第3節 -神域聖堂アネモイ-

*5-3-1*

 アンヘリック・イーリオン直上。

 連なる弾丸が持続する1本の線を構築し、生まれた橙色の曲線は幾重にも渡り大空に孤を描く。

 そのように何重にも連なる対空迎撃の火線に、不可視のレーザー光線を加えた集中砲火をたった1機の航空機へ浴びせ続けて何分が経過しただろうか。

 およそ80発。これはCIWSが秒速で発射可能な銃弾数を示す。毎分4500発という驚異的な弾数を、数十秒間にも渡って継続射撃可能な性能を持つ砲塔からの攻撃を継続して受けているにも関わらず、未だに黒色に染まる航空機が撃墜される気配はない。

 なぜなら、射出された銃弾はただの1発とて航空機へ届いていないのだから。

 まるで、周囲に見えない壁でも張り巡らせたかのように、火線は機体の少し手前で不自然な軌道に捻じ曲げられ、全てが上方へと逸らされる。

 逸らされたCIWSの火線は、あろうことか城塞上空の防衛に就いている友軍機のカローンを急襲し、対するカローンは流れ弾から逃れる為に、上空で慌てふためきつつ回避運動を行っているという有様だ。

 撃っても撃っても狙いを定めた獲物に弾が命中することはない。それでも尚、無機質な殺意は標的である黒色の航空機に対する攻撃の手を緩めることはなかった。

 だが、放たれる砲撃の嵐をものともせず、悠々とした着陸姿勢を保ったまま降下を継続する航空機は、そうした砲塔からの射撃を嘲笑うかのようにアンヘリック・イーリオンを取り囲み聳え立つラオメドン城壁の内側へとついに舞い降りたのである。

 ここに至ってようやく、執拗な追尾攻撃を継続していた各砲塔は射撃を一斉に停止し、鮮やかに大空を染め上げていた炎色の火線は静まり返った。

 城壁内で反響していた激しい銃撃音は止み、突如として辺り一帯が静寂に包まれる。

 そうして各防衛砲塔は敵の侵入者である航空機を見送る態勢を取りつつ、獲物を仕留められなかったことに名残惜しさを抱くような―― 或いは憤怒の意を示すかの如くじっと管制レーダーの照射のみを継続するのであった。


 対空迎撃の火線が収まると同時に、航空機内も静けさで満ちる。緊迫感に包まれたまま、誰一人として何も言葉を語らぬ機内。

 銃撃音が鳴り止んだことで、自機に向けられた砲火の嵐が静まったことを認識したイベリスが口火を切って言う。

「目的地へ到着したわ。着陸までもう少しよ。それより、周囲にアムブロシアーの気配はないわね。中央庭園の警備は皆無といったところかしら」

「私の目にもそのように映っているし、中央庭園の警備が皆無であるという点は同意する。だが、私達が到着する以前にアンヘリック・イーリオン尖塔に天使の光輪が灯ったこともまた事実。間違いなく、アンジェリカが城塞に帰還した証だ。未来視に映らぬ気まぐれ猫の考えることなど掴みようがないからね。油断はしない方が良いのだろう?」

 すまし顔ではあるものの、警戒心を露わに言ったマリアに対し、イベリスは首を横に振って応えた。

「心配ないわ。あの子は自らこちらに出向いてくることはなく、然るべき場所で私達の到着を待つに違いない」

「玉座の間、か。相も変わらず律儀なことだ。まぁ、私達からすれば願ったり叶ったりという状況ではあるのだけれど」

「だからこそ、この後の行動についても指針を定めやすいといったところよ。中央庭園に降り立った後の行動については先に話した通りに。まずは2手に、その後4手に分かれて玉座の間を目指しましょう」


 それは、アンディーンから送られたデータを元にイベリスとマリアが中心となって立案した作戦であった。

 玉座の間へ辿り着く為には“神域聖堂”と呼ばれる空間を必ず通り抜ける必要がある。

 神域聖堂は第二玄関ホールを兼ねた中央の空間〈セントラルクワイア=アイオロス〉と、最終目的地である玉座の間を除き、東西南北それぞれに4か所ほど存在しているとマップデータ上には示されていた。

 ここまでは送られてきたマップデータで確認出来ることである。しかし、肝心なのはその“中身について”だ。

 アンヘリック・イーリオンの内部構造に関して、マップデータ上で明らかにされている点が多いとはいえ当然未知の部分も多く、神域聖堂の内部についても同様である。

 そこに部屋があるということが分かったからといって、何事も起きず、また安全に踏破できるかといえば違う。

 向かう先に何があるか分からない。データ上の見分だけでは、そうした不安を拭い去ることは出来ないということだ。

 そこで、全員がひとつの集団としてまとまって目的地を目指す“一点突破”を選ぶか、或いは分散して各々が個別に目的地を目指す“分散突破”を選ぶかという両案が天秤にかけられたのである。

 検討中に挙げられたイベリスとマリアの懸念は同じようなもので、一点突破を選択した際に万が一にでも罠に嵌まれば、そこで全員の身動きが取れなくなるというリスクが生じるというものであった。

 集団として行動することで得られる戦力安定のメリットより、危機が集中した際のリスクを回避する狙いがここに込められている。

 もちろん、集団を分散させることによる個々の戦力低下の懸念もあったことは確かだが、公国の忘れ形見たる者が最低1人でもいれば、玉座の間に辿り着くまでの道中では問題ないだろうという見立てもあっての決定だ。


 作戦内容を頭に浮かべながら、余裕の笑みを湛えてマリアが言う。

 「アイオロスより先、神域聖堂へ至る岐路に辿り着くまでの間はそれぞれが2手に分かれて行動することになる。私達はロザリー達と行動を共にするわけだが…… いや、しかし。改めて振り返ると数か月前の事件を思い出す振り分けだね。まぁ、1人例外となってしまっているが」

 その言葉に対し、怪訝な顔をしてルーカスが言う。「俺のことか?」

「そうだとも。けれど、裏話をするつもりも毛頭ないが、君も元々はミュンスターの事件に関与してもらう予定ではあったんだ。諸事情によって流れてしまってね」

 マリアは横目にロザリアを見て言うと、笑みにさらなる花を咲かせた。その視線の先を追いながら、ルーカスは“諸事情”の意味を悟って言う。

「予定だった? っつーことは、つまりあれだ。ウェストファリアの亡霊事件に関する調査はヴァチカンからの協力要請に基づくものということになっていたはずだが、実情は国際連盟のあんたら主導によって計画された調査任務だったというわけだな」

「いかにも。数か月前に実現はしなかったメンバーでの行動になるというわけさ。頼りにしているよ? 准尉殿」

「当てにされてもらっても困る」

「おや、如何にも自分の存在が足手まといになりそうだという顔でものを言う。だが、そういう心配は無用に願いたい。私が君を頼りにしているというのは本心からだ」

「根拠は?」ぶっきらぼうにルーカスは言った。

 マリアは意に介すことなく求められた答えを伝える。

「こちらの人員の中で、プロヴィデンスとイベリスに自らの意思伝達が可能なのは君とフロリアンしかいない。それが最たる理由だ。我々がどれだけ特別な力を有していようと、決して同じ真似は出来ない。

“チーム”として同じ目的を達する為の情報と意志の共有は常に必要なものだろう? 私達にとって君とフロリアンは、それを叶えることの出来る唯一無二の存在なのだから」

「チーム、ね」

 伏し目がちにルーカスが言うと、その先の言葉を玲那斗が引き取って言う。

「マリー、そこまでだ。俺は正直、今の君の在り方について快くは思っていない。大事な作戦遂行前に余計な軋轢を生む物言いは避けたいが、敢えて言わせてもらう。この数日における一連の君のやり方については軽蔑すらしているんだ」

「おやおや、君にしては珍しくはっきりと物を言う。優柔不断は卒業したのかい?」

 玲那斗の諫言に対し、マリアはあからさまな嘲笑を込めて言った。

 だが、次の瞬間にはこれまで見せたこともない厳しい視線を玲那斗に向け、声の調子を落としてこう言ったのである。


「別に、君が私に対してそのように思い感じ、振る舞うのは今に始まったことではないだろう? およそ千年前のあの日、あの時もそうであったように」


 まるで強い怨嗟が込められたかのような言葉であった。

 マリアの言葉を受け、玲那斗は自身の中に強い動悸を感じた。明らかに内で眠るレナトが反応を示している。それがどういった理由によるものなのかは知れないが、ただひとつ明確に感じ取ることの出来る意思はあった。

“彼女に対して、それ以上のことは何も言えない”と。

 重要な作戦遂行を前にこれ以上の仲違いは避けなければならない。空気の悪化を懸念したフロリアンが咄嗟に言う。

「マリー」

 たった一言。彼女の名を呼んだだけであったが、フロリアンの訴えかけるような眼差しと声に、マリアは意図を汲み取ってすぐさま矛を収めたように玲那斗から視線を逸らすのだった。

 彼に名を呼ばれたことに満足したとでも言うように。もしくは『今の自分には彼がいる』と玲那斗に誇示するかのように。

 続けてフロリアンは玲那斗に言う。「中尉、話は全てが終わった後でも出来ます。今は目の前の作戦に集中しましょう。率直に言って、今のような雑念を抱えたまま城塞に向かえば命取りになりかねません」

「フロリアン、お前が彼女の肩を持つのも理解できるが――」

 玲那斗が言いかけると、話を遮ってジョシュアが厳しい口調で言う。

「そこまでだ、お前達。やめておけ」

 隊長の言葉に玲那斗もフロリアンも互いの言葉を呑み込んで押し黙る。そこへ、ルーカスが鎮痛に満ちた空気を切り裂くように、話の腰を断ち切って言った。

「エンジン音が変わったか? いよいよ着陸だな。いや、しかし、あれだ。俺はこの航空機があんな変態機動を描いて飛ぶなんて聞いてなかったぞ。こいつはUFOか何かか? 胃が持ち上がったまま、まだ降りて来ない」

 自らがこの空気を作り出す一端になった責任を感じてか、場を取り持とうとする必死さが窺えた。

 ルーカスの言葉に反応したのはイベリスだった。くるりと振り返り、出来る限り精一杯の穏やかな笑みを浮かべて見せて言う。

「航空機の操縦は初めてだったから。次があればもっとうまくやるつもりよ? それでも、無事にここまで辿り着けたことくらいは褒めて欲しいわ」

「はは、次が無いことを願いたいね」

「もう、そういうことを言う。次にどうしても必要なときでも、ルーカスは乗せてあげないんだから」

 常に見せてきた茶目っ気は影を潜めているが、場の冷え切った空気を温めるようにイベリスは優しく言った。

 2人のやり取りを聞いていたマリアが言う。

「そうだね。准尉の言う通り、なかなかスリリングな飛行だとは思ったが、私個人としては悪くはなかったよ。君もそう思うだろう? ロザリー」

「そういった観点から語るのであれば、わたくしとしては少々刺激に物足りなさを感じましたわね。次はもっと大胆にしてもらっても構いませんのよ? もちろん、准尉さんが同乗する時には、特に」

 先にマリアが言及した“諸事情”の件が影響しているのだろうか。相変わらずつんとした言葉がルーカスへ向けられた。

「へぃへぃ、そーですか」苦笑しつつルーカスは言う。

 とはいえ、作戦前に冷え込んだ空気を引きずらずに済みそうだという若干の安堵がその表情には滲んでいたのであった。


 ルーカスが返事をして間もなく、垂直降下していた機体が城塞中央庭園へと着陸を果たす。

 機体に伝わった振動からもそれは明らかで、少しの衝撃の後にエンジンも急速に停止した。

 静まった機内の中で表情を引き締め、真剣な眼差しを皆に向けてイベリスが言う。

「さぁ、行きましょう。一歩外へ出たら後戻りはできないわ」

 その言葉を合図に各々が体に固定していたシートベルトを外した。

「外に不穏な気配は感じられない。アザミさん、貴女にも感じ取れますか?」

「えぇ、おっしゃる通り外敵のような気配は何も。降り立ったところを狙われるということは無いでしょう。ですがむしろ……」

 イベリスの問いにアザミが答えるが、言葉の最後は濁した。

 マークתの一行はそれが意味するところを掴めずにいたが、直後に機体を揺さぶった振動によって彼女の意図をすぐに察した。

 耳を澄ませば聞こえる、アンヘリック・イーリオンに鳴り渡る警報音。轟音を立てて飛来する戦闘機の音と激しい攻防を繰り広げているであろう、城塞に固定された銃火器群の一斉射の音。

 ここで言うところの敵が、自身の戦略拠点である城塞内に攻撃を仕掛けてくるわけがない。

 アザミが言いかけた言葉とはそう。“むしろ、空からの味方の攻撃が心配だ”ということだったのだ。

「そうね。アムブロシアーなどに掴まる心配はないけれど、上空は常に警戒した方が良さそうだわ。いつまでもこの場に留まるのは危険かもしれない。急ぎましょう」

 イベリスは言うと、航空機の出入り口ドアを自身の異能を使って自動で開き、先陣を切って外へと降り立つ。

 一行も彼女に続きドアへと並び立つ。先に降り立ったイベリスが周囲の状況を目視した後に手招きで誘導する姿を確認すると、マークתのメンバーから順に中央庭園へと降り立った。

 次いでアシスタシア、ロザリアと続き、最後にアザミとマリアが庭園へと足を付ける。


 外では黒く分厚い雲が空と地上とを遮り、陽の光は未だ閉ざされたまま。

 大西洋から立ち昇る黒煙が遠く離れた中央庭園からでも分かるほどに、大気の香りは戦争の匂いに包まれていた。

 轟音を立てて飛行する連合の戦闘機と共和国の戦闘機が空の格闘戦を演じ、ラオメドン城壁からは絶え間なくCIWSによる火線とレーザー砲の熱線が上空へと撃ち放たれる。

 中央庭園自体は2週間前と同じように、見事な花々が咲き誇る美しい景観を維持していたが、ところどころに撃ち落とされた連合軍の戦闘機による残骸が散らばっており、残骸から漏れ出た燃料に引火した炎が徐々に周辺を焼き尽くそうと勢力を拡大している最中であった。


 しばしの間、周囲と上空の様子に目を配っていた一行であったが、おもむろに全員が顔を見合わせると静かに頷き合い、城塞へと向けて走り出す。

 天高く聳え立つ城塞の尖塔には天使の光輪が2対輝き、ゆっくりと回転を続けるそれらから放たれた光は、天界から注がれる道標のように神々しかった。

 光輪から注がれる淡い光に照らし出される中央庭園を、全員が脇目も振らずに走り過ぎる。美しい景色が燃え盛る炎に呑まれる様を振り返ることも無く。

 己の為すべき責務を果たしに、アンジェリカとの最後の決着を付ける為に。


 だが、庭園の中ほどを過ぎた辺りで突然、近くで何かの爆発音が轟いた。

 アンヘリック・イーリオン直上を飛行していた連合国の戦闘機がラオメドン城壁の対空火線によって撃ち落とされたのだ。

 走っていた一行は衝撃波の凄まじさに皆足を止め、爆発音のした方角へと向き直る。

 一行が視線を向けた先では、ほとんど制御不能に陥っていた戦闘機が最後のあがきとばかりに城塞へと自爆特攻を仕掛けていたが、途中でレーザー兵器の直撃を受け機体のほとんどが焼け溶かされていった。

 やがてエンジンの大爆発によって機体は空中で爆散し、戦闘機によるアンヘリック・イーリオン特攻は防がれたが、しかし――

 機体の主翼を担う巨大な破砕片はレーザーによって溶かし切れず、それが上空から凄まじい勢いで落下を開始していた。

 主翼が落下をする先に視線を移せば、そこには城塞とは別の宿舎のような建物があり、ちょうど破砕片が落下しようとしている位置には1人の少女の姿が見て取れる。


「いけない! 早く逃げろ!」


 玲那斗が叫ぶが、少女は一歩もその場から動こうとしない。

 火の弾となって上空から注がれる破砕片の雨に立ち竦み、その場で身動きが取れなくなっていたのだ。

 到底、人間の脚で走って間に合う距離ではない。それでも――

 玲那斗やルーカスは気持ちよりも先に身体を動かし、少女の方へと向かって駆け出していた。


 だが、彼らの前にはすぐに“見えない壁”が立ち塞がった。

 玲那斗とルーカスはガラスのような固い壁に弾き返され、走っていた方角とは間反対の方向へと即座に吹き飛ばされたのである。

 2人が視えない壁に弾かれた直後、主翼の破砕片が建物の尖塔を直撃した。

 破砕片によって崩れた建物の瓦礫が、真下で立ち竦む少女を襲う。


 玲那斗は必死に手を伸ばすが、その手が届くことは無い。

『逃げろ!!』と、心の中で叫ぶのが精一杯だった。


 一瞬の後、凄まじい轟音と共に大地は揺れ、巻き上げられた砂煙が灰色のカーテンを作り出し視界を塞ぐ。

 ただ、不思議なことにその砂煙は少女の元へと駆けようとしていた一行へと迫りくることは無く、玲那斗とルーカスが弾き飛ばされた見えない壁との境界で綺麗に遮られていた。

 力なく煙の向こうへ手を伸ばし続ける玲那斗に対し、背後から怒気をはらんだ少女の声が伝わる。

「立ち上がりたまえよ。こんなところで“無駄な時間”を潰している余裕なんて私達にはないんだ」

 玲那斗は後ろを振り返り、声の主であるマリアへ詰め寄るようにして言った。

「無駄な時間だって!? 目の前で1人の子供が死んだんだぞ!」

「それが何か?」

「っ! 何だと?」

 怒りの形相で詰め寄る玲那斗に対し、マリアは怯むことなく憮然とした態度で彼の前に立って言う。

「では聞こう。君達が走れば、彼女は助かったのかい?」

「それは……!」

「答えは否だ。何がどうあってもそのような結末など無かった。感情だけで行動するなど愚か者のすることだ。私達は偶々目の前に現れた1人の少女を助ける為にここまで来たのではない。私達の背後には、数億、数十億人という世界中の人々の命と未来が掛かっているんだ。よもや、そんなことすら忘れているわけではないだろう?」

「たった1人も守れなくて、それが一体……!」

「つくづく、君という人間は愚かしいな。少しは“現実”を見たまえ」

 溜め息交じりにマリアが言うと、玲那斗とルーカスの目の前に存在していた見えない壁が消え去ったのか、巻き上げられた砂煙が一行へと迫って来た。

 だが、間もなく砂煙全てを吹き飛ばす勢いの突風が吹きすさび、周囲一帯の視界はすぐに回復したのである。

 玲那斗がマリアの後ろに視線を向けると、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるイベリスと、淡く瞳を輝かせて右手を前に差し出したアルビジアの姿が見て取れた。

 見えない壁と砂煙を吹き飛ばした風は彼女達の力によるものだったのだ。


 言葉なく呆然とする玲那斗に対し、すぐ隣で砂煙が晴れた向こう側を見ていたルーカスが指を指して言う。

「おぃ、玲那斗。見ろ」

 彼の言葉を受けて玲那斗が後ろを振り返ると、視線の先では先程の少女が瓦礫に縋って泣きじゃくる姿があった。


 彼女は無事だった? でも、一体どうして?


 そう思いかけたが、少女が縋る瓦礫の先にあったものを見て、その場で何が起きたのかを玲那斗は悟った。

 マリアが言う。「これが、君達が常日頃から口にする“可能性”というものなのかもしれない。けれど、現実とは常に残酷なものだ」

 玲那斗が視界の先に捉えたもの。それは瓦礫の隙間から突き出す犬のものと思われるねじ曲がった前足と、瓦礫の下から止めどなく溢れて芝を濡らす鮮血である。

 この時、ふいに脳裏に浮かんだ人物の姿と目の前で泣きじゃくる少女の姿が重なり、彼女が誰であるのかを理解した。


 およそ2週間前、初めて訪れたアンヘリック・イーリオンで目にした少女。

 今と同じように、中央庭園から城塞へと自分達が向かう道中にバニラという名の犬と共に楽し気な表情でアンジェリカへ駆け寄り、綺麗なアスターの花を彼女へ手渡していた少女である。


 あの時の犬が、飼い主である彼女の命を守った?


 それ以外に考えられる要因など無かった。

 この場にいる一行の中で、マリアやアザミはもちろんのこと、イベリスもアルビジアも、当然ロザリアもアシスタシアも、先の出来事が起きる直前に“あの犬が彼女を必死に守ろうと駆け寄る姿が見えていた”に違いない。

 だからこそ、誰も彼もがこの場から動こうとしなかったのだ。

 皆の真意に気付いた玲那斗はしゃがみ込んだまま、やるせない気持ちの行き場所を自らの拳に向け、力を籠め握り締めた。



 そんな玲那斗の姿を見やるマリアの脳裏にはハンガリーでの記憶が蘇っていた。

 セルビアとの国境沿いにある町、リュスケ近郊での出来事だ。アザミとフロリアンと共に難民狩りの男と対峙したあの日、自らに向けられた銃撃によって散った“子犬”のことが鮮明に思い起こされる。

 オレンジ色の首輪をつけた子犬。難民狩りの男、ライアーに飼い主を殺され、行く宛て無く彷徨っていた子犬は、自らとは無関係のはずの人間に向けて放たれた銃弾からその人物、つまり自分の身を守る為に凶弾を受けて命を落とした。


 あの時と―― あの時と同じだ。

 リュスケの公園で子犬は、ライアーの銃撃から私の命を守る為に目の前に飛び込んだ。

 彼方で血を流すあの犬もまた、目の前の人間を助ける為に自らの命を犠牲にして。

 現実というのは、いつもいつも、どうしてこうも――!


 しかし、過去と同じであって異なることもある。

 今回バニラという犬を殺したのは他でもない。自分自身でもあるのだ。

 そう、犬の死は自分が籍を置く国際機関の傘下である軍隊の、戦闘機の墜落に起因したものである。

 突き詰めれば“自らが殺した”ということに等しい。


 マリアは行き場のない憤りを滲ませ、奥歯を噛み締めながら静かな口調で言う。

「玲那斗、私達が彼女に対して出来ることなどない。それに、彼女は共和国の、突き詰めて言えばアンヘリック・イーリオンの人間だ。今この瞬間だけで言うなら、私達の敵ということになる。捨て置くんだ。君も責務を全うする隊員の一人なら、聞き分けたまえ」

 だが、その言葉を言い終えた時、マリアは自身の周囲にふいに甘いキャンディのような香りが広がったのを感じ取った。

 顔を背後に向けると、いつの間にか近付いてきていたイベリスがそっと肩に手を置き、何も言わずに首を横に振っている。

 傍に佇むイベリスの左目は鮮やかなエメラルドグリーンに輝いていた。これは彼女が自身の分身体をどこかへ送り放っている証だ。

 マリアはこの瞬間に彼女が“どこへ”自身の分身体を投影したのか即座に見抜くと、視線を再び瓦礫に圧し潰された犬の前で泣きじゃくる少女へと向けた。


 およそ50メートル先。アンジェリカからイザベルと呼ばれていた少女の前傍には、本物と何一つ変わらないイベリスの姿をした分身体が投影されていた。

 イベリスの分身体は彼女の傍にしゃがみ込み、何かを話し込んでいる様子だ。

 すると、マリアの傍に立つイベリス本人が言った。

「マリー。確かに今の私達は、あの子に対して、あの子が望むことを何一つ叶えてあげることは出来ないのかもしれない。けれど、少なくとも“言葉をかけてあげること”くらいは出来るわ」

「慰めの言葉でも、掛けに行っているのかい?」

「いいえ。この場はとても危険よ。中央庭園に残る限り、同じような危険が常に彼女に付きまとう。たとえ今、この瞬間に彼女が敵であったとしても、彼女の命を守る方法があるのならば私はそれを実践したいと思う」

「そうか。つまり君は彼女を“安全な場所”へ誘導してあげると。そういうことか」

「そうよ。プロヴィデンスの演算によって導かれた、この状況下において最も安全な場所が私には分かる。危険を回避するという意味で、未来予測の結果を彼女に伝える。きっと、今の私にしか出来ないことだから」

 するとマリアの瞳がほんの一瞬だけ、僅かに淡い赤色に煌めいた。自身の持つ予言の力を行使したのだろう。先の結末を見たであろうマリアは言う。

「なるほど。的確な判断だろうね。であるならば、ますますもって私達がこの場に留まる必要性はない。先を急ごう」

 マリアはそう言うとイベリスの脇を通り抜け、アンヘリック・イーリオンの城門へと繋がる道を歩み始めた。


 イベリスが言う。

「玲那斗、ルーカス、行きましょう。マリアの言う通り、私達がこの場にこれ以上留まることもないわ。早くアンジェリカの元へ行かないと」

 地面に倒れ込んだままだった玲那斗とルーカスは促されるがままに立ち上がると、しばし遠くに見える少女へと視線を向け続けたが、やがてアンヘリック・イーリオン城門へと目を向け直してマリアの後に続いた。

 事の次第を見守っていた他の面々もマリアの後に続いて城門へと向かい、最後にイベリスを加えてやがて全員が最初に目指していた場所へ走り出す。



 もう二度と、このような悲しい歴史が繰り返されないようにと。



 きっと、同じはずだ。

 アンジェリカの望む未来も、イベリスが願う未来にもそう大差があるわけではない。

 最終的に願う想いが同じである相手と、互いに最後の決着を付ける為に。

 そうして城門へと続く長い階段を上り切った一行は、アンディーンの裏工作によって予め入手していたロック解除キーを用いて城門扉のセキュリティを解除し、アンヘリック・イーリオン内部へと足を踏み込むのであった。



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