チリチリ

嶋田覚蔵

第1話きつねとたぬき

「緑のたぬきは、湯気までウマい」

 山口さんは、それまで見せたことがない素敵な笑顔でそう言った。

 ボクは3分たった緑のたぬきのフタをぺりべりと剥がし、立ち上る湯気を山口さんと楽しんだ。

「オレのことは気にせず、先に食べてくれよ。オレの赤いきつねは、あと2分掛かるから」

「すんません」と謝って、ボクはお先に緑のたぬきのスープをすする。

 てんぷらの油がお湯で温められて、チリチリと熱い。その熱さが冷え切ったボクの体には心地よかった。

「寒い時は緑のたぬきのスープが一段とウマいんだよな」

 山口さんが食べているボクの顔をうらやましそうにのぞき込んで言った。

「だったら緑のたぬきにすればよかったじゃないですか」

 とボクはスープのうま味を口いっぱいで感じながら言った。そうしてくれれば、今ボクが感じている、ちっぽけな罪悪感を感じずに済んだのに。

「オレも一瞬悩んだよ。悩んだんだけど、結局、赤いきつねの”お揚げ”も捨てがたくってさ。

モチモチしたうどんの食感も魅力的だし」

 そう言うと山口さんは子供みたいに無邪気に笑う。

 

 ②

 今考えれば地獄みたいな現場だった。ボクは大学の一年生。比較的に暇な春休み。ドカンとまとめてバイトして、お金を稼ごうと思い警備員のバイトをすることにした。約1週間、研修を受けて、その日が初めての勤務の日だった。

 荒川に架かる巨大な橋の修復工事で、大型トラックがビュンビュン通るその横で、夜8時から朝の5時まで、一晩中、赤色灯を振る仕事。

 橋の上、2月の寒風は想像以上に厳しくて、バイト開始5分くらいで、ボクの鼻は真っ赤になった。

 30分なんとか我慢していると、班長の山口さんが見回りでやって来た。

「どうだ。朝まで頑張れそうか」山口さんが聞く。


 ボクは悩んだ。現場に立ってまだ30分。だけどボクはその30分を5時間くらいに感じていた。氷のように冷えたアスファルトが靴底を突き抜けて容赦なく足裏に突き刺さり、両肩は寒気で押さえつけられて、重石が乗せられているようだった。体全体が冷え切って、歯が自然とガチガチとなった。こんな状態で朝まで頑張れるはずがない。でも、途中で投げ出したら、今日の給料はどうなるのだろう。1週間、研修したのも無駄になるかもしれない。

 不思議だね、人間って。頭はまだ悩んでいるのに、勝手に口が、「はい、頑張ります」なんて言っちゃってる。

 ボクがそう答えると、山口さんが「あんまり無理するな。ダメだと思ったら早めに言えよ」と言いながらボクに使い捨てのカイロと、マフラーを手渡してくれた。

「新人さんは現場の寒さを知らないから、会社が支給した防寒着を着ればなんとかなると思っているみたいだけど、それじゃあダメなんだ。ほら、コレを腹に入れてコレを首に巻け。カッコが悪いとか文句言うなよ。まずは体が一番大事だ」

 厳しい顔した山口さんは、まるで仏様のように優しかった。おかげでなんとかボクは深夜0時の休憩時間まで耐えることができた。


 ③

「赤いきつねを作っている会社ってさ、水産会社なんだよ。だから出汁に使っている鰹節と昆布にはこだわりがあって、それでこんなにウメェんだよ」

 山口さんは得意げにマメ知識を披露する。長い間ヘルメットを被っていたので頭がかゆいのだろう、まるで”金タワシ”みたいにチリチリな髪の毛を、麺を啜りながらたまにモシャモシャとかき混ぜる。

 火気厳禁と書かれたプレハブの詰所のなかは、暖房と呼べるのはオンボロのエアコンくらい。だけど吹き付ける風を防いでくれるだけでも有難かった。ここならトラックが威嚇するようにクラクションを鳴らしてくることがなくて安心できるし。

 ボクはそばを啜り終わって、おにぎりを食べていた。緑のたぬきの濃い目のスープがおにぎりのうま味をさらに引き立ててくれる。

 山口さんがお揚げをムシャムシャ食べ終わり、お茶を飲みながらまた話し始めた。

「なぁ、このバイト想像以上に辛いだろ。だけどよ、その辛い仕事の合間に食べられるメシは、何喰っても最高にウマいんだ。夜辛いけど朝日はとても暖かいんだ。人に優しくされると、たまらなく心にしみるんだ。それは、頑張っている証なんだよ。若いうちはこういうことを経験しておくべきなんだ。オレみたいにジジイになっても続けているのは感心しないけれどもな」

 そう言って山口さんは笑っていたんだ。

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チリチリ 嶋田覚蔵 @pukutarou

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