(2)

 ただの人だった。絵描きを目指していた人だった。

 何枚も何枚も描いて来た。何年も何年も日の目を見ることはなかった。

 それでもようやく認めてくれる相手に出会った。浮かれるなという方が無理だと思うほどに、天にも昇るような気持になった。

 明るい未来が待っているのだと信じて疑わなかった。

 それがまさか、盗賊に襲われて命を奪われるとは。

 死んでも死に切れるものではなかった。

 憎んでも憎み切れるものではなかった。

 絵師の魂は怨霊と化して盗賊に憑りついた。

 呪い殺さんばかりの想いだった。

 盗賊の暮らす村には憎しみが満ちていた。

 憎しみの力は絵師に力を与えていた。

 呪おう呪おうと想っていた。縊り殺したくとも触れることが出来なかったから。

 心を込めて描いた掛け軸を部屋に掛け。毎日何事かを告げる仇を見ながら、力を貯めて。

 いざ呪わんとした時に、絵師は力いっぱい弾かれた。

 誰あろう、絵師が描いた《菩薩》の力によって。

 あらゆる災いから人々を守って欲しいと願いを込めた《菩薩》によって。

 誰あろう絵師自身が弾き飛ばされた。

 呪いの力は散り散りになり、村中に拡散された。

 許せなかった。気に入らなかった。

 憎しみは更に増し、呪詛は消えたりなどしなかった。人々を呪った。

 そして、《菩薩》によって取り込まれた絵師は、《菩薩》に問うた。

 何故その盗賊を助けたのかと。

 何故その盗賊を助けるのかと。

 そいつは敵だと仇だと訴えた。生みの親を見捨てるのかと訴えた。

《菩薩》は答えた。かの者は心を入れ替えたのだと。心から反省しているのだと。

 人は皆弱いのだと。縋るべきものを求めるものだと。

 そんなことは知っていた。だから絵師は《菩薩》を描いたのだ。

 心を込めて、願いを込めて、幸せを祈って、描き上げた。

 それを奪われたのだ。

 だが、同時に思った。

《菩薩》は力を得ていた。奇跡を起こせるだけの力を得ていた。

 それが誇らしかった。

 許してあげましょうと《菩薩》は言った。

 かの者は悔いて己の罪と向き合い、懸命に人を救おうとしているのだと。

 見守りましょう。救いましょうと諭されて。

 それもそうかと《菩薩》の中で諭されて。

 だが、人々はその想いを裏切った。

《菩薩》は苦しみ弱まった。

 代わりに絵師は力を増した。

《菩薩》の心を裏切った人間たちに対する怒りが沸き起こり、絵師は鬼となり《菩薩》を取り込んだ。

 心優しき《菩薩》がそれ以上傷つかぬように、余計なものなど見ぬように。

 世界は《澱み》によって穢れ切っていた。力が湧いた。報復せねばと思った。

 何故に人は裏切るのかと、悲しみに沈んだ《菩薩》の代わりに、鬼と化した絵師は呪った。

 止めるものは一つとしてなかった。

《菩薩》を蔑ろにした者には復讐を。

 身の程知らずには恐怖を。

 鬼は災いを返した。

 やって来たものを飲み込んだ。

 そこに、人の子はやって来た。

 話が聞きたいと。どうして鬼になってしまったのかと。

 そんなもの――


『好きで、鬼になったわけじゃない!』

 涙をこぼして鬼は訴えた。

『だろうな』と、溜め息交じりに黒雷は呟いた。

『オレは、悪くない!』

『ああ。悪いのはオレたちを生み出した人間だ』

「そうです!」

『?!』

 と、突如鬼は小さな手が己の手をしっかりと握るのを感じた。

 見れば、黒雷よりも近い場所に、真剣な顔をした人の子がいた。

「あなたは何も悪くありません!」

『悪く……ない?』

「そうです。あなたは人によって鬼にさせられてしまっただけですから。役目を全うしたにすぎません!」

 意味が、分からなかった。

『オレは、人を呪った。そのせいで、人は死んだ』

「初めのはともかく、二回目は自業自得です」

 容赦の欠片もない無茶苦茶な意見だった。暴論と言ってもいいだろう。

『お前は、人の子じゃないのか?』

「まぁ、人ではありますが、どちらかと言えば扱いはあなた寄りですかね。というか、人であろうとなかろうと、約束を破る方が悪いですからね。しかも今回はそんな理不尽でも面倒な条件でもなかったんですから。無条件に人の味方をするつもりは私にはありませんよ?」

 さして気にしていませんとでも言う口振りに、思わず鬼は黒雷に救いの眼を向けると、

『そいつは馬鹿なんだよ』

 片手で顔を押さえて吐き捨てた。

「馬鹿とは何ですか、馬鹿とは。事実です。それだけに約束というものは大切なのですよ?」

『はいはい』

「なので。あなたは悪くはありません」

『悪く、ない……?』

「ええ。悪くはありません。確かに、罰に対しての報復はしたのに、人を攫ったことは許せませんけど。でも、あなたの怒りはもっともなのですから。誰だって、突然命を奪われたら恨みも憎みもします。今回はその気持ちを利用されたにすぎないのですから」

『オレは……悪く、ないのか?』

「ええ。悪くありません。むしろあなたは被害者なのですから」

『被害者……』

「そうです。ですからもう、救われてもいいのです」

『救われる?』

「ええ。人々の押し付けた《鬼》の役割を続ける必要はありません。いつまでも憎んでいてはいけません。もう、自由になりましょう?」

 それは許しだった。

 鬼の中で、何かがパリンと音を立てて砕け散った。


   ◆◇◆◇◆


 兼一は見ていた。ずっとずっと見ていた。一連の変化をずっと見ていた。

 依代が鬼に破れかけて、いきなり見知らぬ男が現れて鬼を圧倒した。

 何度も何度も鬼は倒れ、その度に鬼は復活して。その度に世界が変わっていた。

 少しずつ、少しずつ、世界が浄化されて行く様を見ていた。

 ひび割れた地面が潤い、空の禍々しさが薄れて行き、風が啼くのを止めていた。

 何が起きているのか当然のことながら理解など出来ない。

 それでも、はっきりと見て取れる現象があった。

 依代が鬼に近づきその手を取って何事かを話していたかと思うと、鬼の躰が俄かに輝き始め、そこから黒い影の粒子が押し出され、鬼の手を通じて依代に流れ込んで行ったのだ。

 結果、依代の姿が見る見るうちに闇に染まって行くのを、信じられない思いで見た。

「お、おい!」

 思わず声を掛けていた。

 明らかに異常だった。初めは鬼の手を握っていた手が闇に染まり、時間差で襟元から覗く白い首が闇に染まり、顎が染まり、頬が染まり、その時声を掛けられて、依代は兼一を見た。

 ふわりと微笑んだ依代の眼から、恐ろしく黒い涙が伝って落ちた。

「大丈夫ですよ」

「何が大丈夫なものか!」

 答えている間にも、依代の顔は闇に染まって行く。問答無用に銀色の瞳以外の全てが闇に染まると、次いで小袖が染まり始めた。

「本来これが、私のお役目なのですから」

「お役目って……」

 少しだけ悲しそうに眼を細める依代に、言葉が続かない兼一。

 兼一は知らない。知るはずのない一族がいた。



《澱み喰らい》と呼ばれる一族がいた。汚れた一族として、闇に生きる一族が。

 その一族は、常に《澱み》を喰らい、世界を浄化することを役目として担っていた。

 役目と言えば聞こえはいいが、それは罰だった。依代はその一族の生まれ。

 どんな約束を違えた罰なのか依代は知らない。知らないが、《澱み》を喰らい、《澱み》によって生まれたものたちの力を無力化して浄化するのが仕事であった。

《澱み》とは、人から生まれた悪しき心の塊だった。それは瘴気を生み、瘴気を糧とする化生の物が集まり、互いに食らい合って妖となり災いをもたらす。

 そんなものを身の内に吸収して無事で済むわけがない。多くの一族の者は若くして命を落とした。《澱み》を喰らい過ぎて、自らが妖と成り果て、仲間に討たれてこの世を去る。

 依代はそれをずっと見続けて来た。一族はずっと見続けて来た。

 一体いつの頃から続いて来たものか依代は知らない。それでも依代は受け入れていた。己の役目を。《澱み》を喰らい、浄化する役目を。

 他の者はその役目を恐れていた。自身が人外のモノになる恐怖に苛まれて狂って行く者もいたと言うのに、依代だけは別格だった。

 自ら率先して《澱み》を喰らった。化生の物と相対し、妖に近づいた。

《そちら》に魅入られていた。近づき過ぎた。それを危険視され、齢十の時、一族から危険とみなされて処分されかけた。

 何故処分されるのか意味が分からなかったが、一族がそう判断したのなら仕方のないものと受け入れた。それが何故生きていたのか依代は知らない。

 気が付くと依代は《奇生種屋》の主の屋敷にいた。《奇生種屋》の主はこう言った。

『君はどうやら不要になったようだから、俺が勝手に拾って来たよ。だから君は俺のものだ。俺のためにその力を役立ててくれるかい?』

 よくは解からなかったが、依代は『はい』と答えた。

《奇生種屋》は数多の付喪神たちがいた。自分たちの姿を見る依代に、みな興味津々だった。お陰で依代も皆に興味を抱いた。

《澱み》は人が生み出した禍々しいモノ。

 だが、付喪神も人の想いが生み出したモノ。

 そこに一体何の違いがあるのだろうかと依代は不思議に思った。

 だから訊ねた。主は答えた。

『同じだよ』と。

『だから君を拾って来た。だって、君がいれば穢れた彼らを元に戻せるからね」と。

 そうなのかと依代は思った。

 自分の力を使うことで、喜んでくれる人がいると知り、禍々しいものも浄化をすれば、彼らのように人に使われることで喜びを感じる者たちを生み出すことが出来ると知って。

 だが、依代は《澱み》を吸収することは出来ても浄化することが出来なかった。

 それを可能にしたのが《黒雷》。

《揺り籠刀》である《黒雷》との出会いは、依代の能力を遺憾なく発揮することを可能とした。



 そんな話を、兼一が知るはずがない。

 また、そんな話をわざわざ依代に説明する気持ちもなかった。

 ただこれは、仕事だった。

「《黒雷》。お願いします」

 ふわりと微笑み、漆黒に染まった依代が願った次の瞬間。兼一は見た。

 黒雷と呼ばれた男が、本来依代が持っていた黒刀を、依代の背後からさくりと心の臓目がけて突き刺したのを。

「?!」

 絶句した。それ以外に出来なかった。

 味方じゃなかったのかと内心で悲鳴を上げる。

 鬼を倒してくれたのではないのかと。どうして依代を殺すのかと。

 だが、更なる変化が依代に起こっていた。

 闇に染まった依代の体が、足元から急激に元の色を取り戻して行ったのだ。

 どんどんどんどん。まるで、依代に突き立てられた刀にでも吸い取られて行くかのように。

 やがて、依代の肌が元の真っ白い色を取り戻すと、黒雷は黒刀をゆっくりと引き抜いた。

 まるで、一滴でも黒い雫を残さぬように、細心の注意を払っているかのように。

 そうして刀を引き抜かれた依代は、もう一度ふわりと微笑みを浮かべて言ったのだ。

「これで、全て、終わりました」

 開いた口が塞がらなかった。

 何故血の一滴も出ていないのか。何故、そんな変わらぬ微笑みを浮かべられるのか。

 依代の傍に倒れていたはずの鬼の姿は消えていた。

 空はすっかり晴れ渡り、枯れ果てていたひび割れた地面には下草が生え、野草が爽やかな風に揺れていた。蝶が飛び、どこかで鳥が鳴いていた。

「この世界の《澱み》はとりあえずこれにて浄化し終わりました。下手に鬼を退治すると、《澱み》がまた散ってしまう可能性があったので、一つ所に集める必要があったんですよ。でも、全部が全部だとさすがに容量を越えてしまいますので、黒雷には頑張ってもらいました」

『本当に面倒くさい』

「心から感謝しているんですよ。黒雷」

『知らん』

 まったく取り付く島もない突き放した答えだった。

『用が済んだならオレは寝る。暫く起こすな。そのつもりでいろ』

 刹那。その姿が忽然と消える。

 かちゃりと地面に落ちた刀を拾い、もう少しお話してくれてもいいのに……と口を尖らす依代を呆然と見やれば、

「あ。彼のお陰で浄化の仕方もずいぶん楽になったんですよ?」

 まるで何事もなかったかのように告げるものだから、兼一は自分が夢でも見ていたのかと錯覚しかけた。

「さて。私の用も片付きましたし。そろそろ帰りましょうか。皆さん帰りを待っていますよ」

 よっこいしょ。と似つかわしくない掛け声を上げて立ち上がった依代が、腰を抜かして座り込んでいる兼一に近づき左手を差し出すが、男は依代越しに涙を流して立つ存在を見て、すぐに動くことは出来なかった。

 そこに、依代の背後に、涙を流して立っていたのは、見間違いようのない《菩薩》そのものだった。

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