(2)


「どうもこうも、そういう契約で今回鬼退治をしたので、成功報酬として貰い受けるだけですが?」

 クルクルと《奇跡の掛け軸》を巻き取りながらキョトンとした顔を一堂に向ける依代。

 だが、無事に生きて帰った面々は救われた安堵感もどこへやら、鬼の形相で次々に抗議の声を上げる。

「それは村のもんだ!」

「鬼さえいなくなれば危険はないんだろ?!」

「だったら、村で掛け軸は管理する!」

「もう二度と同じことは繰り返さないよ」

「約束を守りさえすればいいんだろ?!」

「徹底させるよ! 徹底させるから、どうか持って行かないでくれ!」

 鬼気迫るものがあった。

 浅ましいものがあった。

 恐ろしかった。

 もしや、自分もこんな風だったのかと誠二郎は己自身を顧みた。

 これは醜い。あまりにも醜い。

 言葉の裏に、『金づるは渡さない』と言う思惑が透けて見えていた。

 掛け軸の持ち主は誠二郎だ。

 それなのに、助けられた連中は『村の物』だと言った。

 誠二郎は村に寄付するとも、譲るとも言った覚えはない。

 一体いつの間にそんなことになったのかさっぱり分からない。

 ただただ思った。これは怖いと。欲に目が眩んだ人々は恐ろしいと。

 そんな中で、依代の前に掛け軸から吐き出された兼一と目が合った。

 兼一は、眉間の間に深い皴を刻んで顔を強張らせていた。

 鬼に攫われた掛け軸の中でいったいどんな目に遭ったかなど誠二郎には分からない。

 だが、何故かその瞬間、誠二郎は兼一が何を考えているのか分かってしまった。

 同じことを考えていると。

 本来であればあり得ない力を目にしてしまった以上、それに魅入られるのは仕方のないことなのかもしれない。一度手にしてしまえば手放したくないと思うのも仕方がないのかもしれない。それでも、常識を越えた力は人の目を曇らせて、欲を募らせると。

 その欲が、他者を救うためではなく、自分の利益のために働いたとき、あの鬼が生まれたのだと。

 生まれるのも仕方がないのかもしれないと誠二郎は思ってしまった。否定するだけの根拠など、今目の前の村人たちを見てしまえば皆無。

 自分でも思ってしまったのだ。まるで鬼のようだと。恐ろしいと。

 もしもここで、やはり譲り渡すことを止めると言ったらどうなるか。

 程なくしてあの鬼は帰って来るだろうと察してしまった。

 兼一も、誠二郎の視線の先で目を伏せて頭を振っていた。

 今朝、人の話も聞かずに怒りに駆られていた姿はどこにもなかった。

 同じ場所にいたはずなのに、何故兼一は誠二郎に渡すなと告げ、他の者たちはそれを寄こせと言うのか理解が及ばない。

 それでも、自分たちの手に余ることだけは理解できていた。

 誠二郎は、一度ごくりと唾を飲み込み、依代の背に向けて言った。

「それはあんたのもんだ。気兼ねなく持って行ってくれ」

 途端に、覚悟していたとは言え、村人たちの怒りの声が一斉に向けられればゾッとした。

「あんたはまたこの村を裏切るのか!」

「自分だけが美味しい思いをすればそれでいいのか!」

「そんなことは許さないよ!」

「お前なんかに決定権はない!」

 非難轟轟だった。

 どす黒い靄のようなものが立ち昇るのが見えたような気がした。

「ふふふふ」

 と、愉快そうな笑い声が聞こえて来たのはその時で。

 誰もが突然湧いた笑い声の主を見た。

 依代は、軽く握った右手を口元に当てて、クスクスクスと笑っていた。

 何がそんなにおかしいのか理解できない面々が、怪訝な表情を向けているが、依代はそんな面々を一瞥すると、口元に笑みを浮かべ、眼を細めて言い放った。

「本当に。人と言うのは醜くて哀れで愛おしいものですね」

 刹那、ドッと室内の温度が数度下がったような気がした。

 声はどこまでも優しく楽しげだ。

 浮かべているのもそれだけを見れば慈愛に満たされた温かいものだった。

 それでも、《掛け軸の間》の面々は、寒気を覚えるほどの恐怖心を抱いていた。

 踏んではいけないものを踏んでしまった恐怖感。

 誰一人、微動だに出来なくなっていた。

 蛇に睨まれた蛙。

 首筋に刃物を当てられたような緊迫感に、背筋に冷や汗を流した者が何人いたものか。

 座敷を埋め尽くさんばかりの大人たちが、娘のたった一言に畏怖し、顔を蒼褪めさせている。

 そんな人々を見渡して、依代は穏やかに言葉を紡ぐ。

「よくよく考えてみてはいかがですか? 己の身内を病で失った原因を。一度は治してもらったにも拘らず、再び病に襲われ命を失った原因を。約束を違えたのは誰だったのでしょうか? 報いを受けたのは誰だったのでしょうか? あちらで一連の原因は説明しましたよね? もうお忘れになりましたか?」

 動揺が揺れる瞳に現れていた。

「喉元を過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものです。病に苦しみ命が掛かれば藁にも縋る思いで、村八分にしていた誠二郎さんの力を頼り。脅威がなくなってしまえば口約束などなかったことにしてしまう。それで再発すれば治さぬ誠二郎さんを責め立てて、何故治せぬのか理由を尋ねることもしない」

 後ろめたさに顔を背ける者がチラホラと。

「何故鬼が現れたか分かりますか? 何故鬼が病を返したか分かりますか? 鬼があなたがたを攫った理由が解りますか? あの鬼は、此度の病に関係ない人々のことは絶対に攫ったりはしなかったのですよ? 《菩薩》様を裏切らず、約束を違えなかったものたちのところへは出向きもしなかったのですよ?」

 不満があるも言い訳の一つも出来ずに口を紡ぐ様は童のようで。

「これはすべて『自業自得』がもたらしたモノ。こうなるなんて知らなかったとのたまうことは自由です。ですが、軽い気持ちで交わした約束を相手も同じ心づもりだと思い込むのは筋違い。それで思惑が外れて思わぬ恐怖に陥ったとして、一体誰を責めるというのです? 約束を違えて報いを受けただけのこと。私にしてみれば自業自得以外の何物でもありません。いい加減、己の愚かさを棚に上げて喚き散らすのはお止めになったらいかがです?」

 スッと声音から穏やかさが消えた瞬間、更に室内の温度が引き下がった。

「この子らは人の想いに敏感です。頼られることに喜びを感じ、扱われることに幸せを覚え、報いることを望むもの。そんな純粋な存在を黒く塗り潰すのは、いつの世も人の想い。

 その欲にかられた姿をよく見なさい。同じ過ちを二度と繰り返さないと本当に誓えますか?」

 気まずげに顔を伏せる者、途方にくれるもの。少なからず不満を露わにする強者。

 それらの視線を受け止めながら、依代は突きつける。

「誓えるのであればお返しします。ですが、再び鬼が現れたときはお覚悟を。此度の比ではないとお思い下さい」

 お、脅すのか? と声を上げたのは誰だったか。

 依代はニコリと微笑みを返した。

「この子は既に沢山の裏切りを経験してきました。それを今回宥めましたが二度目はありません。それは事実ですし、仮に本当に鬼が現れたとしても、私が何かをすることはありません。この掛け軸を手にするということは、そういう事も含めて覚悟を持ってくださいということです。もし、そんな覚悟がないのであればお勧めしません。ですが、その覚悟がおありなのであれば、どうぞ。お受け取り下さい」

 依代は手にした巻物を村人たちに差し出した。

「受け取った方は責任者です。何かあればその方が全ての責を負うということをお忘れなく」

 続けて告げられた言葉に、村人たちは互いに顔を見合わせた。

 掛け軸は欲しいが責任は負いたくない。

 掛け軸の力は欲しいが、鬼がまた現れるかもしれない可能性に恐怖を覚える。

 互いにお前が取れと責任転換が繰り広げられる様を見て、誠二郎は何故か悲しくなっていた。

 これが、自分の生み出した光景だというのをまざまざと見せつけられた。

 自分が愚かなことをしなければ。賭け事になど手を出していなければ。調子に乗って踏み倒したりしなければ。父親を失うことはなかった。村人たちからの信用を失うことはなかった。恩に報いろうと間違った選択をして、絵師の命を奪ってしまわなければ、村で呪いとも呼べる病は流行らなかった。病が流行らなければ、鬼が生まれることもなかった。そうすれば、こんな光景を見ずに済んだ。

 誰もが欲に目が眩んでいた。鬼は怖いがどんな病も治す掛け軸は魅力的なのだ。

 そんな風に村人を変えてしまったのは誰あろう誠二郎。

 己が生み出した結果を目の前に、誠二郎は激しく後悔した。

「さあ。どうなさるのですか?」

 互いの顔を見合うだけで、まったく手を出そうとしない村人たちに、再度煽るように依代は訊ねる。

 正直、誠二郎はもう見ていられなくなっていた。居たたまれなくなっていた。

「もし。治して欲しい病が出たとしたら、そのときはどうすればいいんだ?」

 助け船にもならない問い掛け。

 依代は誠二郎を見てこともなげに言った。

「これまで通り、掛け軸が見つかる前の対処法でよいのではありませんか? もしもどうしても……と言う時は、そうですねぇ。あ、こちらをお渡ししておきますよ。本来は有料なのですが、今回お代はいりません。大盤振る舞いですね」

 と言って懐から差し出されたのは数枚の懐紙。

「これは?」

 と訝しがりながら誠二郎が受け取れば、

「こちらに助けを求める文をしたためて燃やしてくださればすぐにでも馳せ参じますよ。そのときは――」

 と、続けて依代は商売の話に移って行った。

 曰く。出張料と掛け軸の貸し出し代金。利用に際しての注意事項と契約。破った場合の罰則をすらすらと告げれば、村人たちの顔色が赤くなったり青くなったり白くなったり。

 誠二郎のお陰で温かみを取り戻した依代が、生き生きと商売人としての話を振ったからだろう。呪縛から解かれた村人たちは、怒りや不満を声高に叫ぶが、

「このぐらい当然です」

 にっこりと微笑まれて断言されたら、誰もが口をピタリと噤んだ。

「本来であれば罰則なんてない方がいいということは判っているのですが、守っていただけない方もいますからね。まぁ、罰則をつけたところで甘く考えて破る方は破るのですが、それはそれ。自業自得として罰則通りの罰を受けてもらうだけですから」

 身に覚えのある人々にしてみれば、ぐうの音も出なかった。

「それでも煮え切らないのであれば、仕方がありません。

 すでにこちらは私の物となっていますので、本当にどうしても村で管理をしたいというのであれば――」

 と、次の瞬間に告げられた《奇跡の掛け軸》の値段を聞いて、村人たちは正直目を剥いた。

 あまりにも法外な値段だった。

 いや、貴重な掛け軸に一体どれだけの金額がつけられているかなど、誠二郎たちには分からない。

 ただ、それでも、依代が口にした金額は村人全員の三年分の稼ぎを軽く超えていた。

 思わず誠二郎ですらあんまりだと思ってしまった。

 そんな村人たちの反応を見て、依代は少し困ったような笑みを浮かべて決定事項を口にした。

「初めに自分が全部の責任を取るという方がいれば譲ってもいいとは思っていたのですが、仕方がありませんね。好機を逃せば条件は吊り上げられるものです。足元を見られるとこんな理不尽な条件まで付けられますからね。ですがこちらも商売です。商売道具となったものを簡単には手放せません。これで最後です。こちらを本当にこの村で買い取りますか?」

 どこまでも無邪気に華やかにふわりと微笑んで突きつけた条件は、到底おいそれと手を出せるようなものではなかった。

「ないのであれば、こちらは約束通り、貰っていきますね」


 ――鬼か!


 心の底から満足げに宣言した依代に対して、村人たちの心の声がものの見事に重なったことを知る者はいなかった。

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