(4)


「さて。では初めからお訊ねしますね」

 と、依代が切り出したのは、もう用はないとばかりにさっさと鬼が訪れた家を後にした帰り道。誠二郎は完全に依代に対して恐怖心にも似た警戒心を覚えていた。

 一体何を訊ねて来る気だと、顔を強張らせて自分の前を行く依代の頭を見る。

 依代は、振り返ることもせずに、恐れることも迷うこともなく足を進めながら質問を口にした。

「あの掛け軸をどこで手に入れたのですか?」

 当然と言えば当然の、直球の問い掛けだった。

 だが、その問いを向けられた瞬間、見えない刃が誠二郎の胸を深々と突き刺したような痛みを齎した。息が詰まった。咄嗟に胸元を握る手に力がこもる。

「あの屋敷は頂いたものとお聞きしました。だとすれば、元々はあのような立派なところにお住まいではなかったはずです。ましてやあなたには菩薩を信心する気持ちはありません。そんな人が、何故菩薩の描かれた掛け軸など所有していたのでしょうか?」

「は、初めから持っていたと言えば、おかしいのか?」

「ええ。おかしいですね」

 あっさりと笑い飛ばされた。

「ハッキリ言って似合いません」

「暴論ですよ、依代様」

 困ったものだと言わんばかりの祥之助の突っ込みが入るも、すでに人間ではないと見せつけられた以上、騙されて堪るかと誠二郎は恐怖する。

「ですが、事実です。なんだか分からないが、ありがたいものだと初めから拝むような人が、村八分にされると思いますか?」

「思いませんね」

「偏見だろ!」

 図星を突かれて思わず声を荒げれば、「違うのですか?」と振り返らずに返された。

「すぐに反論できないところが雄弁に物語っていますよね? 言いたくないのであれば別にいいですが、もう一度だけ聞きます。あの掛け軸をどこで手に入れたのですか?」

 最終通告だった。

 何故か。誠二郎は言いようのない焦燥感に苛まれた。

 別に言う必要はどこにもないと思う。黙っていたところで問題はないのだと思う。

 これまで誰にも言って来なかった。これからも言うつもりもなかった。

 だが、ずっと後ろめたい想いがあった。こんなことになるなど思いもしなかった。

 もしかしたら……という思いがある。

 怖かった。恐ろしかった。あの掛け軸のある屋敷に帰るのは。

 人を飲み込む掛け軸となっていた。

 鬼が抜け出す掛け軸となっていた。

 一体いつ自分まで鬼に攫われて飲み込まれるか分かったものではない。

 だとしても、話したからと言って何になるのか。

「あれは、拾ったんだ」

 随分とあれやこれやと考えていたような気がした。

 別に話さなくてもいいじゃないかと、黙っていることを決めたような気がしていた。

 だが、実際には誠二郎は口を開いていた。

「村の外で、行き倒れていた奴の荷物から……」

 嘘だった。本当は――

「嘘は見抜けると言ったはずですが?」

 溜め息交じりの忠告に、ぎくりと誠二郎は体を強張らせて言葉を飲み込む。

「別に事実がどうであれ私には関係がありません。ただ私は知りたいだけなのです。どういった経緯であなたの手にあの掛け軸が渡ったのかを。どうしてあなたのもとでその掛け軸に《力》が宿ったのかを。

 ですが、そうですねぇ。あからさまな嘘を吐くぐらいですからおそらく……拾ったのではなく奪ったのではないですか?」

「ぐっ」と喉が変な音を立てた。

「ふむ。中らずとも遠からず……ですか」

「な、何で?」

「勘です。ですがそうですか。奪ったのですか。誰からですか?」

「え?」

「誰から奪ったのですか?」

「え、絵師だと、言っていた」

「そうですか。何故?」

「……食っていくための、金が欲しかったから」

「そうですか」

 依代は非難することなくあっさりと頷いた。

 そのまま重ねて問い掛けて来ることはなく、勝手知ったる足取りで祥之助と並んで足を進める。

 それが何故か、誠二郎には堪らなくやるせなくて、まるっきり無関心になられたことに無性に焦りを覚えて。

「仕方がなかったんだ!」

 気が付くと言い訳を並べていた。

「俺はあの村にとって初めからお荷物だった。あの村は退屈で、楽しいことも何もない中、ただ馬鹿みたいに野良仕事をしているのが嫌で、親父たちが生きていた頃は、小銭をくすねては村を出て、博打を売っては一喜一憂。賭場は転々としていたから、負けたところで借金なんて踏み倒して逃げまくってた。どうせ見つけられないと思ってたんだ。でもある時、下手を打った。負けが込んで借金踏み倒して逃げ切れたと思ったら、アイツら村まで見つけてやって来た」

 その時の光景をまざまざと思い出し、誠二郎は自身の体を両手で抱く。

「俺はすぐにアイツらだと解かって姿を隠した。あいつらに応対したのは親父だった。お袋は元々いなかったし、女兄弟もいなかった。だから、身売りさせる相手もいなかったあいつらは、親父をボコボコにして、同じ目に遭いたくなければ村中から金かき集めて耳を揃えて返せと言った。当然、村の連中が快く払うわけがねぇ。でも、払えねぇなら売れそうな連中を何人か連れて行くって言われて、恨むなら俺を恨めって言い放って。村の連中はなけなしの金を集めてそいつらに支払った。親父はその時の怪我が元でこの世を去った。俺はその日から、村八分になって、皆に恨まれた」

「……それでよく、村にとどまっていましたね。針の筵でしたでしょうに」

 過分に同情の含まれた声だった。

 それでも依代は振り返ることはしない。

「俺だって、何度出て行こうとしたか知れねぇよ。でも、それでも、一応それだけのことをした自覚はあった。俺は憎まれていたけど、それでも、俺の親父の葬式を村の連中は上げてくれたから。せめて、少しでも恩を返さなきゃと思って――」

「思って、何をしたのですか?」

「…………」

「何を、したのですか?」

「手っ取り早く、稼ごうと思って」

 言葉が詰まっていた。心の臓が痛いほどに胸を叩いていた。

 別に自分は清廉潔白な人間ではない。人間ではないが、

「盗賊……まがいのことを、した」

「そうですか」

 さほど興味などないと言わんばかりの驚きも何も含まれない返しだった。

「だって、仕方がなかったんだ! 手っ取り早く稼ぐには、金目の物を狙うのが一番だと思って、村の外で、村から離れた場所で、旅人を襲った。別に殺すつもりはなかった。脅して金目の物を奪えればそれでよかった。その時、そいつと出くわした」

「そいつ……とは、掛け軸を持っていた方ですか?」

「ああ。小さな荷物を背負って道端で蹲ってた。どうしたのかと声を掛ければ急な差し込みを覚えたと言っていて、とりあえず介抱する振りをして、何を売ってるのか聞き出した。男は駆け出しの絵師で、でも、その絵がえらく気に入られたから売りに行くのだと言っていて。絵の良しあしは解からねぇが、気に入られたのならそれなりの値になるのだと俺は思っていた。だって、絵ってやつは高いだろ? だから、それをいただこうとしたら、あの絵師は酷く抵抗して。で、もみ合っているうちに倒れたところに運悪く石があって、それで、頭を打ったそいつはそのまんま……でも! 俺はそれまで誰一人手に掛けたことはなかったんだ! あれは事故だったんだ! だから俺は、荷物だけ頂いて逃げた」

 今でも誠二郎の夢には時々その時の光景が現れた。

 どうして? と怯えて涙を流していた男の姿が蘇る。

「俺は逃げるように家に帰って、そして、あの掛け軸を見つけた」

 何故か、その掛け軸の菩薩に心を奪われた。涙が自然と溢れていた。

「俺はそれを見て、心の底から後悔した。自分は何をしたのかと、これまで何をやっていたのかと、心の底から後悔した。自分でもなんだってそんなことを思ったのか解からない。解からないが、自然と手を合わせていた。

 それから俺は、毎日その絵に手を合わせて生まれ変わることを誓った。簡単には許してもらえるものじゃないが、あの絵師が極楽に行けるように祈って、村の連中にも恥じないように生きようと思った」

 本当に、辛い日々だった。

 誰も許してくれない日々。努力が認められない日々。誰も相手にしてくれず、話し相手もおらず、いるのにいない存在として扱われた日々。

 何度村の連中の態度にキレかけたか分からない。もう認めてもらうことを辞めようと思ったか分からない。

 その度に、誠二郎は菩薩の掛け軸に文句を言って不満を垂れて、最後には反省して頑張ろうと誓っていた。見守っていてくれと。きっと変わって見せるからと。

 その頃、あのおかしな病が生まれた。

 村のあちこちで、身の毛もよだつような悲鳴が上がった。人の手足が突如腐って落ちる様を見た。怖気の走る光景だった。誰もが家の外で吐き出していた。体が震えた。明らかにおかしな出来事に、誰も冷静な判断など出来なかった。

 一夜にして多くの村人がこの世を去った。呪いだと誰かが言った。祟りだと誰かが言った。

 その原因は分からないが、流行り病と言われるよりは、よほどしっくり来るものだった。

「俺は祈ったよ。心の底から祈った。どうか助けてくれと。村人たちのことを助けてくれと。俺の命一つで大勢が助かるなら、今こそくれてやるから、どうか助けて欲しいと。するとな、声がしたんだ」

「声ですか」

「ああ。『あなたの声に応えましょう』ってな。幻聴かと思ったさ。でも、顔を上げると掛け軸そのものが淡く輝いていたんだ。菩薩の姿に後光がさしてたんだ。俺は本当なんだって思った。助けられるんだって思った。だから従った」


――日々感謝の心をお持ちなさい。そうすれば常に守られ続けます。


 その言葉に従って。誠二郎は人々を救った。

 結果、村人たちは手のひらを返したように誠二郎を慕った。崇めた。誉めそやした。

 扱いがまるで変わった。着物を繕ってもらえた。食事を運んでもらえた。目を見て話してくれた。笑顔を向けてもらえるようになった。

 誠二郎は、嬉しかった。皆に認めてもらえることが嬉しかった。

 誠二郎と《奇跡の掛け軸》があれば、誰も病で苦しむことがないと、誰もが口にした。

 事実、どんな病も誠二郎がいれば立ちどころに治してもらえた。

 その話が外へ伝わり、お偉いさんたちにも伝わり、誠二郎は村を出ることが多くなった。

 誰も彼もが誠二郎を敬った。褒美の品をたんまりくれた。屋敷が建った。立派な着物を着ることが出来た。金が貯まった。村が潤った。

「皆、俺に感謝した。気分は良かった。でも、あれもこれもとあっちからもこっちからも病を治してほしいって話を持ち掛けられて、俺は選ばなきゃならなくなっていた。村を潤すためには褒美を弾む奴が良いって選ぶようになって、気が付いたら、菩薩が鬼になっていた。意味が分からなかった」

「そうですか?」

 と、全てを語り終えたとき、依代は不思議そうに訊ね返して来た。

 そこは既に屋敷の前だった。

 振り返った依代は柔らかく微笑んでいた。

 だが、誠二郎の足はピタリと止まった。

「私には今回この村でどうして病が発生したのか、菩薩が鬼に成り代わってしまったのか、よぉく解りましたよ?」

「え?」

「すべてはあなたの自業自得」

「はっ?」

「すべてはあなたが招いたこと」

「どういう、ことだ?」

「わかりませんか?」と依代は小首を傾げて見せた。

「あなたは村中から恨まれていた。憎まれていた。その渦巻く暗い暗い人間の想いによって生み出された《澱み》に、決定的な刺激を与えたのは、あなたによって将来を奪われ命を奪われたその絵師。あなたは自分可愛さに他人の将来を奪ったのです。前途洋洋だったかもしれない絵師の将来を。どれだけの無念と恨みを抱いたことでしょう。その想いはあなたについて来たのでしょうね。そして、村に蔓延るあなたに対する憎しみと恨みによって作られた《澱み》と一緒になった。ですが、いよいよあなたに復讐の時だと向けられた強い強い想いは、同じように強い強い想いを宿した《奇跡の掛け軸》によって阻まれました。阻まれた想いは呪詛返しのように村人たちに返りました。《澱み》は《瘴気》を生み、人体に悪影響を及ぼしました」

「つまり?」

「あなたが治してくれたと皆さんは思っているようですが、元を正せば、あなたのせいで余計な苦しみを味わっただけで、決して感謝してやる必要はなかったのです」

「そ、そんな……」

「ですが、その時のあなたは、純粋に皆を助けたかったはずです。もしかしたら、元々その絵を描いた絵師さんが、苦しむ人々を救ってくださいと、心を込めて描いていたのかもしれませんが、その気持ちと同調して今回は奇跡が起きました。《菩薩》が菩薩として力を発揮したのです。ですが、ここで気をよくしたあなたは一つの過ちを犯すのです」

 眉根を少しよせ、困ったような苦笑を浮かべ、

「あなたは、苦しむ人々を救うことよりも、利益を優先するようになったのです。ようは、欲をかくようになってしまったのですよ」

 その言葉は、容赦なく誠二郎の頭を殴って行った。

 指摘されて、初めて思い至ったことに。

 全ては自分のせいだったと突きつけられてしまったことに。

 結局自分は何も変わっていなかったと気付かされてしまったことに。

「あなた自身。掛け軸に対して感謝の気持ちを失っていたのではありませんか?

 掛け軸の《菩薩》こそが救い主だというのに、まるで自分が治してやっているのだと思うようになってはいませんでしたか? 自分がいればどんな病も治せる。高額な褒美を貰うのが当たり前だと思うようになってはいませんでしたか? そうやって村を潤す自分こそが村の救い主だと思うようになってはいませんでしたか?」

 否定は、出来なかった。

「徐々に欲にまみれて行ったあなたの心が伝わって、《菩薩》は鬼となったのです。そして、鬼となった《菩薩》はあなたの欲のせいで感謝されることを望むようになったのです。先ほども言いましたが、感謝されることで村人たちを守ろうという気持ちもあったのでしょうが、結果は同じです。つまり、此度のことはすべて、あなたが向けられた感情の全てが、あなたの自業自得だったのだということがハッキリと解りました」

 ありがとうございます。と締めくくられた言葉が、完膚なきまでに誠二郎のなけなしの自尊心を打ち砕いて行った。

 村人たちにはずっとずっと迷惑をかけて来た。自分のせいで不要な苦労を掛けて来た。

 今回奇跡の掛け軸を手に入れて、これでようやく恩返しができると思っていた。

 皆を助けることで、自分も救われて行く感覚を持っていた。

 それが、全てまやかしだと突きつけられて、全てがやはり自分のせいだと突きつけられて。

 誠二郎はその場に崩れ落ちて、声もなく涙を流した。

 嗚咽すら漏れなかった。ただただ静かに涙をこぼしていると、初めて依代が誠二郎に近づいた。

 目の前に来て視線を合わせるように屈みこむ。

 そして、ふわりと微笑んで言ったのだ。

「だからこそ、面白いのです」

「?」

 言われた意味が分からなかった。

「私はそんな曰くまみれの《奇跡の掛け軸》がどうしても欲しくなりました」

 何を言っているのだろうかと戸惑った。

「本当は、この目を治してもらえればそれだけで良かったのですが、こんな面白いものを手に入れないわけにはいきません。故に、奇生種屋の主としてあなたに商談を持ち掛けます。是非、《奇跡の掛け軸》を私に譲ってくださいませんか? 対価はあなたの命」

「い、のち?」

「はい。たとえ今から心を入れ替えたところで、あの鬼が集めるのは負の感情。あなたに向けられる憎悪や悪意。今はまだ大丈夫でしょうが、そう遠くない内にあなたが掛け軸の中に攫われる可能性だって十分にあるのです。故に、あなたの命を守る代わりに、あの掛け軸を譲ってもらうことは出来ませんか?」

 本来であれば心をくすぐる仕草だっただろう。

 可憐な娘が伺いを立てるように小首を傾げて上目遣いに見て来ることは。

 だが、この時、誠二郎は思った。

 鬼よりも何よりも、今誠二郎を救ってくれると言っている依代が何よりも怖ろしいと。

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