第四章 『鬼さんこちら』

(1)


「さて。無事に《奇跡の掛け軸》の所有権を得たわけですが……。どうしましょうか」

 何も浮かび上がらぬ掛け軸を前に、依代は腰に手を当て仁王立ちし、わずかに頬を膨らませて口を尖らせた。

「一体何が問題なんだ?」

 誠二郎にしてみれば、いつ自分を飲み込むともしれない物騒な掛け軸の所有権を譲り渡した時点で、さっさと持ち帰って欲しいと思っていた。

 仮にその後村で病が再発したとしても、それはもう自業自得だと多くの村人たちが聞いていた。

 それを信じる信じないはあるかもしれない。それでもやはり誠二郎のせいだと責める輩はいるかもしれない。だとしても、《奇跡の掛け軸》をあの娘が奪って行ってしまったと言えば、現物がなければ、どうにか逃げ切れると思っていた。

 蓄えはある。罪滅ぼしはしたと思う。後は自業自得。だとすれば、人を攫う鬼が現れるだけの掛け軸など恐怖以外の何物でもない。

 ある意味、《奇跡の掛け軸》は誠二郎の生命線ではあった。

《奇跡の掛け軸》は誠二郎の生き方を、生活を、根本的に変えた。

 生まれ変わったとさえ思った。だが、違ったのだ。何も変わっていなかった。

《奇跡の掛け軸》は誠二郎の罪から生まれたものだった。

 それを依代に突き付けられてしまったから、誠二郎の《奇跡の掛け軸》に対する見た目が変わってしまっていた。

 だから誠二郎は譲ることを承諾した。《奇跡の掛け軸》も依代も気味が悪かった。もう二度と関わりたくなどないと思えるほどに。

 だから誠二郎は思っていた。《掛け軸の間》に依代が戻れば、さっさと掛け軸を手に出て行ってくれるのだと。

 しかし違った。掛け軸の前に仁王立ちになると、小難しい顔をして睨み付けていた。

 と言っても、先ほどまで村人たちの前で見せた薄ら寒い笑みよりも過分に可愛らしい顔つきだったが……。

 だが、その口から紡がれた言葉は、まったくもって可愛らしさの欠片もなかった。

「どうすれば鬼が出て来て下さるか考えています」

「は?! 何だってわざわざ鬼を出す必要があるんだ? それはもうあんたのもんなんだから、さっさと持って行ってくれ!」

 下手に突いて攫われては堪らないと、口早に抗議するも、

「このまま持ち帰らせていただく分には、私としては何も問題はないのですが……」

「だったら!」

「ただ、この鬼はあなたによって生まれていますので、勝手に引き離した後にどんな行動に出るか分からないのです」

「え?」

 少し困り気味の発言を聞かされて、誠二郎は血の気の引く音を聞いた。

「故に、出来ればここで鬼とあなたとの縁を断ち切ってしまいたいとは思っているのですが……昨夜も試しましたが叩いても揺すっても呼びかけても、出ては来てくださいませんからね。だからと言って」

 と、徐に依代が掛け軸の表面に触れる。

「こうしたところで、攫われた方のように引きずり込まれるわけでもありません。あくまでもこの掛け軸は、《菩薩》によって病を治してもらった方々の関係者に反応するようなんですよ。

 だからと言って、あなたを使うわけにもいきませんし……」

 ちらりと誠二郎を見やる依代に対し、誠二郎は頭が取れるのではと思えるほどにブンブンと左右に頭を振った。

「丁度いいとは思ったのですが仕方がありません。命の保証と交換条件でこちらをいただくのですから、危険な真似はさせられませんからね」

 と、頬に手を当て、ほぅと溜め息一つ。

 誠二郎はドッドッドッドと早鐘を打つ心の臓を押さえて心の底からホッとした。

 だが、困ったことになっていることは理解した。

 誠二郎の協力もなしに、鬼を呼び出すことは殆ど不可能。

 だからと言って、このまま掛け軸を持ち帰るのも危険が伴う。

 だとすれば、今は八方塞がりの状態で。

 一体どうするのかと不安の眼を向けてみれば、

「ふむ。仕方がありません。祥之助」

「はい」

 再び腰に手を当てた依代が、掛け軸を見ながら《身代わり人形》の名を呼ぶ。

「廊下に出て、誠二郎さんを守ってください」

「嫌です」

 ものの見事な即答だった。

「ワタシは依代様の《身代わり人形》なんです。なんで見ず知らずの男の身代わりにならなくてはならないのですか」

 清々しいほどに素直な意見だった。

 それこそ、確かにそうだとうっかり誠二郎ですら同意してしまう理屈。だが、

「あなたしか誠二郎さんを守れるものがいないからですよ」

「ですが!」

「それに私には《彼》がいます」

「それが気に入らないと言っているんです」

「我がままですねぇ」

「依代様には敵いません」

「耳が痛いですね」

「だったら、ワタシを傍に置いておいてください! 戦えずとも守れます!」

「駄目です」

「!」

「あなたが彼を守ってくれると思うからこそ、私は何の気兼ねもなく立ち回ることが出来るのですから。それに」

 と、依代はすぐ傍に立つ祥之助の頬に手を伸ばす。

「私のせいであなたが傷つく様は、正直見たくないのです」

「……っ!」

 それは――と誠二郎は思ってしまった。

 それはあまりにも狡い言い回しだと。

 現に祥之助の顔が何かしらの葛藤によって大きく歪む。

「大丈夫ですよ。こう見えて私は強いですから」

「…………知っています」

 様々な感情を押し殺した声だった。

「ですから、彼を守っていてください」

「………………………………………………はい」

 よほど嫌だったのだろう。

 唇を噛み締めて頷くまで、呼吸二回分の間があった。

 誠二郎に振り返った祥之助は、鬼も逃げ出さんばかりに険しいものだった。

 睨まれた。

 悲鳴を飲み込んだ。

 初めて会ったときの少し情けない様は微塵もなかった。

「こっちへ来い」

 肩を掴まれ廊下に出される。

 逆らうことなど出来なかった。

 言われるがままに廊下に出ると、祥之助越しに依代が苦笑を浮かべているのが見えた。

 だが、それもすぐに見えなくなる。障子を開けて左手の壁。そこに掛けてある掛け軸と依代が向き合ってしまえば、座敷の後ろ側の廊下に立つ誠二郎から見えるのは後ろ姿だけ。

 依代が一度大きく息を吸い吐くのが見えた。

 そして、腰の刀を引き抜いた。

 刀と言えば、鉄色しか見たことのなかった誠二郎にしてみれば、その刀も異様なものだった。

 刀身が真っ黒だった。艶のある漆黒の刀身に、刻まれているのは雷のごとき金色の模様。到底刃文ではありえないことは誠二郎にだって分かっていた。

 兼一の家で見たときも異様だとは思っていた。

 だが、今一度引き抜かれる様を見ると、その刀身の美しさに目を奪われた。

 それは依代にも言えたことなのだろう。

 依代は一度、黒刀を掲げると、うっとりと見入ったように見つめた後、腕に抱えて何事かを囁いた。

 一体何を囁いたのかは、誠二郎の前に立つ祥之助が舌打ちをして忌々し気に『ただ粗暴なだけなのに』と吐き捨てたせいで何も聞き取ることは出来なかったが、

「さて。始めましょうか」

 と、心底楽しそうな声を上げた瞬間、依代を中心に世界が変わったのを誠二郎は感じた。

 別に、これと言って座敷の中が見覚えのないものに変わったわけではない。見た目はどこまでも同じだし代わり映えはしていないが、だが、明らかに空気が変わったことだけは感じ取れた。

 淀んでいた空間が弾き飛ばされ、恐ろしく清浄な世界になったと。

 しかしそれは、決して喜ばしいことではなかった。綺麗すぎる水には魚は棲まない。同様に、清浄すぎて踏み入れられない何かが座敷の中を満たしていた。

 知っているのに知らない場所になってしまった空間から、本能的に逃げようと思わず一歩後ずさりしかけたとき、依代は動いた。

 それが当然だと言わんばかりに一歩を踏み出し、刀をまっすぐに突き出す。

 固定されている掛け軸に、容易く突き刺さる黒刀。

 その裏の壁すら易々と貫通させて、引き抜く。

 もう一度、突き刺す。引き抜く。

 もう一度、突き刺す。引き抜く。

 依代は、何度も何度もその行為を繰り返した。

 誠二郎は、あまりの暴挙に目を見張り、口をあんぐりと開けて硬直した。

 何をしているんだという悲鳴染みた声すら出なかった。

 誠二郎の見ている前で、掛け軸は貫かれ続ける。

 穴が、開いていた。

 何故か、黒刀が突き刺さるたびに、誠二郎もチクり、チクりと小さな痛みを覚えて、思わず自身を抱きすくめる。

 まるでいじめられているようだと誠二郎は思った。

 何もそんな、甚振るような真似をしなくともと、誠二郎は思った。

 完全に後ろ姿しか見えない誠二郎からは、依代がどんな顔をして、掛け軸を刺し続けているのか分からない。

 依代は刺す。引き抜く。刺す。引き抜く。

 容赦なく。何度でも。穴が重なり千切り落ちぬように何度でも。

 異様な光景だった。

 ただただ無言で掛け軸に刀を突き立て引き抜く様というものは。

 気味の悪い光景だった。正気を疑うような光景だった。

 呼んでも叩いても出て来ないのであれば、棲み処を荒らし尽くしてやろう。

 それが嫌なら早く出て来い――と言う無言の圧力をかけているのだということは、いい加減誠二郎にも理解できていた。

そして誠二郎は、心の中で『早く出て来い』『出て来てくれ』と懇願している自分がいることに気が付いて愕然とした。

 何故そんなことを願っているのか、自分で自分が分からなかった。

 一体何のためにそんなことを願っていたのか。半ば呆然としていると、それは起きた。

 十数度目の突きを繰り出そうとしていた依代の動きがピタリと止まったのだ。

 何が起きたのかと、誠二郎は祥之助の背後から少しばかり移動して掛け軸を見ると、思わず「ひっ」と悲鳴を上げた。

 傷口……と言っても差支えのない穴から、とろり、とろりと粘着質のある黒い墨のようなものが溢れ出て来たのだから。

 依代は刀を下ろして三歩下がった。

 とろり、とろりと溢れ出す何かは瞬く間に掛け軸の半分から下を黒く塗り替えると、掛け軸だけでは飽き足らず、その下に向かってつぅ――っと糸を引きながらぽたり、ぽたりと黒い水溜りを作り始める。

 ぽたり。ぽたり。

 ぽたり。ぽたり。

 それが次第に、とろり。とろりと。とろとろと変化を経て。程なく小さな小さな滝となって足元に黒々とした水溜りを作り出した。

 どんどん穢されて行く床。広がる水溜り。そこから誠二郎は、何か良くないものが湧き上がって来るのを感じていた。

 人が存在することすら拒絶するような清浄な空間を、中和するかのように吹き上がる禍々しい気配。

 自分には霊感と呼ばれるものはないと思っていた。それでも、本能的にまずいものが来るということだけは強く強く感じ取れた。

 事実。招かざる客は――少なくとも、誠二郎にとって招かざる客はやって来た。

 どろどろとした水溜りが盛り上がる。ゆっくりと、ゆっくりと徐々に頭が現れる。

 黒く長い髪が顔に掛かっていた。ねじくれた醜い角が現れた。筋骨たくましい肩が。腕が。胸元が現れた。割れた腹部が、ボロボロの着物が、その上からでもはっきりと見て取れる太い足が。徐々に徐々に露わになり、そこに。

「お待ちしておりました」

 爛々と赤い目を怒りに輝かせた鬼が現れて。

 依代は心から嬉しそうに弾んだ声を上げて出迎えた。


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