第5話 ここは群馬県か
竜? やっぱりここはテーマパークなのか?
いや、あれはあまりにリアルすぎる。
いくら機械が精巧でもさすがにあれは生命だ。
意志を持っている。
山のヌシはこちらを威嚇するように大きく嘶くと、前脚を浮かせ、おそろしく鋭い爪を見せつける。
やつには、俺たちを食い殺そうという明確な意志がある。
足下から死の危険を知らせる震えが駆け上がってくるのがわかる。
しかし、俺は逃げようとは思わなかった。
「馬頭竜はこちらの世界の『地竜』と現世の『ウマ』をかけ合わせて作られた幻濁種(ハイ・キメラ)! 地竜でありながら怖ろしく素速いのです! 早く逃げないと!」
「ああ……逃げろ。君だけな」
「何を言っているのです!? 死にたいんですの!?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
また、ギャォォォオオオオオオという耳をつんざく嘶き。
「っ……!!」
ニナニーナはあまりの声量に両耳を押さえ、縮こまる。
一方、俺は知らず、笑っていた。
「なんて強靱な脚だ……」
「はぁ!??」
「蹴る」
「なんで!?」
「なぜ蹴るか? そこに丈夫な下半身があるからだ」
「登山家の言い方!」
なんだあの高まれと言わんばかりの強靱な下半身は?
誘ってるのか?
とろけてしまう。
また希望の光が射した。
俺は再び水面から顔を出し、太陽のように光り輝く下半身を見たのだ。
太い。それ以上に密度を感じる。筋繊維の一本一本が銃弾をも通さない特殊ワイヤーでできているようだ。
「こい! こい!! 俺にその頑丈な下半身を蹴らせろ!!」
生物を蹴る機会など、もう金輪際訪れないと思っていた。
無機物ならいい。だが生き物はまずい。殺してしまう。
だがあの脚はヒグマよりも象よりも太い。
この世のどんな生き物より太く、強い!
「……蹴り高だ」
「やめてください! 馬頭竜はカテゴリー3! 上級レベルの冒険者でもひとりじゃとても勝てない相手ですわ!」
「カテゴリー3?」
「モンスターの強さを表す指標ですわ! 上から3番目ですが、何のスキルも持たない人間には絶対敵いません!」
「肩書き遊びは好きじゃない」
「え?」
「前職の課長は上から3番目の役職だったが、クズで無能な男だった。あと歯も黄色いし口も臭かった」
「何を言ってるんですの!? もう!」
俺は深く股を割り、丹田を意識し腹式で呼吸を整える。
血沸き肉躍るとはこのことか。
もうここがどこかなんてどうでもいい。
地獄だって、あの世だって。
呼吸が自由にできる。気持ちがいい。澄んだ森の空気が体中に染み渡っていく。
ここは俺が呼吸をしていい場所だ。
「逃げて! あいつは魔人の一派が連れてきた魔獣兵で、やつらでさえ手に負えなくてここへ置き去りにしたの! あいつには誰も敵わなかったの! 救けにきた騎士団だって何人も殺されて……っ!」
ニナニーナは思い出して、また泣いていた。
一方、馬もどきの鼻息は荒い。
俺たちを食らいたくて仕方がないようだ。
まさに馬のように後ろ脚で地面を何度か蹴ると、地鳴りを響かせて、こちらへ突進してくる。
「確かに速いな」
あれだけデカいのに敏捷性もある。今から逃げても間に合わないだろう。
逃げる気もないが。
その時だった。
――力を貸してやろう。
頭の中で声が聞こえた。
誰とも知れない厳かな男の声だ。
誰だ?
キラキラとしたエフェクトがかかって、まるで天から降ってきたような声だった。
俺は即答した。
「うるさい。黙れ」
――そうだろう。ならば私が……黙れ!?
――ピンチの時に不思議な声が力を授けてくれるこの流れで!?
「邪魔だ」
――邪魔!??
すると、俺の右足が突然光り始めた。
あたたかく清浄な光だ。
「何だこれは……?」
右足にかつてない力がみなぎってくるのを感じる。
――いま力を送ってやる。これでお前は聖剣の力を自在に……
「光るな」
右足の光はフッと消えた。
――光るなってなに!? 本当に消えたんだが!?
なんなんだこの声は。
頭の中に声が聞こえるなんてあるはずがない。
ならば、このあたりの町内放送か? ふざけてる。
集中が途切れるから邪魔をしないでほしい。
何人たりとも俺のローキックを邪魔することは許されない。
すると。
ギャオォォォォオオオオオオッ!!
「っ……!」
馬もどきの大きく開かれた口が迫っていた。
よだれの絡んだ牙と巨大な顎が俺の体を一息に噛み砕こうとしている。
彼女ではなく俺を先に狙ったのは本能だろう。
ああ、愛しい下半身。お前も俺の右足との一騎打ちに猛っているのか。
ニナニーナが叫んだ。
「逃げて! 相手は動かない剣とは違うの! さっきと同じようにはいかない!」
なるほど。確かにその通りだ。
生物を蹴ることがほとんどなかった俺にとっては、分の悪い勝負だ。
俺には格闘技経験だってない。
「お願い! ヒビノ!!」
だが、ここで食われて死んだとしても、それはやつの牙が俺のローキックを上回ったというだけのこと。諦めもつく。
「逃げてよ! お願い!!」
ニナニーナは悲鳴に近い声を上げた。
だから俺はわずかに気を引かれる。
俺たちはまだ出会って間もない同士だ。なのにどうしてそんなに必死になる?
君にとって俺なんて――。
「あいつはわたしの故郷を滅ぼしたの!! わたしの大事な人たちを何人も殺したの!」
馬もどきがすぐ眼前に迫る。
「わたしはもう……誰も失いたくない!!」
彼女の悲痛な叫びが俺の胸に届く。
ああ、そういうことか。
わかるよ。……ひとりきりは辛いよな。
「蹴る理由がひとつ増えた」
俺は音もなく右足を振り出した。
――ゴギゴギィィッッ!!
インパクトの直後、巨大な顎骨が外れる音。
次に、肉が千切れる粘り気のある音と、鼓膜を震わす野太い悲鳴。
ギギィィィィィイイイイイァァァァアアアアア!!!
ローキックは馬もどきの下顎を直撃し、顎関節から先が千切れ飛んだ。
馬もどきは下顎を蹴られた勢いで、全身が回転しながらふわりと浮き上がる。
そして叫びとともに背中から地面に落ち、数秒痙攣を繰り返したのち動かなくなった。
「え……え…………?」
一方、馬もどきに負けないくらい顎が外れそうになっているニナニーナ。
「ええええええぇぇぇぇぇぇえええええええええ!!!?」
自称・女神のはしたない大声が森中に響く。
「や、山のヌシを……い、一撃で…………!??」
「脚を狙うつもりが、邪念が入った。すまない……安らかに眠れ」
「あれ、竜! 竜ですから!! しかも幻濁種(ハイ・キメラ)! ど、ど、どういうことですの!??」
俺は目を閉じて、手を合わせる。
殺すつもりはなかった。
脚を狙って力比べをするつもりだったが、つい気持ちが入ってしまった。
ニナニーナは後ずさりして俺から距離をとると、不可解なものを見る目で俺を見た。
「あなた本当に何者なんですの……? 転移したばかりで何のスキルもないし、武器さえ持っていないのに……」
「スキル?」
「ええ。女神は転移者に一つだけスキルを授けることができますわ」
「スキルを授ける……?」
「はい」
「また下ネタか」
「なにが!?」
確かに俺は童貞。ノースキルだ。
女優がベッド上のスキルを授けてくれるなんてサービスのいい話だ。
しかしこんなタイミングでもすかさず下ネタとは、この女、欲求不満か?
「ところで、俺はやっと気づいたよ」
「気づいた? 何にですの?」
「この場所についてだ」
さっきの馬もどきを見て、俺がどこの山に籠もっていたのか思い出した。
そうなると色んなことに説明がつく。
見覚えのない植物相。
いまだ開かれていない時代がかった都市。
そして今戦った未知の生物。
何のことはない。
「ここは群馬県か」
「は??」
そうだ。俺は群馬県のとある山にいたのだ。
そして、山籠もりする前に、慣れないインターネットで見たことがある。
群馬県というのは、いまだに槍で人々が戦いを繰り広げるプリミティブな土地だと。
寡聞にして知らなかった。
まさか現代の日本にこんな秘境が残されていたとは。
だがこの目で見てしまったからには信じるしかあるまい。
「なあ、群馬県にはああいう生き物がほかにもいるのか?」
「グンマケンというのはよくわかりませんが……はい。もちろん。あれはカテゴリー3の魔物ですが、それ以上に強力な魔物も数多くいますわ」
「そうか。あれ以上に強いのがいるのか」
俺はつい口元がゆるんでしまう。
いいじゃないか、群馬県。
最高じゃないか、群馬県。
ここは下半身の花園か?
俺はここでなら生きていけるかもしれない。
まだ見ぬ下半身との出会いを想像すると、武者震いが止まらない。
俺は右腕を振り上げた。
「よし、このまま山を下りて群馬の町へ行くぞ!」
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