第1章 -追憶の日-
第1節 -全ての始まり ~戴冠~-
* 1-1-1 *
眠りから覚め、閉じていた目をアンジェリカはゆっくりと開く。リカルドが部屋を去り、目を閉じてからどの程度の時間が経過したのだろう。
ぼやける視界の向こう側には、淡い光を放つ美しいステンドグラスの輝きが微かに灯り続けている。
小さく柔らかな唇をそっと開き、大きく息を吸い込んでからゆっくりと吐き出した。意識は未だ微睡と現実の境界を彷徨う。
虚ろな目で高いヴォールト天井を見上げたまま、アンジェリカは物思いに耽った。
ここ数年の記憶が走馬灯のように脳裏にフラッシュバックする。
決して楽しいだけとはいえない記憶の数々。苦々しい思いもしたし、数百年ぶりに“恐怖”などという感情を抱く瞬間もあった。
ハンガリー、ミクロネシア連邦、イングランド、ドイツ連邦共和国……
妙に体が気だるい。不死という性質を獲得し、既に人間とは違うものに成り果てた今となって、肉体的な不調を味わうなど妙な話ではある。
世界中を飛び回っていた疲れだろうか。いいや、違う。
理由について身に覚えがないわけでもない。どちらかというと、この身体的不調は心の奥底で引っかかっている感情が原因であり、精神的な揺らぎに引っ張られているというべきだ。
本当に?
透き通るアスターヒュー色の瞳。世界で他に存在しないアースアイは虚ろなまま。
焦点の定まらない目を宙に泳がせ、辺り一帯を見渡す。妙な気だるさの原因が、他の外的要因によるものではないのかと考え直したからだ。
泳がせた視界の中に、特に気に留めるものがないことを確認して再び小さな吐息を漏らす。息を吐くたび、小さく華奢な体が僅かに上下する。
自身の奥底にわだかまるもやもやとした感覚は、やはり周囲の変化による影響ではないらしい。先に頭を巡った疑問を払拭する。
意識に霞がかかったようだ。目の焦点同様、思考も定まらない。
こういう時に思い出すのはいつも決まって遠い昔の記憶だ。常人では計り知れない遠い過去の記憶。千年も前に潰えた故郷の景色が脳裏に蘇る。
アンジェリカはぼうっとしたまま、だらりとしていた右腕に力を籠め、思い立ったように指をぱちんと鳴らす。
すると、室内で煌めいていたステンドグラスの燐光は消え、代わりに無数の白い小さな輝きが漆黒の空間を埋め尽くした。
スターライト。それはまるで夜空を覆い尽くす星々のように。
極小の光が天井一面を覆い、本物の星空と見紛うほどに見事な景色を映し出した。
「なんだか、懐かしいの」
色香を感じさせるような、憂いある吐息交じりのかすれた声でアンジェリカは呟く。
「でもでもー。感傷に浸るのはー、……めっ。なんだよ?」
いつもと変わらぬ、誰に言うでもない言葉を虚空へと放つ。
だが、孤独に苛まれた人生における最初の十年とは違い、今はその言葉を心から受け止めてくれる存在が内にある。
『良いじゃない?たまには何もかも投げ出して、自らの殻に籠ってみるのも悪くないものよ。アンジェリカ』
あぁ、あんじぇりーな、あんじぇりーな。
貴女は優しいね。いつだってそう。
もう1人の、私。
千年もの間、私は彼女と共に過ごしてきた。
解離による下意識。それを封じ込めるためのもうひとつの人格。私の心を守る為に生み出されたもうひとつの“私”。
解離性同一性障害。人々はそれを指して〈多重人格〉と呼ぶが、“私達”の関係はそのようであり、“それとは違う”。
アンジェリーナは私という存在の中に生まれたもう1人の私ではあるが、彼女が元々持っていた“奇跡の力”によって魂そのものだけでなく、別々の肉体すら得ることも出来る特異な存在である。
本来、多重人格者は別人格を表出させている時の記憶を持たないらしいが、私達は違うのだ。
互いが同じ視点で景色を眺め、同じ記憶を共有し、別々の意識で共存する。
家族?友達?いや……
彼女は、アンジェリーナはもう1人の私であり、別の私であり、私自身そのもの。
合わせ鏡のような存在。
「アンジェリーナ。うん、そうだね。こうしてると、思い出すんだ。遠い遠い昔のこと。まだ、お父さんもお母さんも生きていた頃のお話」
『そう』
「まだ、2人とも優しかった頃のお話、だよ。でも、私達が愛をあげたときは、喜んでくれなかったなぁ」
かすれるほど小さなアンジェリカの囁きを聞き、アンジェリーナの記憶に父母の最期の姿が想起された。
椅子に縛った両親の姿。
爪を剥がした後の指先を全て、1本1本を綺麗に切断した。毒薬を注入し、その効果によって腫れあがった四肢は人間のものとは思えない有り様であった。
真っ赤に腫れて可哀そうだからと、アンジェリカはそれらの皮膚を〈彼らに教えられた通り〉丁寧に剥ぎ取り、さらに四肢を〈彼らに教えられた通り〉丁寧に、ゆっくりと削ぎ落した。
一瞬だなんてつまらない。丁寧に、ゆっくり、じっくり。
苦しみを与えること、痛みを与えること、罰を与えること。これら全てが自分達にとっての“愛”である。
アンジェリカが自信を持って“仕事”を終えた後、きちんとうまく出来たか両親に聞いたとき、彼らからは酷い罵りの言葉を返されたと思う。
彼女は両親の言った言葉に対し、きょとんとした顔で言った。
どうして?
なぜ父母がそのような罵りを自分に返して来たのか理解が及ばない、という風に。
“天使のような”という名を彼女に授けた当人達から最後に受けた言葉はそう。
〈お前は悪魔だ!〉と、確かそのはずだ。
今まで、罪人にそうしていれば褒めてくれたじゃない?
今までは、罪人にそうしていれば優しくしてくれたよね?
きっと、アンジェリカの中には疑念と混乱が広がったはずだ。
生まれ故郷で罪人たちを裁くという使命を負った家系の次期当主。その威光と期待に恥じないようにと、真面目な彼女は両親に教え込まれてきたことをただ両親の前で、両親に披露しただけに過ぎなかった。
そのはずなのに。
彼らは褒めてくれなかった。
そうだ、きっとやり方が拙かったのだ。
痛みが足りなかった?苦しみが足りなかった?
〈愛〉が足りなかったのだろうか?
アンジェリカの戸惑いと想いが私の中に流れ込む。
私が彼女の中で彼女の行いを傍観し続けている中、彼女はついに人間の身体の中でも特に敏感な部位への“処置”を始めた。
それからしばらくすると、彼らはついに何も喋らなくなった。
教えられたことをしただけなのに。
そうあるべきだと言われてきたから、そうしただけなのに。
彼女にとって……いや、私にとって、“私達”にとっての〈愛〉とは、ただそれだけしかなかったというのに。
私達には何も無かった。
私達には何も残されていなかった。
アンジェリーナは過去の記憶を振りほどき、とても優しい声で彼女に言う。
『少しゆっくりすると良いわ。その間、私が表に出ているから。さぁ、力を抜いて』
アンジェリーナの内なる言葉を聞きつつも尚、相も変わらずぼうっと天井の星空を眺めるアンジェリカの瞳は輝く光を見ているようでいて、しかし……
両親を自ら手にかけるよりも前の出来事、生まれ故郷が滅びに沈んでいったあの日の景色を映し出していた。
燃え盛る炎。崩れ落ちる城塞。
自らの知る日常が、紅蓮の揺らめきに包まれて無惨な姿へと変わり果てていく。
あの日を境に、何もかもが消えてなくなって、何もかもが変わってしまった。
しかし、その光景は……あぁ、なんて脆く、儚く、それでいて……
なんと、美しいのだろうか。
微かに、アンジェリーナの声が内に響く。
『しばらくの間、おやすみなさい』
返事はしなかった。
声を境に、アンジェリカの意識は再び暗い闇の中へと吸い込まれるように閉ざされていく。
記憶の大海を彷徨うように、かつて経験した記憶を順を追って思い返すように、アンジェリカは柔らかな眠りの中で〈追想の時〉を刻み始めるのであった。
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