第12話 俺がこの世で一番嫌いなこと

 ニナニーナの顔色が読み取れない。

 血の気が引くように青くなったかと思えば、今度は真っ赤に染まる。

 

「あの時の……魔人……! わたしの故郷をめちゃくちゃにして……わたしの権能を奪って……! たくさんの大事な人を殺した悪鬼か!!」


 恐怖。怒り。憎しみ。そして悔しさや哀しみ。色んな感情がないまぜになった表情。


「今さら……なにをしにきたの!!」


 ニナニーナは声を荒らげる。

 強く握った両の拳がブルブルと震えていた。


 一方のマジンはなんの感慨もなく、この状況を楽しむようにニタニタと笑って言う。


「また奪いにきたのさ。今度はあんたのすべてをねぇ?」


「わたしのすべてを……?」


 マジンがニナニーナに向かって歩を進める。

 狂気をはらんだ笑顔。

 こいつに人の心などないとわかる。

 粘着する悪意に全身を絡めとられるようだ。


 ニナニーナは震えながら一歩後ずさることが精一杯。


 そこでマジンの足首をもう一度掴んだのは、意識を失っていたはずの泥田だった。


「……や……めろ…………!」


「あぁん?」


 右手はガクガクと震えている。体は痙攣を繰り返していた。

 なんて精神力だ。

 絶対にこいつを引き留めるという強い意志を感じる。


「俺は……女神を守る……!!」


「はぁ? しっつこい」


 もう体の自由も効かないくせに。

 まるで相手にならないとわかっているのに。 


「キモいからさわんないでくれるぅ?」


 泥田は痛みと恐怖でボロボロと涙を流しながら、必死に歯を食いしばる。


「俺は……! 女神の勇者に……! なるって……!!」


「じゃま」


「っ……!!」


 しかしマジンは不愉快そうに顔を歪めると、さっきと同じ要領で、泥田の右腕をまた激しく踏みつけた。

 ゴギン、という鈍い音が響く。


 ……右腕が折れた。間違いない。


 もう泥田は声を上げることすらできない。

 死に際の魚のようにまた大きくひとつ痙攣をすると、完全に失神した。


「はい、おーわりぃ」


 マジンはニヤニヤと嬉しそうに笑う。

 まるでおもちゃを壊して楽しんでいる子供のようだ。

 ぞっとする。

 これほど暴力に躊躇がない人間がいるのか。


 怒りが湧いた。

 恐怖を塗りつぶすほどの怒りだ。

 俺は脳天に血がのぼり、気づくと大声を発していた。


「お前は今なにをした!?」


 自分でもこんなに大きな声が出せると思わなかった。

 沸騰したヤカンのように怒りを抑えられない。


「なーに怒ってんのぉ? アンタぁ?」


「そいつは……! 剣士だと言っていた!」


「はぁ? それがぁ?」


「鞘は左腰につけている……!」


「はぁ……?」


「つまり右利きだったんだぞ!!」


 利き腕を折られて、もう剣が振れなくなったらどうする!?

 やつは子供の頃から『勇者』に憧れ続けてきたと聞いた。

 女神を守れる強い『勇者』に。


 その夢がこんなにもあっけなく打ち砕かれていいわけがない。

 やつはただ、人を守ろうとしただけだ。


「あのさぁ? なにが言いたい――」


 マジンが肩をすくめてニヤニヤ笑いを浮かべようとした時。


 俺は右足で床を蹴った。


 いや、正確に言うと蹴るという感覚ではない。

 床や地面を蹴ると力が逃げる。

 そうではなく、必要最小限の動きで、筋肉よりも骨と体重を使い、地面を滑るように移動する。

 古武術で似たような動きがあるそうだがよく知らない。

 ただローキックを蹴り続ける毎日の中で身に着けた動き方だ。


 そして瞬時に数mの距離をつめ、マジンの眼前に迫ると――ローキックのモーションに入る。


 マジンが目を剥く。


「な……!? 速っ……!!?」


「俺がこの世で一番嫌いなことを教えてやる」


 俺は腹が立っている。

 この上なく。


「あぁ!?」


「それは真面目に頑張ってきた人間の夢が、馬鹿の身勝手によって踏みつけにされることだ」


 マジンがとっさに防御姿勢に入る。


 だが俺のローキックの方が速かった。


「……シッ!!」



 ――ボギボギボギボギボギボギボギ!!!



「ほげぇぇぁぁぁぁああああああああああああああ!!!?」


 泥田の右腕とは比にならない鈍い音が響く。

 遅れてマジンの顔が激しく歪み、ただならぬ声を上げた。


 マジンの男の左太ももをめがけて俺は右足を振り抜いた。

 それをまともに食らったマジンは、子供に振り回されたゴム人形のように宙で何度もぐるぐると回転すると、首から床に激しく打ちつけられ、ゴキリという音を立てた。


「あ……? あ………………??」


 喉の奥から声にならない声を漏らすマジン。

 瞳の焦点も合っていない。

 やつの腰から下は複雑骨折をしたようにひどく変形していた。

 もはや直立は不可能で、立ち上がることさえできず、虚ろな目でイモ虫のように地面を這いずった。

 しかし、すぐに意識を取り戻すと、俺をギラリと睨んで言った。


「き、貴様ぁ……! いま、なにをしたぁぁぁあああああああ!!?」


 困惑の表情。

 きっと今までこんな目に遭ったことなどないのだろう。

 心の底から何が起きたのかわからないという顔だ。


 俺は答えた。


「ローキックだ」

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