* 1-2-8 *

 想像を超える喜びの後には、想像を超える驚きがあった。


 ライアーへハーデスの兜を渡し、難民狩り事件が発生し始めてからおよそ1か月が経過した12月24日のクリスマスイヴ。


 ハンガリーを訪れたマリアの様子を探る為に、私が密かに彼女の行動を監視していたときのことである。

 刺すように冷たい空気が大気に満ちた朝のひと時。オクトーベル6.通りとメールレグ通りが交わる路地付近、レストランがある建物の屋上からマリアとアザミの様子を眺めていた時のことだ。

 他の何もかもを忘れ去り、ただただそのことだけに意識を向けざるを得ないような、思ってもみない出来事が起きた。



「きゃっ!」



 地上から響く少女の悲鳴。

 まぁ、なんと可愛らしい悲鳴なのだろう。と、間抜けな思考を巡らせつつ私は自分の耳を疑った。

 可憐な悲鳴をあげつつ盛大に転倒する監視対象。その目の前には驚きを浮かべた様子で彼女を心配そうに見やる青年が立っている。


「うっそぉ~!あんびりーばぼぉ~☆」


 余りの出来事に私は思わずそう口に出してしまっていた。絶対の法で気配も姿も声も隠匿された状況下、誰の耳にも届かなかったことが幸いである。


 え?未来視は?予言は?何が起きたの?

 有り得ない、有り得ない。


 身に降りかかる全ての災厄を予言によって回避可能なマリアが通行人とぶつかる?

 有り得ない、有り得ない。


 わざと?わざとぶつからない限りそんなことが起きるわけがないよね?

 有り得ない、有り得ない。


 そして、あの青年は何?誰?

 どこから湧いて出てきたの?



 もはや私の思考は目の前で起きた出来事に追い付いていなかった。

 ただひたすらに理解不能な状況が繰り広げられている。




〈運命〉などという言葉を語る日があるとするなら、紛うことなくこの日だ。

 この日、寒気満ちる真冬のブダペストの地で、マリアは自身の将来を左右する1人の青年と出会った。

 未来を視通す目を持って、自らに降りかかる危険や災厄の全てを予言する少女。

 そういった類の危機とは無縁であったはずの少女は、無邪気に通りを歩いた先の曲がり角で“彼”とつぶかってしまった。

 それはとても衝撃的な……そう物理的にも衝撃的かつ運命的な出会いであったのだ。

 

 監視対象の観察中に偶然目撃した光景は、私の興味を惹きつけるに十分な意味をもっていた。

 国連という巨大組織の頂点に立ち、世界を統べる秘匿機関を治める局長殿の“みっともない姿”を拝めたのも存外に面白いことではあるのだが、それ以上に〈なぜこのようなことが起き得たのか〉という点こそが自身の興味を惹きつけたのである。


「あの子が誰かにぶつかることが驚きというよりも……ううん。それもびっくりなんだけどさ。それってつまりは“マリアの未来視では彼を捉えられなかった”ってことだよねぇ~?あの子に目に映らない人間がいるだなんて、驚☆嘆!彼は誰なのかなぁ?一体何なんだろう、ね?」


 未来視で補足できない人間がいる。

 その事実を考えただけでわくわくが止まらなかった。


 私は夢中で彼と彼女を観察した。対象の奥には、ぽかんと口を開けたまま佇むもう1人の女性の姿も見える。


「あらあら、怖い怖い神様のあんな顔初めて見たかも~☆神様にも予期不可な出来事ぉ~って、凄いね~♪」


 この小さな事件は当の本人や私だけでなく、当然ながら傍らにいつも付き従う彼女をも驚かせた。

 魔女を思わせるツバの大きなキャペリンハットを被り、黒いベールで顔を覆い、黒のゴシックロングドレスに身を包んだ長身の女性。

 特異な存在である自分達リナリア公国の末裔たちよりもずっと神秘を纏った人物。アザミだ。

 私の抱く最大のエンターテイメントを完成に導く存在と今は言ってもいい。彼女こそ、この地でライアーに難民狩りの代償となる裁きを与える人物だ。


「ふむふむ。私にとってはただの怖い怖い神様もとい悪魔さんなんだけども~、あんな顔も出来るんだ?見えないけど。でも、へぇ~☆彼女達にとって彼はやっぱり予想GUYってことだね☆ふっふーん^^」


 私は気を落ち着ける為に首を二度ほど横に振り、再び目の前の出来事の観察に集中した。

 視線の先では青年に手を取ってもらいながらマリアが起き上がっている最中だ。

 マリアが初対面の相手に自身の手を触れさせるなどということも腰を抜かすほど仰天な出来事だが、さらにじっと観察を続けていると、驚いたことにマリアの方から彼を朝食に誘い始めたではないか。


 有り得ない、有り得ない。

 一体どういう風の吹き回しだろうか。

 先ほどから何がどうなっているのか。

 もしや自分の知らない世界に迷い込んだのでは?


 私は建物の壁を興奮気味にバシバシと叩きながら言った。

「えぇ~!逆ナン!?あの子からデートに誘っちゃったよ☆ねぇねぇ!アンジェリーナ!見た見たぁ!?何か感じるものでもあったのかにゃ~♪面白い、面白い!ねぇねぇ、アンジェリーナ?アンジェリーナはどう思う?>▽<」

『どうもこうも、私としては彼という存在が気になるというただそれだけね』

「塩ぉ!;;もぉ!アンジェリーナってば、ロマンスの欠片もないんだから。とはいえ、言葉の意味と形式的には恋の始まりなのかも~?って思うけど、私にもよく分からないんだけどね」

『彼が特筆すべきような何かを持っているわけでも無さそうだし、隠しているわけでも無さそうなのよね。ただひたすらに凡庸。欠伸が出そうなほどにね。でも、どうしてそんな取柄も無さそうな凡人があの子に出会ったのかしら?』

「逆逆ぅ~☆どうしてマリアがそんな凡人に出会って、しかも凡人相手に朝食デートに誘うだなんてミラクルが起きたのか、なんだよ?」

『デートは言い過ぎではないかしら?律儀なあの子のことよ。ぶつかったことに対するお詫び程度の可能性もあるわ。でも、それもそうね。いずれにしても興味深い事象であることに変わりはない。あの子の動きを観察して、ライアーを殺す瞬間までの工程をじっくり眺めようと思っていたけれど、別の楽しみが出来たわけだし』

「うんうん、やっぱり“観光”は楽しくないとね☆エンターテインメントとアトラクションは多いほど楽しいんだから。そうそう、観光といえば……!今夜のクリスマスマーケットでは何食べよっか?」

『アルマーシュレーテシュ』

「りんごの渦巻きパイぃ♡ あれれ?でもそれってマーケットに売ってたかな~」

『一緒に探しましょう。あとホットワインもね』


 気分が高揚した私達は、今しがた目撃した出来事に加えて夜の観光についての話まで弾ませてしまっていた。

 その間にマリア達一行を見失ってしまったことに気付いたのは直後のことである。


 視線を通りに戻した私はようやく監視対象が姿を消したという事実に気付いた。

「おやおや~、いつの間にかマリア達いなくなっちゃった。ぴぇん。早速ご飯食べに行っちゃったかな?」

 姿を消したというより、単純に目を離し過ぎただけの話なのだが。

 きょろきょろと周囲を見渡す私にアンジェリーナは言う。

『行き先は分かるわよ?真っすぐ歩いた先にある人気のカフェね。国連パワーで予約無しでも即ご案内でしょう。羨ましいこと。ただ、面白いものは見ることが出来たのだし、あとは無理に追いかけずに、しばらく放置で良いんじゃないかしら?それより、私達は一足先にアシュトホルムへ向かいましょう。ライアーの動きも観察しておかないと。どうせ今日の夕方には、あの子達もアシュトホルムへ来るのでしょうし』

「そうだねー。あ、でもその前におやつ食べてからにしよ?甘いものが欲しいの~><」

『はいはい、分かったわよ。そういえば、向こうでキュルテーシュカラーチを売っていたわね』

「きゅるっとしたカラシ?なぁに?マスタードの一種ぅ?・_・」

『違う違う。キュルテーシュカラーチ。別名〈煙突ケーキ〉。棒に巻いて焼き上げるペイストリーで、形が煙突に似ているからそう呼ばれるのよ』

「さすがアンジェリーナ、物知りぃ☆じゃ、それにしよう♪^^」


 来たる時というのは、ただ待っていても訪れる。

 そう。何も焦る必要はない。

〈その時は、必ず来る〉のだから。


 マリアとアザミの監視を取りやめた私達は絶対の法の効力を解除し、路地裏をるんるんとした気分で歩きながら煙突ケーキを食べに向かった。


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