(2)
頭がおかしいのではないだろうか? と誠二郎は思わずにはいられなかった。
六畳ほどしかない客間だった。
ただ寝泊まりするだけの広さしかない空間だった。
そこに、六尺は優に超えそうな体躯の鬼が現れたのだ。
普通は逃げられないと焦るものだろう。
ましてや依代は眼が見えないと言っていた。
離れている誠二郎ですら、姿を見た瞬間に気圧されて腰を抜かした。
逃げなければならないと。逃げたいと。心の底から思い、ガタガタと震えていた。
カチカチ、カチカチ鳴っているのは、己の歯が打ち合わされる音だった。
バクバク、バクバク言っているのは、己の心の臓だった。
守ってもらえるはずがないと、自分は殺されるのだと、本気で思っていた。
それなのに、下手をすれば大きく一歩踏み込むだけで容易に間合いを詰められる距離で対峙した依代は、何故か抜刀していた刀を鞘に戻すと、楽しそうに話しかけたのだ。
「こうしてまともに顔を合わせるのは初めてですね。私、奇生種屋という少し風変わりな品々を扱う損料屋の主をしております、依代。と申します。この度は手荒な方法を使ってしまって申し訳ございませんでした。ですが、どうすればあなた様が出て来て下さるか分からずに、苦肉の策に出るしか方法がありませんでした。その点は深くお詫びいたします」
いや、お詫びとかって言ってる場合じゃないだろ! と内心で思わず非難するも、依代には一向に通じない。
「さて。この度出て来てもらったのは他でもありません。少しお願いしたいことがあったのです。実は――」
と要件に入ろうとした瞬間だった。鬼が、一瞬にして依代との間合いを詰めて、巨大な拳を突き出した。
当たれば依代の頭など簡単に弾き飛ばしてしまうほどの威力が籠っているのは明白で。
だが依代は、あらかじめ分かっていたかのように身を低くして躱すと、鬼の背後に回り込んでいた。
それを追うように、鬼が旋回しながら腕を振り抜いて来れば、依代は軽く後方へ飛びのいて。
鬼は忌々しげに顔を歪めて追いかける。
依代は少し困り顔で逃げ回る。
どこまでも、どこまでも軽やかに狭い室内を逃げ回る依代に対し、鬼の一歩。鬼の腕の一振りは、恐ろしい重量感を有していた。
鬼の踏み込む一歩が畳を凹ませる。その度に、衝撃は床を伝って誠二郎に届いていた。
何故畳が陥没しないのか不思議でならないほどの踏み込み。鋭い爪が畳を抉り、体躯を裏切る速度を生み出す。
瞬き一つで、端から端まで移動して、気が付くと依代と立ち位置を交換していた。
腕を振れば『ぶぅん』という空気を切り裂く重い音が、耳朶を打つ。
誠二郎の眼には鬼の腕が掠れて見えていた。
ごっ――と柱を襲う鈍い音。
振動と衝撃に、ガタガタガタガタと障子が震えた。誠二郎も震えていた。
開け放たれた障子と障子の間に依代の小さな背中を、尻もちをついた誠二郎は祥之助の袴越しに見ていた。
その姿が不意に消えた瞬間、代わりに視界いっぱいに飛び込んで来たのは鬼。
振り抜かれた拳が依代を見失い、まっすぐに祥之助目がけて伸びて来る。
「あっ」
と、思わず声が出た。大きく精いっぱいに目を見開いて凝視する。
逸らすことなど出来なかった。
祥之助が殺されると、本気で思った次の瞬間。
バチィ!! と、光を散らして鋭い破裂音が誠二郎の鼓膜を貫き、鬼の拳は弾かれて、大きく後方へたたらを踏んだ。
何が起きたか分からずに戸惑っていると、
「結界ですよ」
苛立たしげな口調で祥之助が吐き捨てた。
「鬼はあの狭い空間からは出られません」
「じゃあ……」
「その代わり、依代様も出られませんし、こちらから手出しすることも叶いません」
「…………」
ハッキリとした怒りの気配に、誠二郎は沈黙した。
見えない壁に阻まれて、眼前にいる祥之助に拳が届かないことで躍起になっている鬼に対して、祥之助がどんな顔をしているのかは分からない。だが、その背中から、全身から、ピリピリと殺気立った気配だけが噴き出していることだけは誠二郎にも解っていた。
触れたら弾ける怒りは殺意。決して触れてはならぬもの。
そのぐらいの処世術は誠二郎も持っている。ただ、どうしても疑問に思うことはあった。
「鬼さ~ん。いくら祥之助を殴ろうとしても、そっちには絶対に手出しは出来ませんよ? 疲れて来たのでしたら、一度休憩にして、少しお話を聞かせてはもらえませんか?」
怒り心頭の鬼に対して、穏やかな依代の提案は、どう贔屓目に見ても馬鹿にしているようにしか聞こえなかった。
案の定。凄まじい勢いで鬼が背後に振り返り、座敷の奥へと疾走する。
「あら。まだそんなに動けるのですね」
掴み掛る腕を掻い潜り、
「でも無理をなさっているのではありませんか?」
振り返り様に掴み掛って来る手を後方に身を引いてやり過ごし、
「本来であれば活動できない時間帯ですよね?」
突っ込んで来る鬼の脇をすり抜けて。
「無理矢理お呼び立てして申し訳ないとは本当に思っているのですよ?」
到底そうとは思えない口振りで謝罪する依代の言葉を聞いて、誠二郎は不思議でならなかった。
「私はただ、少しあなたとお話がしたかったのです」
誠二郎の視界は開け放たれた障子戸の間しかない。それも、祥之助の横から見える分だけ。
それだとて、腰を抜かしている誠二郎はあちらこちらと見られるわけではなく、結果的に本当に狭い空間でしか中の様子は見えていなかった。
だからこそ不思議でならなかった。
「あの子は……」
目が見えないはずだった。目を見えるようにして欲しいとやって来たはずだった。それなのに、
「どうして、鬼から逃げきれているんだ?」
狭い空間だった。鬼の踏み込みが振動となってやって来る。一歩の踏み込みで座敷の角から角まで移動できるほどに狭い空間だった。大立ち回りをするには向いてなどいない。
鬼の唸る拳が、依代を見失って柱を殴り、襖を殴る。
それでも結界のお陰で破損することはないのだろう。
だが、衝撃音は伝わって来た。振動は伝わって来た。常に依代が紙一重に近い状態で鬼の攻撃から逃れていることは容易に知れた。
だからこそ不思議だった。何故見えないのに避けられるのか。何故見えないのにぶつからないのか。
そもそも、見えない状態で鬼と鬼ごっこをしようなどという発想など浮かぶはずがない。
歩くのですら普通は満足にできない。だからこそ、祥之助が付き添っていたはずだった。
それなのに、
「もしかして、本当は見えているのか?」
疑問に対する答えはそれしかなかった。
初めから、《奇跡の掛け軸》を手に入れるために来たのかと得心しそうになると、
「本当に見えてはいませんよ」
呟きでしかなかったはずの誠二郎の結論に、きっぱりと祥之助は否定した。
「依代様は本当に見えてなどいません。ただ、『視えて』はいます」
「…………意味が、分からないんだが……」
「ですから。『視える』世界が変わってしまったのですよ。この世のものは見えません。ですが、『あちらのもの』は視えるのです。なまじ、こちらの見えない世界にあちらのモノがやって来たのですから、かえって型抜きのようにはっきりと依代様には見えているでしょうね」
「でも、それでどうして、結界にぶつからないんだ? 結界は視えるのか?」
『あちら』がどちらかなど誠二郎には分からない。だが、鬼が出て来たことでそういうのなら、そういう世界のことを言っているのだろうと納得して話を進める。鬼を目の前にして、存在意義やそれが棲む世界を疑うだけ時間の無駄だと、常識を覆されまくっている誠二郎は腹を括って思う。
しかし、祥之助の答えは少し違った。
「結界も見えてはいませんが、座敷の広さはもう把握されていますから」
「把握?」
「ええ。初めにやって来た時、部屋の広さやどこに何があるかは既に調べ済みです。結果、自分が座敷のどの辺りにいて、何歩で壁に辿り着くかなどを頭の中だけで処理しています」
「嘘だ」
「嘘ではありません。視覚が奪われてから身についた特技だそうですよ。お陰で新しい場所に行くまではワタシの手を借りてくださいますが、範囲を特定してしまえば、把握してしまえば、あのように自由気ままに動き回ります」
どこか投げやりに不貞腐れた調子でさらりと答えられるが、到底そんなことを誠二郎には信じることが出来なかった。自分が出来ないからこそ、俄かには信じられなかったのだ。
だが、事実なのだろう。依代は一度も鬼に捕まることなく、鬼を翻弄し続けていた。
「あなたは何故、あの人を掛け軸の中へ引きずり込んでしまわれたのですか?」
自身に伸びて来る腕を避け、蹴り抜かれる足を鞘で受け止めつつも後方へ飛んで威力をなくし、
「これまでに引きずり込んで行かれた方々は、今も無事に生きていられるのでしょうか?」
そのまま突撃して来る鬼を横に飛んでやり過ごす。
「そもそも、初めに掛け軸の中にいた《菩薩》様とあなたは同じものなのですか?」
鬼は依代を追いかける。目を怒りに爛々と輝かせ、鋭い牙を剥き出しにして、追いかける。追い詰める。
「私は単に答え合わせがしたいのです」
鬼が依代を壁際に追い詰めたと思った瞬間、依代が壁を駆け上がり後方宙返り。
鬼の頭上を飛び越えて背後に降り立つ前に、鬼は盛大に壁に衝突。衝撃音が座敷を震わせ轟いて。停止。
「あなたの存在がなんなのか。どうして鬼となってしまったのか」
依代がその背中に向かって問い掛ける。
「私は、知りたいのです」
鬼が、ゆっくりと、振り返る。
「あなたは、一体、誰ですか?」
煮え滾る闘気を全身から噴き出しながら、鬼は、咆えた。
反射的に誠二郎は両耳を塞いだ。
それでも衝撃波は誠二郎を襲った。
びりびりと座敷が、屋敷が震えた。
叩きつけられる怒りと殺意に、全身に怖気が走り、寒気を伴って鳥肌が肌の表面を覆う。
それでも依代は耳を塞ぐこともなく、まっすぐに鬼と対峙していた。
小柄な依代を覆い尽くさんばかりに巨大な鬼だった。
ただでさえ恐ろしい存在が、本気で怒りを爆発させた。
誠二郎は殺されるのだと思った。
おい。と祥之助に声を掛けようとして止めたのは、祥之助が握った拳を震わせていたから。
助けに行きたくないわけがなかった。
今すぐにでも本当は助けに行きたいのだということが、痛いほどに伝わって来た。
だが、依代はそれを拒絶していた。誰も入れない結界を張って締め出したのだ。
意味が分からなかった。
何をしたいのかが分からなかった。
てっきり退治するのかと思えば、逃げ回るだけ。挙句に訳の分からない質問ばかりを次々と繰り出す。
これでは、助けに行きたくとも行けない祥之助は堪ったものではないだろうと思う。
「どうか、お願いします」
それでも依代は鬼に訴える。
「どうか教えてください。あなたは誰ですか? 何故鬼になってしまったのですか?」
それを知って一体何になるのかと、誠二郎の中にも苛立ちが生まれる。
鬼の殺意と、祥之助の怒気。
二つを浴びせられている誠二郎は完全に腰が抜けて動けない。失禁しないだけまだマシだと思う程度の現実逃避をしてみる中で、誠二郎は聞いた。とても聞き捨てならない耳を疑う台詞を。
「それが解からなければ、私はあなたを喰らえません!」
は? と、内心で疑問符を掲げる。
喰らうと言ったか? 何を? 誰を? 誰が?
何かの聞き間違いかと思った。
思っている間にも、鬼が依代に襲い掛かる。
依代は逃げる。狭い空間にも関わらず。目が見えないにも拘らず。時に捕まりそうになりながら。時に追い詰められながら。壁すら足場にして逃げ回る。
くるり、くるり、その身を躱し。仰け反り、やり過ごし、滑り込み、翻弄する。
鬼は躍起になる。忌々しげに顔を歪め、腹立ちまぎれに柱を抉る。畳に拳を打ち付けて、怒りを糧に獲物を追う。
「どうかお願いします。これはあなたのためでもあるのです!」
依代が悲痛な声で訴える。
一体何がしたいのか解からない。それがどうして鬼のためになるのか解からない。
そもそも、鬼に言葉が通じると本気で思っているのかと、誠二郎は依代の正気を疑う。
答えるわけがないのだ。答えるはずがないのだ。
鬼は唸り声しか上げていない。怒りの感情しか上げていない。
生身の人間からしてみれば、圧倒的で絶対的な恐怖の対象である鬼。
その鬼を、喰らうと依代は言った。
鬼自身のためであるとも言った。
自分からわざわざ逃げ場をなくすように結界を張り、その上で挑発を繰り返す。
挑発。
そう。挑発以外の何物でもなかった。
まるで目の見えない鬼を、『鬼さんこちら。手の鳴る方へ』とわざわざ誘導するかのように、怒りを駆り立て、殺意を滾らせ――
それでいったい――何をしたいのかが見えてこなかった。
理解の外にいた。いつもこんなことをしているのかと祥之助に問い掛けたくもなった。
奇生種屋の主とは一体何なのか。
その奇生種屋で取り扱っている品々の曰くとは何なのか。
主でありながら、自ら危険を顧みずに、恐ろしい存在と相対する必要がどこにあるのか。
何のための《身代わり人形》なのか。
誠二郎の頭の中で、様々なことが答えもないままにぐるぐると激しく回る。
「今のままのあなたを斬るわけにはいかないのです!」
侮辱だった。
「あなたがあなたであることを教えてもらわないと救えないのです!」
傲慢だった。
自分が鬼よりも強いと言っていた。
眉尻を下げ、心底心配だと訴えていた。
弱い者が浮かべるものではなかった。弱い者であれば浮かべられるものではなかった。
強きものが浮かべる同情は、しかし、相手によっては逆効果。
「どうか落ち着いて下さい!」
今更だった。
「初対面の出会い方が悪かったことは謝ります。問答無用に棲み処を荒らしたことも謝ります。ですが、私は本当にあなたと話がしたかっただけなのです!」
信じられるわけがなかった。
依代は言っていた。縁を切るために呼び寄せるのだと。退治するとも言っていた。
それは普通であれば消滅させることだと誠二郎は思っていた。
それが今度は話がしたいだけという。
話が二転三転と変化した。
真意がどこにあるのかが解からない。
何をしたいのかが解からない。
信用してもいいのかが解からない。
依代という存在そのものが解からない。
誠二郎は、自分が一体何を見ているのか、本格的に解らなくなっていた。
それでも、
「あなたにとって、この明るい時分に『こちら』にて活動するのは酷く辛いことだということは判っています。今も容赦なく体力が削られているということも分かっています」
事実、信じがたいことだが、依代を捕らえ損ねた鬼がたたらを踏んでよろめいていた。
目を疑うようなことだが、肩で息を吐いていた。疲れているのだ。
対する依代だとて、さすがに額に汗を掻き、落ち着かせようとはしているものの息が上がっている。
極度の緊張状態が続いていたのだ。一瞬でも気を抜けば、容赦のない一撃が一瞬にして依代の命を奪うことが確定していた。
目が見えていたとして、誠二郎は命がけの《鬼ごっこ》を勝ち抜けたとは思わない。依代よりも生き延びられたとは思わない。
驚異的なことなのだということだけは理解できていた。到底真似など出来ないということは理解できていた。
両者互いに間合いを取りつつ、ゆっくりと右回りに移動する。
攻める瞬間を見つけるために。
攻めて来る瞬間を見逃さないために。
ゆっくりとゆっくりと互いに畳の上に足を滑らせる。
両者互いに呼吸を整える。
誠二郎は固唾をのんで見守った。
ごくりと唾を飲み込むことすら憚れるほどの緊張感。
音の一つも立てることなど出来なかった。
瞬きをした瞬間、涙が滲む。滲むほどに瞬きをしていなかった。出来なかったのだと気が付いたとき、鬼の足が、ぴたりと止まった。
鬼がぐっと腰を鎮めたのは掛け軸の前だった。
一拍後、鬼が依代目がけて飛び出す――と思った誠二郎の期待を裏切り、
「え?」
鬼は刹那に踵を返して掛け軸の中へと飛び込んだ。直後、
「待っていました!」
声を弾ませた依代の姿が一直線にその後を追い、水面に広がる波紋のごとく揺れる掛け軸の中へと消えて行った。
「え?」
後には、間の抜けた声を上げる誠二郎と。
ダン! と、苛立たしげに床に足を踏み下ろす祥之助が取り残された。
日はすっかり中天へと昇り切り、どこかで『飯だよぉ!』と昼餉に誘う声がして。
誠二郎は、怒り心頭の祥之助を前に、どうすればいいのか分からずに泣きたい気持ちで途方に暮れた。
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