(3)
「き、きしょうしゅや?」
聞き慣れぬ名前に、妻がかろうじて応じると、
「はい。そして彼は当店にて取り扱っております《身代わり人形》の祥之助」
「みがわり……人形?」
「はい。人形代(ひとかたしろ)というものをご存じですか? 《撫で物》とも言いますが、汚れや病を移して川に流したり燃やしたりする、人の形を模した身代わりとなるものですね」
何を言っているんだ、この娘は……という顔が向けられる。
「人形って、その人は人間だろ?」
恐る恐ると言わんばかりに口調で、祥之助に救われた大黒柱が念を押せば、
「いいえ。人形です。だからこそ、あなたの病をその身に移し、あなたを救うことが出来たのです」
「救うったって……」
「さもなければ、普通の人間が刀を突き立てられて眉の一つも動かせずにいられるわけがありません」
クスクスと、口元に手を運んで娘が笑う。
足を失わずに済んだ安堵感よりも、命を失わずに済んだ安堵感よりも、意味不明なことを口走る娘と状況に、兼一の一家のみならず、誠二郎も、辛うじて話が聞こえていた野次馬の一部も、薄ら寒いものを覚えて、表情を強張らせた。
「まあ、俄かには信じ難いことだということは私も理解しております。ですが、世の中には祥之助のような《身代わり人形》も確かに存在しているのです。そして、私どもの《奇生種屋》では、このような変わり種。曰くつきの品々を貸し出す、少し特殊な損料屋を営んでおります」
損料屋? という声なき声が、疑問の声が辺りに漂う。
それが聞こえているかのように、娘の笑みは一層深くなり、
「故に、此度の騒動にとても私は興味を持っています。かつてこの村で起きた恐ろしい病。それを治してくれた《奇跡の掛け軸》。それによって救われたはずなのに、再発する者としない者がいる事実。この差は一体何なのでしょう?」
「し、知るか、そんなの!」
得も言われぬ薄ら寒い何かを娘に感じた大黒柱が、すり寄って来た妻の肩を抱きながら斬って捨てれば、
「本当に、知りませんか?」
娘は眼を細め、穏やかな口調で再度念を押して来た。
「本当に、皆様心当たりはございませんか?」
背後を振り返り、野次馬たちにまで問い掛けて、娘は再び夫婦に視線を戻して言った。
「実は昨夜のことです。皆様の言う《奇跡の掛け軸》から鬼が抜け出しました」
「「は?」」
あまりに突拍子もない言葉に、間の抜けた声を上げる夫婦。
しかし娘は詳しい説明などしないままに後を続けた。
「私と祥之助はその鬼の後を付けました」
「え?」とこれは誠二郎が上げたもの。
「すると鬼は、こちらの家の前に立つと、『返せ~返せ~』と何かを要求しておりました。そして、返さぬのならば返してやると、何か放る真似をして、再び掛け軸の中へと戻って行きました。思うに、あなた方が何かを返さなかった故に、病を戻されたのではないでしょうか?」
「そんな、こと、言われても……」
「困惑なさる気持ちも分からなくはありません。ですが、よく考えてみてください。原因も分からぬままに起きた病。それを奇跡の力で治してくれたものがある。大抵の場合、そういう時は何かしらの交換条件を付けられるものです」
「「!」」
刹那、内と外から息を飲むような気配がした。
「皆様は、病を治してもらう際、何か交換条件を言い渡されたりはしませんでしたか?」
「嘘だ……。まさか、そんな」
と、半ば呆然と信じられない面持ちで言葉を紡いだのは大黒柱その人。
「心当たりがおありでしたか」
娘が満足そうに一つ小さく頷く。
「一体その条件とは何だったのですか?」
「毎日、感謝……する、こと、だ」
「まぁ。それはそれは簡単なことですね」
「でも、だからって、そんなことで?」
と、悲鳴染みた声を上げたのは妻の方。
家の外でも成り行きを見守っていた野次馬たちが、そこここで言葉を交わす気配がし出すが、
「そんな簡単なことですら、続けることが出来なかったのですね」
薄ら笑いにも見える笑みを張り付けた冷たい声に、誰もがぎくりと身を強張らせた。
「何のことはない。これは自業自得が招いた結果だったわけですね」
笑みを含んだ言葉は、過分に聴くものたちを責めていた。
「助けてもらう時は何でもするから助けてくれと縋っておいて、喉元が過ぎれば『そんなこと』と約束を反故にする。人ですから、たまに忘れるときもありましょう。それでも、思い出したときに一つ感謝の念を向けるのに、一体どれだけの労力を必要とするのです? ただ、感謝の気持ちを持てばいいだけだったのですよね? 何かを捧げろと言われたわけでも、祝詞を唱えろと言われたわけでも、感謝の舞を捧げろと言われたわけでもないのですよね? そんな簡単なことも出来なかったというのであれば、それは菩薩も鬼になりましょう。治した病を戻すこともありましょう。約束を先に破ったのはあなたたちの方なのですから」
「でも! 菩薩様がそんなことで鬼になんかなるわけがない!」
と、反論したのは野次馬の一人。
そんな野次馬たちに向かって振り返った娘は、
「馬鹿ですか?」
満面の笑みを浮かべて朗らかに罵倒した。
絶句だった。
なまじ整った顔に柔らかな微笑みを浮かべての聞き間違いようのない罵倒は、それだけで聞く者すべての頭を殴って行くかのような衝撃をもたらした。
「掛け軸に描かれたただの絵が、本物の菩薩なわけがないでしょう。あの《菩薩》は、菩薩として描かれたために、菩薩として役割を背負わされ、期待され、期待に応えるように力を得たにすぎません」
「力を、得る?」
掠れた声は誠二郎のもの。
「そうですよ。モノに魂が宿るという話は誰しも聞いたことはあるのではありませんか? たった一人に大切にされたモノにも。数多の人の手を渡り歩いたモノにも、数多の人々に祈りと願いを向けられたモノにも、想いを向けられた分魂が宿ります。人の想いは強ければ強いほど。多ければ多いほど。これまでは不可能でしかないと思えることを成し遂げてきました。それだけに、想いを傾けられ注がれるという行為は強い力を持つのです」
「「…………」」
「信じられないのも無理はありませんし、無理に信じろというつもりもありません。ただ、私どもの取り扱う品々は、全て想いによって特別な力を有した者たちばかりです。故に、このような状況はさほど珍しくありません。《菩薩》として描かれた以上、人々が想う菩薩としての役割を、力を、得たとしても、私にしてみれば何の不思議もないのです。
ですがそれは、あくまでも皆さんがあの《菩薩》を菩薩として認識していて初めて成り立つものです。皆さんが毎日感謝することで、掛け軸に描かれた《菩薩》は菩薩として力を揮うことが出来ていました。ですが、日を追うごとに感謝する気持ちが薄れどうでもよくなれば、あの《菩薩》は自身が何なのか存在意義が朧げになって行きます。代わりにむくむくと膨れ上がるのは、皆さんから回収した病の元凶。それが朧げになった《菩薩》を喰らい、鬼と化した。よろしいですか?」
と、娘は一度ぐるりと周囲を見回した。
「鬼は、元は《菩薩》です。皆さんが生み出し力を与えた《菩薩》です。その菩薩が鬼と化し、夜な夜な掛け軸から皆さんの元へ出向いて『返せ返せ』と忠告して歩いていたのです。裏を返せば、感謝の心が向けられなければ、皆さんのことを守り切れないと《菩薩》の心が訴えていたということです」
誰もが気まずそうに俯いた。
「現に、今も再発されていない方々は信心深い方々で、毎日忘れずに感謝の祈りを捧げているのでしょう」
「でも、だからってこの仕打ちは――」
「あんまりだと言うのですか?」
つい先ほどまで、足と命を失いかけていた大黒柱が弱弱しくも反論を試みると、みなまで言わせずに言葉尻を取られた。
「自分たちは何もせずに、恩恵だけはその身に受けようというのですか? それは働かずして他人の作った作物を奪う行為と同じです。金を払わずして欲しいものを手に入れようとするのと同じです。盗人猛々しいとはこのことです。逆の立場になってみてはどうでしょう? 丹精込めて作ったものを、遊び惚けていた者が横から奪い去って行って気分はいいですか? 心を込めて砕いた相手に、感謝の一つもされずに当たり前だと上から目線で言われて気分はいいですか? 腹は立ちませんか? 憎しみは生まれませんか?」
反論する者はいなかった。
「その結果が鬼であり、その結果がこの悲劇的な状況なのです。
ですが、私から言わせれば全ては自業自得。自らの行いが招いたこと以外の何物でもありません。これに懲りたら、これからでも改めて毎日感謝の気持ちを伝える努力をするべきだと思いますよ? 皆さんも」
と、娘はふわりと微笑んで野次馬たちに向かって言った。
「同じような想いをしたくなければ、過ちを繰り返さないことをご忠告いたします。どうか、そのことを村中の皆さんで共有し、肝に銘じておいてください。そうすれば、病の再発などということは起きないと思いますよ?」
と言われ、見た目とは裏腹に『否』を許さぬ気配に押され、人々は無言のままにただ頷くことしか出来なかった。
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