第六章 『黒雷参戦』

(1)


 油断をしていたと言えば油断をしていた。

 人の子の頭を握り潰すなど造作もないことだった。

 相手が術者であれば警戒を怠ることはなかっただろう。

 だが、人の子は術者ではかった。今まさに頭を握り潰されそうになりながらも、何一つ術を発動させようとはしなかったのが良い証拠。

 得物を失い、抗う術を失った人の子など恐れる必要はどこにもない。

 一応は生き延びる選択肢も与えてやったが自ら死を選んだ以上、与えられる最後の慈悲は一思いに死なせてやること。一体何のためにこんなところまでやって来たのか。

 人の子は話をしたいと言っていた。話をしたいと言っておきながら突如斬りかかって来た。

 ある意味、こちらとて無理矢理『あちら』に呼び出され、いいように虚仮にされた怒りはあった。こんなところまで追って来たのかと腹立たしくもあった。いや、そんなことよりも何よりも、自分の縄張りに土足で入り込まれたことが気に入らなく、殺気立っていたことは認めよう。到底話など出来る状態ではなかったことも認める。

 そもそも初めは、話をしに来たとも思ってはいなかった。おそらく、攫った人間を救いに来たのだと思っていた。人間を攫う自分を狩り取りに来たのかと思っていた。むしろ、そう言われた方がどれだけすんなりと納得できたか分からない。

 訳の分からない人の子だと思っていた。

 死に頭を掴まれながらも、恐怖に染まることなく笑みを浮かべていた。

 気が狂ったのかと思ったが、そういうわけでもない。そう言えば奥の手があるとか言っていたなと、ふと思い出しながら手に力を入れようとした。刹那、衝撃はやって来た。

 初め鬼は、右の肩甲骨から肩が吹き飛ばされたのかと思った。

 それぐらいの衝撃が鬼を襲ったのだ。

 完全に油断していた。見える範囲に人の子以外の気配などなかったから。助けに来るものなどどこにもいないと思っていたから。

 だが、居たのだ。

 衝撃が鬼を襲う直前、鬼はしっかりと聞いた。そして見た。人の子の顔に安堵の笑みが広がるのを。新手が来てくれたということを。

 事実、鬼の腕は肩とは繋がっていたものの、その躰は地面に片足で押さえつけられていた。

 起きようとしても、巧みに体重を掛けられて起き上がれないことに愕然とした。

 瞬時にして頭に血が上る。

『そこをどけい!』

 力任せに本気で躰を捻じると、鬼の躰は面白いほど簡単に転がった。

 渾身の力を込めた瞬間、背中を押さえつけていた足の束縛が無くなっていたのだ。

 完全に虚仮にされていた。

 顔を引き攣らせて起き上がり、六角棍を構えて相手を睨み付ける。

 そこに、それまで絶対にいなかった男が、雷模様の入っている黒刀を片手に、気だるげな表情を浮かべて立っていた。

『貴様は誰だ。どこから現れた!』

 無断でこの世界に入り込んだ気配は人の子だけのはずだった。

 絶対に、今対峙している男の気配はなかった。それなのに、何故?! と問えば、男は答えた。

『どこからも何も、初めからいた』

『そんなわけがあるか!』

 と怒鳴り付ければ、スッと男は、地面とは水平に自身の躰の前に刀を横にして掲げて見せた。

『…………何の真似だ』

 眉を顰める。

 対する答えは、

『オレは、こいつだ』

 それは、人の子が振るっていた黒刀だった。

 咄嗟に意味が飲み込めず、眉間の皴が深まるが、

『……付喪神か?』

 唐突に答えに思い至り納得する。

 だが、刀を下ろした付喪神はどこか面倒くさそうに補足した。

『付喪神と言えば聞こえはいいんだろうが、オレは単に刀に封じられた《鬼》だ』

『何?』

 この告白には少しばかり鬼も驚いた。

『知っているかどうかは知らないが、《揺り籠刀(ゆりかごとう)》と呼ばれているものだ』

『……ゆりかごとう?』

 聞き覚えのない言葉だった。

『知らなければ別にいい。大して面白い話でもない。単に鬼が封じられている刀の総称に過ぎないからな』

『だとしても、それで何故、人によって刀に封じ込められた貴様が人の子を守る? 人間の手で自由を失った貴様にしてみれば、人など皆、憎む対象ではないのか?』

『別に。今更人間に対して思うところなどない。そんな感情遠の昔に枯れ果てた』

『では何故、その人の子を救った』

『別に救ったわけじゃないが……』

『どう見ても救ったではないか』

『まぁ、自分のためだ』

『?』

 どこまでも投げやりな淡々とした口調だった。

『オレはな。疲れているんだよ』

 いきなり何を語り始めるのかと鬼は訝しむ。

『本来であれば、もう人間になど関わらず、静かに朽ちて行きたかった。あちらこちらと人間の都合でたらい回しにあっていたからな。だが、これがなかなか自然と朽ちるものではない』

 だろうな。とは声には出さず心で呟く。

『だったらもう、誰の目にも触れずに静かにそっとしておいてくれと思っていたところで、ある人間に拾われた。魔除けにちょうどいいから店の隅にでもいてくれとな』

『貴様のことが視えたのか』

『だろうな。珍しいこともあるものだと思っていたが、そいつは本当にオレを店の隅に隠すように置いておいて、それから話し掛けることもなかった。これは楽だと思っていた矢先だ。そいつがオレの平穏をぶち壊した』

「ぶち壊したとは何ですか! ぶち壊したとは! 刀は振るわれてこそ価値があるのです! 職務怠慢はいけません!」

 付喪神が顎で示した先で人の子が怒りの声を上げる。

『以来オレは、アイツに連れ回されて、訳の分からない面倒ごとにばかり関わる羽目になった』

『そ、れは……気の毒にな』

 何故か無性に同情心が湧いた。だが、そこから少し付喪神の雰囲気が変わった。

『ああ。だからオレは、静かに朽ちることを諦めて、オレを折れる奴を捜すことにした』

『何?』

『オレは《鬼》だ』

 くるり、くるり、と手遊びのように刀を回し始める。

『本体はこの刀の中にある。だが、オレ自身の手でこの本体を折ることは出来ない。出来るなら初めからやっているし、そうすればこんなにも長い時を無為に過ごすこともなかった。だから考えを改めた。面倒ごとと遭遇するたびに、今度こそオレを折ってくれるほどに強い奴と会えるのではないかとな』

『……』

『オレはオレを折ってくれる者を捜している』

 どこまでも、どこまでも気だるげに言葉を吐き出す付喪神。

『だが、今のところオレを折れるだけの力を持った奴はいなかった』

「当然です!」

『お前の実力じゃないだろうが』

 付喪神の後ろで、得意げに宣言する人の子にうんざりとした返事を返す付喪神。相当疲れているのが見て取れたが、

『だからこそ、今はまだあいつを殺されるわけにはいかないんだ』

 ピタリと手遊びを止めて静かに告げる。

 空気がピリリと引き締まった。

 付喪神が、鬼に対して斜に構えていた付喪神が、下から見上げるように鬼を見ていた。

 ゾッとした。

『あんたがオレを折れなかった場合、オレをここから連れ出してくれる運び屋がいなくなるからな』

 それは――

『あんたに』

 すぅ――っと剣先が向けられる。

『オレが、折れるか?』

 顎を上げて上から見下ろされて問われれば、

『舐めるな!』

 鬼は、地面を抉って飛び出した。


   ◆◇◆◇◆


 屈辱的なことだった。

 途中までは理解も出来ないわけではなかった。

 だが、人の子を守った理由が、運び屋がいなくなるのは困るという、あくまでも己が負けるわけがないと前提した内容に、怒りが瞬時に込み上げた。

 必ず討ち取って見せると心に決めた。

 その後に人の子を殺して喰らってやると決めた。

 気だるげな顔に焦りを。余裕ばかり吐き出していた口から命乞いの言葉を。

 人の手によって刀に封じ込められ、自由を奪われた鬼。

 十分に同情が出来た。場合によっては仲間にしてやってもいいとさえ思っていた。

 それを、見透かしたかのように虚仮にされた。

 人間など守る価値などない。一皮むけばどんな聖人だって醜い顔を持っている。

 だからこそ、鬼の住まう世界はこれだけ物悲しく怨嗟に満ち満ちていた。人間によって作られた世界なのだから、生み出した人間が美しいはずがない! 共に喰らって行こうかと、誘うことすら出来たはずだった。

 だが、黒雷は強かった。

 片膝を着き、六角棍で躰を支えた鬼は、躰全体を使って呼吸をしていた。

 躰中に刀傷が刻み込まれていた。

 どろどろと傷口から粘着質な黒いものが血の代わりに流れ落ちる。

 それを少し離れたところで黒雷は、刀を手慰みに回して待っていた。

 鬼の躰に《澱み》が群がる。

 傷口に入り込み、自らが鬼の一部と化して傷を塞ぐ。

 これをいったい何度繰り返しただろうか。

 黒雷は、付喪神は、《鬼》は、鬼の想像をはるかに超えて強かった。

『もう終わりか?』

 つまらなそうに問われる。

 頭の中で『ブツリ』という音がした。

『うおぉおおおおおおおおっ!』

 雄叫びを上げて鬼は黒雷に突撃する。

 速さの乗った突きを見舞う。一度だけではない。連続突き。

 黒雷は刀を構えもしなかった。

 必要最小限の動きだけですべてを見切る。まったく鬼は黒雷を捕らえることが出来なかった。

 当たりさえすれば、重傷を負わせられると思っていた。

 鍔迫り合いにさえ持ち込めれば、力で押さえつけられると思っていた。

 だが、黒雷はそのどちらもしなかった。

 鬼に好きなだけ攻撃をさせた。

 黒雷は避けるだけだった。時折刀で六角棍の軌道を逸らすことはあったが、まともに打ち合おうとはしなかった。

 完全に、見切られていた。

 突きも払いも不意打ちも。黒雷を捕らえることが出来ない。

 鬼は黒雷の動きに翻弄されていた。

 鬼は息が上がっているというのに、黒雷の顔に疲れは見えない。焦りも見えない。

 あるのはどこまでも気だるげな顔。冷め切った金色の瞳。

『うおおおああああっ!』

 上から叩きつけ、払い、旋回し、薙ぎ、打ち上げる。

 黒雷は突進しながら繰り出されるすべてを後退するだけでやり過ごす。

 忌々しかった。憎らしかった。どこまでも気だるげな顔が。期待外れだと訴えて来る眼が。

 地面を抉って加速する。

 微かに黒雷の眼が見張られる――が、次の瞬間には黒雷の姿は鬼の目の前から消えていた。

 黒い影が鬼の真横を通り過ぎ、ざくりと大きく背中を割かれる。

『ぐぉあああっ!』

 痛みの悲鳴を飲み込んで、振り返り様に六角棍を振り抜く。

 しかしそこに、黒雷の姿はなかった。

 大きく目を見張った鬼の目の前に、下から黒雷の端正な顔が現れる。

 ギクリと躰を強張らせた次の瞬間には、あえて構えられた六角棍越しに蹴り飛ばされる。

 どちらかと言えば細身の体躯。腕の太さも足の太さも胴体も。明らかに黒雷より二回りも大きな鬼が、毬のように蹴り飛ばされる。

 地面に爪を喰い込ませて何とか耐えるも、顔を上げれば黒雷の顔。

 下から逆袈裟懸けに振り抜かれた黒刀が、ざっくりと鬼の顔を切り裂いた。

 灼熱の痛みが顔を襲い、堪らず鬼は六角棍を手放して両手で顔を覆う。

 がら空きになった胴体を好き勝手に斬りつけられる。

 決して致命傷にはならないものの、決して無視など出来ない絶妙な深さの傷を。

 いったいこれで、鬼は何度命を落としたことになるのか。

 ずっとずっとまともに打ち合うこともなく黒雷は鬼の攻撃を避ける。

 そして、ある瞬間から一気に攻める。圧倒的な力の差を見せつけるが如く。

 そして、

『ぐぅうううううううっ』

 地面に転がった鬼に止めを刺すことなく、鬼が回復するのを待つのだ。

『一体……何がしたいんだ!!』

 世界の《澱み》を糧に傷を治し、回復する。傷が治れば体力も戻る。

 だが、いい加減我慢の限界だった。

 憎しみだけを湛えて睨み付ける。

 これではただ弄ばれているのと変わらなかった。

『同じ鬼で、何故これほどまでに差があるのだ!』

 心からの叫びだった。納得のできるものではなかった。

 それに、黒雷は初めての反応を返した。

『誰と誰が同じ鬼なんだ?』

 わずかに眉を寄せ、怪訝な表情を浮かべて、初めて聞いたとばかりに首を傾げられた。

 その全てが物語っていた。

『まがい物が何を言っているんだ? もう少し骨があるかと思ったが……まあ、これだけ実力差を見せつけられても立ち向かえるのだから褒めたものなのだろうが……。鬼の姿を取っているからと言って、本物の《鬼》ではない。まさか自覚がないわけではあるまい?』

『煩い煩い煩い煩い煩い!』

 全てを拒絶するかのように鬼は叫ぶ。

『オレは鬼だ!』

 足元の六角棍を拾い上げて突撃する。

 黒雷は溜め息を吐いたようだった。

 その口が動く。


――そろそろ頃合いか。

 

 一体何の? と問う暇などなかった。

 気合一閃。雄叫びと共に、最大最速の力を持って、乗せて、鬼は技を繰り出した――はずだった。

『???』

 何故自分は両手を上げているのだろうかと鬼は思った。

 何故自分は、澄み渡るような青空を見ているのかと思った。

 空が、青かった。赤黒く禍々しいはずだった空が、青かった。

『何故?』

 疑問が口を吐いたとき、視線の先、青空に一つの影が生まれ、くるくると勢い良く回ってどさりと鬼の頭の横に突き立ったのは、己の得物以外の何物でもなかった。

 どくどくと、胸元から溢れる生暖かい感触が脇腹へと落ちて行く。

 六角棍を弾き飛ばすと同時に、斬り倒されたのだと理解する。

 たった一刀。

 呼吸が嫌な音を立てて行った。これまでとは明らかに違う一撃だった。

 それでも鬼は己が死ねないことを知っていた。

《澱み》が近づいて来る気配があった。傷の塞がる感触があった。力が漲る。空がますます青くなる。

 傷は完全に塞がった。それでも鬼は、立ち上がろうとしなかった。

 人の世のように、日輪が浮かんでいるわけではない。白く棚引く雲が流れているわけではない。鳥が飛ぶこともない。それでも空は青かった。

 その空が、俄かに滲む。目尻を何かが一粒落ちた。

 すすり泣くような風が聞こえなくなっていた。

 怨嗟のような風が聞こえなくなっていた。

 纏わりつくような不快感が消えていた。

 ここはどこなのかと、見知っているが見知らぬ世界に疑問が湧いた。

『もう終わりか』

 青空を背負い、影が鬼を見下ろした。

『何故だ……何故オレは、負けたのだ!』

『弱いからだろ』

 容赦のない答えだった。

『オレは、弱いのか』

『弱いな』

『何故だ?!』

『人だからだ』

『?!』

 息が詰まった。

『たかが人。どれだけ寄り集まったところで《鬼》に敵うわけがない』

『オレは……』

『ただの人だ』

 断言された。面倒くさそうに。つまらなさそうに。

『人から生まれたものは人以外になれはしない。人の心に鬼が棲む。その鬼によって作られた世界に生きて、鬼になったと思い込んでいたにすぎない』

 それは、鬼にある一つのことを思い出させていた。

『オレは……人か』

『人だ』

 確かに、鬼は人だった。

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