*4-4-4*
あの夜に比べると非常に賑やかな海だ。
右に目を向ければ青と赤、白色の光が明滅を繰り返し、左に目を向ければ黄、緑といった光が明滅を繰り返す。
聞けば、各国の艦船に専用の色を割り当て、それを光で明滅させることで位置と距離を目視でも確認出来るようにしているらしい。
波を切り裂く音が無数に聞こえ、頬を撫でる風もあの時よりは随分と力強く感じられる。
月も無い真っ暗な夜、海上を進むのは冷たい鋼鉄の軍艦であるというのに、不思議と寂しさや恐ろしさといったものは感じられない。
どちらかといえば、それぞれの艦船に乗り込んでいる人々から発せられているのであろう見えない気の力によって空気が高揚していると言うべきである。
サンダルフォンの艦首甲板上で、2週間前とまったく同じように前方を見据えながらアルビジアは物思いに耽っていた。
この夜は特に危険なことが起きる気配もない。共和国、アンジェリカは世界連合が自分達のすぐ傍に近付くまで一切の手出しをしないとみて間違いないだろう。
落ち着いた艦内の様子から察するに、現状は先遣艦隊に何か異常が起きているわけでもないとみられる。
であるならば、純粋にざわつく気を鎮めるためにこうして夜風に当たり、自らの思考の内側に意識を集中させるのも悪くないというものだ。
風になびく髪を気に留めるでもなく、アルビジアはそっと目を閉じて自身の心の中の声に耳を傾ける。
正しい選択とは何であったのか。
今自分達が進んでいる道は正しいものなのか。
アンジェリカとの最終決戦の結末とは如何なるものであるのか。
イベリスの言う可能性の先には何があるのか。
あらゆる思いが心の中で渦巻いてひとつのことに意識を向けることすら難しい。
こうして1人きりで誰もいない場所に立ち、静かな時を過ごすということは大昔からしてきたことで、当時はその都度すっきりとした気分になることができたものだが、どうやら今という時では難しいようだ。
何せ、考えることが多すぎる。とても1人きりで考えきることができるものではない。
閉じた目を開けて小さな溜め息を吐く。
しかし、この問いの全てをあの子は…… イベリスは今1人で抱えている。
頭の中に、ふいに彼女のことがよぎった。
プロヴィデンスとリンク接続を確立した彼女は、これまで以上にありとあらゆる問題を思考し、抱え込み、それを誰に言うでもなく個人の中で消化しようとしているに違いない。
「なんて、無謀なことを。望まなければ、回避することだって出来たのに」
ある意味では、咎めるような口調であったかもしれない。アルビジアは偽らざる本音を思わず口に出していた。
誰に言うわけでもない個人的な愚痴をこぼした後は、再び目を閉じて深く息を吸い込む。
『考えることはたくさんあるにしても、今考えるべきことだけに的を絞れば……』
そのようなことを思いながら、意識を自身の内へ内へと向けていく。
進んだ先で自らが出来ること。
誰かの役に立つためにしなければならないこと。
今、自分達の傍に誰がいてくれているのか。
マークתのみんな、ヴァチカンの2人、そして国連の――
アルビジアがマリアの顔を頭の中に思い浮かべたその時であった。
【また会ったか、小娘。今宵は船舶の中、しかも洋上などと、なかなかに風情のある赴きでの出会いであるな】
存在しないはずの者の声が脳内に響き渡ったのである。
すぐさま目を開けて後ろを振り返るが、当然そこには誰もいない。
いや、いるはずがないし姿を顕すことができるはずもないのだ。
深く、低く、地底から響き渡るような重圧を含んだ声。
この声の主は真なる神の従僕、黒き妖精のもののはず。
アルビジアは心の内に向けていた意識を周囲一帯へと向けて闇の中を慎重に探る。
しかし、姿の見えない化物はその行為を嘲笑うかのように再び話しかけてきた。
【探っても我の姿を捉えることなど出来まいて。なぜなら、我自身が姿を見せようなどと思ってはおらぬのだからな? 汝が思う通りである。我はこの場で他の人間の目に触れるわけにはいかぬ。そうするようにと、怖い怖い主に言いつけられている身なれば】
そう言いながら妖精は呻るような笑い声を上げた。
相手が姿を見せないということであれば、自分から彼に語り掛けることもまた愚策であるのだろう。
ひとまずは聞こえてくる声に耳を傾けるだけに留めようと思い、アルビジアは黙ったまま何もない空間をじっと見据えた。
【言葉を返さぬのは賢明な判断だ。好意を抱くぞ? 娘。だがな、姿を顕すことが出来ぬのは我だけであって、他の者はそうではない。娘、我に気を取られ過ぎて、他に近付く者に気付いていないとみえる】
妖精の言葉を聞き、意識を他の周囲一帯に向けたアルビジアは、先程までは視界に捉えることのできなかった2人の人物が甲板上に立っていることに気付く。
無邪気な笑みを浮かべた少女が気さくに話しかけてくる。
「やっぱりここに1人でいた。そういうところも昔から変わらないのね、アルビジア」
「アイリス。貴女は変わったわね。もちろん、良い意味で」
「ありがとう。貴女にそう言ってもらえると何だか嬉しいわ。長い長い時間を経た今でも、自分という人間が何も変わることが出来ていないんじゃないかって不安なの」
アイリスはそう言うとにこりと笑い、揺れる足元に注意しながら転ばないように歩み寄ってきた。
そして彼女と共に、真っ黒なゴシックロングドレスに身を包んだもう1人の人物もアルビジアへと近付く。
「ごきげんよう、アザミさん。つい今しがた、貴女の連れに話しかけられたわ」
当然、アイリスを指して言った言葉ではない。
アルビジアが姿を見せない獣について言うと、本当に申し訳なさそうな様子を見せながらアザミが言う。
「大変な失礼をしてしまい申し訳ありません。貴女様の1人の時間を邪魔するつもりではなかったのです」
「気になさらないでください。どの道、1人きりでは何も考えをまとめることなど出来なかったはずだから」
浮かない表情で言うアルビジアの顔を覗き込むようにアイリスが言う。
「へぇ、アルビジアにもそういうことってあるんだ? 物事を俯瞰して考えてるように見えるっていうか、そういうところはお姉様と近しいものを感じていたから少し意外」
「目に見えるものが全てではないということよ」
常々自分が口にしている言葉を返されたアイリスは笑いながら頷いた。
「そうね、違いないわ」
アルビジアはアザミへと視線を向けて言う。
「ところで、こんなところまで来られたということは何か私に用事でもあったのではありませんか? アイリスやアヤメちゃんはともかく、貴女がマリアを置いてわざわざこんなところまで来るとは思えませんから」
【だそうだが? もったいぶらずに聞きたいことを早く問うが良い】
『バーゲスト、貴方は少し黙っていなさい』
【おぉ、怖い怖い。これだから真正の神というものは好かぬ】
アザミの殺気が込められた言葉を聞き、嗤いの混ざった声でバーゲストは言った。
深い溜め息をついてアザミは言う。
「重ね重ね失礼を。確かに、わたくしは貴女様に問いたいことがあってこの場にやってまいりました。昨夜、セントラルの中央ホール屋上でお話した時から腑に落ちないことがあったものですから」
「腑に落ちないこと?」
アルビジアが問い掛けに疑問を返すと、隣からアイリスが話を引き取って言った。
「アザミが聞きたいことはね、簡単に言うと“どうしてイベリスの肩を持つのか”っていうことよ」
「自分でもわからない。あの時に言ったことと同じことしか言えないわ。同じことの繰り返しになるけれど、私はただ試したいと考えているだけなのかもしれない。イベリスの言う可能性というものが、一体どのようなものなのかを」
「実のところ、私も不思議でしょうがないのよね。ここに来たとき、貴女は変わらないと言ったけれど、今話している限りでは王妃様の意志に感化されているということだけは変わったなと思わざるを得ないわ」
「そうね。それも含めて私には分からないのよ。イングランドで久しぶりに彼女の姿を見た時だって、特に思うことは無かったというのに。
ただ、ある日の夜に2人きりで話す機会があって、その時に初めてあの子の本質というものに触れた気がしたの。それはとても温かく感じられるもので―― 悪くないと思った」
そこまで言うとアルビジアは艦首側に振り返り、正面から吹き付ける風を浴びながら何も見えない水平線の彼方を見やって続けた。
「私には元々、自らの目指すべき理想も、叶えたいと思う望みも無かった。
周囲の大人達が勝手に第二王妃であるという取り決めを決めたことでさえどうでもいいと思っていた。イベリスとレナトの間に割って入るような真似は嫌だったけれど、決められたことなら仕方ないと受け入れるしかなかった。
何もかもを蚊帳の外に置いて人生をただ漠然と生きる、人間の見た目をした抜け殻のような存在。それが私だったのよ。
世界に存在するものの中で、自然というもの以外に何も興味がなかったの。他の貴族の子供たちにもね。前に言ったかしら? その中にはアイリス、貴女だって含まれていた」
この時、アルビジアの後ろ姿を見つめるアイリスが、少し寂し気な表情を浮かべたのをアザミは見て取った。
マリア以外に彼女が慕う者といえば、今目の前にいるアルビジアという少女くらいのものである。その彼女から“興味がなかった”と直接言われては、このような反応も致し方ないものだろう。
恐らく、言った当人であるアルビジアも視界に捉えていないとはいえ、なんとなしにでも気付いているはずだ。
しかし彼女は構うことなく話を続けた。
「私は世界に存在するものの中で、自然というもの以外の一切に興味を示すことは無かった。けれど、私がそのことをイベリスに話した時、彼女は肯定も否定もせずに、ただ近くに寄り添って笑いかけてくれたの。
私のことを私だと認めた上で、その在り方も正しいと、口にせずとも認めてくれたのはあの子だけだった。
その時、私は自分の中で何かが変わったような気がしたわ。思い返せばきっとあの時だったのでしょうね。私があの子に感化されたという瞬間は」
アルビジアは深く息を吸い、息を整えるように一呼吸程の間を空けると、再びアザミとアイリスへと向き直り言った。
「イベリスは私にこう言ったの。“貴女と一緒ならきっと良い夢が見られるわ。あの頃に見ることが出来なかった夢も、きっと……”と」
アルビジアが語り終えた時、アイリスははっとした。
〈あの頃に見ることが出来なかった夢〉
その言葉がやけに心に響いた。自身の中のアヤメが動揺を示すほど深く、激しく。
同時に、何が正しいものなのかについての自信が揺らぐ。
お姉様の理想は正しい。
人間の手によらない、機械の神による新たなる統治の形。
誰の欲望にも、誰の思惑にも振り回されることのない真に平等である社会の構築。
実現すれば、人類から戦争というものは消え去り、これまで解決することが困難と言われた問題の全てが瞬時に解決するに違いない。
人間社会が何千年もの間、克服することが叶わなかった悪意の全てが消滅する。
そうだ、お姉様の理想は正しい。正しいはずなのに……
どうしてだろうか。
イベリスが言ったという言葉を聞いた瞬間に、心の中で何かが揺り動かされた。
アイリスの脳裏に、ミクロネシア連邦における聖母の奇跡、その第六の奇跡にてイベリスから言われた言葉が蘇る。
〈救いも自由も…… それらは神の手によって得られるのではない。人々が自らの手で掴みとるもののはずよ〉
マルティムの首領と、事件の黒幕であった大統領を焼き尽くす為の雷撃を放とうとした間際に彼女が言った言葉。
今でもなぜか忘れることの出来ない言葉だ。
内心では分かっている。イベリスの言うことに間違いはないのだと。
アルビジアは呆然と立ち尽くすアイリスを見やるが、その視線をすぐにアザミへと向けて言った。
「私からお話できることは他にありません。肩を持つもなにもなく、ただ信じたいと思ったから信じる。それ以上でも、以下でもないのですから」
言葉を言い終えると同時に、辺り一帯に獰猛な猛獣の唸り声のようなものが響き渡り、続いて空気を激しく震わせる低い声がこだました。
【食えぬ奴よ。昨夜にも言ったが、我は汝のことを見どころのある輩であると認識している。非常に賢しいという意味においてもな。故に、出来ることなら我らと意志を共にしてほしいと考えている。そうであろう? アザミよ】
アザミはバーゲストの問いには答えず、アルビジアに向けて言う。
「そうですか。共に歩む道もあるのではないかと思っていましたが」
「出会うのが少し遅かったのかもしれません。違う形で出会っていたなら、或いは」
「いいえ、その様子だと順序に関係なく、貴女はイベリス様と同じ道を歩むことを選ばれたでしょう。恐らくは、早いか遅いかの違いにしかならなかった」
言い終えるとアザミは後ろを振り返り、艦内に通じる出入口を目指して歩き始める。
ぼうっとした様子であったアイリスも、アザミが引き上げるのを見て取ると急いで後に続いた。去り際に就寝前の挨拶をすることを忘れずに。
「おやすみなさい、アルビジア」
「おやすみ、アイリス。アヤメちゃん」
アルビジアが去り行く2人の姿を見つめていると、唸り声と共にバーゲストが言った。
【我には言ってくれぬのか? 眠りの前の挨拶とやらを】
ここまで来ると何か話し掛けねば引き下がらないのだろう。アルビジアは小声で言う。
「私に眠りが必要無いのと同じように、貴方にだってそれは必要無いもののはず。必要のない言葉を欲しがるような質ではないでしょう?」
返事に満足したのか、周囲に満ち溢れていた重圧が薄れていくと同時にバーゲストがその場から離れていくのをアルビジアは感じ取った。
間もなく、去り行く唸り声と共に彼の最後の言葉が響き渡る。
【手を取り合うという未来は望めそうもないが、此度の戦が終わるまでは汝らに手出しはせぬと約束しよう。あの憐れな娘、アンジェリカが討ち果たされるまでの間はな】
言葉が消え去ると、辺りにはそれまでと変わりない海風が吹き抜け、心地よい秋の空気が周囲を満たした。
自然の生み出す心地よさの中で、アルビジアは再び1人きりの時間を得たことに僅かばかりの喜びを感じ取る。
ただ、らしくもなく饒舌に語った後となっては自身の心の内に意識を向け、静かな問答をする気にもなれなかった。
全ての答えは、先ほどアザミに語り明かした中にあったのだから。
「戻りましょう。皆の元へ」
小声で呟くと、アザミとアイリスが辿った道筋と同じ場所を通りながら、艦内へ繋がる通路へと歩みを進めるのであった。
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