*5-4-4*

 流水と風の音だけが耳に届く。

 ロザリアとシルフィー。向かい合い睨み合う両者の間には、特別な力を持たない者にすら強烈に感じられる殺気が満ち満ちている。

 いつ、争いの火蓋が切って落とされてもおかしくはない。

 両者の状況を冷静に観察するアシスタシアに対し、この場で単純に固まったまま身動きがとれないルーカスは、ただひたすらに互いのどちらが先に動くのかを息を殺しながら見計らうしかなかった。

『あぁ、畜生。時間の流れが無限に感じるっつーのはこういうのを言うんだろうな。何をされているわけでもないのに息苦しいし、汗が垂れてきやがる。集中力にも限界があるぞ』

 緊張による体温の上昇。集中を乱すように額から流れる汗に鬱陶しさが積もる。息を押し殺したまま生唾を呑み込む音と、早鐘を打つ心臓の鼓動が耳に響いた。

『動かねぇな…… 一体何を考えてやがる?』

 緊迫した空気が場を支配する中、余りに長すぎる睨み合いが続く。だが、痺れを切らしたルーカスが一瞬気を緩めそうになった時のことである。ついにその均衡は破られたのだ。

 しかし、それは何とも想像していたものとは程遠い、余りにも穏やかなものであった。


 視線をロザリアとぶつけ合ったまま、微動だにしなかったシルフィーが大きな溜息を吐き、肩の力を抜くようにゆったりとした所作で右腕を胸の前に持ってきて言ったのだ。

「“十字架の言は、滅びへ向かう者には愚かである。しかし、救いに預かるわたくしたちにとっては神の力そのものと同義。わたくしは賢人の知恵を滅ぼし、その者の賢さを虚しいものといたしましょう”。貴女様ならよくご存じの言葉かと。

 使徒パウロがギリシャのコリントに住まう人々に送った手紙の一節であると伝えられる言葉。しかして、ここに語られる“滅びに向かう者”と“救いに預かる者”がどういった立場の者を示すのかについては、読む人々の主観に委ねられる部分がありましょう」

 ゆっくり、言葉を吟味して語るシルフィーに不快感を示し、珍しく敵意を剥き出しにしたロザリアが言葉を返す。

「それが、何か?」

「えぇ、えぇ。要は、その者が立つ立場によって“どうとでも受け取ることができる”と申しましょうか。わたくしたち共和国の民は、ご存知の通り義憤の女神ネメシスを始めとするギリシャの神々に強い敬意を抱きます。

 そして今、我らにとっての主とは敬愛すべき主君、この国の君主であり、絶対的な力を持つアンジェリカ様に他なりません。

 つまるところ、わたくし達にとっての“十字架の言”とは共和国が信奉してきたギリシャの神々の意思であり、今においてはアンジェリカ様の御言葉であり、あの御方の救いに預かるわたくし達は、自らを卑下するようでいて、己を“賢人”であると驕る者達の賢さこそ虚しきものと断じます」

「それはそれは。節操のない全能神を偉大なる神と敬愛するとは。世界に対して独断で戦争を仕掛けるという傲慢さが、どういった類の精神性から来たものであるのかを端的に表す指標としてこれ以上にないほどのものでありましょう」

「いつの頃からか、英雄色を好むなどと言われるようになったことも鑑みれば、真に偉大なる存在は我欲の示し方もかくあるべし、かと。

 そも、貴女方ローマとて元々はギリシャの文化を強く継承、或いは模倣して成り立った者達。にも関わらず、賢人と認めた者の智慧を虚しきものに変えようなどと宣う傲慢さ。先のように、認めぬ者を貶める傲慢さ。

 時代がどれほど移ろおうとも、根底にある稚拙な精神性が変わらぬのは貴女方ではありませんか?」

「結局、突き詰めて何をおっしゃりたいのでしょうか。貴女の戯言に構う暇など、こちらにはありません」

「まぁ、そう焦らずに。それに、時間であれば無限にありましょう? 何せ、これより貴女様や連れの御方は死後に至る滅びの道、言い換えると地獄にて永遠の苦痛を味わうことになるのですから」

 そう言って穏やかに、それでいて冷たく嗤ってみせたシルフィーを見て、ルーカスは背筋に悪寒を走らせた。

 ロザリアとアシスタシアという絶対の死を前にして、それが自らに与えられるものではなく、お前達にこそ与えられるものだと言い切る自信。

 仕草や表情から醸し出す余裕を見れば、その底知れぬ自信が虚勢やこけ脅しの類でないことは明らかだ。

 そのことを汲んでか、ロザリアもアシスタシアも1歩たりとも彼女へ近付く様子は見せない。あくまで相手の出方を最後まで窺うという姿勢を貫く構えだ。

『どっちとは言わないが、一体何を考えてやがる……』

 味方も敵も、双方の考えが掴み取れずに焦燥感だけを募らせるルーカスを他所に、シルフィーは変わらずゆったりとした口調で言葉を紡ぐ。

「申し上げましょう。全人類が犯した罪の身代わりに、たった一人の犠牲によって大衆が救われると説く言葉など愚かしい。愚の骨頂であると。罪を犯した者は、自らの罪をその身を以て清算すべきであり、罪には等しく罰という対価が与えられるべきでありましょう

 現代における人の定めた人の法というものが、罪を犯した当人を裁くように出来ていることも踏まえるなら、貴女様方の信念が如何に欺瞞の類であるかなど明白。

 常々、わたくしはそのように考えておりましたが…… その驕りに対する罰を今この場で、わたくしから貴女様方へ差し上げようかと存じます。

 ただ、その行いについてどのような手法を用いるべきなのか。貴女様へ最大の敬意を表する為に如何な手法を用いるべきなのか。

 その一点について先程から吟味を重ねておりました。そうして今、ようやく答えが決まった次第にございます。

 曰く、貴女様方が敬う聖人、使徒パウロはコリントの民へこうも伝えたといいます。

“神は智慧あるものを辱める為に、この世において愚かなる者を選び、力ある者を辱める為に無力な者を選んだ。力ある者を無力な者とする為に、この世の弱者、即ち力無きに等しい者を、敢えて選んだのだ”と。

 その言葉に倣うことにいたしましょう。生命に対する絶対の裁治権。その異能を扱う権利を有する貴女様へ、この世において愚かなる無力な者を差し向けようかと。

 つまりは――」


 シルフィーはそう言うと、胸の前に置いた右手を自身の前に真っすぐ伸ばす。

 瞬間、大聖堂の空気が変化した。

 憎悪、怨嗟、厭忌からくる賊心、害意。ロザリアとシルフィーの間に立ち込めていた殺気が空間全体に広がりゆく。

 自らの信仰と相容れぬ者に対する明確な敵意、叛逆心。そういった負の感情全てを身に纏ったかの如く漆黒の悪鬼が大聖堂を埋め尽くさんとするかの如く勢いで湧き出てくる。

『おいおい、冗談だろ!? 数にして五十、百、二百…… どれだけ増えやがる!?』

 不死兵アムブロシアーの大群が3人を取り囲み、狂気と凶器を掲げて今まさに襲い掛からんとする姿勢のまま身構えている。

 自らが作り出した状況を愉しむかのようにシルフィーは言う。

「わたくしが直接手を下すまでもなく、貴女方は自らが愚者であると断じる存在によって身を滅ぼすのです。

 さぁ、さぁ。思うがままに楽しんでくださいませ? 信念を貫き、この世ならざる怪異を屠ってくださいませ。

 無限に湧き出る彼らが先に尽きるか、それとも彼らの前で貴女方が膝をつくのが先か。これはこれは素晴らしい見世物でありましょう。

 一世に一大限りの大舞台。権威ある総大司教猊下に手向ける凶行という興行を、わたくしは特等席から見物いたします。

 では、では…… 優雅な舞を、よしなに―― きひひひひ、あははははは!」


 言葉の終わり頃には、シルフィーは翡翠色の輝きに包まれてその場から姿を消していた。

 彼女の嗤い声と共に残されたのは数にしておよそ三百体を数えるアムブロシアーの大群。

 じりじりと間合いを詰める黒い兵士を前に、ロザリアとアシスタシアも臨戦態勢をとる。

 そんな中、ルーカスは1人だけ目の前の状況に足を竦ませていた。

『音を上げるのはどちらが先か、だと? 俺達は消耗戦を仕掛けられたのか。総大司教様もアシスタシアも、無限に力を行使できるというわけでもないだろう。それより以前に、俺自身が2人にとっての足枷になる。単なるお荷物だ』

 唐突にもたらされた想像を絶する苦難を前に、言葉を失い呆然とするルーカス。

 だが、彼の様子を感じ取ったのかロザリアが言った。

「准尉さん。貴方に争いごとにおける力を期待してはおりません。しかして、先に申し上げたように物事を正しく分析する力については別です。あの女の居場所を探ってくださいまし。あれを潰さぬ限り、この忌々しい黒い兵士たちは無限に尽きぬのでしょうから」

 一言目が余計だ。

 とはいえ、ロザリアの辛辣な物言いはかえってルーカスの反骨心を奮い立たせることに一役買っていた。

 他者の心を読み、他者が最もかけて欲しいと願う言葉を与える。ルーカスにとって、彼女のその在り方はどうにも認めることはできそうにないが、今この瞬間においては大いに役立った。

 ルーカスは内心で軽い憤りを覚えつつも、ロザリアに感謝した。

「やってやろうじゃないか。だからして、要は、つまりあれだ。この先、俺の指示には従ってもらうぞ」

「言われずとも、承知しておりますわ」


 こうして互いに協力を誓い背中を預け合ったロザリアとルーカスは、向かうべき敵へと向き合った。

 1人、離れた位置から状況を観察していたアシスタシアも再び蒼炎を纏う大鎌を構え、目の前に蠢く黒い影へと狙いを定める。

 為すべき役割はただひとつ。主君であるロザリアと、導き手であるルーカスが状況を打破する一手を打ち出すまで、2人の負担を軽減する為にひたすらに目の前の脅威を排除し続けること。

 付き過ぎず、離れすぎず。適切な位置からの護衛に徹すること。

『状況がどうであれ、私に課せられた使命は常にひとつ。ロザリア様の、御心のままに』

 内心で覚悟にも似た決意を思いながら、アムブロシアーの群体を睨みつけた。


 やがて、ゆらゆらと蠢いていたアムブロシアーの群れが一斉に銃を身構える。

 そうしてついに、爆発するかの如く銃撃音が大聖堂に炸裂し、銃声を合図としてロザリア、ルーカス、アシスタシアとシルフィーの真の戦いの火蓋が切って落とされたのであった。



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