*5-4-3*
幼さを残す足音が地下通路に反響する。誰も知る者のいないただひとつの部屋。長かったようで短い、優しい想い出が詰まった部屋。
エトルアリアス城塞アンヘリック・イーリオン地下に存在する隠し部屋に向け、イザベルはゆっくりと歩みを進めた。
いつもと同じ道。いつもと同じ景色。
それなのに、異様な寂しさがこの身を襲うのはきっと――
同じ景色の中にあって、ただひとつだけいつもと異なることとは、そう。それはこの場に“彼”の姿がないからだろう。
黄金色の豊かな毛並みを蓄え、いつも笑顔を浮かべるような表情をした彼は、隣を歩く私の様子をいつだって気にかけてくれていた。
まだ幼かった頃、アンジェリカ様に連れられてやってきたこの城塞で新しく出会った家族。
使用人宿舎で暮らしを共にする仲間達も良き友人であったが、中でも彼だけは別格だ。
数か月で大きな体に育った彼は、愛らしい尻尾を振りながらゆっくりとした足取りで、私の歩幅に合わせて歩いてくれた。
常に彼が寄り添い歩いてくれていた方を見やれば、今でも時折舌を出しながらじゃれつく彼の温もりが感じられるようである。
しかし、彼はもう想い出の中にしかいない。
彼の姿を思い出すたびに、つい先程迎えた最期の悲惨な光景が脳裏をよぎり胸が張り裂けそうになる。
『バニラ……』
名前を口に出して呼ぶことも出来ない。名を口にすれば、必死に押し込めている感情が再び爆発してしまいそうだからだ。
イザベルは重い足取りのまま地下廊下の奥まで辿り着くと、見慣れた扉を前に足を止めた。
その扉にはアンジェリカが書き記したのであろう可愛らしい文字が躍るルームネームプレートがかけられている。
【親愛なるイザベルとバニラへ】
何度も目にしてきた文字を目にしたイザベルはふと現実に心が引き戻された。
『そうだ。今、アンジェリカ様は戦っておられる。先に城塞へと足を踏み入れた彼らと、最期の決着を付ける為に。今、この瞬間だってきっと……』
それなのに、自分には何一つ出来ることがないだなんて。
こんなに心苦しいことが他にあるだろうか。
こんなに悔しいことが他にあるだろうか。
イザベルは小さな掌を固く握りしめ、奥歯を噛み締めて唇を震わせた。
だが、考えたところで変わる事実など何一つとしてない。力になることの出来ない自分が為すべきこと。
アンジェリカやテミスの邪魔にならぬよう、誰にも知られることのないこの地下の部屋で身を潜めて時を待つことだ。
握り締めた拳を解き、扉のノブへ手をかけて回す。
近代的なセキュリティが施されたアンヘリック・イーリオンにおいて、おそらく唯一のものだろう原始的な扉。
どこの国のどんな家庭にもあるような“ただの扉”だ。
そう。例えるなら家族が暮らす家にある“子供部屋の入口”というべきか。
アンジェリカ特製のネームプレート以外に飾り気のないシンプルな木製ドアを開くと、視界の先には最後に目にした時と変わらぬ光景が広がっていた。
部屋の大きさはおよそ36平米ほど。ほんの少しだけ犬と駆けて遊ぶことのできる程度の広さだ。
バニラが爪を滑らせないように敷かれた上質な絨毯。一緒に遊ぶ為に用意されたボールやフリスビー。
そして…… なぜか彼がとても気に入っていた“アンジェリカ人形”が部屋の隅に置かれていた。
アンジェリカ人形は、手芸が得意なシルフィーお手製のぬいぐるみで、デフォルメされたアンジェリカの姿を模して造られている。
ふわふわのツインテールの触り心地が絶妙で、その質感に一度触れるとなぜかずっと手に持っていたいと思えるような素晴らしい出来のものだ。
アンジェリカが普段身に着けているニワトリやライオン、或いは双頭の鷲やスナギツネといったぬいぐるみ型のカバンもシルフィーお手製のものらしく、それらを一度触らせてもらったときもやはり同じように素晴らしい触り心地だったことをよく覚えている。
イザベルは部屋へと足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉めた。
そのまま部屋の奥へと向かおうと思ったが、ふいに気になって後ろを振り返り、いつもは掛けることのない鍵を回してしっかりと施錠する。
どうしてそのようにしようと思ったのかは自分自身でも分からない。ただ何となく、今は外の世界との繋がりの一切を断ち、一人きりになりたいという気持ちが強かったからなのかもしれない。
両親を一瞬で失い、来る日も来る日も病室のベッドに寝そべったまま、生きる意味を見失っていたあの日の感覚が蘇ったかのようである。
しっかりと扉に鍵を掛けたことを改めて確認すると、再び振り返って部屋の奥を見据え、いつも自分とバニラが一緒にじゃれ合っていたクッションがある方へと足を踏み出した。
歩みを進める度、静けさだけが満ち満ちる室内にくぐもった足音が鳴る。
視界の端を掠めるのはバニラとのかけがえのない日々の記憶の数々。想い出は記憶だけでなく記録に残した方が良いと、中央庭園や城塞内でリカルドが撮影してくれた自分とバニラが遊ぶ写真、アンジェリカとバニラがじゃれあう写真など、多くの想い出が大きめのフォトパネルを埋め尽くす。
中央庭園の手入れをして、ようやく花を咲かせた珍しい品種の花を背景に撮影された自分とアンジェリカの写真。シルフィーが使用人宿舎で皆を招き開いてくれたお茶会の時の写真。目に映るそのひとつひとつの景色の記憶がまるで昨日の出来事のように頭の中に呼び起こされる。
そして、そうした多くの楽しい想い出の中には必ず彼がいた。
もちろん、この部屋での想い出は楽しいものばかりではない。
使用人宿舎で暮らしを共にしていた仲間、友達の一人が突然体調を崩して亡くなってしまった時、ふとした瞬間にその子を想って涙を流しにこの部屋を訪れたことだってある。
遠き日に失った両親を思い出したときだって――
楽しいことも、悲しいことも、全てを包み込んでくれた部屋。それがこの地下の隠し部屋だ。
彼と…… バニラと過ごしたかけがえのない記憶が詰まった部屋だ。
イザベルは部屋の奥に置いてあるクッションに辿り着くと、何も言わずに静かに腰を下ろしてクッションへ体を沈める。
そうしてすぐ近くに置いてあるアンジェリカ人形を手に取り、両腕でぎゅっと抱き締めて目を閉じた。
哀しみを胸に抑え込み、深く息を吸い込んだ。微かに残る彼の匂いを感じ取りながら、脳裏に刻まれた楽しかった思い出の数々を振り返る。
あの日、あの時、あの瞬間の全てを――
そのように記憶を振り返っていく中で、イザベルはふいに“なぜ自分が今この時にこの部屋へ足を運ぶことになったのか”について思いを馳せた。
バニラが目の前で息を引き取り、哀しみを癒す為に、彼の温もりを思い出す為に、心の拠り所を求めてこの部屋を訪ねてやってきたわけではない。
全ては“彼女”の言葉に始まっている。
彼女はこの部屋の存在についてこう言った。
『テミスですら知らないのでしょう? けれど、城塞の主であり、城塞内の全てを知覚することの出来るアンジェリカだけはもちろん知っていた。そしてあの子は“意図的に”その話を誰にも打ち明けることもなく、むしろこれまで秘匿するように隠し通して来たのだと思う。それはきっと、今のような状況に陥った時に貴女達が最後に隠れることの出来る場所を守りたかったから』
「私を、守りたかったから?」
ぼんやりとした意識の中で彼女の言葉は続く。
『イザベル。私達が城塞内に入った後、“誰にも気付かれないように”しながらその部屋に向かって。貴女とバニラの想い出の部屋が、貴女のことをこの戦争の惨禍から最後まで守り通してくれるはずよ』
「誰にも、気付かれずに…… この部屋へ来て、それで――」
彼女は話の最後にこう言った。
『私にこのことを教えてきたのは“アンジェリカ”なの。もう時間がないわ。もしも私の言葉として信じられないのであれば、私ではなくあの子の意志として受け取ってちょうだい――」
記憶の中で繰り返し響く彼女の言葉が心にわだかまる。
『アンジェリカ様がこのお部屋のことをご存知なのは当たり前。なぜなら私にこの部屋をくださったのもアンジェリカ様であり、私とバニラと一緒にここで遊んだことも一度や二度ではない。でも…… アンジェリカ様が、そのことを彼女へ伝えた? どうして? アンジェリカ様とあの方々は互いに敵対されていると、シルフィー様はそのようにおっしゃっていたはず。それなのに』
イザベルの心の中で、美しい女性の声が再び響いた。
あの子は“意図的に”その話を誰にも打ち明けることもなく、むしろこれまで秘匿するように隠し通して来たのだと思う
『意図的に隠し通した? ご自身が最も信頼を置くテミスの方々にも内密にされてまで。そのことに意味なんて――』
そのように考えた時であった。イザベルは自身が抱き締めている“アンジェリカ人形”に微かな違和感を抱いた。
『城塞の全てを知覚することが出来る…… 万能の目を持つ御方。目―― 今のような状況に陥る未来が、視えていた?』
この考えに至った瞬間、イザベルは抱き締めていた人形をじっと見つめた。
生前のバニラが他の遊び道具に目もくれることなく、ひたすらに気に入っていた人形。この人形には何か特別な仕掛けが施されているのではないかという疑念が浮かんできたからだ。
そうしてアンジェリカ人形を自身の目の前に掲げ、どこかに変わった部分がないか調べ始めた。
もし仮に、アンジェリカ様が全てを視通された上で“彼女に意志を託した”のだとしたら。
私にだけ伝えたかった“何か”がここにある。
イザベルは自身が初めてアンヘリック・イーリオンへやってきた時のことを思い出す。
あの時、アンジェリカは自分にこう言った。
『貴女は働かなくて良い☆ 自由に、楽しいと思うことをして、幸せに生きてくれたらそれで良いんだ☆ 何をー、どうしたいかは自分自身で決めたら良いんだからね?』
何をどうしたいか。
私はアンジェリカ様の御力になりたい。
アンジェリカ様が救ってくださったに等しい命。
御恩を返すことが出来るのなら何だって――!
そう思いながらつぶさに人形を調べていくと、何か固いものが手に触れた気がした。
丁寧に触っていくと、その固いものはどうやら人形が身に着けている小さなカバンの中にあるようだ。
固い異物は人形をしっかりと触った時にだけ感触が分かる程度のものであるが、埋め込まれている位置は比較的浅いように感じられた。
とはいえ、当然のことながらチャックなどついていない人形には中身の取り出し口などはなく、確認する為には人形自体を破らなくてはならない。
シルフィーが手作りし、アンジェリカの手から直々に手渡された大切な人形。何より、この人形はバニラとの優しい記憶が詰まった形見であり、かけがえのない想い出の品でもある。
イザベルは若干迷い悩んだが、意を決すると部屋の棚に置いてあったバニラ用の爪切りを手に取って人形のカバンの部分を丁寧に切り裂いた。
アンジェリカ様、シルフィー様、申し訳ありません。
バニラ、ごめんね。
でも、今は……
人形に傷をつけることに心苦しさを感じたものの、なぜか心の中では“これが正しい判断である”と直感していた。
そして、その直感の正しさは証明されることとなる。
小さなカバンの中からとても小さな黒いメモリーチップが出てきたのだ。
『共和国製のデータチップ。この中にアンジェリカ様が私にだけ伝えたかった何かがあるの?』
落としてしまえばすぐに見失ってしまいそうなほど小さなメモリーチップ。
クラウドシステムが普及した時代にあって、物理媒体に記録を保管しておくなど前時代的なように感じられるかもしれない。
だが、何らかの事情によってインターネット環境が構築できない場合においては今も尚、無類の威力を発揮する媒体であることに疑念の余地など無かった。
しかも、共和国が独自開発したチップには特別なデータ保護システムが備えられており、同じく共和国が独自に開発したスマートデバイスにて初めて内部のデータ再生が可能という特徴がある。
ネットを介さず、共和国内部の人間にだけ伝えたい情報を伝達する手段としては非常に理に適った記録媒体であるといえよう。
イザベルはチップを手に持ち、それを自らが持つスマートデバイスの外部メモリ挿入口に慎重に差し込んだ。
チップを挿入してすぐ、デバイス上には外部メモリを認識したという表示が成される。
期待と不安の内、不安の方が色濃く身に押し寄せる中、イザベルは震える手でタッチパネルを操作し、データの再生を開始した。
間もなく、自動的にデータ再生が開始されホログラフィックモニターが空間に浮かび上がる。
再生されたのはいくつかの“ある部屋”の映像であった。
黒い大理石が床一面を覆い尽くした小宇宙のような星の大聖堂。ノースクワイア=ボレアース。
白亜の祭壇と大自然と一体化したかのような風の大聖堂。イーストクワイア=エウロス。
スノードームを内側から眺めているかのように壁一面が美しい水と輝かしいマリンスノーに満たされた水の大聖堂。ウェストクワイア=ゼピュロス。
培養液が満たされた巨大なビーカーが多数設置される実験施設と化した真偽の大聖堂。サウスクワイア=ノトス。
テミスの4人が守護を司るとされる大聖堂の内、2つの聖堂にはテミスの2人が立ち、先ほど城塞内に足を踏み込んでいった一団で姿を見た人物の姿が共に映し出されていた。
シルフィーは修道服を身に纏う2人の女性と機構の隊員と、リカルドは機構の隊員2人と相対し睨み合いをしているようだ。
そして、ふいにノトスの入り口から黒いゴシックドレスを身に纏った少女と同じくゴシックロングドレスを纏う長身の女性、そして機構の隊員の合わせて3人が聖堂へ足を踏み込む様子が見て取れた。
『これは…… 今、それぞれのクワイアで起きている出来事? それがなぜこのチップに?』
一瞬、そのように考えた。だが、イザベルはこの映像が“今のものではない”ということにすぐ理解が及んだ。
これはおそらく、アンジェリカが垣間見た未来の一部であると。
イザベルの視線は4つ映し出された聖堂の内、サウスクワイア=ノトスへと釘付けになった。
先程、中央庭園で遠目から姿を見た一団の中で明らかに“浮いていた”存在。黒い服に身を包んだあの2人の女性からやけに嫌な気配、印象を感じ取ったことが理由である。
遠くからでもはっきりとわかるほどの異質さ。目を奪われるほどに美しいといえばそれも正しい形容なのだろうが、自身の考えは異なるものであった。
シルフィーがかつてそっと教えてくれた“災いを呼ぶ者”という話が頭をよぎり、それが彼女達2人のことを指すのではないかと思い至る。
ゴシックドレスに身を包む2人がノトス内部へ足を踏み込むと、彼女達の周囲にはどこからともなくアムブロシアーの大群が湧き上がって襲い掛かっていった。
イザベルは息をすることも忘れるほど没頭して映像を見ていたが、なぜか映像はアムブロシアーが彼女達に近付いた瞬間に途絶える。
他の大聖堂の映像も同じく全て消え去ると酷いノイズがモニター全体を覆い、その後唐突に真っ黒な映像だけが映し出された。
やがて暗い背景に白い文字が浮かび上がるが、その文字を読み取ったイザベルは心臓が止まる勢いの衝撃を受けることとなる。
“西暦2037年10月9日
もし、戦いの最中に貴女がこの部屋へ足を運んだのであれば、この戦いがどのような経緯を経て決着を迎えるかを問わず、同日の正午を迎えるまでの間、貴女はこの部屋から一歩たりとも外へ出てはならない。
天使は片翼となり、冠は崩壊する。時計の鐘が十二穿たれた時、玉座-スローネは静寂で満ちるだろう。
鐘の報せが貴女をあるべき場所へ導く。この部屋から外へ出て真偽の大聖堂へ向かうと良い。そこに幽閉された、火の名を持つ不変なる掟に従え。
崩壊の冠は新たな災厄の始まりを告げ、機械の神が送り込む四人の騎士により世界は混沌で満たされる。
立ち止まるな。貴女の道は光に満ち、選ぶべき答えは常にその心の中にある。
為すべきことを為せ。自らの心の赴くままに。心の意志に従って。
予言とも言うべき内容は間違いなくアンジェリカから自身に宛てられたものであり、その内容とはつまり――
共和国の崩壊を指し示していたのである。
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