*5-2-4*
サーベルと光の刃が剣閃を交える度に甲高い音が室内に鳴り響く。
反響した音が僅かにこだまするが、その音は剣戟による死闘を繰り広げる2人の動きに少なからぬ影響を及ぼしていた。
僅かな反応の遅れが致命傷をもたらすという極限の戦い。
特に、コンマ数秒すら目を離すことの出来ない戦いを強いられているアンディーンの精神にとって、室内に据えられた金属に反響する反射音は気を削ぐ非常に厄介なものとなっていた。
『光輪も無く、光の翼も顕現していない。おそらく、アンジェリカ様にとっては私との剣戟など遊戯にも等しい享楽の類。殺そうと思えば今この瞬間にだって殺せるはず。口ではどうとでも言うことも出来るが、やはり私如きの相手に本気を出すまでもないということか―― しかし!』
1秒間に3度。交えられる剣閃によって発せられた剣戟の音。
桃色の髪と黒衣が宙を翻り、あらゆる角度からの斬撃が襲い掛かる。とても小さな体躯の少女から繰り出されているとは思えぬほど一撃一撃が重たい。
刃を擦らせて弾く際には火花が飛び散る。完全に防御するにはサーベルの刀身だけでなく、時には左手を添えなければ簡単に身体ごと吹き飛ばされそうなほどの剣圧だ。
常に攻撃を仕掛けるのはアンジェリカから。アンディーンにとっては高速で展開される少女の剣戟を捌くことで手一杯であり、反撃する機会を見計らうことすら出来ない。
だが、光明がないかといえばそうとも言い切れなかった。
『攻撃そのものは全て視えている。そして、繰り返される剣閃の“パターン”を読み取ればおのずと、反撃の機会も見えてくるというもの……!』
そう考えていた時である。アンジェリカが左回転をしながら切り込み、直後に平突きを繰り出した瞬間をアンディーンは見逃さなかった。
『アンジェリカ様は腕力より剣戟に頼る。平突きを躱した時に素手で殴るという選択肢を取ることは無く、必ず勢いを利用したまま躱したのと同じ方向に薙ぎ払う連撃を仕掛けてくる。けれどその時、重心を必ず薙ぎ払いと反対方向に傾かせる癖がある!』
アンディーンはアンジェリカの仕掛けた平突きを、彼女から見て左側へ交わした。すると予測通りに同方向に薙ぎ払いの攻撃を仕掛けてきたのである。
アンジェリカの重心が右に傾いた一瞬の隙を見逃したりはしない。アンディーンは薙ぎ払いの重たい一撃に対し、渾身の力を籠めて反発しながら重心を移動すると身体を翻し、左脚を軸としてアンジェリカの左脇腹よりやや上の位置に強烈な蹴り上げを見舞った。
剣戟が奏でる音とは異なる鈍い音が鳴る。
感触で分かる。第10肋骨から第8肋骨辺りまでを砕いたはずだ。
それまで余裕の表情で攻撃を繰り出していたアンジェリカの表情が一瞬歪み、視線は蹴りが直撃した方へ向けられる。
むせるような低い喘ぎ声を吐いたアンジェリカは、蹴り上げられた方向へと向かって吹き飛ばされた。
態勢を崩し、右腕で床を突きながらも難なく着地して見せたアンジェリカは呼吸を整えるとすぐに立ち上がる。
アンジェリカは負傷したであろう左脇腹の上辺りに手をかざし、何やら小声で呟いただけで動こうとはしなかった。
だが、油断大敵。一撃を加えたからといって、彼女がその怪我をいつまでも抱えたままとなるわけではない。不死性を持つアンジェリカの再生能力であれば、今この瞬間にも怪我が完治しているはずだ。
いつ攻撃が再開されてもおかしくない状況の中、アンディーンは重心を低めに取りながらサーベルを構える。
アンジェリカは深く息を吐き、負傷したと思しき箇所から手を離して視線をアンディーンに向ける。そうして鋭い眼光を湛えたまま、何食わぬ表情をして言ったのである。
「さすがに、ただの人間を相手にするのと同じようにはいかないわね。ある意味、自分自身を相手にしているようだわ」
「無論、貴女様から分け与えられた力によるものですから」
「人間の限界を超越した動体視力と反射による反応速度。昔から剣技において比類なき才覚を発揮していた貴女にとって、相応しい力であると考えたからこそ与えたものだけれど…… それが今となって私の足枷になるだなんて」
アンディーンが見せる、不死兵アムブロシアーを遥かに凌ぐ超人的な反射による一連の動き。これこそがアンジェリカの絶対の法によって与えられた加護の力である。
テミスの4人には、総統の腹心としてあるべき相応しい力をアンジェリカがそれぞれに分け与えている。
リカルドには比類なき腕力と耐久力を。
シルフィーには完全なる気配隠匿と空間自在転移能力を。
アビガイルには回避不能の錯視を操る認識阻害能力を。
そして、アンディーンには絶対的な動体視力と反射能力が与えられた。
アンジェリカによってもたらされた力が無ければ、今この場においてアンディーンの命は既に絶たれていたはずである。
与えられた力によって主君である彼女と同じか、或いは彼女の速度を上回る反射で動くことが叶い、加えて体格差による有利があるからこそアンジェリカと同等に渡り合うことが出来ているといったところだ。
ただ、アンディーンには別の疑問が浮かんでいた。
『なぜ、アンジェリカ様は私を仕留めようとしない?』
与えられた力があるから? 否、それは多岐に渡る理由の一要素に過ぎず、それだけが理由であるはずがない。
では一体なぜ? なぜ最初から全力で仕留めにこないのだろうか。
彼女が本気を出さずとも、その気になりさえすれば元々人間でしかない自分の命を刈り取ることなど造作もないはず。
この場においてまで得意の戯れに興じているというのだろうか? いいや、彼女の表情から感情を汲み取るならばその気配はない。
本心から戯れを楽しむというのならば、それは最初に襲い掛かってきたときのような笑みを浮かべているはずである。
では一体――
アンディーンは攻撃の気配を見せないアンジェリカに対し、サーベルの刃を下ろし立ち上がって問うた。
「アンジェリカ様、ひとつ御伺いしたいことがございます」
「何かしら? 冥土の土産代わりに何でも答えてあげるわよ?」
相変わらず挑発的な言葉を述べるが、しかしその表情には佇まい以上の余裕を感じ取ることは出来ない。
「貴女様に与えて頂いた力により、私は貴女様と剣を交えながらにして今この場に生をもって立つことが出来ています。しかし、本来であれば貴女様がその気になりさえすれば私を仕留めるなど造作もないことのはず。裏切り者である私を一思いに斬り伏せようとしない理由がわかりません」
「ただの戯れと思ってもらって構わないわよ?」
――嘘だ。
アンディーンは目の前に立つ少女の姿を見てはっきりと悟った。
何か理由がある。全力を出し惜しみたいと考える理由が何か。
『それが何かを探ることまでは叶わないか…… ただ、彼らがこの城塞に近付くまでの時間稼ぎが出来ているのならそれで良い』
モニターに映し出される黒い航空機の影を横目で捉えながらアンディーンは考えた。
そうしてじっとアンジェリカを見据えて言う。
「いいえ、アンジェリカ様。貴女様は嘘をついていらっしゃる。私とて、貴女様に仕える立場であった臣下です。主君である御方の言葉に秘められた意図を見抜けぬほど腑抜けてはおりません」
「随分と拘るのね。ならばこう返すわ。貴女と剣を交えるのが存外に楽しいと思ったからよ。千年などという長い時間を生きているとね、存外に退屈なものなの。未来永劫に続く時間軸の中で、自分という存在が生きているのか死んでいるのかすらわからなくなる。
けれど、そうした実感のない退屈な生の中で唯一“自分の生”を実感できる瞬間があった。それは身体に痛みを感じた時よ」
アンジェリカは臨戦態勢を解き、右手に顕現させた光の剣を消し去って続ける。
「今から1年前。退屈しのぎにミクロネシア連邦の浜辺で物思いに耽っていたことがあるのだけれど、その時にいけ好かない司教がやってきて私に言ったわ。
“貴女は被虐性欲者なのか”とね。意味がわからないと思った。触れられざる高貴な立場を頂く者が何を突然言い出すのかと、気が触れたのではないかとすら考えた」
そこまで言うと、アンジェリカはゆったりとした歩調でアンディーンに歩み寄りながら言う。
「でもね、あの女の言ったことは真理だった。思い返してみればそうだった。遠い遠い昔も、イングランドでもそうだったけれど、誰かに愛を与える為に痛めつけている時より、自らの行いにより誰かから傷つけられている方がよほど生きているという実感を得ることが出来たの。
突き詰めれば心を震わせるような命と命のやり取り。一方的ではない賭けのような争い。
だからでしょうね? セルフェイス財団の当主に脳天を撃ち抜かれた時だって悪い気持ちはしなかったわ。その痛みによって生きているという実感ができたのだから」
アンジェリカは手で形作った銃を自身の額に当て、撃ち抜くジェスチャーをして見せながら言った直後、アンディーンの数メートル手前で歩みを止めた。互いの間合いに入るかどうかというぎりぎりの距離である。
そこで立ち止まったアンジェリカは両手を後ろに組み、少し前のめりの姿勢になりながらアンディーンをじっと観察するように見つめて言う。
「何でも答えてあげると言ったついでよ。少し昔話をしましょうか。
バタードチャイルドシンドローム〈被虐待児症候群〉。人間心理に関わる研究をしていた貴女なら聞いたことくらいはあるでしょう?」
「はい。精神医学に関する文献には多く目を通しましたから」
「そうでしょうね。ただし、この言葉は身体的暴力を与えられた児童に対して用いるだけの言葉ではない。
“私”は遠い遠い昔、自身の両親に他者を罰すること、殺戮することが愛であると教わった。それだけが生きる価値であると。インファンタ家の当主たらんとする者の責務であると。
そうして来る日も来る日も、罪人を罰し、裁き、大勢の命を奪った。殺して殺して殺し尽くした。そうすれば“この子”の両親はこの子を誉めてくれたから。
でも、私の中にいるこの子はね、本当はそれを酷く嫌がっていた。怖がっていたのよ。だから“私が代わりに殺った”。あの時も、あの時も、みんなみんな――」
そう言ったアンジェリカはそっと目を閉じ、小さな息を吐いてから再び目を開く。憂いを帯びた瞳はアンディーンから逸らされ、どこを見つめるともなく虚空へと向けられている。
アンジェリカはもう1人の自分を慈しむように、声の調子を落として続けた。
「あぁ、可哀そうなアンジェリカ。広義に言うところの虐待というべき境遇に置かれた影響で、心の芯から捻じ曲げられて、他の誰とも違う人生を歩まざるを得なかった。
私はせめて、この子が幸福であると実感できるような人生を歩めれば良いと、そう考えて長きに渡って共に生きてきたの。
私はこの子に殺戮の快楽を教えた。他者を傷付け、痛めつけ、暴れていた囚人の絶叫がやがて潰える瞬間の静的な達成感の尊さを。
2人でたくさん殺して殺して、殺し尽くして、いつしか“私達”は他者を傷付けることでのみ快楽を得られる体質になっていった。加虐性欲とでもいうのかしら? そんなところね。もちろん、両親もこの手で殺した。
辿り着いた境遇としては貴女の妹と同じよ? 愛すべき父君を自らの手で殺した“あの子”とね?」
その言葉を聞いた時、アンディーンは父親の死の真実に驚愕した。
父は、シルフィーに殺された? あの子が、父を殺したというの?
殺した上で私を当主の座に据え、自らは自由を手に入れた……
抑えきれぬ動揺を浮かべ困惑するアンディーンに対し、アンジェリカは予想通りの反応を示した彼女を見やってにやりと嗤った。
前かがみにしていた上体を起こし、可愛らしく首を傾げて見せて続ける。
「ただ、ある時突然に飽きてしまったのよ。そういったことに意味なんてあるのかしら? と。生きる意味も目的も、何もかもを失った私達は放浪の果てにイングランドの王立ベツレヘム病院へと辿り着いた。そこも最後は自らの手で燃やしてしまったのだけれど。
――はぁ…… あれから何百年。共和国で生きる意味を再度見出し、理想成就の為に捧げた人生。その中で気付いてしまった私達の本当の体質というもの。
広義に捉えてバタードチャイルドである私達は、他者を罰し、裁き、傷つけて痛めつけることよりも、自らに痛みを与えられることに対して深い快楽を得るようになってしまっていた。
そう、私達にとって誰かに罰を与え、痛みを与えることが愛であるのなら逆も然り。私達に与えられる愛とはつまり――」
そこで言葉を区切り、アンジェリカは実に不遜で不敵な笑みを浮かべて見せて言った。
「だ・か・ら。今、この場で貴女と痺れるような命のやり取りをすることに、とびきりの快楽を感じているということ自体は嘘ではないわ。私の動きの癖を見抜いて打ち込んだ、先の蹴り上げも見事なものだったわよ?
貴女が元々ただの人間であろうと、今や絶対の法による加護を受けた“人間を超越した者”であることに違いない。
世界がどれだけ広いといっても、そのような化物じみた相手と争いに身を投じる機会などそうそうはない。受ける痛みも格別。
こんな楽しい殺し合いを一瞬で終わらせてしまってはつまらないでしょう?」
だが、そこまで言ったアンジェリカは両肩の力を抜いて大溜め息をつくと下を向いてしまった。
アンディーンは俄かに周囲の空気がざわつき始めたのを感じ取る。
異様なまでに静かな殺気。滲み出る狂気。
先程までとは明らかに異なる圧倒的な威圧感。
――来る。
アンディーンは下ろしたサーベルを握る手に力を籠め、いつでも踏み込んで斬り伏せられるように神経を集中する。
自らの心臓の鼓動が鼓膜へと伝わるほど張り詰めた静寂の中、ふいにアンジェリカが左脚を一歩前に踏み込んだ。
利き足とは異なる方からの踏み込み。不用意に間合いを詰めれば躱されるが、次の一歩を許せば剣閃に反応できるかどうかが怪しい。
一か八か。アンディーンは体軸の重心を前傾させ、素早く一歩目を踏み込む縮地によって一瞬でアンジェリカの目の前に到達し、左側に振りかぶったサーベルを思い切り右方向へと薙いだ。
凄まじい勢いでサーベルが空を裂き孤を描く。が、剣閃は孤の途中で突然に勢いを喪失して止まった。
全力を以て薙ぎ払ったはずの剣はアンジェリカの左手の指2本に挟まれて制止し、それを振りほどこうにもびくともしない。
アンジェリカの瞳が獲物を捕らえたかの如く輝いた。
「早々に終わらせてしまってはつまらないし、何よりもったいないと今でも思っているわ。嘘じゃないのよ? でもね、そろそろ片付けてしまわないと“後がつかえている”の」
低い声でそう言ったアンジェリカは視線を上げて鋭い眼光でアンディーンを睨みつけた。
アスターヒューの瞳は僅かに輝き発光している。
アンディーンはさらに力を込めて薙ぎ払おうとするが、力を籠めれば籠めるほどにかえって押し戻されるような感覚を味わい、次の瞬間には鈍い音と共にサーベルの刀身が中ほどで折られてしまっていた。
折られたことで自由を得たアンディーンは即座に平突きの態勢へと移り、アンジェリカ目掛けて突進する。
だが、アンジェリカは避けるそぶりすら見せず、折ったサーベルの刀身先を左手の指に挟んだまま自らに突進してくる折れたサーベルの目の前へと突き出したのであった。
アンディーンの全体重が乗せられた突きがアンジェリカの左手を貫いた。
飛び散る自らの鮮血を左半身に浴びながらも、平然とした様子でアンジェリカはその場に立ち尽くす。
左手を貫通したサーベルは掌の根本まで食い込んでいたが、突き刺さったまま引き抜くことも横薙ぎすることも出来ないほどに固定されてしまっている。
決死の形相で主君に一撃を見舞ったアンディーンに対し、アンジェリカは言う。
「この痛みよ。私に生きているという実感をもたらす、唯一の感覚。とても痛くて、憎らしいほどに痛くて、叫び声のひとつでも上げたなら楽になることができるのかもしれないけれど、私にとってはこの痛みが最高の快感であるとも思えるの。これが“愛”なんだって」
そう言ってにやりと哂ったアンジェリカを見て、アンディーンは背筋に悪寒が走るのを感じた。
後ろに何かいる――!
だが、気付いた時にはもう手遅れだった。
次元の狭間とも言うべき異空間から突き伸びた青白い腕がアンディーンの両腕と両脚を掴み、さらに新たに上方から顕れた青白い腕が彼女の細い首筋を締め上げるように鷲掴みにしたのだ。
五本の腕に掴まれたアンディーンの身体は宙で磔にされたかのように固定された。
四肢を八つ裂きにするかの如く勢いで身体が引き上げられたことで、アンディーンは苦悶の表情を浮かべ嗚咽を漏らす。
何とか意識を保ち、視線を下に向けた先ではアンジェリカが左手に突き刺さったままのサーベルを引き抜く様子が見て取れた。
アンジェリカは折れたサーベルの柄を右手に持つと、ゆったりとした歩調でアンディーンへと歩み寄って言う。
「だから、私も貴女に愛をあげるわ。受け取ってくれるでしょう? 私の、愛を!」
そうして、刀身の中ほどで折れたサーベルをおもむろにを振り上げてから、彼女の腹部へと目掛けて勢いよく突き刺したのだ。
声にならない絶叫が中央指令室にこだました。
アンディーンは腹部と口から血を流し、苦痛に歪んだ表情のまま擦れるような呼吸をしつつアンジェリカを見据えた。
しかし、アンジェリカはアンディーンの視線に目を向けることなく、ただ目の前でサーベルを突き立てた腹部をじっと見つめたまま言った。
「どう? 貴女にも感じることができるかしら。この痛みが生きているという実感を与えてくれるの。この痛みだけが……」
そう言ったアンジェリカはサーベルを持った右手を、円を描くようにゆっくりと回し始める。
その動きに合わせ、アンディーンの腹部からはぐちゃぐちゃという生々しくも鈍く湿った音が、共に口からは断末魔のような叫びが発せられた。
アンジェリカは腹部の臓器を全て断ち切り、千切るように、非常にゆっくりとした速度で、休むことなく右手を動かし続ける。
腹部から噴き出す鮮血と合わせ、アンディーンの口から吐かれた血がアンジェリカの頭上へと降り注ぐが、彼女はそれを全く意に介すことも無くただひたすらに同じ動作を繰り返す。
やがてアンディーンが四肢を含めた全身を痙攣させ始めると、ようやくアンジェリカは右手の動きを止めてサーベルから手を離した。
視線は変わらず腹部を見据えたまま、アンジェリカは優しく語り掛けるように言う。
「この腹に溜め込んでいたもの全てを、吐き出すことが出来たかしら? 忌まわしい過去も、責務も、忠義も、裏切りも、ありとあらゆる想いを含めた全てを。
水の精霊は人間の愛を得ることによって魂を手に入れるが、その代償としての人の持つ苦悩と罰もその身に引き受けてしまう。
貴女の内にあるものを全て受け止めてあげる。これが貴女が犯した罪に対して、私が与える愛の形。裁きによる死という報酬を贈るわ」
その声が耳に届いたかは定かではないが、もはや焦点の定まらなくなった瞳をぐるぐると動かしながら、アンディーンは最後の力を振り絞って擦れるような声で言った。
「愛、とは…… アン、ジェリーナ…… 様。貴女様は…… 気付いて…… いらっしゃる、はずです……」
だが、その先に彼女が何を言おうとしているのかを汲み取ったアンジェリカは左指に挟んだままのサーベルの刀身先を右手に持ち替えると、次の言葉が発せられるよりも先にアンディーンの心臓へと刃を突き立てたのであった。
直後、アンディーンの全身から力が抜け、だらりと吊り下げられた人形のように動かなくなる。
忠臣一人の命を自らの手で絶ったアンジェリカは言う。
「貴女の内にあったもの、とても温かいのね。さようなら、アン」
そう言って手に握ったサーベルの刀身から手を離した時、アンジェリカの脳内に声が響いた。
『これで、やっと…… 何もかも、解き放たれて……
さようなら、ルーカス。そして、ごめんなさい。
もし、許されるのならもう一度だけ。貴方と言葉を交わしたかった。
会ってきちんと伝えたかった。ずっと昔から私は、貴方のことを――』
残留思念。
エニグマを介して、ロザリアとアイリスの異能が勝手に反応した?
強い想いが、意図せず発揮された力を介して私の中に……!
この感覚、気持ち、悪い……
消えて、しまえ!
アンジェリカは後ずさりしながら左手で頭を抱え顔を伏したが、しかしすぐに全てを振り払うように右手を薙ぐ。
すると、アンディーンを宙に固定していた五本の青白い腕は赤紫色の煙を散らしながら霧散し、彼女の遺体が勢いよく床へと叩きつけられた。
床に流れ落ちたおびただしいまでの鮮血へ、彼女の身体が舞い落ちる。
ぐちゃりという湿った音が響き、周囲には無数の赤い雫が飛び散った。
私は、知らない……!
愛、なんてものを、私は…… 私は!
呼吸を乱しながら、呻るように悲鳴のような息を吐いたアンジェリカはアンディーンの遺体をじっと睨みつけた。
そうして額に当てていた左手をだらりと下ろし指を弾く。すると、アンディーンの亡骸は青白い大火に包まれるや否や、一瞬にして灰となって霧散したのであった。
部屋に残されたのは血に濡れた幼い少女だけ。
頭上から足先まで彼女の血で染まったアンジェリカの姿だけがモニターの淡い光に照らされて浮かび上がる。
だが、アンディーンの亡骸が蒸発して間もなく、アンジェリカの全身を染めた血液もやがて青白い炎を放つと大気へと蒸発して消え去った。
目を見開いたまま、呼吸を乱してアンジェリカは言う。
「これはいけ好かない、総大司教様の見様見真似。それでも、最期となる瞬間まで私に忠義を見せてくれた貴女に対する、せめてもの手向けよ」
言葉を言い終えると大きく息を吐き、そして深く吸い込んだ。
荒れた呼吸を必死に整える為に、幾度かの深呼吸を繰り返す。
何度も何度も呼吸を繰り返し、ようやく柔らかな唇から漏れ出る吐息が落ち着きを見せた頃合い、アンジェリカはすぐ近くにあった背の高い機材に背を預けてもたれかかった。
それから一人きりとなった室内で、ぼうっとした表情のままアンヘリック・イーリオン城塞内に設置された監視カメラの映像を眺める。
城塞上方に設置されたカメラの様子が見て取れるが、そこには“彼ら”の乗った黒い機体が今まさに城塞中央庭園へと降り立とうとする様子が映し出されていた。
虚ろな瞳で無言のまま、真っ黒な機体が降下する様を見届けようとしたが、ふいに別のモニターが激しい明滅を繰り返していることに気が付きそちらへ視線を送る。
大きな爆発の光。
城塞が攻撃を受けているのね。
視線の先には、防空網を掻い潜って飛来した連合国軍の戦闘機の姿が視える。
彼らは自機に搭載したミサイルを一斉に射撃し、アンヘリック・イーリオンへと雨を降らせるが如く攻撃を仕掛けている最中だ。
大半は城塞周囲に設置された対空迎撃用レーザーの照射によって焼き尽くされており、先に目に留まった爆発の光とはまさに迎撃されたミサイルが空中で炸裂したものであった。
ただ光の明滅が視界に入っただけで、特に意図を持って見ていたわけではなかった。
巨人に蠅が群がった所で何ができるわけでもない。せめて彼らが蜂にでもなることが叶うなら、文字通りにわずかばかりの一矢を報いることは出来るのだろうが。そんなことが起こるはずもない。
無駄だということが悟れぬ愚かな者達によるくだらない抵抗。
必死に抵抗すればするほどに、その儚い命を散らすだけの結果しかもたらすことはないというのに。
案の定、ミサイルを迎撃された戦闘機が城塞上空から離脱を計る際にカローンに捕捉され撃ち落とされる光景が見て取れた。
『抵抗さえしなければ、もう少しは長生きできたものを』
モニターを見つめ、そのようにアンジェリカが物思いに耽っていると、カローンが撃ち落とした戦闘機の1機が残りの推力を振り絞って城塞へと突撃をかけようとしている様が目に入った。
ほとんど急降下に近い状態で落下するそれは、対空迎撃のレーザー砲に焼かれて空中分解したが、戦闘機の巨大な主翼部分までは溶かされること無く落下を続けた。
この時、アンジェリカはあることに気が付いた。
黒色の主翼が落下する方向だ。
『あれは、使用人宿舎の方角に――』
瞬間、微睡にも近い意識を現実へと即座に引き戻した。
いけない! そこに落ちては……!
モニター越しに右手を伸ばすが意味など無かった。
巨大な主翼は使用人宿舎の尖塔へと直撃し、粉砕された瓦礫が庭園へと落下していく。
アンジェリカの瞳は瓦礫が降り注がれる庭園に佇む“とある人物”へと向けられていた。
イザベル! 逃げて!
モニターの向こうでは、行き場を失くしたイザベルが頭上から迫りくる巨大な瓦礫に怯えて立ち竦む姿が視える。
絶対の法を用いたとしても間に合わない。この場所からでは助ける術がないと、脳内で混乱にも似た思考が繰り広げられる中、その時は訪れた。
主翼の激突によって破砕された巨大な瓦礫がイザベルの頭上へと降り注いだのだ。
しかし、彼女に瓦礫が直撃するという刹那、アンジェリカは信じ難い光景を目にした。
落下する瓦礫の隙間を縫うように猛烈な勢いで走り込んできた一匹の犬がイザベルを突き飛ばしたのである。
アンジェリカは伸ばした右腕を下ろす。
崩壊する使用人宿舎を包む砂煙と黒煙が晴れた時、視界の先にあったのは“あの時”と同じ光景であった。
瓦礫の下敷きとなった犬、バニラの前足は有り得ない方向にねじれ折れ、胴体を貫いた瓦礫の下の石畳はみるみるうちに鮮血で染められていく。間違いなく即死だ。
脳裏にハンガリーのリュスケで見た忌々しい光景が蘇る。
難民狩りの男、ライアーの発砲によって撃ち殺された子犬。
そのような未来は視えなかった。
そのような結末を望んでなどいなかった。
あの時と同じ喪失感。
ただ遠くから、現実に起きた出来事を見つめることしか出来ないという無力さ。
こんなことが繰り返されるのが嫌だった。
この城塞に集められた者達には自らの手で作り上げた理想郷とする世界の中で安寧という平穏を手にしてほしかった。
だからこそ、どうあっても勝ち筋しかない第三次世界大戦という反乱を起こし、世界の歴史と全ての仕組みを破却し、共和国主導の下で新たなる世界を再構築するはずであった。
それなのに―― どうして?
落下する瓦礫を間一髪で避けることが出来たイザベルが、押しつぶされて死んだバニラに縋りながら泣き叫ぶ映像が音もなくモニターに映し出される。
アンジェリカは奥歯を噛み締めたまま視線を下ろすと、そのまま中央指令室の出口へと踵を返して歩き出した。
彼らを殺せばこの戦いに終止符を打つことが出来る。
世界が重ねてきた罪を庇う彼らを裁くことで全てが終わる。
私達が望んだ理想、望んだ世界、求めた結末はすぐそこに――
罰という名の愛を以て、新世界における新たな歴史を紡ぎ出す。
その為なら私は……
アンジェリーナが思考を巡らせていると、ふいに脳内に愛らしい少女の声が響いた。
『あなざぁ、みぃ。あんじぇりーな、あんじぇりーな? そういう風に~、一人で全てを背負い込もうとするのはー、めっ! なんだよ?』
自分をこの世界に産み落とした天使のような少女。両親の愛を知らず、誰の愛も知らずに自らの責務の為に生涯を捧げ続けた“可哀そうな子”、アンジェリカ。
ネメシス・アドラスティアが制御を失った辺りから無理矢理彼女の意識を封じていたはずなのだが、いつの間に目を覚ましたのだろうか。
『私達は2人で1人。どんな辛いことがあっても私達はそれを分け合うことが出来る。全ての楽しいことを2人で分かち合うことが出来る。喜びは2倍で、悲しみは半分こ☆ だーかーらー、ね? そんなに悲しい顔を、しないで? アンジェリーナ☆』
「私は…… 私は…… 貴女の守りたかったものを……」アンジェリーナはいつの間にか瞳に溜め込んでいた温かな雫を溢れさせた。
アンジェリカはいつになく穏やかで、いつもと同じように愛らしく、優しく語り掛ける。
『バニラの死はきっと必然だったの。ハンガリーでの悲しい思いを繰り返したくはなかったけれど、これが私達に与えられた…… んーっ、何て言うのかな? 言いたくはないけど運命っていうのかな? でも、もうすぐ全てが終わる。私“達”で終わらせる。その為の戦いの決着を、あの子達とつけなくちゃ☆』
彼女の優しい声にアンジェリーナは無言となり、天を仰いだ。
対し、理想の実現を前にして一人きりで全てを抱え込もうとする愛しいもう1人の自分に向けてアンジェリカは言う。
『優しい優しいアンジェリーナ。私が嫌だと思うものを全て背負ってくれる、私のアンジェリーナ。少し、休もう? 次はー、私が頑張る番! なんだよ?』
「そうね、そうさせてもらおうかしら」
『ガッテンだー^^』
僅かに上ずり、震える声で言ったアンジェリーナにアンジェリカは敢えて明るく返事をする。
こうして、中央指令室の出口で立ち止まったアンジェリーナはアンジェリカと意識を入れ替え、目の前に長く伸びる通路の先へと目を向けた。
裏切りに対する裁きを為し、これより向かうは玉座の間。
そこに訪れるであろう千年の待ち人を、越えなければならない壁を、打ち砕く為に。
光の王妃、眠りの妃、不可視の薔薇、そして―― 予言の花。
彼女達を討ち果たし、自らの正当性を絶対的なものとした先にこそ訪れる結末。
理想の世界は間もなく、産声を上げる。
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