*5-3-2*

 何が起きたのか理解出来なかった。

 空から大きな爆発の音が響き渡り、巨大な飛行機の破片が落ちるのを見た。

 鋼鉄の塊は使用人宿舎の尖塔に直撃し、建物を抉るように打ち砕いたのだ。


 そうして気付いた時にはもう――


 目の前には大きな瓦礫の山が積み重なり、昨日まで共に寄り添って過ごした最愛の犬は無惨な姿へと変わり果てていた。


 どうして?


 状況を呑み込むことは出来なくても、ただひとつ理解出来たことがある。

 バニラは死んだ。間違いなく即死だった。つい先程まで苦楽を共にして生きてきた愛犬は、鳴き声ひとつ上げることなくこの世を去った。

 どうしようもなく、弱かった自分を助ける為に自らの命を犠牲にして――

 その体は巨大な瓦礫によって圧し潰され、隙間から突き出た前足は有り得ない方向に捻じれて折れていた。

 時間差で、瓦礫を伝い流れた血液が庭園の芝を赤く染め上げていく。


 顔をうずめれば気持ち良かった、ふさふさの毛並みは溢れ出る血で湿り、もはや見る影も無くなっている。


 どうして……?

 私をひとりに、しないで?

 ねぇ? 


 両親を交通事故で失った過去の記憶が脳裏に浮かんだ。

 言葉に出来ない感情が心から溢れ、目からは自然と大粒の涙がこぼれ落ちる。

 声にもならない声でみっともなく泣き喚き、ただただやり場のない悲しみを、目の前に降り注いだ尖塔の残骸にぶつけることしかできなかった。


 昨夜も寝る時に抱いた、バニラの温もりを思い出す。

 自分が身を丸めて小さくすればほとんど変わらないほど、バニラの背中はとても大きかった。

 およそ5年前。どこから連れ帰ったのかも分からない、まだ子犬だったバニラをアンジェリカからプレゼントされた日のことが頭をよぎる。

 あれからたくさんの歳月が流れた。淋しい時も、辛い時もずっと一緒だった。柔らかく、ふんわりとした毛並みに顔をうずめ、身体から伝わる温かさに今までどれほど心を癒されてきたことか。

 これまでの想い出の全てが走馬灯のように駆け巡り、フラッシュバックする。


 呼び掛ければまた元気な鳴き声を聞かせてくれるのではないか。

 いつものように尾を振りながら笑みを浮かべて駆け寄ってきてくれるのではないか。

 現実を忘却の彼方へと追いやり、そのような夢想に耽る。

 けれどもう、彼は想い出の中だけの存在となってしまったのだ。

 手を触れることすら叶わない場所に行ってしまった。



 そうしてまた、夢想は振り出しへと戻る。

『君にこの子犬を預ける☆ 否、プレゼントしよう^^ 私の代わりに大切に育てるが良い☆ でも、命名だけは私がしちゃったんだなー、これが♪ この子の名前はバニラ。良いね?』

 満面の笑みを湛え、小さな腕の中にバニラを抱えたアンジェリカはそのように言って自分に彼を手渡してくれた。

 彼女から子犬を受け取った時、見た目以上の重たさに少しだけ驚いたことを思い出す。


 これが命の重たさなんだ


 そう思いながら、目の前で愛らしく周囲を見渡す子犬の名前を呼ぶと、バニラは可愛らしい声で応えてくれた。

 彼が“バニラ”という言葉を自身の名前として認識していたはずはない。

 それでも、初めての呼び掛けに応えてくれた彼の最初の一声は、生涯を通じて忘れることはないだろう。



 バニラ、ごめんね。不甲斐ない私なんかを助けたせいで、貴方がこんな目に……

 アンジェリカ様、申し訳ありません。

 私が弱かったばかりに。私が逃げることも出来ない臆病者だったばかりに。

 大切な家族を、失って――



 イザベルが自責の念に圧し潰されそうになっていた、その時である。

 ぼろぼろと零れ落ちる涙を拭うこともせず、失ったものを想い泣き崩れるイザベルは、自身の背にとても温かなものを感じ取った。同時に、柔らかく美しい光の揺らめきを視界の端に視て取る。

 背後に誰かいる―― イザベルは直感的にそう感じていたが、振り返るかどうかを迷った。


 誰?

 でも、この感じは…… 嫌な感じではない。

 むしろ、とても温かくて、優しくて、まるで――


 恐る恐る後ろを振り返りながらイザベルは声を詰まらせながら言う。

「アン、ジェリカ、様?」

 だが、振り返った視線の先に捉えた人物はアンジェリカとはまったく違う人物の姿であった。

 長く美しい、真っすぐでしなやかなプラチナホワイトの髪。見た瞬間に、生まれながらにしての高貴な存在であると分かるほどに神々しく端麗な容姿を持つ女性。

 左目をエメラルドグリーンに輝かせた彼女は慈愛に満ちた眼差しを向け、未だ涙を溢れさせ続けるイザベルの背に優しく手を置き佇んでいた。


 彼女が誰であるのか、イザベルはすぐにわかった。

 忘れもしない。およそ2週間前、アンヘリック・イーリオンへ訪れていた集団の中の1人だ。

『アンジェリカ様がお連れになっていた方――』

 そう思いながら視線を彼女の向こう側に向けると、50メートルほど先に機構の制服に身を包む数人と、黒のゴシックドレスを身に纏う少女など、2週間前にアンジェリカに同行していた一行が立ち並び、こちらをじっと見つめている様子が見て取れる。

 この時イザベルは、2週間前にシルフィーに言われた言葉を思い出した。

『今日、庭園で目にした彼ら。もし、近々この城塞で再び彼らを目にすることがあったとしても、その際に貴女は決して近付かれませんよう。

 彼らが城塞内に再び姿を現す時はアンジェリカ様や我らに仇を為す時。貴女を危険な目に遭わせるわけにはまいりません。故に、約束してくださいませ? イザベル』

 あの日、シルフィーはいつもと変わらぬ穏やかな笑みを湛え、優しく諭すような口調で言ったが、言葉の意味と同様に強い決意が込められていた様に感じたものだ。


 この方々を見逃せば、アンジェリカ様やシルフィー様に危害が及ぶ――


 そう思うと、居ても立っても居られなくなった。

 咄嗟に目の前の彼女の腕を力いっぱいに掴むと決意を込めた言葉で言う。

「貴女方を、このまま見過ごすことは、出来ません。貴女方がアンヘリック・イーリオンへ向かうことを見過ごせば、アンジェリカ様が…… 私の大切な方々が、傷付けられてしまう。城塞へは、行かせません」

 哀しみと恐怖で声は震えていた。止まらぬ涙を必死にこらえながら、それでも彼女達をアンジェリカの元へ行かせるわけにはいかないと訴え、思い切り腕を掴み握りしめた。

 何が出来るわけでもないことは分かっている。口でどう言おうと、自分には彼女達を止める術も力もないのだから。

 それでも…… 例えこの命がここで潰えるとしても、決してこの先に彼女達を行かせるわけには――


 だが、イザベルの決意に満ちた言葉に対し、目の前に佇む高貴なる女性は幾度か首を横に振って言った。

「貴女は、私達がアンジェリカを殺しに来たと思っているのね?」

 その声は慈愛に満ち、とても優しく温かく、大切なものを失ったばかりのイザベルの心を照らす光のようであった。

 彼女の問いにイザベルは深く頷いて言う。

「だって、そうでしょう? シルフィー様は、貴女達のことをアンジェリカ様に仇為すものだとおっしゃった。今、城塞の壁の向こうで、海の向こうで酷い戦いが起きているのも全て貴女達が始めたことだとしたら…… それ以外にどう思えっていうの?」

 この言葉に、女性は悲しそうな表情を浮かべて言った。

「今起きている戦いが、私達の始めたことだというのは否定しない。けれども、私達はこの場にアンジェリカを殺すために来たわけではないわ。私達は――」

 私達の始めた戦争。その言葉がイザベルの心を刺激した。

「うるさい、うるさい! やっぱりそうじゃない! 私から大切なものを奪ったくせに……! バニラは両親を失った私に、アンジェリカ様が贈ってくださった子だった。私にとってかけがえのない新しい家族だった。それなのに、貴女達が起こした戦いのせいで、バニラは私を助ける為に瓦礫の下敷きになって…… それで……」

 イザベルは彼女の言葉を遮ってそこまで言うと、再び溢れる涙を堪え切れなくなって言葉を詰まらせるが、すぐに目の前に佇む彼女を睨みつけて言った。

「貴女達が来なければ、バニラが死ぬことなんて無かったのに。返してよ…… 私の家族を…… 返してよ!」

 すると、女性は俯きがちに顔を伏せて言う。

「――そうね。貴女の言うことは間違っていないわ。イザベル。2週間前、私達がこの城塞を訪れた時に貴女がバニラと一緒にアンジェリカへアスターの花を贈っていたことを覚えているの」

「え?」

 ふいに名前を呼ばれたことでイザベルは息を詰まらせ、何も言うことが出来なくなった。

 光を思わせる女性はイザベルの目をしっかりと捉えて続ける。

「アンジェリカを慕う貴女を見た時、私はこれまであの子のことを誤解していたのだと気付いた。貴女に接するあの子の在り方こそが、本当の彼女の姿なのだろうと気付かされたの。ただ、私がそう思ったことをアンジェリカは決して快くは思わなかったようだけれど。

 だから、私達がここに訪れたのはアンジェリカともう一度お話をする為なの。殺す為ではなく、あの子がただ自分の本意に気付いて、そのことを口にしてくれるならと願っているだけ。

 でも、その為に私達が始めたこの戦いの中で、私達がバニラを殺してしまったという事実に間違いはない。結果として、貴女の心を深く傷付けてしまった」

 イザベルは掴んでいた彼女の腕から手を離すと力なく俯き、だらりと腕を下ろして言う。

「詭弁よ。どう言われようと、貴女方をアンジェリカ様のところへ通すわけにはいかない。この命に代えても譲りません。でないと、また私の大切な人がいなくなってしまう。アンジェリカ様にもしものことがあれば、私はまた――」


 ひとりぼっちになってしまう


 イザベルの脳裏に、再び過去の記憶が蘇った。走馬灯のように辛い記憶が次々と呼び起こされ、ついにバニラが死んだ瞬間のことに思いが至った時である。

 目を見開き狼狽えるイザベルを、目の前に佇む女性は優しく両腕で抱き締めて言った。

「そう―― きっと、今の貴女と同じよ。貴女がアンジェリカを想う気持ちと同じように、バニラはただ自分が大切だと思う人を守りたいと思った。

 自分の身と引き換えになっても貴女に“生きて欲しいと願った”のだと思う。だから、今ここで貴女が身を挺して私達を引き留め、危険な場所にこれ以上留まり続ける道を選ぶことをバニラは決して望んだりはしないと―― 私はそう考えるわ。

 失ったものは戻らない。けれど、命を失くしたものであっても想い出の中で生き続けることはできる。バニラも、貴女が生き続ける限り記憶の中でずっと貴女に寄り添うことができるのだから」

 女性の腕の中に抱かれたまま、大粒の涙を溢れさせ、震える声でイザベルは言う。

「そんなの…… そんな言い方、卑怯だわ」

「これまでの出来事で、貴女が私達を信じられないという気持ちは理解する。けれど、これだけは信じてちょうだい。私は貴女を傷付けるつもりはないし、守りたいと思っているの。そして、アンジェリカのことを殺そうなどと思ってはいない。なぜなら、私にとってあの子は、同じ時代に生まれ、同じ時代を共に生きた同胞でもあるのだから。」

 力一杯にイザベルを抱き締め、自身の“本心”を明確に伝え終えた女性は耳元で囁くように言った。

「最後に、私の言葉を一つだけ聞いて。アンヘリック・イーリオンの地下には、貴女とバニラがよく一緒に遊んでいた部屋があるわね? 城塞内では誰にも使われることのない完全な空き部屋よ」

「どうして、そのことを?」

 イザベルは自分以外の誰もが知るはずのないことを知っている彼女の言葉に驚いた。

 女性は動揺するイザベルをしっかりと抱き締め、耳元で囁きながら話を続ける。

「あの部屋の存在はテミスの4人ですら知らないのでしょう? けれど、城塞の主であり、城塞内の全てを知覚することの出来るアンジェリカだけはもちろん知っていた。そしてあの子は“意図的に”その話を誰にも打ち明けることもなく、むしろこれまで秘匿するように隠し通して来たのだと思う。それはきっと、今のような状況に陥った時に貴女達が最後に隠れることの出来る場所を守りたかったから。

 イザベル。私達が城塞内に入った後、誰にも気付かれないようにその部屋に向かって。貴女とバニラの想い出の部屋が、貴女のことをこの戦争の惨禍から最後まで守り通してくれるはずよ」

「貴女の言葉を、信じろと?」

「私だけではないわ。私にこのことを教えてきたのは“アンジェリカ”なの。もう時間がないわ。もしも私の言葉として信じられないのであれば、私ではなくあの子の意志として受け取ってちょうだい――」


 そのように言い終えた女性はイザベルを抱き締めていた腕を下ろし、慈しむように優しい笑みを彼女に向けてその場から消え去った。

 光を具現化したような高貴なる女性。彼女に触れられた時の温かさが妙に体に残り、その感覚が空洞となった心の中を満たしていくようである。

『……お名前、尋ねておくべきだったかしら』

 しかし、そう考えたイザベルが顔を上げた時にはもう、彼女は50メートルほど向こうに佇んでいた集団と共にアンヘリック・イーリオンの城門を目指して走っている最中であった。


“貴女とバニラの想い出の部屋が、貴女のことをこの戦争の惨禍から最後まで守り通してくれるはずよ”


 彼女が残した言葉を思い出す。

 空では戦闘機が激しい戦いを繰り広げ、今も尚その残骸や燃え尽きた灰などが空から降り注ぐ。

 美しかったアンヘリック・イーリオンの庭園も、そうした戦火によって生まれた多くの炎に包まれ、立ち昇る黒煙は徐々に視界を閉ざしていった。


 イザベルは今一度後ろを振り返ろうとしたが、思いとどまって言う。

「バニラ。私、行くね。貴方の優しさを、絶対に無駄になんてしないから。私を守ってくれてありがとう。そしてさようなら、バニラ」

 両掌を固く握りしめ、涙を拭ったイザベルはたなびく黒煙に身を隠すようにしながら、光の女性に言われた通り、アンヘリック・イーリオンの地下へと向かったのであった。



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