* 1-2-9 *

 同日、ハンガリー南部 アシュトホルム村のとある記念公園にて。

 時刻は午後4時を指し示し、太陽が西の空へと完全に沈みゆく。夜の闇が辺り一帯を覆い、陽の光の消失と共に肌を刺すような寒気がより勢いを増したようだ。

 マリア達は必ずここへ訪れる。

 一足早くこの場所へと足を運んだ私は、彼女達の到着をのんびりと待ち構えていた。

 

「なかなか来ないねー?」


 公園の木陰に屈み、目の前でじっと自分を見つめてきた子犬に通じぬ言葉を語り掛ける。

 一向に姿を現さないマリア達に待ちくたびれてしまったが、少し寂しそうな顔をした子犬を優しく撫でることで何とか退屈しのぎは出来ていた。


「よしよし。良い子だねー☆」


 柔らかな笑みを湛え、喉の辺りを毛並みに沿って撫でる。すると子犬は気持ちよさそうな表情を浮かべて尻尾を振った。

 目の前で愛らしい振る舞いを見せる子犬と戯れている間、私は僅かな間だけ自身の目的を忘れ去っていたと思う。


 どこから来たの?


 そう問いたくなる場面ではあるが、私にはその答えが分かっていた。

 この子犬は先日ライアーが殺害した難民が連れていた飼い犬だ。夜闇でも目立つオレンジ色の首輪を見れば、それが見間違いや思い違いの類でないことは一目瞭然である。


「君ぃ~あの日からずっとここにいたの?寂しくなかった?……うぅん、寂しかったよね。きっと」


 子犬は鳴き声を出すでもなく、物音を立てるでもなくその場に静かに佇んでいた。

 いや、この子犬は理解しているのだ。この場でそういった音を立てることが命取りであると。なぜなら、自分の主人を目の前で殺した人間はすぐ近くに潜んでいるのだから。


 私の後方10メートルほど先の木陰で、ライアーがハーデスの兜を用いて身を隠している。

 彼が絶対の法で気配を隠匿している自分に気付く様子はない。そこまでは当然として、この子犬の存在に気付いている様子もまるでない。

 きっと、ライアーは今日中にこの場から立ち去りたいと考えている。だから辺り一面が真っ暗闇に包まれてから行動を開始する為に、今はただただじっと機会を伺っているのだろう。

 故に、周囲の状況など端から気に留めていないのかもしれない。ハーデスの兜がある限り、誰の目に留まる恐れもないからだ。

 しかし、彼はまだ知らない。これからこの地を訪れる、自らの人生の終幕を飾り立てる人物の到着があることを。


「貴方も、私達とおんなじだね。生涯を通じて一人ぼっちになっちゃった。私にはアンジェリーナがいるけど……貴方は本当に一人ぼっち。ううん。一匹ぼっちっていうのかな?」


 私は子犬を両手で包み込むようにゆっくりと撫で上げながら言った。

 柄にもないことをしていると思う。しかし、どうにも放っておくことも無視しておくことも出来そうにない。

 絶対の法による気配隠匿をものともせずに自分に近付いてきた子犬にシンパシーのようなものを感じているのだ。

 動物というのは賢い。文明の興隆と共に何千年もの間、私利私欲を肥やす為だけに醜い戦いや争いにばかり興じてきた人間とは根本からしてまるで違う。


 命ある限り、ただ生きたいという本能に従って力強く生きる動物たち。

 蒙昧な人間達と彼らの命の輝きなど比べるべくもない。


「うーん。懐いちゃってるけど、貴方の飼い主を殺しちゃったのは私でもあるんだよ?だーかーら、貴方になら……私は噛まれても文句は言えないんだよねー」


 この子犬が自分に噛みつくことがないということを知っていながら、敢えてそう言う。

 なぜ言い切ることが出来るかと言えば、自身に備わっているもう一つの力によって、私にも未来が視えるからだ。


 私に備わるもうひとつの力を〈エニグマ〉という。

〈絶対の法〉以外に持つそれは、一言でいえば【謎】である。自分でもよく分からない力故に、便宜上でそのまま〈エニグマ -謎-〉と名付けた。

 私やマリアのようなリナリア公国出身者はこの世界にまだ複数存在しており、彼や彼女らはそれぞれが異なる異能を持っている。

 異能には絶対の法や未来視の他にも多数の種類があり、それぞれの人物がそれぞれ異なる力を有しているわけだが、なぜか私だけは〈全員が持つ力を-制限付きではあるが-全て使用することが出来る〉のだ。

 どういう理屈でそうなったのか、又はそうなっているのかは分からない。分からないけれども使うことが出来てしまう。

 だからこその【謎】である。


 私に見える未来とは、マリアが持つ力には遠く及ぶべくもない単純なものだが、特定の対象がすぐ後に起こす行動を視たり、対象が直後に迎える未来を視通す程度に限定すれば、ほとんど彼女が持つそれと遜色はない。

 そのエニグマによって垣間見える未来によると、目の前にいる子犬は〈マリア達がこの地に訪れるまでの間、自分の傍から離れず、ひたすらにじゃれ合うのみ〉で、噛みついてくる可能性など万に一つもない。

 主人を殺された子犬よ、それで良いのか?と言いたくなる気持ちすら湧くほどに。


 私は他の誰にも見せたことが無いような穏やかな笑みを湛え、夢中になって子犬と戯れた。


 悪意無き温もり。悪意無き戯れ。

 世界がこのように出来ていれば、どれほど平和で温かなものだったのだろうか。そう思わなくもない。

 だが、来るところまで来てしまった世界というものが引き返す先など、もはや存在しないことも十分に理解している。


 だからこそ、そのものを“壊してしまわなければ”と思う。


 変わろうとしないものが変わるのを待ち続けるなど愚かなことだ。

 変わるつもりがないものを変えようとするなど、愚の骨頂だ。


 だからこそ、そのものを“滅してしまわなければ”。


 もう二度と、自分達のような存在が生まれ付かない為に。

 もう二度と、自分達のような存在が同じ思いをしない為に。

 人が作り上げ、人の手で重ねてきた罪には罰が与えられるべきだ。


 自らの辿ってきた道筋を思い返し、世界が背負う罪と与えられるべき罰を考えていたその時、背後から眩しい光が照らされた。車のヘッドライトだ。

 電気の力で動く約6メートルもの巨大な黒塗りの自動車。世界一静かな車内環境を持ち、空飛ぶ絨毯に例えられることもある名車が場違いにもこの公園のすぐ脇で停車した。


 本命のご到着ぅ☆


 待ちくたびれつつあった私は内心で歓喜の声をあげる。

 この時間に、あのような車でこの場所を訪れる人物など限られたものだ。思った通り、黒い車からアザミが姿を現すと、後部座席からマリアが降り立った。

 ここまでは想像通りであった。が、しかし。後に続いたもう1人の人物の姿に私はまたも驚かされた。

 今朝、マリアの誘いを受けていた例の青年の姿がそこにはあったのだ。


 そのような未来は視えなかったが……

 とはいえ、マリアですら彼の未来を捉えることが出来なかったという可能性を考えれば、私が彼の動向を捉えることが出来ないのは必然であるのかもしれない。


「へぇ、こんな遠くまで一緒に連れてきちゃうなんて。それほど彼にご執心になっちゃった?」

『そうね、さすがに驚いたわ。彼は何者なのかしら?』


 私の囁きに合わせてアンジェリーナが言った。

 本当に何者なのだろうか。ただの凡人にしか見えないし、間違いなくそうであるはずなのに。


「何はともあれ!無事にあの子達がこの場に訪れてくれて良かった☆これでライアーの人生の末路は確定的になったもんね~♪」


 アスターヒュー色の瞳を淡く輝かせ、私は言う。

 それと同時に警戒態勢、警戒態勢。ここで気を抜くのは命取り。

 マリアはともかく、絶対の法を敷いているからといってあの“神様”の目をどこまで欺けるかは未知数だ。

 少し能力の出力は上げておくべきだろう。

 私が気を引き締めながら気配遮断と姿隠匿をより完全なものにしていく中、ふとアンジェリーナが言った。


『明日の夕方で彼の命は終わりといったところかしら。それより、アビーへの手土産として、この場で彼女達がライアーの姿に気付くかどうかをきちんと見届けないと。あと、物騒な神様でも、私達の姿はさすがに感知できないと思いたいわね』

「少し頑張ったから大丈夫ぅ☆なはずだよ~?本当にぃ?でもでも、アザミが今の時点で何も気にする素振りを見せていないから平気平気ぃ。でもそのアザミがねー、デジカメ持ってるんだよねー。この後、写真撮影するみたいだけど。ライアーに関しては後々、そこでばれちゃうんじゃないかなー?」

『さすがといったところね。ハーデスの兜が古いデジカメの撮影に弱いのは本当のことだけれど、あの子達はどこからそんな情報を手に入れたのかしら。国際連盟も油断ならないって感じてしまうわ。それと、マリアの未来視はどこまでを見取っているのかしらね?』

「きっと私達と同じようなところまで~☆」


 自分達と同じ未来を視ている。不思議とそう思えた。


「それにしても、あの予想GUYがここを訪れるなんて未来、視えなかったけど……今も、視えない、視えない。視ようとしても弾かれちゃう感じ?本当に何なのかなぁ?」

『私達にも視えない……ということは程度の差こそあれ、やはりマリアでも彼の未来を視ることは出来ないのかもしれないわね』

「本当だったらびっくりだよね~」


 今までそんな人間は1人しかいないと思っていた。マリアの持つ未来視の力が通じない相手として、私が認識している人物は世界にただ一人。

 ヴァチカン教皇庁に在籍するリナリア公国出身の修道女だけである。だが、どうやら世界というのは思うよりは広く“例外”というものが存在するらしい。

 現に、私の未来視で何度彼の未来を視通そうと試しても何も視ることは出来ない。不思議な何かに弾かれるように、先にある未来へ視点を合わせようとすると景色がぶれてしまうのだ。


 私もアンジェリーナもそれ以上は喋ることなく、押し黙ったまま子犬の背中に手を乗せ、じっとマリアとアザミ、青年へと視線を向け続ける。

 すると3人はセルビアとの国境がある方角のフェンスに目を向けながら、何やら会話を始めた。

 周囲に喧騒と呼ぶものも存在しない闇の中。そう遠く離れていない位置である為、聞き耳を立てれば彼女達の会話はしっかり自分の耳にも届いた。



 正直、話している内容としては、初対面の相手に話すようなものではないと思う。

 大丈夫?それ、あまり深く話しすぎると面倒くさい奴って思われない?



 マリアの感情を気に掛けているわけではないし、あの青年の考えていることが気になるわけでもないが、少なくとも自分が青年の立場であったなら今頃はあまりのつまらなさに死んだ魚のような目をしていたことだろう。


 それより、しばらく話を聞いていて分かったのは、マリアは善悪二元論の話を彼にしているということだった。

 その時立つ立場によって人の意思などどうにでも変わる。そのような中身の話だ。

 良い話だがロマンはない。ロマンは無いし、つまらない話ではあるが良い話でもあった。



「ふーん、良いこと言うじゃん☆関心、感心、歓心☆」




 マリアが彼に語ったのは次のような内容である。

 

 自分は正しい、何も間違っていない。

 間違っているのは相手だ。

 っと、人間であれば誰もがそう思うことがあるだろう。


 善悪二元論が人々の意識の中に根強く浸透しているからこそ、人間は立場の違いというものによってそのように“自分が善で相手が悪だ”と無意識化で考える傾向が強い。

 もし、自分が相手の立場に立った時にどうなるのか、など考えることもせず。

 これは人間というものが持つ本能に等しい。潜在意識などというものでもなく、遺伝子レベルで刻み込まれているのであるかと錯覚するほどに。


 善と悪、それらは互いが立つ立場によって姿を変える。

 この前提を元にして、難民という立場と国家という立場のふたつの立場から見て、それぞれを善であるか、悪であるかという断定が出来ようか。

 また、第三者から見てどちらが善でどちらが悪かと決めつけることが出来ようか。


 マリアはそのような話を彼に語った上で、最後にこう問い掛けた。


〈難民〉という存在そのものが世界にとって善なるものか、悪なるものか、と。



 良い話だ。世界の核心を突いた良い話ではあるだろう。

 しかし残念ながら……

「深いけどさ、初対面の相手に話すような内容ではないよね~。それを真顔で真剣に聞いちゃう彼もまた凄いなって、私は思うんだ。アンジェリーナはどう?」

『聞こえた限り、マリアは彼のことを〈フロリアン〉と呼んでいたわね。ありきたりな名前の割に随分と風変わりな人間だこと。貴女と同じく、私もあれは初対面に対してするような話ではないと思うわ。普通に考えたら面倒臭くて二度と会話しようだなんて思わなくなると思う』

「だよねー。フロリアン、フロリアン。そーそー、ありふれた響きだけど、そこが良いのかな?」

『何の話よ?それより、善悪二元論なんて面倒な話を持ち出して、挙句難民がどちらの立場にあるのか問うだなんて、マリアは一体どういうつもりなのかしらね』

「彼に何か気付いて欲しいことがある。そういう風に聞こえちゃうなー、私には。公国が消えちゃってから私達もみんな難民だったわけだし、思うところはあるんだと思うよ。特にほら、あの子の最期は悲惨だったって聞いたから」


 っとその時、彼らの話が止んだ。

 私とアンジェリーナが互いに言葉を交わす間に、マリアとフロリアンの間での話は終わったらしい。

 今のところ、彼女達がライアーや自分の存在に気付いている様子は微塵もない。


『面倒臭い話はひとまず置くとして、アビーの実験自体はうまく行っているのではないかしら。アザミも含めて、あの子達がライアーに気付いている様子はないもの。あれ、存外に使える代物なんじゃない?』

「あの2人のことだから、そういう振りをしているだけかも。って、あ!ちょっと!」


 少しばかり油断した隙に、手を離れた子犬が木陰の脇にある茂みから飛び出していく。

 がさがさと音が鳴った方向に彼女達の視線が一斉に集まり、子犬はマリア目掛けて一直線に走っていった。


「んもぅ、ふわふわで気持ち良かったのに~」

『きゃはは、振られたわね?私達。でも、あの子犬はやっぱり気付いているのね。ライアーがここにいること』

「ご主人を殺した人間を追いかけているのかもぉ?」

『そして、そのことをマリア達に伝えようとしている』


 私がマリア達の方へ視線を向け直した時、丁度アザミが年代物のデジタルカメラを構えた。

 子犬を抱きかかえたマリアはどうやらフロリアンと一緒に記念写真撮影に興じるらしい。それをアザミが撮影しようというところであった。




 チェックメイト。



 私は心の中で呟いた。その時は歪んだ笑みを浮かべていたと思う。

 マリア達はこの場に難民狩りの犯人、即ちライアーが潜んでいることに間違いなく気付いている。そのことを確証へと変える為にこの場へ訪れ、このような回りくどい行動をしているのだろう。

 ただ、隣のフロリアンという名の青年はそんなことなど微塵も知るはずがない。知らされてはいないがマリアと行動を共にしている。いや、行動を共にするようにマリアに促されている、そんなところだと思う。

 これは推測でしかないが、自分の未来視に存在しなかった不確定要素である“彼という存在”を野放しにしておくことが〈リスク〉であるとマリアは感じたのではないか。

 存在するだけで未来に影響を与えるかもしれない不確定要素、要するにバグと成り得るものを放置するより、自分の手元で管理した方がよほど安全であることは間違いない。


 最初はなぜ彼のような凡庸な男にマリアのような存在が声を掛けたのか理解に苦しんだが、今なら答えがはっきりとわかるような気がした。

 リスクマネジメントだと考えれば辻褄が合うのだ。

 さらに、この推測にはもうひとつ愉快な仮説がある。


 マリアは自覚もないまま彼という存在に強く惹かれたのではないか。


 理由など知らない。知らないが仮説が事実であったなら最高の道化だ。

 ある意味で自分の天敵ともなり得る存在に、思ってもみない形で最高の弱点が出来たかもしれないのだから。

 自分は愛などというものが分からない。そんな恋だの愛だのという理解の及ばないことの為に、自らの理性を焦がすような愚行を彼女が冒してくれるのなら……これ以上に最高なことはない。

 完璧であるはずの彼女が犯そうとしている、たったひとつの過ちであるとすら言える。



「ねぇ、マリア。貴女はこんな言葉を知っているかしら?」



 楽し気な笑みを浮かべて記念撮影するマリア達に対し、私に代わって人格を表に顕現させたアンジェリーナが憎悪の炎を宿した瞳でじっと見据えたまま言う。


「“人が友の為に自らの命を捨てること。これよりも大きな愛はない”」


 アンジェリーナはヨハネによる福音書 第15章3節の言葉を引用して言った。


「貴女が彼を慕うと決めた時、貴女は自らの背に大きすぎる荷を負うことになる。その決断はいつか互いにとっての災厄を招く。マリア、貴女はそうね。もし貴女が本当にそのような理由で彼を連れているのだとしたら、彼の為に自らの永遠の命を差し出さなければならない瞬間をいつか迎えることになるかもしれないわ。

 千年もの時間をかけて紡いだ理想を、計画を破綻させかねないのが彼という存在ではなくて?

 もし、自らが積み上げてきた全てを投げ出さなくてはならなくなったとしたら、その時に貴女はどんな表情を浮かべるのかしら?見物ね。きゃはははは!」


 呪いを放つかのような禍々しい目で彼女を見据えてそう言った後、誰にも聞こえぬ悪意の嘲笑を響かせながら、私達は次の目的地へ移動する為にその場を去った。


 私達が存在した場所に残されたのは一縷の光粒子。

 赤紫色に輝く煙のような煌めきだけが宙を舞っていた。


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