*5-2-3*

 暗い空、赤く燃える海、炎が照らす海上より立ち昇る黒煙。

 全て、全てが美しい景色であるはずなのに、そうした景色を映し出すホログラフィックモニターの向こう側を見つめるシルフィーの心は慟哭に満たされていた。

 愛すべき主君が座乗するネメシス・アドラスティアの異常とアンティゴネの轟沈は、これまでに感じたこともないほどの恐怖と不安を彼女の心に植え付けたのである。


 戦争が恐ろしいわけではない。

 空中戦艦が沈みゆく光景に恐怖を抱くわけではない。

 それは偏に愛すべき主君、アンジェリカの身を案じての感情だ。


 トリートーンをはじめとする水上艦艇群やカローンと、連合国艦隊による激しい攻防。

 モニターの先では、その戦火の隙間を縫うようにしてネメシス・アドラスティアの巨大な船体がゆっくりと東海上へ向けて降下していく様子が映し出されている。

 左手を胸に当て、掌に爪痕が残るほどにきつく握り締めたシルフィーは、アンジェリカが今どのような状況にあるのかだけを気掛かりとしていた。

 サンダルフォンと睨み合ったネメシス・アドラスティアに顕現した天使の光輪と光の翼。アンジェリカの力によってもたらされたに違いないそれらの事象は、艦体の異常と損壊に合わせて消え去った。

 彼女の身にも何か起きたのではないか。その不安は募る一方である。

 そう。今のシルフィーにとって、アンジェリカの身の安全以外のことなど“どうでもいいこと”、要は些事なのだ。

 エマージェンシーコントロールによってアンティゴネとの交信を行うことは出来たが、肝心のネメシス・アドラスティアとのあらゆる通信は遮断されたまま復旧する気配がない。

 内部の状況が分からぬまま、ただ見守るしかないという状況に奥歯を噛み締める。

 中央管制に集う兵士たちは矢継ぎ早に報告を上げ続けるが、その声もシルフィーの耳には届いてはいない。


 連合の動きや戦況などどうだっていい。

 アンジェリカ様は…… アンジェリカ様は今、どのように……!


 シルフィーが思いを巡らせながらモニターを眺めていると、ネメシス・アドラスティアの艦体姿勢制御において、失ったメインスラスターの代わりに激しく青白い炎を吐き続けていた左舷バーニアが火花を散らしたかと思うと連続して爆発する光景が目に飛び込んだ。

 黒煙が上空に立ち昇る。左舷サブバーニアと、右舷スラスター出力の調整によって何とか姿勢を維持していたようだが、いよいよもって巨体を支える揚力を失った艦体はほとんど自由落下に近付く勢いで高度を落とし始めた。

 中央管制の誰もが、旗艦の墜落を覚悟する―― が、しかし。次の瞬間にはネメシス・アドラスティアの周囲を一瞬ではあるが黄金色の光が包み込み、すぐに安定姿勢を保ったまま東側の海上への降下を再開したのであった。


『間違いない。あの光―― 超常的な力による艦体誘導。アンジェリカ様の絶対の法によるもの』


 絶対の法と見られる力による超常的な現象。

 それが確認出来たということは、つまるところアンジェリカの身は無事ということになる。

 少なくとも、状況を打破する為の力を行使できるほどには健在であることが示されたのだ。

 シルフィーにとって地獄のように長かった時間は終わりを告げ、ようやく安堵の息を漏らすことが出来るようになった。

 不安に苛まれたあまり、浅くしか吸えない息を肺に溜めてシルフィーは言う。

「トリートーンを後退させ、ダイレクション:ギメルへ降下するネメシス・アドラスティアの援護を継続するように。ロデーとベンテシキューメーはトリートーンの防御を固めつつ、連合残存艦隊の掃討を。しかして攻め込まず、拮抗状態を作るだけで良い。カローンの一個中隊をダイレクション:ギメルの防衛に回しなさい」

「トリートーン後退、カローン一個中隊はダイレクション:ギメルの防衛に専念せよ」

「ロデー、ベンテシキューメー、敵先遣残存艦隊への攻撃を継続。アンティゴネ2番艦、本隊との交戦に復帰します」

 兵士達から指示が伝達されゆく中、モニターの向こう側に映るネメシス・アドラスティアが東側海上へと到達し着水を開始した。

 艦底が海面に接水すると共に、巨大な水しぶきが艦体を丸ごと覆い尽くすほどの勢いで立ち昇り、スラスターとバーニアの熱で蒸発した海水が霧のような水蒸気を発生させて周辺ごと包み込む。

 海上に不時着すると同時に艦体を包み込んでいた黄金色の光は喪失した様子を見るに、絶対の法による効力は失われたことが見て取れる。

 とはいえ、しばし状況を見守っていても大きな爆発などもなく、安定した姿勢のまま海上で浮かんでいることからひとまずの危機は脱したと見るのが妥当だろう。

 周囲に立ち昇った水しぶきと霧が晴れるかどうかというタイミングで、一人の兵士が慌てた様子で言った。

「ネメシス・アドラスティアより秘匿回線で通信を受信。有視界通信、接続します!」

 間もなく、ホログラフィックモニターの一画にネメシス・アドラスティアのブリッジの状況が映し出された。

 遮蔽されたブリッジ内の半数のモニターは暗く消灯しており、時折駆ける漏電の閃光と火花が艦体の損害状況の深刻さを物語っている。

 両手を胸の前に組んだまま、不安な心情を吐露するようにシルフィーは主君の名を叫んだ。

「アンジェリカ様!」

 だが返って来た声は望むべく愛らしい少女のものではなく、聞き馴染み深い男性の野太い声であった。

『安心しろ、アンジェリカ様は御無事だ。ネメシス・アドラスティアから退艦され、既にアンヘリック・イーリオンへとお戻りになられた』

 ノイズの乗るモニターの向こう側には漆黒の外套に身を包む強面の大男が立ち尽くしている。

 シルフィーは小さく安堵の息をつきつつも溜め息を交え、求めた声が聞こえなかったことに不満を示して言う。

「それはそれは。アンジェリカ様が御無事であられるなら問題はありません。ついでに、貴方も健在でなによりです。おおよその状態は把握していますが、艦の損害状況を聞かせてくださいませ」



 特に感情を込めるでもなく、淡々と言ったシルフィーの物言いにリカルドは翻って居心地の良さを覚えた。

 アンジェリカと自分達に対する、この明確な対応の区別に日常的な安心感を感じたのだ。

 被った被害は大規模に及ぶものだが、まだ自分達の命が潰えていないという実感を得たリカルドは声に力強さを取り戻して言う。


『酷い有様だ、としか。融合炉は3基が稼働しているが、融合反応の状態は安定しない。いつプラズマ喪失しても不思議ではない状況だ。左舷スラスターもバーニアも完全に損傷し、再度の飛行は不可能な状況。だが、融合炉が稼働している限り、封鎖隔壁に問題が起きなければ低速での水上航行程度なら可能だろう』

「武装の稼働状況は?」

『CIWS以外は全て沈黙している。ミサイル発射管もまともには機能していない。残弾への誘爆を避けるために隔壁閉鎖をしている影響でEMPBもMOABも持ち出しは不可能だ。無論、ヘリオス・ランプスィもな』

「そうですか。システムハーデスはどの程度運用可能で?」

 シルフィーが問うと、モニターの向こうでリカルドは兵士に状況を確認する素振りを見せた後に言った。

『完全ではないが起動は出来る。通常状況での使用と比較して問題もないだろう。だが、融合炉が不安定な状況を勘定に含めるならば、いつ効果が喪失してもおかしくはなく、安定した展開が出来るかどうかは未知数といったところだな』

「では、最後にもうひとつ。損傷から推定して、潜水航行はまだ可能な状態でしょうか?」

『深度にもよるが可能だ。先にも言った通り、封鎖隔壁に問題が起きないことを前提としてな。だが長くはもたせられない』

「十分です」

 そう言うとシルフィーはモニターから視線を外し、兵士達に命令を下した。

「第4海中ゲート解放用意、注水開始。ネメシス・アドラスティアの収容態勢を早急に整えなさい」

 続いて再びモニターに視線を戻したシルフィーはネメシス・アドラスティアの兵士達へと告げた。

「ネメシス・アドラスティアは直ちに現海域を離脱し、第4海中ゲートへ向かいなさい。迎撃システム停止。システムハーデス展開、出力70パーセントを維持しつつ潜航開始。ダイレクション:ダレットへ向け後退せよ」

 シルフィーの指示を聞いたリカルドは兵士達に念を押すように言う

『聞いての通りだ。このまま海上に静止したまま浮かび、敵戦闘機の的になり続けるわけにはいかない。中央管制の指示に従い第4海中ゲートへ向かえ』

 シルフィーとリカルドの指示を受けたネメシス・アドラスティアの兵士達は直ちに命令を実行する。システム・ハーデスを起動し、ダイレクション:ギメルからダレットへの後退しつつ、敵にそれを悟られないように潜水航行を開始した。


「本来であればトリートーン、ロデー、ベンテシキューメーをネーレーイデスより少し先行させたいという状況でもあります。そのまま無駄に海上へ鎮座されると戦線の押し戻しに関して迷惑極まりない。出来る限り素早く、早々に戻ってきてくださいませ?」

『酷い言われようだが、受け入れるしかないな』

「当然でしょう。既にアンジェリカ様が艦を離れられているというのであれば、本来すぐにでも貴艦の防衛を解除したいところ。貴方もテミスの一柱であるならば、己の裁量で好きにしてくださいませ―― と申し上げたいのは山々ですが、アンジェリカ様がお気に召されている艦艇をこのような形で損失するわけにはまいりません。最も安全に、確実に艦艇を守ることの出来る場へ収めねばならぬでしょうから」

『それ故の慈悲か。だがその慈悲には感謝を述べねばなるまい』

「然り。この貸しは後で返してくださいませ」

『良かろう。では、早速いくつかの報告を上げておこう』

 ここまで言うと、つい今しがたまで浮かべていた穏やかな表情を崩してリカルドは続けた。

『ネメシス・アドラスティアがこのような事態に陥った原因は既に察しがついていようが、アンヘリック・イーリオン内に我らを裏切った者がいる。プロヴィデンスのバックドアを経由してサンダルフォンへ艦体制御システムの暴走プログラムを送信した者がな』

「聞くまでもありません。言葉にするのも忌々しいことですが、身内の不始末に対するけじめは後ほどわたくしの手によって付けさせて頂く所存」

『そう逸るな。その件については既にアンジェリカ様が直々に対処に向かわれている。その為にアンヘリック・イーリオンへ早々の帰還をなされたのだ』

「お手を煩わせるということ自体が歯がゆいこと。しかして、リカルド。随分と苦々しい口調で言う。よもや、この期に及んでまだあの女に仲間意識を抱いているなどということはないでしょう?」

『ないといえば嘘になる。だが、目の前で起きた厳然たる事実を認めぬわけにはいかぬ。アンジェリカ様が下す裁定についても同義だ。罪による報酬は即ち――』

「死である、と。自らの命を投げ打ってまで主君に逆らうなど愚かに過ぎる。そうまでするほどの心変わりをなぜ果たしたのか理解が出来ませぬが」

『偏に、彼ら彼女らの存在によるものだろう。特に、光の王妃などと呼ばれるイベリスという少女』

「可能性を信じるなどという不確定な言葉に感化された挙句にこの始末。まったくもってどうしようもない……」

 シルフィーはそこまで言うと固く口を閉ざして言葉を呑み込んだ。


 モニター越しでもリカルドには理解出来た。今、シルフィーは抑えきれぬほどの憤りを抱いているはずだが、敢えてそれを口にしようとはしない。

 ただ、モニターに映し出される彼女の姿から滲み出る殺意というべき怒りの気配を消すことも出来ていない。

 本来は今すぐ中央管制室から飛び出して、主犯である自らの姉をその手にかけたいとすら思っているはずだ。

 だが、アンジェリカに対する忠義が自らの感情がもたらす衝動を上回っている。全ては愛すべき主君の為に。

 このような状況下でありながら最後の一線を越えることなく、頑なに理性を保ち感情の暴走を抑え込む、彼女の失われること無き冷静さが実に頼もしいとすら思う。

 リカルドは目を細めながら報告を続ける。

『裏切り者に対する対処はよい。懸念は別の方向に向けねばならぬ。ネメシス・アドラスティアが墜ち、攻勢をかけていた戦線が崩壊した隙をついて彼らがそちらへ向かった』

「黒い蠅のような航空機が一機ほど、こちらへ向かって飛行してくる様子は捉えています」

『シルフィー、城塞内部の防衛に関しても其方が担うべきだ。すぐにでも』

 リカルドの意見に対し、しかしシルフィーは首を横に振って言った。

「アンジェリカ様がお戻りになられたのであれば、わたくしが前面に出て事を為すこともないでしょう。全ては愛すべきあの御方の意向のままに。城塞内部の状況把握には努めますが、何をどうされるかはアンジェリカ様次第とすべきかと。それに…… 今は城塞の防衛に重きを置くより、神域聖堂の守護を固めることが先決であると考えます」

 アンジェリカに対する絶対の忠義と信頼を置いて言葉を紡ぐシルフィーを見やりながら、リカルドは先ほど見た主君の異常を思い起こした。

 顔色も悪く、立つことすらままならぬ中でついには唾を吐き出してしまうほどに。語りこそしなかったが、未だかつて見たことも無い程の異常をきたしていることは間違いない。


 この場で言うべきか否か。

 言えばシルフィーのことだ。中央管制を飛び出してアンジェリカの元へ向かうだろう。

 彼女が戦線の指揮を放棄するという事態は避けるべきだ。


 リカルドはモニターからやや視線を下げて言う。

『そうだな。それが良いかもしれぬ』

 すると、ふいにシルフィーが低い調子で言った。

「貴方が自らの意見を早々に撤回するなどと。リカルド、わたくしに何か隠し事でも?」

 顔や態度に出ていたか。いや、そうでなくとも彼女なら見破ったかもしれない。

 これが女の勘というものなのだろうか。こと、アンジェリカのことになればシルフィーは共和国の誰よりも秀でた才を発揮する。

 本来、士気に関わるこのような話を多くの兵士が集う中でするようなことではないが―― 真実を言わぬがままにこの場を治めることはもはやできそうにない。

 伝われば本人の気分を多少なりとも害すだろうことが頭をよぎり、主君に詫びの感情を抱きながらリカルドは言った。

『アンジェリカ様は体調を崩しておられる。一時的にではあるが、その場で立つことも叶わぬほどにな。気分の悪さに耐えかねて、その場で唾を吐き出してしまわれたのだ。長きに渡り御傍に仕えてきたが、これまであのようなお姿を見たことは無い。何かアンジェリカ様の中で異変が起きていると、私はそのように見受けた』

 言えば言うほどに、事実を述べれば述べるだけシルフィーの顔面が蒼白していく様子が見て取れた。

 当然だろう。神にも等しい超常の力を持ち、千年を生きてきた不老不死の人物。体調不良などという事象が彼女の身に起こりうるはずがない。

 起こるはずがないのに、事実としてそのようなことが起きたというのだから。

 唇を震わせながらシルフィーが言う。

「貴方の様子を見るに、嘘の類はついていない様子」

『アンジェリカ様のことで其方に嘘を吐いて何になるというのか。士気に関わる事柄だけにこの場で言うのも憚れる内容ではあったが、伝えなければ其方は退かぬであろう?』

 愕然とした表情で狼狽する様子を見せたシルフィーに対し、リカルドは力を込めて言った。

『狼狽えるな、シルフィー。其方は自らの務めを果たせば良い。今はそのことのみに注力すべきだ』

 兵士達もざわつきを見せる中央管制の中で立ち尽くすシルフィーは唇を噛んで言う。

「わたくしも前言を撤回しましょう」

 そう言うと、中央管制に集う兵士達へ向けて言う。

「共和国防衛に関する戦線維持を委ねる。大尉、後の判断は貴官の裁量にて行うように。わたくしは玉座の間に戻ります。こちらに向けてやってくる、忌々しい者達を亡き者とし、アンジェリカ様理想成就を見届ける為に」

 指揮を委ねられた兵士は敬礼をして言った。

「はっ、全てはアンジェリカ様の御心のままに」

 シルフィーは返事を聞き届けると、モニターに背を向け足早に中央指令室を去ろうとするが、その背後からリカルドが言う。

『第4海中ゲートを通過し格納庫に艦艇を収容次第、私も玉座の間に向かおう』

 背後から投げかけられた言葉に対しシルフィーは低い調子で返事をする。

「それが無駄足であったというほどに、早期の防衛態勢構築が叶えば良いのですが」


 1人で抱え込むなというリカルドの心配りであったことは承知している。

 だが、愛する主君の異常事態を聞いてしまった以上はこれまでのように安穏と構えているわけにもいかない。

 ほんの少しでも。ほんの僅かでも。自らの心が、身体が彼女の役に立つのなら……

 そのことだけを胸に、シルフィーは戦場からの轟音が漏れ響き渡る中央管制室を後にした。

 


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