*4-4-3*

 サンダルフォンの小さな窓辺に据えられた椅子に座り、どこまでも広がる海をロザリアは眺める。

 船の進行と共に過ぎ去る景色。2週間前にも見た光景ではあるが、以前と違うのは暗闇の中に輝く無数の明滅する光があることだろう。

 出航してからおよそ10時間余り。世界各国から集まった軍艦から構成される大規模艦隊はただひたすらに死地を目指してこの海を走り続けていた。

 ノアの箱舟計画においては、あまりにも多くの艦船が集うことから目視だけでどこの艦船であるかを識別できるように、特別な色の衝突防止灯が各艦船に備え付けられている。

 今、丁度視界の先にある青い光を放つ艦船群は陣形の右翼側に展開するフランス海軍のものだったと記憶している。さらに向こう側に見える赤い光はアメリカ合衆国海軍を、後方の白色に近い光が日本海軍のものだ。

 各国の空母上にはいつでも発進可能な状態で待機している戦闘機の姿が見て取れる。

 一度飛び立てば帰還できる見込みの薄い戦い。ともすれば、飛び立つことが無くても帰還できる可能性など皆無というに近い。


 ロザリアはこれから自分達が向かう場所に対する思いを胸に秘めたまま、窓の向こうに流れゆく景色から視線を外して何もない部屋の中へと顔を向けた。

 とはいえ、部屋に視線を向け直したところで何を見るでも語るでもない。口をついて出てくるのは溜息ばかりであった。

 浮かない表情をするロザリアを見かねたように、すぐ傍に佇むアシスタシアが言う。

「ロザリア様、本日はどうかなさいましたか? あまりにも口数が少ないように見受けられますが」

 アシスタシアの問い掛けに反応を示さず、口を噤んだままロザリアは考え事をしているようであった。

「お一人になられたいということであれば、私は部屋を出ます」

「必要ありません」

 部屋を出ようと椅子から立ち上がるアシスタシアを制止してロザリアは言った。

「ただ、迷っているのです。此度の経緯について、何が正しくて何が誤りであったのか」

「誤りなど何も無いのでは? 世界に取り返しのつかない危害を加えようとするアンジェリカを止める。そのことだけに集中すべきかと存じます」

「取り返しのつかない危害。果たしてそれはアンジェリカがもたらす行為だけを示して考えて良いことなのかどうか」

 ロザリアの言葉の意味をアシスタシアは悟る。

 彼女の考えはアンジェリカの行為に対して向けられているわけではない。現在においては自分達の味方として同じ船に乗艦する人物、マリアとアザミに対して思うところがあるのが思考の本質であるのだろう。

「マリア様やアザミ様が考えておられること。聞けば非常に危険なものであると感じます。しかし、現状においてはそちらに注意を向けることも出来ません」

「その通り。わたくし達は皆、彼女らに対して注意を向けることが出来ない。なぜなら同じ計画を共に遂行する仲間としての立場にいるから。

 しかしながら、マリアの理想とする世界実現の為の布石をみすみす見逃し続けるということも出来ないのではないかと、そのように考えるのです」

「布石?」

 疑問を口にしたアシスタシアの目をじっと見据え、ロザリアは言う。

「イベリス。今、彼女は機構が持つスーパーAI、プロヴィデンスと直接繋がっている状態であるのでしょう? 万物を視通す神の目と言われるあのシステムは、世界中から集められた膨大なデータを貯蔵するデータベースを元に、与えられた問いに対して常に最適解となる解析結果を瞬時に導き出す能力を持っている。

 言い換えると今のイベリスは世界にただ1人だけ、この世界そのものの行方がどのような道筋を辿るのかを思考する力が備わっているということ」

 アシスタシアは眉を潜めながらロザリアの話に耳を傾ける。彼女は苦悩を思わせるような厳しい表情を浮かべ、今のイベリスが持つ“危険性”について語った。

「ある特定の個人が人生を生きる上で、世界に与える影響を演算することが出来る。今のイベリスは、より良き未来を創造する為に“何が必要で何が必要でないのか”を明確に見極める目を手に入れたということと同義。

 わたくしは思うのです。それこそが、マリアが最も手にしたかったものではないのかと。あの子がリナリア島からイベリスの魂を解き放ち、自由の身にして成し遂げたかった野望とは偏に、今のこの状況を作り出す為の準備でしかなかった」

「マリア様が、今のイベリス様を利用して世界そのものを掌握しようとしているとでも?」

 アシスタシアが言うと、ロザリアは静かに椅子から立ち上がり部屋の中央へと身を移す。

 そこでしばし考えを巡らせる様子を見せたかと思うと、アシスタシアへと向き直って言った。

「マリアの理想とは、人間ではないものに世界を統治させようとする仕組みの実現。その為に必要だったものがプロヴィデンスであり、プロヴィデンスを手に入れる為の媒介としてイベリスが必要であったのなら。

 今のわたくし達が辿る状況というもの全てが、マリアの理想実現に向けた手助けをしていることに他ならない。

 仮に、イベリス本人の同意が得られた上の結果であったとしても、これが本当に正しいことであったのかと問わずにはいられません」

 善と悪を持ち出して話を切り出したロザリアが、何を言おうとしているのか見当がついたアシスタシアは声を潜めて言う。

「ロザリア様は、もしやアンジェリカが成し遂げようとしていることの中には、マリア様が実現しようとしている理想の破綻も含まれているとお考えで?」

「2週間前、アンヘリック・イーリオンの玉座の間での話において、なぜアンジェリカはわざわざその話を機構の彼らへ明かした上で自分達と組むように取引を持ち掛けたのか。

 理由は明確ですわ。アンジェリカは世界の破壊と破滅を望みはするが、それは純粋に今の世界を作り上げている仕組みそのものの破却を目指しての行い。

 地球そのものの滅亡を望んでいるわけではなく、新たなる仕組みの構築の為の真っ白な土台を築き上げたいという理想に基づいたもの。

 ですが、マリアという存在を生かしたまま理想を実現したとしても、すぐに彼女の理想に都合よく利用されて本来望んだ意図とは別の結果がもたらされることになると彼女は気付いた。

 であるなら、理想実現の為にはどうしてもマリアとアザミ様という障害を先に取り除いておく必要性が生じる。

 それを可能にするのが――」

「マークתに籍を置く姫埜様、イベリス様、アルビジア様、そして誰よりも……」

「フロリアン・ヘンネフェルト。彼を取り込んでしまうことがマリアの行いを止める為には何よりも効果的であるとわたくしも考えます。しかし、彼女の思惑は当初の予測通りに失敗した。代わりに、マークתの彼らにマリアが抱く理想の中身が何であるのかを仄めかし、間接的に食い止めるように助言することには成功しています」

「しかし、アンジェリカの発したマリアの危険を訴える言葉は結局のところ届かなかったに等しい結果となった」

「その通り。マリアが望んだもの、プロヴィデンスと直接接続を確立したイベリスという存在が現実に生まれてしまった。

 グラン・エトルアリアス共和国はたとえどんな形であっても、マリアが理想とする世界を実現した後も彼女に付き従うことはないでしょう。

 もし仮に、この世界においてそのようなマリアに対する唯一の対抗勢力がグラン・エトルアリアス共和国という存在であるのなら」

 残された答えを悟り、最後の言葉をアシスタシアは言った。

「私達は、唯一の希望を自らの手で潰そうとしている」


 ロザリアは静かに頷いてみせた。

 そうして胸元の十字架を両手で握り、祈りを捧げるように目を閉じて言う。

「イベリスがプロヴィデンスと繋がったことで、もはやわたくしには彼女の心の在り方を視通すことは叶わなくなりました。今の彼女の過去には、プロヴィデンスのデータベースに収められる莫大なデータベースも含まれるからですわ。

 もはやわたくしには正誤の判断が付けられない。マリアの理想とする世界の実現が悪であるとも言い切れませんが、実現が正しいことであるとも思いません。

 グラン・エトルアリアス共和国が目指す理想が悪しきものであると断じても、彼らやアンジェリカがマリアに唯一対抗出来得る力を持つ勢力であることに変わりはない。

 もし彼らを打倒してしまえば、万一マリアの理想が叶えられた後、それが明らかに間違ったものであったと判明した場合に正すことの出来る存在が永遠に失われてしまう。

 本来、マリアやアザミ様という世界における異物と呼ぶべき存在を排斥するのは我らヴァチカン教皇庁に籍を置く者の務めですが、この状況下でその務めを果たすことは困難極まります」


 アンジェリカ率いる共和国とマリアが率いる世界連合。

 中間に立つ機構とヴァチカンも、今はマリアの側に付き従い行動を共にしている。

 対立する2つの勢力の狭間で、間違った決断を下しているのではないかという焦燥感。

 今のロザリアの心を苛ませているものはそのようなものである。


 アシスタシアは彼女の考えていたことを理解した上で、彼女がドイツの地で直接マリアと言葉を交わした時のことを尋ねる。

「ロザリア様。貴女様はミュンスターでマリア様に問われたのではありませんか? 理想実現から手を引くのであれば、不死殺しの力によって世界から排斥することを取りやめ、以後も敢えて見逃すと。その時、彼女は何と?」

「理想実現に加えて、フロリアンと共に生きるという願いを抱く彼女の心は“人が抱く感情そのもの”であると考えました。故にそのようなことを申し上げましたが、彼女は理想から手を引くつもりはないと言った。それが“千年の理想”であるのだと」


 千年の理想


 一言ではあるが、その言葉は非常に重い意味を持つとアシスタシアは考えた。

 長きに渡って目指して来た理想の世界の実現が目前に迫るという中で、それを手放すということは自らの存在意義を投げ打つことに等しいからだ。

 遠い過去に、マリアという少女が何に絶望して“人間”という存在が作り上げる世の中を疎むようになったのかは知らない。

 ただ、人が作り上げてきた歴史に成り代わって、機械が全てを決めて統治する世界の到来というものが正しいものであるかと問われれば――

 答えは決まっている。


 閉じていた瞳をそっと開け、浮かない表情をしたままロザリアは言う。

「わたくしたちに出来ることとは、この状況がどのように推移していくのかをただ見守ること。ですが、正誤の見極めは常に自身の中で確固たる意志を以てつけておかなければなりません。

 たとえ、何が正しくて、何が間違っているのか分からなくとも。善悪の基準の在り方が曖昧なものであったとしても」

 力なく言うロザリアに対し、アシスタシアは静かなる口調ながらもはっきりとした自信を示しながら言った。

「私の中における正誤の判断など。お忘れですか? 私は貴女様が生み出した貴女様の従者。いつ、いかなる時であろうと主君の意志に従います。ロザリア様の御心のままに」



 ロザリアは真っすぐにこちらを見据え、赤紫色の瞳に自分の姿をしっかりと捉える少女に母の面影を見る。

 そして、遠い日に母が自身に言った言葉が脳裏によぎった。


『少しお休みなさい。家柄と責務も重要なことは事実よ。でも、貴女はまだ年端もいかない女の子でもあるの』


 遠回しな言葉が意図するものは明確だった。

 他者に望まれた答えによらず、自ら望んだ答えによって生きて欲しい。

 全ては神の御心によるものではなく、自らの心に沿うべきであると。


『ロザリア、立派になりなさい』


 責務を負う貴族の家にあって、望む生き方をしろなどとは言えなかっただろう。

 それでも、母はどこまでも自身の望む意思を尊重してくれた。

 その母を模して生み出した彼女。自らが思う世界一美しい女性であり、故に〈アシスタシア・イントゥルサ-女性美の極致〉という花の名を与えた彼女を見て思う。



 あぁ、優しいお母様。貴女は私にとってたった1人の理解者でありました。



 先のアシスタシアの言葉を思い返す。

『いつ、いかなる時であろうと主君の意志に従います。ロザリア様の御心のままに』

 まるで、遠き日の母が自らに語り掛けてくれているように感じられた。



 自分の意志を貫き通せと。

 


 まっすぐに自身を捉えて離さぬアシスタシアの瞳を見つめ返し、ロザリアは穏やかな笑みを湛えてただ一言だけを彼女に伝えた。

「ありがとう」


 千年経っても色褪せることのない。

 記憶の中に生きる、母の姿を思いながら。



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