第5節 -眠りの妃 ~嘆きの大地賛歌~-

* 1-5-1 *

“どうして狐疑逡巡するのだ。どうして率直果敢に行動できない?”


 ダンテ・アリギエーリの著作、神曲にて語られる一節である。


 長きに渡る人生の中で私が常々感じてきたことでもある。確かに、人間というものはいつだってそうだった。

 新しい“何か”に対して、極端な恐怖を抱くか、或いは既存の何かを当てはめて考えるばかりで、疑い深く、ぐずぐずとして、受け入れることを自ら決心しようとしない。

 認めることに対して憶病で、素直になることもなくいつだって否定から入る。前例無きことに対し、果敢な決断を示すことなど実に稀なケースだと言えるだろう。


 端的に言えば、認めてしまうことを『自身の敗北である』と捉えてしまっているのかもしれない。

 他者から見れば、どうでも良いようなちっぽけなプライドを、それ以上に大きな利益を不意にしてでも守りたくて仕方ない、という風に。

 新しい何かに対し、苛烈なほどに攻撃の目と言葉を向けるのはそうした心理的弱さが影響しているのだ。

 弱い犬ほど……いや、弱い人間ほど、である。


 いつの世も、時代を築き上げてきたのは“まだ見ぬ真理を探究し続けた者達”であったにも関わらず、歴史の中で権威と権力を笠に着た人々は彼らを認めようとはしなかった。

『それでも地は動く』と、ある偉人は言ったとか言わないとか。それは良しとして、彼らのような人々の脚を引っ張り続けることでしか誇りを保てなかった人々も実在した。


 誰とは言わない……まぁ、それはまた別の話としよう。




 さて、私もこれまでの人生で、そうした愚かな人間を数多く見てきたわけだが、その度に何とも胸の中ですっきりしない感情を抱いたものである。

 だからこそ、ダンテの神曲を読む中で先の言葉を初めて目にした時、今まで取れずにいた胸のつかえがすっと外されてすっきりしたような気さえしたものだ。


 人間というものは実に憶病な生き物だ。

 憶病で、愚かで、卑怯で、卑屈で、実に弱々しい生き物。

 自分が間違ったことをして、誰かに責め立てられることに酷く怯えている。

 自身の価値観を一瞬で変えてしまうような事象や理屈を受け入れることに、酷く、酷く怯えている。 


 惨めで、憐れで、なんとも愚かしい。



 あぁ、それなのに。多くの人々はそうだというのに。

 彼は違った。前例がないものを取り込み、使えるものは使い、自らの利益の為ならプライドも大切なものも簡単にかなぐり捨てる。


 ラーニー・セルフェイス


 イングランドを拠点とするセルフェイス財団の若き当主。180センチ近い高身長が映える恵まれた容姿を持ち、深い緑色、ヴィリジアンの瞳が印象的な爽やかな青年である。

 セルフェイス財団は環境保護に熱心に取り組む巨大な財閥だ。ラーニーの父親であるエドワードの時代から自然環境を守る為のあらゆる手段を探し、受け入れ、実行し、これまで大いなる功績を世に残してきた。

 かといって、自然環境保護の為なら周囲の全てを敵にするというような過激派でもなく、それは穏やかな春の自然のような……何と言えば良いのだろうか。慣れない思考を巡らせるものではない。

 他者は他者。自分達は自分達。世界が、自分達が今出来る最善を全力で尽くす。そういうような財閥であり、絵に描いたように理想的な財団の現当主もまた、絵に描いたように素晴らしい思想の持主であった。

〈新緑の革命者〉などと持て囃されるだけのことはある。

 少なくとも一般的思考から見れば、の話ではあるが。



 ある時、私はグラン・エトルアリアス共和国が新規に開発した“奇跡の農業薬品”を彼ら財団の元へと持ち込んだ。

 すると彼は……ラーニーは私が持ち込み提示した“奇跡の農業薬品”を疑うことなく受け入れ、迷うことなく使用することを決定したのである。

 迅速果断。こちらが戸惑うほど潔く、気持ちの良い即断即決であった。

 唯一、彼が求めたのは薬品の名前を自らに決めさせてほしいということだけであり、他に何かを求めた事実はない。

 世界には奇特な人がいたものである。

 そうして彼が付けた名前はこうだ。


 CGP637-GG -セルフェイス・グロウス・プロモーター,637 グリーンゴッド-


 そうきたか、と感心したことを今でも覚えている。

 637とはまた洒落た数字を取り入れるものだと感心した。


 Always and forever〈いつも、そして永遠に〉。


 その3つの単語の文字数をなぞった、英語圏で使われるナンバースラングである。

 つまりこの場合、名前の全てを鑑みれば【新緑よ、永遠なれ】という意味合いを込めた名前なのだろう。

 それがどういう印象を他人に与えるかは別として、〈新緑の革命者〉と名高い彼らしいセンスを発揮した名前だ。


 元々はGEGP379という名称で完成した、私の持ち込んだ薬品は『成長促進剤』という分類名が示すよりも実に強力な効能を有している。

 枯れ果て荒れた大地に散布するだけで、新緑が息吹を吹き返したように見せる効果があるのだ。

 現代科学において、そのようなことが可能かどうか?

 少なくとも自分達グラン・エトルアリアス共和国に不可能などというものは無い。特に、自分に〈絶対の法〉の力がある限りは。

 

 私はグラン・エトルアリアス共和国の名を明かすこともなく、薬の開発や効能についての所在を明かすこともなく、“自由に使用して良いという条件”だけをセルフェイス財団に、ひいては彼に伝えた。

 むしろ、薬品を使うのであればそうした事情には“触れるな”と、言葉では言わないまでも遠回しに伝えて理解してもらったつもりだ。

 いいや、理解してもらったのである。そういうことにしてほしい。



 その後、彼らに薬品を譲渡してからしばらくたったある日。

 世界各国、及び世界中のメディアと大衆はセルフェイス財団の発表に夢中となった。



 夢の薬品。環境破壊を食い止める人類の希望。



 彼らが私達との約束通り、裏事情には一切触れずに世界に向けてCGP637-GGを初披露した時、世界や世間から向けられた反応は概ねこのようなものだったと思う。

 多くの国のメディアは『環境破壊を防ぐ夢の薬品が、ついに人類の叡智によってもたらされたのだ!』と興奮気味に語っていた。


 私達から薬品を受領したセルフェイス財団は、まず自前の敷地内での簡易試験運用を行い、さらなる大規模試験の為にイングランドの南方にある国立自然公園での評価運用を行った。

 その結果を通じて得られたデータを用いながら、熱を込めて“夢の薬品”が完成したと世界に向けて大々的にアピールしたのである。




 ……そうそう、彼らに忠告し忘れたことがある。

【神はいつだって人間を助けたりなどしない】


 彼らが舞い上がりながら発表した夢の新薬。

 グリーンゴッド。

 その神は、大地に仇なす“偽りの神”であることも知らずに。


 Always and forever -いつも、そして永遠に-


 新緑の神が生み出す創造は、大いなる地から生命を取り上げ、〈死〉という名の永遠と安寧を我ら人類へともたらすこととなる。


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