*4-4-5*

 デジタル時計の時刻が午後10時を示した時、サンダルフォンのとある部屋で大きく背伸びをするジョシュアの姿があった。

 コーヒーの蒸気がカップから立ち昇り、豊かな香りが部屋いっぱいに広がる。

 戦時中とは思えないほどの穏やかさに満たされた室内は、明日が運命のX-Dayであるという事実を忘却の彼方にでも追いやったような雰囲気だ。

 日常業務の全てを終え、報告書もまとめ終わったジョシュアは淹れたばかりのコーヒーを飲み心を落ち着かせる。

 今の状況がただの調査任務であれば、どれほど気持ちが楽であることか。

 考え事を止めた時に脳裏によぎるのは、そういった思いばかりである。


 ジョシュアは壁際に設置された座席からゆっくり立ち上がると、小さな丸窓がはめ込まれた窓辺へと歩み寄って外の景色を見た。

 右舷側にある自分達の部屋から見えるのは、フランス海軍とアメリカ海軍、そして彼らの後方に位置する日本海軍の艦船群の放つ衝突防止灯の光である。

 航路の先を照らす照明なども無く、ほとんど真っ暗闇の中にぼんやりとそれらの姿が浮かび上がる様子しか見て取ることが出来ない。

 唯一、空母甲板上に並べられた戦闘機の姿は視認することが出来る。


 あの戦闘機群が使われることなく戦争が終われば良い。


 そんな叶わぬ想いを抱きながらジョシュアは窓から視線を外して再び室内を見回した。

 隊員達がゆったりとした時間を過ごすことが出来るようにと、淡い温かみのある白色系でまとめられた室内は、視覚的にも実に居心地が良い。 

 だが同時に思い出すのは、そのような話を自分達にしてくれたアンディーンが今や共和国側の将官であり、明確に自分達と対立する側の人間になってしまったという事実である。

 

 頭に手を置き、嫌な考えを振りほどくように幾度か首を横に振ると、大きな図体に似合わぬ冴えない溜め息を吐きながらジョシュアは再び元いた椅子へと腰を下ろす。

 そうして机に肘をつき、これまでに起こった出来事を振り替えようとした矢先のことだ。前触れなく部屋の入口ドアが開き2人の隊員が姿を表した。


「隊長らしくない顔をされていらっしゃる。しかも、今夜はホットミルクではなくコーヒーと来ましたか」

 ルーカスは飄々と気さくな言葉をジョシュアへ投げかけると、彼の座る手前の座席に腰を下ろした。

「確かに、珍しいこともあるものです。今飲むと余計に眠れなくなるのでは?」

 温和な表情で、少し心配交じりの声でフロリアンは言うと、ルーカスの隣の座席へと座った。

「2人とも、今日の日常業務は終了だな。お疲れさん」

「隊長も報告書作成が終わったところであると見受けられます。そのコーヒー、自分も呼ばれても?」

「淹れたてのものがメーカーに残っている。好きに取れ」

 ジョシュアは背後のコーヒーメーカーを親指で指し示しながら言った。

「准尉は座っていてください。僕が持ってきますから」

「よっ、さすが気の利く後輩だ。ただ、考え事のし過ぎで濃さを間違えないようにな」

「リナリア島でのことをまだ言いますか?」


 それは2035年5月にリナリア島の怪異調査を行った時のことだ。

 簡易宿泊基地で過ごした日の朝、それぞれの個室からミーティングルームへ赴いたルーカスと玲那斗を待ち受けていたのは世にも奇妙な香りのコーヒーであった。

 朝起きぬけのフロリアンが淹れたコーヒーはとても独創的な味わいで、一言で言えば濃かった。

 焦げ付いたような香りだけでジョシュアが忌避したそのコーヒーは、マークתの間では今でも伝説として語り継がれているというわけである。

 以前、その話を玲那斗がイベリスにしたときは目を輝かせながら飲んでみたいと言っていたらしいが、とてもお勧めできるものではない。

 ことあるごとに、いじりのネタとして持ち出されるフロリアンは毎度あのコーヒーの苦みを思い出し、口にした時に浮かべた表情と同じように苦笑するしかなかった。


「今日のコーヒーは俺が淹れたからな。味は保証するぞ。それにここだけの話、この船に置かれているコーヒーは総監が自ら選んだ逸品らしい」

「そうなると、味が悪いわけがないですね」

 マークתは怪異調査に向かわされる頻度の高さから、自然と総監であるレオナルドと交流を持つことも多い。故にレオナルドがコーヒーに対しては尋常ではないほどの拘りをもっていることを他の隊よりも深く知っているのである。


 そうしてなんだかんだと言う内に、フロリアンは2人分のカップにコーヒーを注いで席に戻って来た。

「総監特製、ヴァレンティーノ・スペシャルブレンドです」

「おう、サンキューな。その名称は後で総監に報告を上げておこう。採用されればセントラル1の常設メニュー間違いなしだろう」

「スペシャルブレンドというより、間違いなくただのブルーマウンテンだ」

 ジョシュアはそう言ってコーヒーに口を付けた。

「この際、細かいことは抜きにしましょう。些か疲れがきました」

「あーまったくだ。この2週間、気の休まる時が無かった。色々なことが起こり過ぎて、な」

 フロリアンとルーカスは互いにそう言いながら、ジョシュアと同じようにコーヒーに口を付けて飲み込んだ。



 彼らの言葉を聞いたジョシュアの頭の中に、つい先程まで巡っていた考えが蘇る。


 敵側に寝返ったアンディーン。

 裏切りという形で彼女を失ったルーカス。

 国連の重鎮、マリアと深い親交を持つフロリアン。

 プロヴィデンスとリンク接続を確立したイベリス。

 危険であると理解しながらも止めることが出来なかった玲那斗。


 思い返せば考えることには事欠かない。

 しかし、その間に良いことというものがほとんどなかったのは間違いない。

 アンディーンの裏切り後、機構のラファエル級フリゲートは彼女の指揮するアンティゴネによって撃沈されている。多くの隊員が彼女の手によって殺されたのだ。

 そうした事実を前に、特にアンディーンと親交が深かったルーカスが今このような面持ちでいられるというのは――


 ジョシュアは敢えて聞かずにおこうと思っていたことについて、意を決してルーカスへ問い掛けた。

「なぁ、ルーカス。聞くことが間違いであるかもしれないが、お前さん大丈夫か?」

 問われた質問の趣旨を理解したルーカスは、しばし口をつぐんだ後にコーヒーを喉に流し込むように飲んでから言う。

「傷付いていないと言えばもちろん嘘になります。アンが共和国出身の人物で、マックバロンの姓を持っていることから“そうではないか”という疑念は誰の目から見ても拭えないことでしたし、現実にはそれが事実でした。

 あいつは敢えて対象Aを名乗り、パノプティコンから俺達が脱出する手助けをしてくれましたが、直後に機構の隊員達を自らの手で殺しました」

 ルーカスはコーヒーカップをテーブルに置くと右腕で頭を抱えて俯いた。

「今、この場はとても穏やかな空気が流れているが、戦時中ということに違いはない。明日になれば間違いなくかつてないほどの戦闘行為に俺達も否が応でも巻き込まれることになる。これまでの出来事も、自らの中で消化しておくことが必要だ」

 淡白な物言いだが、ジョシュアからルーカスに伝えることの出来る最大限の言葉であった。

 同情などしたところで意味はない。そうされることをルーカスは嫌がるだろうし、かといって自らの中で完璧に割り切るといったことも出来ないに違いない。

 科学の天才、マイスターと呼ばれるルーカスは存外に人情に寄った思考をするところがあるからだ。

 共和国で目にした、科学研究の為ならどんな犠牲を出すことも厭わない姿勢を見せたアビガイルという少女とは対極の思考であり、根本からしてまるで違う。

 だからこそ、隊を預かる長として、部下の心の持ち方に一定の答えを与えてやるのも務めというものだろう。

 迷いを持ったままでは、彼は次に彼女と遭遇した時に命を落としかねないのだから。


 ルーカスは、自身に投げかけられた言葉がジョシュアの最大限の優しさであることを理解した上で言う。

「分かっているつもりなんです。それでも、どうしても割り切ることが未だにできない。

 きっと、長く居すぎたんでしょうね。プロヴィデンスの最終調整を行っていた時など、互いが同じ研究室に籠り切りで寝泊まりして、家族のように生活していましたから。

 自分は彼女のことを、どうしても“敵”であると思えない。いえ、思いたくないというのが正直なところです」

「それでも、だ。彼女が敵であるという事実を受け入れろ。そうしなければ次に彼女とお前が出会った時……」

「殺されるかもしれません。フリゲートを彼女が撃沈した時に改めて思いました。アンはそういうところで躊躇するタイプではないと。それに、アンジェリカという存在が上にいる以上は尚更です」


 ルーカスはテーブルに付いた右腕を下ろすと、何もない天井を見上げた。

 それからしばらくぼうっとした様子を見せたものの、ふいにフロリアンへと言葉を投げかける。

「フロリアン、お前はどうなんだ? あのマリアって子が、万が一にでも俺達の敵に回る結末が訪れたなら、お前はどうする」

 同じことを聞いてみたかったという風にジョシュアはフロリアンへ視線を向けた。


 共に過ごす仲間であるからこそ、いつかは問われるだろうと思っていたことである。

 フロリアンは自身の中にある考えを包み隠さずに打ち明けた。

「今の僕にとっては、彼女という存在は世界よりも重い。例え、アンジェリカの手によってこの世界が破滅という結末を迎えるとしても、僕にとってはマリアが生き残ってくれたらそれでいいとすら考えています。

 ただ、准尉の言うような、彼女が敵として僕達の前に立ちふさがるという時が来たのなら、僕は彼女の間違いを正さなければならないとも」

 両手でコーヒーの入ったカップを握りしめながらフロリアンは言った。

 その言葉を聞いたルーカスは天井を見上げていた顔を彼に向けて言う。

「そうか。その言葉を聞けて安心した。もしかしたら、お前までいなくなるんじゃないかって思ったからな」

「人で無い者による世界統治の仕組みなんて、机上の空論だと思えて仕方ない。だが、局長と彼女に仕えているあの女性は空想を実現するだけの力があるのだろう。

 何をどのようにして、そんな世界を作り上げるつもりかは知らない。ただ話を聞く限りではある意味、アンジェリカがやろうとしていることよりも質が悪いのではなかとも思う」

 ジョシュアはそう言うとフロリアンの瞳をじっと見据えて続けた。

「フロリアン、この場だから言うぞ。俺はクリスティー局長の抱く理想というものは非常に危険なものだと思っている。アンジェリカの言う世界の仕組みの破却よりもよほどな。

 アンジェリカの語る理想の中では、世界が構築してきた仕組みが一旦破却された後に、世界に残った人間が再び一から歴史を紡ぎ直すという機会が与えられるが、クリスティー局長が抱くといわれる理想にはそれがない。

 彼女の理想には“人の意思が介在する余地がない”んだ」

「思うに、人では無い者とは機械を示すんだろう。例えばこれだ」

 ジョシュアの言葉に続き、ルーカスは自らが手に持ったヘルメスを指差しながら言う。

 とはいえ、ルーカスが示すものはヘルメスという機器そのものではない。その先にある根本となるもの、要はプロヴィデンスを意味している。

 パノプティコンの中で、アンジェリカから答えを聞かされていたフロリアンは何も否定することなく静かに頷いた。


 次に言おうとする言葉を言い淀む様子を見せながらも、ジョシュアは重たい口を開いてフロリアンへ問いを投げかける。

「フロリアン、酷なことを問う。もし万が一、クリスティー局長が道を踏み外しそうになったとしたら、お前さんはどうする? いや、違うな。お前は彼女のことを殺すことが出来るか?」

 彼女を殺す。その言葉の重たさにフロリアンは一瞬頭の中が真っ白になりかけた。

 なんとか正気を保ちながら返事をする。

「いいえ、出来ません。僕に出来るはずがない。先に伝えた通り、僕にとっては彼女という存在は今や世界そのものより重いんです」

「それが愛っていうもんなのかね。玲那斗とイベリスの間にあるものとはまた違うもんになるのかもしれないが」

 ルーカスはいつもと変わらぬ風に言いながらも、目つきは真剣なまま続けた。

「俺はアンジェリカや国連の姫様が自らの理想を押し通すために互いに対立する構図そのものが危険だと思っている。

 隊長と同じで、俺もあの姫さんの考えることは危険だと思うし、見方を少し変えれば彼女もアンジェリカと同類だ。俺達の日常を何もかも変えてしまう災厄を起こす存在。

 言いたくはないが、ある意味においてはイベリスや総大司教様だってその一部なのかもしれない。アイリスの嬢ちゃんやアルビジアも含めてな。

 人が持ち得ぬ力を持つ者達が、理想の為にそれらをぶつけ合う。巻き込まれる人間はたまったもんじゃない。今の状況で言ったところで、仕方のないことではあるが。

 それと、もし仮に局長様が抱く理想の正体が機械による世界統治、突き詰めるとプロヴィデンスのようなAIを用いた世界統治の仕組み構築であるなら絶対に阻止するべきだ。殴ってでもな」


 AIが秘める危険性を直接目で見てきたルーカスの言葉には真実味が溢れている。

 本当に制約のないAIに問いを投げ掛ければ、環境破壊を止めるために必要であるのは“人間の絶滅である”と言うだろう。間違いのない真実だ。

 だが、人間社会はそれを良しとしない。常に自分達の存続を含めた上で耳障りの良い答えを返すようにAIの思考を操作する。

 そのようにして生み出されたAIだからこそ、人間社会の中で便利なものとして共存することが出来ているのだ。

 では、人間の統制を失ったAIが自我によって、反対に人間社会を統治する側に立てば何が起きるのか。

 例えばプロヴィデンスのような世界で起きる事象の全てを計算に含めた上で答えを導くことのできるAIはどんな未来予想図を描き、何を人間に強制するのだろうか。

 答えは決まっている。


 人間という種族が思考する、“考えの違いによる対立”があるからこそ、今この世界は戦争という惨禍を重ねて歴史を積み上げてきた。

 マリアのいうところでは、善と悪に分かれた善悪二元論による対立だ。

 ありとあらゆる問題の根源は人々の対立と戦争の歴史によって生み出され、利益を享受する人々が欲望を捨て去らない限り解決の日の目を見ることは有り得ない。

 そうした争いによる歴史を克服し、戦争を終わらせた上で何もかもが平等で平和な社会を享受する為にはやはり――


 人間という存在そのもののが障害となるのだ。



 ジョシュアとルーカスに対し、フロリアンはそれ以上何も言葉を返せなくなった。

 そんなフロリアンの様子を見てジョシュアが言う。

「気分を害す質問をして悪かった。殺すというのは極論の果てにあるひとつの可能性だ。だが、俺が思うにひとつだけ明確に正しいと分かることがある。

 可能性ではなく必然。もう少し柔らかく言えば蓋然性。

 もし仮に、クリスティー局長が自らの理想を叶えるために暴走を企てた時、その行いを止めることが出来るのはイベリスや玲那斗、或いはリナリアに所縁を持つ者達ではない」

 力強く語るジョシュアに視線を向け、彼の目をまっすぐに見据えてフロリアンは次の言葉を待った。

 ジョシュアは自身の思いが間違いでは無いと確信を持ったように、頷きながら言う。


「彼女を止めることが出来るのはフロリアン、お前だけだ」


 フロリアンは返事をせずに苦悩に満ちた表情を浮かべ、唇を噛んだ。

 ジョシュアもそれを咎めようとはしない。自身の愛する人、例えば家族に対して極端な決断を下せるのかと問われれば彼と同じ答えを言うに違いないのだから。

 話を聞いていたルーカスが言う。敢えてフロリアンの心情には触れず、目の前のことにしっかりと目を向ける為に。

「だが、まずはアンジェリカだ。奴と共和国を何とかしない限りは世界に明日なんてものが訪れるかもわからない。

 国連の姫様の動向も気にはなるが、今は俺達も同盟を結ぶ立場だしな。気にかけつつも、互いを信用して行動しなきゃならないだろう。

 アンヘリック・イーリオンで聞いた言葉は一旦忘れるべきなのかもしれない」

 いつになく哀切を極めたように言ったルーカスにジョシュアは言う。

「その通りだな。目の前に差し迫った脅威はグラン・エトルアリアス共和国、ひいてはアンジェリカであることに間違いない。

 共和国が展開している海上艦隊と、おそらくは俺達が近付けば出てくるあの空中戦艦の包囲網を突破し、場合によればアンヘリック・イーリオンまで辿り着いた上で彼女を討たなければ、その先の未来を語ることも出来ないんだ。

 考えたくもないが、覚悟を決めなければ殺されるのは俺達で、それが戦争というものなんだろう」


 そこで3人の会話は途切れる。

 ルーカスは手に持っていたカップに残っていたコーヒーを飲み干し、テーブルに空のカップを置くと髪をかきあげるように手で顔を覆う。

 ジョシュアは殺風景な天井を見据えて物思いに耽り、フロリアンは悲愴さを湛え唇を噛んだまま俯いた。


 開戦まで残り12時間を切った。

 千年を生きた公国の忘れ形見達と同じく、今という時代を生きる者達のそれぞれの葛藤にひとつの答えを見出すべき刻限は着実に迫ってきていた。



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