。ついでに、こやつの顔を間近で拝むことも出来たのだからな】

 そう言ったバーゲストは低い声で幾度か笑うと、眼光を再びフロリアンに向けて言った。

【小僧。分かっているであろうが、くれぐれもマリアを悲しませるような真似をせぬことだ。我は見ているぞ? 常に、な。もし、約束を違えたらどうなるかわかるであろう? 先にその目に見せてやったのだから】

 元より低い声の調子がさらに下がる。

 あまりの重圧に気圧され、フロリアンは小刻みに何度も首を縦に振ることしかできなかった。アムブロシアーの肢体が引きちぎられ、骨が砕かれる音を思い出せば尚更に。

 ただ、そんな姿がバーゲストの目には好意的に映ったらしい。

【ははは、素直であるのは美徳だ。貴様の心には曇りがない。淀みがない。実に清らかである。迷うなよ? 小僧】

 その声を最後として、巨大な黒い影は蒸発するかのようにその場から消え去り、バーゲストは姿を眩ますのであった。


 場を支配していた重圧が解かれた瞬間、フロリアンは忘れていた呼吸を取り戻すかの如くぜえぜえと息を乱した。

 すぐ傍らから、アザミが右手で頭を抱えながら大きな溜息を吐いて言う。

「はぁ…… 誠に、申し訳ございません。躾のなっていない飼い犬には、後程よく言い聞かせておきます」

「いえ、お気遣いなく」

 やはりというべきか。その言葉をひねり出すだけで精一杯である。

 フロリアンが言うと、すぐ目の前ではマリアが吐息を漏らしながら微笑んだ。

 表情こそ見えないが、愉快なものを目にしたとでも言うような雰囲気を身に纏っている。

「マリー、僕のことはいい。先を急ごう」

 自分が息を整えるまで彼女達が待ってくれていると感じたフロリアンは言ったが、マリアは首を横に振って返事をした。

「“余計なこと”に油を売っている暇はないが、必要なことであれば話は別だよ。少し息を整えてから先に進もう。陰湿な気配が充満するこの大聖堂の主に会うのは、その後で良い」

 そう言って振り返ったマリアは、いつものように愛らしい笑みを見せた。

 彼女を見たフロリアンは思う。


『場所がここで無ければ、どんなに良かったか』と。


 温かく、慈愛に満ちた笑みを向けるマリアの姿に癒しを得たフロリアンは前のめりになっていた態勢を立て直し、幾度か深呼吸をして息を整えてから言った。

「もう大丈夫だ。さぁ、行こう」

 その様子に二度ほど頷いたマリアは再度、目指すべき方角へと足先を向け振り返ると、気品あるヒールの音を大胆に響かせながら歩み始める。

 自信と余裕を持った彼女の後ろに、アザミとフロリアンが続く。


 鬱蒼とした空気が満ち満ちる仄暗い研究施設そのものである大聖堂の奥へ。

 守護神域 真偽の大聖堂-ノトスの主と相まみえる為に3人は先へと足を運ぶのであった。



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