(3)


 朽ちかけた家屋が盛大に破砕されるのと、依代が兼一の胸元を引っ掴んで引き寄せるのはほぼ同時だった。

 見た目小柄な娘に、力任せに引き寄せられた驚きに目を白黒させている兼一を、更に見た目を裏切る力で後方へ突き飛ばし、依代は腰の刀の柄に手を添えニコリと微笑む。

「やっと出て来て下さいましたね――とは、さっきも言いましたね」

 家屋越しに兼一を捕らえようとしていた鬼が、忌々しげに顔を歪めて現れる。

 背後で引き攣ったような悲鳴を上げる兼一の声を聴く。

 それは仕方がないと、依代は苦笑を漏らす。

 鬼が大気を震わせるほどの怒りに駆られていることは、依代にも『視えて』いた。それはもうはっきりと。赤黒い世界を凝縮したような色の鬼が、燃え上がる怒りの焔を纏いながら近づいて来るその様を。

「身も焦がされるほどの感情を向けられるなんて、女冥利に尽きますね」

 そんな冥利はいりません! という祥之助の悲鳴が聞こえて来るようだった。

 実際、状況はまるで笑えるものではなかった。

 先ほどは依代にとって有利な世界だった。だが、今は鬼にとって有利な世界。

 鬼の姿は更に一回り大きくなっていた。威圧感が増していた。肌を焼くような殺意が真正面からぶつけられる。

 背中から汗が噴き出していた。膝が微かに震えていた。

「恐ろしいですね」

 声は震えていなかったが、微笑みは引き攣ったものになった。

『その人間を、寄こせ』

 まるで怨嗟の焔でも吐き出すかのような熱が吐き出されるも、

「残念ながらできません」

 依代は口の両端を持ち上げてきっぱりと拒絶した。

『何故だ』と、鬼は問い掛ける。

「必要だから」と依代は答える。

「あなたの怒りはごもっともです。人々が憎い気持ちも分かります。ですが、約束に対しての罰は病を返すことで果たされているはずです。その他に身内の方を攫うのはやり過ぎです」

『知ったことか』

 地鳴りのような声だった。

『無関係なお前にとやかく言われる筋合いはない』

 鬼が、掛け軸の間で取っていた間合いと同じ距離を保って足を止める。

 依代は高鳴り速まる鼓動を聴きながら、込み上げる笑みを口元に乗せ、

「すみませんが、私にはあるのです」

 鬼が動くよりも先に、

「行きますよ、《黒雷(くろいかづち)》!」

 依代の方から飛び出した。

 刹那に間合いを詰め、低い位置から居合抜く。

 ギユィンという、金属同士のぶつかる音がした。鬼がどこからともなく取り出した灼熱の色の六角棍で、真上から依代の刃を迎え撃った音だった。

 体ごと沈められそうな重さの乗った一撃に舌打ちしつつ、即座に鬼の側面に回り込み一閃。

 受け止められることも気にせず手数の多さで押し切ろうと攻め続ける。

 剣戟の合間に、鬼が息を吸った音が聞こえれば、迷うことなく大きく後退。

 程なくドゴンと地面を抉る重い音。

「斬られるのは嫌ですが、潰されるのも嫌ですね」

 正直な本音を口にすれば、どこからともなく舌打ちの気配。

「そんな嫌そうな素振りを見せなくてもいいではありませんか」と、軽く詰りながらも、依代は突っ込む。

 だが、渾身の突きは、鬼の得物によって盛大に跳ね上げられた。

 体が大きく開かれる。依代の耳に、唸りを上げて逆袈裟懸けに振り下ろされて来る六角棍の音が入り込む。

 鬼の顔に喜色が交じる。仕留めたと確信したのだろうということは確実で。

 しかし依代も黙ってやられるわけにはいかなかった。

 頭上に《黒雷》を翳し、六角棍が触れた瞬間に傾け軌道を逸らすと、潜り込むように鬼の懐に入り込む。

 そのまま低い姿勢で旋回しつつすり抜け様に一閃。鬼の脇腹を凪ぐ。

『ぐぅっ!』

 獲物が地面にめり込む音と、鬼が片膝を着く気配。

 すかさず蹲った鬼の背中を目がけて《黒雷》を振り下ろすが、

『甘いわ!』

 空間が引き裂かれるような暴力的な力が横薙ぎにやって来た。

 振り返り様の鬼の一撃は、小柄な依代を体ごと吹き飛ばした。

 地面から足の離れた依代に踏ん張ることなど不可能。

 何とか姿勢を正そうと空中で身を捩るが、着地する瞬間を狙われて体当たりをされる。

 信じられない衝撃だった。咄嗟に鞘を抜き放って両手で構えたものの、腕は痺れ、軽い体は軽々と宙を飛ぶ。そこに迫る圧迫感。

 再び突撃を仕掛けて来るものか、追い付いて地面に叩きつけて来るものか。

 果たしてどっちで来るものかと考える。

 力で攻められれば負けるのは必至。

 まともに打ち合って《黒雷》が折れることはないと信じている。

 ならばどうするか。

 依代は思いっきり地面に《黒雷》を突き刺した。

 急制動に手が刀の柄から離れそうになるのを辛うじて堪える。

 柄を伝ってやって来る振動は、地面を問答無用で切り裂くせいで生まれたものか、はたまた怒りの感情か。

「すみません」と弱り顔を見せて謝罪を一つ。

「お叱りは後で」と呟いて、迫り来る暴力に向かって大地を蹴る。

 まさか突っ込んで来るとは思っていなかったのだろう。鬼が動揺するのが『視えた』。

 だが、馬鹿正直にぶつかるつもりは欠片もない。

 鬼が六角棍を引き寄せる。速さの乗った突きが来る。

 吹き付けて来る殺意が依代の産毛を逆立てて――

 依代は視た。鬼が息を吸う様を。二の腕の筋肉が盛り上がるのを。殺意しか籠っていない六角棍が突き出される瞬間を。

 刹那、依代は横に倒れ込むように回避した。

 ゴゥ――という身の毛もよだつ音が通り過ぎ、頬にピリリと痛みが走る。

 すれ違いざまに互いの視線がぶつかり合い、両者互いに急旋回。

 上手く直撃を躱したと思ったのも束の間。風圧だけで頬を切り裂かれたことに背筋を凍らせながらも、仕切り直しの速さは圧倒的に依代の方が上だった。

 まともに構える暇を与えずに斬り続ける。六角棍を引き寄せられてはならない。振り被られてはならない。そこから生まれる一撃の重さを依代は受け止めることは出来ないから。

 休んではならない。途切れさせてはならない。付け入らせてはならない。鬼に唯一勝てるのは速さだけだから。

 息をするのももどかしく技を途切れさせることなく繋げ続ける。自身の鼓動すら聞こえない。何をどう繰り出しているのかも分からない。考えてなどいられなかった。   体が勝手に動いていた。何が何でも攻撃に転じられるわけにはいかなかった。

 それでも依代は口元の笑みを消し去りはしなかった。

 恐ろしかった。目の前に死があった。追い詰められているのは自分の方。

 それでも、依代は自分の中に隠し切れない高揚感が生まれていることを知っていた。楽しんでいることを知っていた。楽しかったのだ。体が震えるほどに恐ろしいと思いつつ、一方でこれだけ動けるようになった自分を見ていることが。

 一撃一撃は軽くとも、手数で押されてわずかに後退する鬼。

 人によってはそれを見て、依代にも勝機があると見ただろう。

 だが、

「駄目ですか」

 悔しげな呟きと共に、力任せに吹き飛ばされる。

 手数が多くとも、軽すぎたのだ。

「こればかりはどうにもなりません」と早々に諦める。

 腕が痺れて《黒雷》を取り落としそうになる。握り締め直す。顔を上げる。鬼を見る。

 形成は圧倒的不利。

 それでも依代は口元に浮かべる笑みを消さなかった。

 ニコリと微笑み、迎え撃つ――と見せかけて、躱す。

 避けては斬りつけ、斬りつけては距離を取る。

 鬼に大した痛手は与えられないものの、鬼の一撃も依代を捕らえられない。

 一撃一撃は他愛のないものだったとしても、積もり積もれば無視など出来なくなると依代は思っていた。読み違えていたとすればソコ。

『お前の与えたと思っているものは、何一つとして残ってはいないぞ』

 嘲りを含んだ忠告に、依代は視る。

 賢明な努力によって鬼につけた傷という傷が、黒煙を上げて塞がって行く様を。

 鬼が、周辺に漂う《澱み》を使って回復しているのは明らかで。

 しかし依代はそれほど落胆の色を見せなかった。

「やはり簡単にはいきませんよね」

 お陰で鬼の顔に訝しいものが浮かぶ。

「理解できませんよね? どう見ても私の方が不利ですから」

『解っていて、何故笑っている』

「別に気が触れているわけではありませんよ?」

『奥の手でも隠し持っているのか?』

 問いながら、鬼は地面を蹴った。

「持っていると言えば持ってはいますが、出来れば使わずにいられたらと思います。いつも思うだけで叶うことはありませんが!」

 下から上に逆袈裟懸けに振り上げられる六角棍を紙一重で避け、恐ろしい重量感のある鬼の躰が通り過ぎる瞬間、力の限り、逆手に持ち直した《黒雷》を突き刺す。

《黒雷》は鬼の肩甲骨の下に易々と潜り込んだ。

『ぐぉあっ』

 と、これまでにない悲鳴を鬼が上げた次の瞬間だった。

 恐ろしい一撃が依代の背中に叩きこまれていた。

 丸太で強かに背中を強打されたような重い一撃だった。

 一気に肺腑を満たしていた空気が吐き出され、踏ん張ることなど出来ずに地面に倒れる。

 辛うじて地面に手は付いたものの、地面に顔面も強打する。

 湿った土の感触がした。強打したせいで痛みすら満足に感じない。目の前に星が飛ぶ。

 それでも依代は身を起こし、両腕を顔の前に構えたとき、容赦ない追い打ちが襲い掛かる。

 六角棍の硬さはなかった。それでも、

(あ、右腕が)

 折れたのを感じた。

 おそらく、唸り風を引き連れてやって来たのは鬼の腕。振り返り様に振り抜かれた腕の一撃。

 何故得物で一思いに止めを刺さないのかと疑問を抱きながらも、依代は吹き飛ばされる。

 骨折の燃えるような痛みのせいで、咄嗟の動きが出来ずに、頭から地面に倒れて滑る。

 痛かった。顔よりも折られた腕よりも、引き抜こうとしていた《黒雷》を引き抜けなかったことに。

《黒雷》を手放してしまったことが、何よりも痛かった。

「所有者、失格です」

 そこに、地響きを立てながら、ズルズルと得物を引きずりながら鬼がやって来る。

「これは結構、不味い状況のような気がします」

 痛みによる油汗を掻きながら、依代は引き攣った笑みを浮かべる。

 脳裏には祥之助の心配し切った顔と声が浮かんでは消える。

「大丈夫です」

 と、声に出したつもりだが、実際には声など出ていない。

「私には、《彼》がいますから、大丈夫です」

 言い聞かせるように、祈るように、上がった息の下に呟いて見せると、その頭をがっしりと大きな手に掴まれた。

「うっ」

 そのままずるずると持ち上げられる。

 つま先が付くか付かないかの位置で固定され、首に自身の体重がまともにかかる。

 絶体絶命だった。誰がどう見ても、どう転んでも絶体絶命。

 ほんの少し鬼が力を置入れれば、依代の頭蓋などあっさりと粉砕できるだろう。

 頭を持ったまま振り回せば、首が折れてあっさりと終焉を迎える。

 両手を使われれば首をねじ切られることもあるだろう。噛み殺されることもあるだろう。何通りもの殺され方を考えて、

『何故お前は笑っている』

 依代は、笑っていた。

「いえ。何と言いますか。本当に、私は、弱いなぁと思いまして」

『それが解かっていながら、何故挑発するような真似をして、わざわざここまで乗り込んで来た』

「あなたに、お会いしたかったからと、初めに、お伝えした、はず、ですが?」

『何故だ?』

「お話を、ききたかった、のです」

『話だ?』

「はい」

『何の?』

「なんでもです。あなたが、鬼になってしまったきっかけを」

『知ってどうする』

 引き攣った笑みを絶やさず問えば、鬼は気味の悪いものを見るような顔で問い掛ける。

「私は、あなたを、救いに、来たのです《菩薩》さま」

『…………………』

 鬼は渋面を作った。

「うっ」

 ミシリと頭蓋骨が悲鳴を上げる。

『ふざけるな』

「ふざけては、いません」

『そんな下らぬことのために、命を賭けたと言うのか?』

「私にとっては、それほど、下らなくはないのですが……それを言うなら、あなたも……」

『なんだ』

「一思いに、ころさないのは、なぜ、ですか?」

『お前がこの件に一切関係ないからだ。命が惜しければ元の世へ戻してやる。そのかわり、二度とこの件に関わるな』

「ふふ……」

『なんだ。何がおかしい』

「すみません。なんか、嬉しかったのです」

『嬉しい?』

「ええ。あなたはやはり優しい」

『気でも触れたか……』

 溜め息交じりに結論を導かれ、依代は弱弱しい笑みを浮かべて否定した。

「いえいえ。だいじょうぶ、ですよ。ですが、申し訳、ありませんが、お約束が、出来ません」

『何故だ』

「この件から、手を引けば、私は、私の眼を、治すことが出来ませんから」

『私欲か』

「当然です」

 呆れた様子の鬼に、堂々と認める依代。

「治す手段があるならば手に入れる。人として、当然のこと。それに、あなたの力があれば、一体、どれだけの人が救えることでしょう」

『救ったところで、すぐにぶり返すだけだ』

 鼻先で嗤う鬼の言葉に、やはりこの鬼は傷ついていたのだと依代は悟る。

 やはり、助けなければと思う。傲慢だと言われようと、余計なお世話だと言われようと、無謀だと言われようと。

「救った先のぶり返しは知ったことではありません」

『……鬼か』

「ふふふ。あなたに鬼と言われるとは面白い」

『…………』

「ですが、本心です。何事も、守る人は守ります。守らぬ人は守りません。それでも、心から救いを求めている人がいる以上、その人を一時的でも救う方法がある以上、私はあなたを諦めるわけには、行きません」

 真っ向から鬼の眼を見て宣言し、

「それが、奇生種屋の主としての矜持ですから」

 ふわりと微笑んで締め括れば、

『意味が解らない』と吐き捨てられた。

 それでも、依代が諦めるつもりがないのだということだけは伝わったようで、

『だったら――死ね』

 一際強い力が握られた頭に込められる――瞬間だった。

『気持ちは解かるが、少し待て』

 冷め切った低く冷たいゾクリとするほどいい声が依代と鬼の耳朶を打ち、

『ぐぬ』

 強い衝撃が鬼の肩甲骨を襲ったかと思うと、次の瞬間鬼は地面に倒れ、依代は衝撃で投げ出され――見た。

 鬼の巨体に足を掛けて踏みつけにする、雷模様が染め抜かれた漆黒の着物に細袴。革の長靴を履いた、毛先が金色の少し長めの黒髪が掛かる、どこまでも無表情な美丈夫の姿を。

「遅い、ですよ。《黒雷(くろいかづち)》」

 依代は泣き笑いのような表情を浮かべて、美丈夫の名を呼んだ。

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