第七章 『帰還』

(1)


 依代が鬼と供に掛け軸の中に消えてから、早一時(二時間)が経とうとしていた。

 その間、祥之助は依代が張った――と言うよりも、依代の願いを叶えて黒雷が張った結界に阻まれ、座敷の中に一歩も踏み入ることが出来ないまま、廊下にただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 何も出来ずにただ待っていることがどれほど長いものか。

 自分は依代の身代わりとなるべく存在しているというのに、いつもいつも肝心な時、依代は自分を置いて黒雷だけを携えて置いて行く。

 依代が一身に引き受けた《澱み》を、依代の代わりに全て肩代わりして屠られる。

 それが祥之助の、《身代わり人形》としての役目だった。

 自分はいくらでも蘇ることが出来た。たとえ本体が壊れようとも、修理されれば目覚めることは出来た。当然のことながら目覚めたときには記憶の大半は消失しているが、それでも依代の命を守るために、依代のお役目を全うさせるために役に立つことは出来た。

 自分が依代の命を守っているのだという自負があった。自分にしか出来ないことだと優越感すらあった。

 なのに。ある日依代は黒雷を見つけて来た。ずっとずっと蔵の隅で他者と交わろうとはせずに沈黙を守っていたあの、いけ好かない澄ました刀を。

《揺り籠刀》と呼ばれる種類の刀だということは、物知りな付喪神から聞いて知っていたが、協調性の欠片もなく排他的で、他者を見下す眼が気に入らなかった。

 そんな黒雷に《澱み》を喰らい尽くす力があると知ったのはいつだったか。

 それを知った依代が、『これで祥之助を失わずに済みます』と歓喜していたことを思い出す。

 自分のことをそれほどまでに大切にしてくれているのかと思うと同時に、主のために自身の役目を全う出来ない事態に大いに戸惑った。

 それでも、黒雷が《澱み》を喰らってくれるならば、依代が危険に晒されることもなくなるのかと思えば耐えることも出来た。しかし、一度は《澱み》を取り込んだ依代から《澱み》を取り除く方法を目の当たりにした瞬間、考えは変わった。

 あろうことか、依代の体に《本体》を突き刺して直接吸収するなどという暴挙に出るとは思いもしなかったのだ。

 初めて目にしたときは気が狂いそうになったものだ。何をしてくれているのだと、即座に掴み掛った。だが、黒雷が刀を抜くと、そこには何事もなかったかのように依代はいた。

 契約を結び、主従関係となった人間のことは絶対に傷つけない。それが《揺り籠刀》の特性。

 だとしても、主に刀を突き刺すなど言語道断。あるまじきことだった。

 まったくもって忌々しいことだったが、依代は黒雷の能力をことのほか気に入ってしまい、常に祥之助と共に連れ歩いた。

 置いて行かれなかっただけましかもしれないと思う反面。常に自分より頼られている黒雷が目障りで仕方がない。腸が煮えくり返る。

 今だって、こうやってただ指をくわえて待っているしかない中、依代はきっと鬼を相手に大立ち回りをし、危険な目に遭っているだろう。

 依代は自分のことをあまり顧みない。傷つくことも恐れない。刃を交えれば交えただけ、会話を交わせば交わしただけ、相手に近づけると信じて行動する。最も顕著なことは相手を怒らせること。怒りは感情を爆発させる。強い強い感情は行動の源。それを理解することで相手を理解する。

 正直祥之助には分からない筋道だが、依代はそう信じてやまない。だから、不要な危険を冒す。だから祥之助は依代の傍にいなければならなかった。自分がいるからこそ、依代は気兼ねなく無茶が出来たのだから。それなのに、今はいつも置いて行かれる。いつも連れて行かれるのは黒雷だ。まったくもって忌々しい。

 そして最後には、自身の身に《澱み》を集め、あの刀に貫かれるのだ。

 痛みは全くないと言っていた。むしろ、引き抜かれた後は生まれ変わったようにとても清々しいのだと興奮気味に告げられた。

 それがとても、悔しかった。

 祥之助はいつも依代に悲しそうな顔をさせていたから。

 あー、まったくもって忌々しい。

 知らず拳を握る手に力が籠った。

 噛み締めた奥歯がギリリと鳴った。

 出来ることならば今すぐにでも追い駆けたい。だが、出来ない。越えられない。見えない壁が確かにあった。

 自分は依代を守るためにいるのだというのに、何故、こんな見ず知らずの男の身代わりをしなければならないのか。いかに依代の命令だったとしても気に入らない。気に入らないが逆らい切れない。

 あー、本当に忌々しい。

 無性に叫び出したい何度目かの強い衝動に襲われたときだった。

「ほ、本当に、大丈夫、なのか?」

 どこかおどおどとした問い掛けが背後から上がった。

 振り返る必要すらなかった。『大丈夫ですよ』と苛立ちながら答えれば、『すまない』と、消え入りそうな声が返って来た。

 何かと思い、わずかに背後を振り返れば、誠二郎は俯いて座り込んでいた。

「本当なら、あんたも、あの娘の後、追いたかったんだろ?」

「そうですよ」

 かなりの八つ当たりを含んで冷たく返すと、まるで幼子のようにびくりと誠二郎は震えて見せた。

「それが《身代わり人形》としてのワタシの役目でしたからね。当の本人から拒絶されましたけど」

 何に怯えているのか知らないが、気に入らなくて再び掛け軸へと視線を戻す。

 すると、また暫くして、

「あんたは、本当に、人間じゃないのか?」

 声を震わせながらも話し掛けられる。

 怖いならば黙っていればいいものをと思いながらも、祥之助は苛立ちながら答える。

「《身代わり人形》だと言っているのが解りませんか?」

「だ、だって、そうは言っても、人形は、喋らない……」

「そんじょそこらの人形と一緒にしないで下さい」

「でも……」

「でもも何もありません。あなただって見たでしょ。あんなこと、ただの人間に出来ると思っているんですか?」

 答えは返って来なかったが、首を振る気配だけはして来た。

「掛け軸にしたってそうでしょ。あなたが使った力だって、本来はあり得ないものだった。それを可能にしたのは、人の心」

「……」

「単純に、心を向ければ良いってものでもありませんが、あなたが信じようと信じまいと、物に心は宿るし、奇跡は起こります。そうして生まれるのがワタシたち付喪神。ここまではっきりと人の目に映るものは稀でしょうけれど、少なくともワタシは人間ではありません。ただ、人を模した《身代わり人形》だったから、人として動き回れるにすぎません」

「そんな、ものなのか?」

「そんなものでしょ。詳しくは知りませんが」

「知らないのか?」

「知りませんよ。気が付いたらこうなんですから。ただ、意識を持った瞬間から、自分が何を求められて何をなすべきかは理解しています。当然です」

 と、祥之助は鼻先で嗤って得意げに答えた。

「ワタシたちは、人々に『そうあって欲しい』と望まれて生まれたのですから。その願いを叶える力を備えて生まれたのですから。当然、中には望まれても期待されても、それに応えるほどの力を有せぬものもいます。でも、それでもワタシたちは期待に応えようと報いようと自ら望みます。ワタシたちはね、鏡なんですよ」

「鏡……?」

「大切にされれば恩を返す。粗末にされれば仇を返す。今回の騒ぎを見れば一目瞭然でしょうに」

 バッサリと切り捨てれば、「うっ」と小さな呻き声。

 身に覚えがあり過ぎて、ぐさりと言葉の刃が突き刺さったのだろう。

「これに懲りたら、もう少し己の行動を弁えた方がいいですよ」

 嫌みをたっぷりと含んで追い打ちを掛けたときだった。

「あっ」と思わず声が出た。

 依代が黒雷と掛け軸に飛び込んでから早一時。それまで全く何の変化もなかった掛け軸がカタカタと音を立てて震え出し、突如強烈な光を宿すと、次から次へと黒い塊を吐き出した。

 塊はどさり、どさりと《掛け軸の間》へ吐き出され、吐き出された塊たちは一様に周囲を見回し、互いの顔を見合うと『帰って来た!』と、涙を流して歓喜した。

 吐き出された者たちは、掛け軸の中へと攫われた人々だった。

 そして最後に、『よいしょ』と掛け声を上げて現れたのは、誰あろう依代。

 見た瞬間、祥之助は駆け出していた。

 結界は既に消えていて、何もない場所に激突することもなく、人目もはばからずに一目散に依代に駆け寄って力いっぱい抱きしめる。

「依代様ぁ!」

 名を呼ぶ声が涙声だったとしても気にしない。

 依代は、そんな祥之助の頭をポンポンと叩きながら、「遅くなりました」と苦笑した。

 本当に、本当に心配したのだと伝えるかの如く、一度力いっぱい抱きしめた後、

「それで? どこかお怪我はありませんか?」

 依代の細い両肩を掴んで離れて確かめれば、

「実は右腕が逝ってしまいました」

 眉尻を下げてとんでもない告白。

 慌てて依代の右袖をまくって見てみれば、確かに右腕が折れているのが嫌でも分かった。どす黒く変色し、本来曲がるはずのない部分に関節が出来ていた。

「依代様!」

 悲鳴染みた声を上げて、慌てて祥之助が依代の骨折部に手を翳す。

 すると、程なくして依代の右腕は元に戻り、祥之助の右腕が折れた。

「ありがとう、祥之助」

「いえ。これぐらいなんてことありません!」

「でも、痛いですよね?」

「痛そうに見えますが、ワタシに痛覚はありませんからお気になさらず。それよりも、そいつがいて何故依代様が負傷を? 役立たずですか? やっぱり役立たず……いや、依代様を亡き者にしようとしているのではありませんか? やはりそいつは危険です。今すぐ捨てて帰りましょう」

「うん。それはまたの機会にしておきますね」

「ですが!」

 と、納得し切れぬ祥之助がなおも言いつのろうとするのを、依代の人差し指がそっと塞いで黙らせる。

 何が起きたのかは、祥之助の背中しか見えていない誠二郎には正直分からなかった。

 だが、離れた誠二郎からでも、祥之助の耳が赤くなるのが見えていた。

 何かされたな。とは思えたものの、誠二郎自身も完全に気が抜けてしまっていた。

 もしも依代が戻って来なかったどうしようと本気で心配していた。

 命の危険があったのだ。

 万が一依代に何かがあれば、確実に祥之助に殺されると覚悟していた。

 だからこそ、依代が無事に戻って来てくれたことに心から安堵した。

 その上、攫われた人々まで一緒に戻って来たのだ。

 中にはすっかり憔悴してこけている者もいたが、みな、五体満足だった。

 その数が、思ったよりも少ないことは気にはなったが、正確な数を数えてなどいなかった誠二郎にはその意味は伝わらない。

 とにかく、無事に帰って来てくれたことを心から感謝して気が抜けていると、帰って来られたことに安堵してざわついていた人々の間を、掛け軸片手に依代が進み出た。

 そして、「さて」と前置きをした依代が、誠二郎の前で片膝を着いて視線を合わせると、

「全員無事にとは行きませんでしたが、とりあえずは命の残っていた皆さんだけは連れて帰って来ることが出来ました。鬼はめでたく消し去ることが出来ましたし、この通り、掛け軸にも《菩薩》様が戻ってまいりました。ということで、こちらを約束通り持ち帰らせていただきますが、よろしいですよね?」

 と、ふわりと微笑んで最終通告をして来る依代。

 もとより誠二郎に『否』を言う権利はなかった。

 故に、「ああ。問題ない。さっさと持って行ってくれ」と疲れたようにも安堵したようにも聞こえる声で合意した時、それは起きた。

「ちょっと待て、それを持って行くってどういうことだ?」

 それまで生きて帰れたことを喜び合っていた生還者たちが、怖い顔をして依代と誠二郎を見ていた。

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