(2)
事ここに至って、兼一はある一つの可能性に辿り着いていた。
「あんた……」
「はい?」
問う声が掠れていた。
喋ってはいけない。喋ってはいけないとは思うものの、口は勝手に動いていた。
「もしかして、あの鬼の仲間なのか?」
そうとしか思えなかった。こんな奇妙な世界に自分から飛び込んでくる奴がいるとは思えない。居るとすれば、それは鬼の仲間に違いない。仲間だからこそ、この異常な世界の中にいても気が触れることもなければ恐れることもないのだと。
娘は眼が見えないと言っていた。
故に兼一も、見えていないから恐ろしくないのだと思っていた。
だが、普通に考えれば見えないからこそ恐ろしいと感じるものだ。この赤黒いおどろおどろしい空の下。朽ちかけた家屋に枯れ果てた倒木。ひび割れた地面に、無造作に散らばる無数の骨。
風は生暖かく、まるで人のか細い悲鳴のような、すすり泣く声のような、怨嗟のような様々な不快な音を立てて兼一を撫で回していく。鼻腔を食い物が腐ったような不快な臭いが通り過ぎ、肺腑に溜まっているのかと思うと吐き気が込み上げていた。
それなのに、娘の顔に怯えの色は一つもない。
異常だ。異常だった。異様だった。恐ろしかった。
そもそも、銀色の瞳を持つ人間など存在すること自体がおかしな話だったのだ。
この娘は化生のものだと確信していた。
してはいけない確信だった。解ってしまえば心の底から兼一は震えた。
初めは自分以外に動いている人間がいたと思ってホッとした。
それが見たことある娘だと知って落胆した。
そして、一人にしては置けないと思って手を取って逃げた。
だが相手が鬼の仲間だとしたら、それを見破ってしまったと暴露してしまったら。
考えただけで兼一は震えていた。
「お、俺を、殺す気か?」
ずりずりと後ずさりながら問い掛ける。震える声で問い掛けて、今以上に背後には下がれないというのに、足を滑らせながらも問い掛ける。
距離が一向に開かないことをもどかしく思いながら、腰を抜かしていると思い込んだ兼一は、歯の根も合わぬほどに震えていた。
その目の前で、娘が目を細めてふわりと笑う。満足げに。楽しそうに。面白そうに。
兼一は血の気の引く音を聞いた。ザッと音を立てて、体の熱までが消え失せる。
そんな兼一に一歩娘は近づいて、スッとその場にしゃがみ込む。
「ひっ!」
と情けない悲鳴を上げる兼一に、眼が零れ落ちそうなほどに大きく見開いたまま閉じることが出来ずにいる兼一に視線を合わせ、娘は言った。落ち着いた声で、
「違いますよ」――と。
「は?」
間の抜けた声が出る。刹那言われた言葉の意味を理解しかね、「ち、がう?」と問い掛ければ、少し困ったように眉尻を下げて『はい』という答え。
「私はあの鬼の仲間ではありません。むしろあの鬼にしてみれば私は忌々しい敵ということになっていると思います。ですが、私はあの鬼を救いに来たのです」
「救う? 鬼を? 攫われた俺じゃなく?」
「はい」
ニコリと微笑まれて即答された。
そのあまりにも気持ちのいい返答に、暫し言葉を失う兼一。
だが、そんな兼一の反応を気にした様子もなく、娘は続けた。
「だって、彼も被害者ですから」
「…………………………」
被害者とはどういう意味だったのかと、兼一は現実逃避のように考えた。
被害者とは、被害を受けたものだ。少なくとも自分はそうだ。自分こそが鬼の被害者だと思った。ただし、兼一が何かを口にする前に娘は先手を打つように告げた。
「彼はあなたたちの影響で鬼になったのですから」
「???????」
「あの鬼こそ、元はあなたたちの病を治してくれた《菩薩》ですよ」
「は?」
乾いた声が出た。
《菩薩》が、鬼?
「なんで?」
「彼らは人の想いに敏感ですからね。感謝し続けてもらえれば《菩薩》の力を維持できました。ですが、感謝されなくなれば存在意義が揺るがされるのです。元は形のないものですからね。《菩薩》としての自分を保てなくなったところに来てこの世界です。禍々しいこの世界に呑まれた彼は鬼になりました」
「…………」
「ですから、自分が元は何だったのかを思い出させて、取り戻してあげたいのです。だって、彼は皆さんが約束を守って下さっていれば、《菩薩》でいられたのですから。それに、彼が自分を取り戻せば、自然とこの世界からも出られます。結果的には万々歳。そうして元に戻ったところで私がこの《奇跡の掛け軸》を手に入れることが出来るのです」
「は?」
ぐっと握り拳を作って力説された最後の言葉に、本日何度目かの間の抜けた声が上がる。
「今、何てった? 掛け軸を手に入れる?」
「はい。と言いますか、既に誠二郎さんとは話が付いていますから、すでに私の物だと言えば私の物なんですけどね。一応ここで《菩薩》に戻しておかないと、誠二郎さんの命にもかかわりますから、彼の命の保証を条件に譲り受けましたので、そういう意味でも鬼を救って《菩薩》に戻ってもらわないといけないのです」
「………………あんた、一体何なんだ?」
まったく理解が追い付かなかった。
目の前の娘は一体何をさっきから話しているのだろうか?
頭がおかしいのかと思った。おかしくなったのかと思った。
そんな理解不能の視線を向けられて、依代は微笑んだ。
「私は奇生種屋という少し曰く付きの商品を取り扱っている損料屋の主の依代と申します。本来は視力を失った目を元に戻してもらおうと《奇跡の掛け軸》を有しているこの村までやって来ましたが、どうやら皆様の手に余る様でしたので、是非とも私の方で取り扱わせていただきたいと交渉した次第で。申し訳ありませんが、この件が済みましたら、《奇跡の掛け軸》は私が持ち帰らせていただきますので、皆々様にはそのようにお伝え願いますか? くれぐれも感謝する心を忘れぬようにと、忠告することを忘れずに。そうすれば病のぶり返しはありません。それでももしぶり返すことがあれば、その時は私の店をお訪ね下さい。格安でお貸しいたしますよ」
と提案されれば、兼一はどこから何を突っ込めばいいのか分からずに、馬鹿みたいに口をパクパクと開閉させるだけだった。
ただ一つ、兼一が重要だと思ったことは、
「俺は、助かるのか?」
「ええ。誠二郎さんや私の言葉は信じられないかもしれませんが、あなたの言葉は信じてもらえると思いますので、是非、信じてもらえるように頑張ってください。勝手ながらそれをあなたにお願いしたいのですが、受けていただけますか?」
と、小首を傾げられれば、兼一は頷いた。
初めは小さく。後に大きく、しっかりと頷いた。
命が繋がったのだから当然だ。生きて帰ることが出来るならなんだってする。
だが、
『そうは、させない』
憤怒の宿った低い声は、兼一の背中を預けた朽ちかけた家屋の後ろで上がった。
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