*3-4-5*

「っち……!」

 玉座の間の最奥、豪華な装飾の施された玉座に座り佇むアンジェリカはふっと目を開き、目の前の虚空を睨みつけながら開口一番に大きく舌を打ち鳴らした。

 穏やかに揺れる光輪を頭上に輝かせる彼女の表情は歪み、明らかな怒気が見て取れる。

 落ち着かない様子で足を組みなおしたアンジェリカは深い溜め息をついて視線を階下に向けた。

 そこには微動だにせずに立ち尽くす美しい女の姿がある。シルフィーだ。


 自身の目覚めに気付いた彼女は首を垂れ、深々と礼をすると顔を上げて言う。

「アンジェリカ様、アンジェリカ様。麗しの我らが王、アンジェリカ様。どうやらお加減が悪いご様子。何かございましたか?」

 アンジェリカは先ほどのフロリアンとの会話を、アシスタシアに邪魔されたことを思い返しながら奥歯を噛み締めた。

 総統として、城塞内の状況を逐一掴み取ることが出来るから分かることだが、今彼らは平然とパノプティコンの壁面を打ち破って逃走を図っている最中だ。

「監獄に送り込んだ者達が脱走を企てているわ。不届きなヴァチカンの人形が先陣を切ってね」不機嫌な声色でアンジェリカは言った。

 言葉を聞いたシルフィーの表情が華やいだ。嬉々とした面持ちで彼女は言う。

「まぁ、まぁ。それは大変。すぐに対処致しましょう。アムブロシアーを差し向けましょうか?それともUPG99-VXを通路という通路に散布しましょうか?プシュケーを舞わせて振り撒くというのも一興でございますれば」

 満面の笑みを咲かせてシルフィーは構想を語る。どうやら彼らを好きなように嬲り殺しにする絶好の機会が訪れたと考えたらしい。


 人類史上最も凶悪なVXガスの致死性を極限まで高めた毒ガス。それがUPG99-VXである。

 非常に高い残留性があり、散布後1週間経過しても散布地帯から毒性が消えることは無い。

 吸引だけではなく、皮膚からの吸収もされるためガスマスクによる防備だけでは不十分という代物で、機密性の優れた建造物内で最大の効力を発揮する人類史上最悪の化学兵器である。

 その特性上、例えばパノプティコンといったような超気密性を誇る建造物内で使用すれば僅かな間で大量の死体の山を築くことが出来るだろう。

 型式名称の99は、眠りの挨拶である〈おやすみ〉を幼児語とした際のスラング【Night night(おやちゅみ)】――発音を文字って99と示す――であり、一度の散布で〈永遠の眠り〉が約束されたということを意味している。

 共和国はこの非常に恐ろしい致死性を兼ね備えた毒ガスを蝶型ドローン〈プシュケー〉に搭載して運用することを想定していた。

 ドローンを破壊しようとすまいと、一度建物内に侵入を許した以上は確実に毒ガスが散布され、内部の人間は確実に死に至らしめるという凶悪な戦略……いや、テロというべき大量虐殺行為。

 シルフィーの先の言葉は、パノプティコン内にいる機構とヴァチカンの一行に対してそのような無慈悲な攻撃を加えることを示唆していた。


 

 しかし、アンジェリカは彼女の考えを明確に制止して言った。

「必要無いわ。好きなようにさせておきなさい。脱出したところで行き着く先も、行き着く未来にも変わりなど無いのだから。

 それに、アムブロシアーを差し向けたところであの女がいる限りは焼け石に水といったところだもの。せっかくの備蓄を無駄に消耗する結果で終わるわ。

 VXガスについては論外。解毒剤、消毒剤を蒔いて洗浄する手間が惜しい」

「あぁ、あぁ、なんと悲しき結末」

 至極残念そうにシルフィーは語るが、その表情から笑みが消えたわけではなかった。彼女は続ける。

「総大司教ベアトリス、加えてシスター・イントゥルーザ。何とも疎ましい。不死殺しの力とは実に厄介なもので」

「厄介だけれど、知った上で招き寄せたのはこちらだし、こういった事態を想定していなかったわけでは無いわ。むしろ、想定通りといったところね。ただあの人形、猪突猛進が過ぎる。美しいのは見た目の皮だけで、中身全てが筋肉で出来ているのかしら」

 思いつく限りの不満を並べ立ててアンジェリカは息を吐いた。

 シルフィーはアンジェリカに視線を向けたまま、次の対処について問う。

「しかしながらアンジェリカ様。ここで彼らに手出しをしないとなれば、次にどのような対処をお考えで?」

「アンティゴネ一隻に発進準備をさせなさい。彼らがサンダルフォンに乗り込み、港から後退を始めた瞬間に退路を断つ。接続水域に逃げるまでに航行不能にしてちょうだい」

「御意。しかし殺すことを否とされる以上、変わらず機構の協力を取り付けることが目的であると見受けましたが……万一、沈めてしまった場合は如何様に?」

「沈めようとしたって沈まないでしょうね。故にその点については考慮する必要は無いわ。動きを止めたところで再度捕縛するだけのこと。全武装の使用を許可するわ。ただし、サンダルフォン以外に興味は無い。接続水域と領海の狭間に立ち止まったままのラファエル級フリゲートは沈めてしまいましょう」

「重ねて承知いたしました。では、中央管制に指示を伝達いたします」


 にこやかな笑みを浮かべ、楽しみ事が増えたといった様子でシルフィーは中央管制へ足取り軽く立ち去った。

 玉座の間から彼女が完全に姿を消したのを見届けてから、アンジェリカは再度深い溜め息をついて物思いに耽った。


 機構とヴァチカンの動きについては想定通り。

 ただし、アシスタシアという人形があれほどまでに前後の見境なく行動を起こすタイプだとは思わなかった。

 ロザリアの命令と判断によって至極冷静に動いていた様に見えただけで、中身はというとその実、激情型に近い部類なのかもしれない。

 感情を顔や声といった表面に出さない割には行動にはすぐ示し、且つその在り方は非常に苛烈。生まれて数年ということで、精神が未成熟であることに起因する一種のバグなのだろうが、実に厄介なものだ。

 自分とは違う行動性を示すものを手駒にする。それこそ、ロザリアが彼女に敢えて自我を持たせた上での独立行動を容認している理由なのかもしれない。


 加えて、だ。どうやら機構とヴァチカンの脱出劇に助力している不届き者が自分達の身内に存在するらしい。

 誰であるかなど考えるまでもないが、ここは敢えて気付かない振りでもしておいた方が後の楽しみに繋がるというもの。

 この場で釘を刺してしまえば、決定的な瞬間において予想外の行動をされる可能性がある。


 それともうひとつ。不愉快極まるのはもう1組の存在についてである。

 あの2人をパノプティコンへ閉じ込めたところで意味がないことなど分かり切っていた。

 収容してしまえば、先程アシスタシアがやってみせたことより酷い惨事が待ち受けていたに違いない。

 だからこそ、早々にお帰り願う為にわざと要塞の外に転移させたのだが……

 マリアとアザミの2人はアムブロシアーの壁を難なく突破し、今や自分達の乗って来た車を回収してのんきに要塞庭園の鑑賞という余裕ぶりを見せつけている始末だ。

 実に腹立たしいことこの上ない。


 もとい。彼らと対面して会話をしたことで得られた唯一の収穫といえば、マリアが抱く理想というものの存在と、その概要を直接伝えることに成功したという1点。

 これのみで機構と国連の結託が揺らぐなどとは思わないが、波風を立てて協調を乱し、疑心暗鬼を生み出すきっかけ程度の役割は果たしてくれるだろう。

 マリア自身もこれまでと同じように大きな顔をして命令することは出来ず、僅かばかりでも機構内で行動がしづらくなるはずだ。


「それで良い。それで良いのよ。私達が目指す先にあるものはこの世界の仕組みの崩壊、終焉。そして徹底的な破壊。彼らが残ればそれはそれで良い未来の再構築も出来るのでしょうけれど、出来ないのであればそれで構わない。人類が残ろうと消え去ろうと、達すべき目的と理想に大した違いも無いのだから」

 すると、意識を表出させているアンジェリーナの脳内でふいにアンジェリカが言った。

『ねぇねぇ、あんじぇりーな、あんじぇりーな?難しいお話はさておき~、これからどうしよっか?´・・`』

 彼女の声を聞いたアンジェリーナは穏やかな表情で言う。

「大丈夫よ、アンジェリカ。私がうまくやるから。貴女の望む世界を、私達の望んだ世界を実現する為に。今の世界を徹底的に破壊して、破滅に追い込んで、もう一度美しい景色を楽しみましょう」

『燃え盛る水平線の彼方に、我らは栄光を見るぅ☆』

「そう。千年前に見た、あの綺麗な景色をもう一度2人で見ましょう。戦争という罰によって、人類が重ねてきた罪はついに清算される。そこに至れば、もはやマリアの描く理想の世界の実現など不可能な状況に陥るでしょうし」

『実現させたところで意味がなっしんぐぅな世界になっちゃうもんね~愉快愉快☆』

「問題は残されたプロヴィデンスと光の王妃様なわけだけれど……」


 アンジェリーナは言葉を区切り、考え込む姿勢を取る。

 そして考えをまとめてから言う。

「アンフィトリーテに命令して先手を打つべきかしら。具体的に言うと」

『プロヴィデンスを壊しちゃう?でも、それだと……』

「国連を潰す手段、いえ、あの2人を潰す手段が潰えてしまう、か。これ以上ない囮だものね」

 珍しく不安そうな声色で行ったアンジェリカの言葉をアンジェリーナは汲み取り考えを改めた。

「少し様子を見ましょう」


 玉座の背もたれに背を預け、高いボールト天井を見上げてステンドグラスから差し込む陽光の煌めきを眺める。

 焦らなくても結末が変わるわけではない。ここまで来たのだ。世界に残された選択肢は2つに1つ。

 早く滅ぶか、ゆっくり滅ぶかの2択。


 アンジェリーナが自身を落ち着かせるかのように思いを巡らせながら瞳を閉じると、アンジェリカが憂いある声で言った。

『あんじぇりーな、あんじぇりーな?』

 いつにない声のトーンに少し驚いたアンジェリーナは目を開けてすぐに返事をする。

「何?アンジェリカ。どうかした?」

『違う違う。私じゃなくて、アンジェリーナ。気負わないでね☆大丈夫、大丈夫^^いつも私の傍に貴女がいてくれたように、貴女の傍にはいつも私がいるんだから♪

 絶対に、ぜぇったいに忘れたらー、めっ!なんだよ?』


 考え過ぎだっただろうか。

 理想を追い求め、あと少しで完遂するという間際。

 私達は互いに1人ではない。

 自分1人の判断の誤りによって、ここで失敗の轍を踏むわけにはいかない。

 自身の為は元より、何を差し置いても“この子の為に”。


 アンジェリーナはアンジェリカの気遣いに感謝して優しい声で言う。

「ありがとう、優しい私の天使。もう1人の私。アンジェリカ」



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