(2)


「失礼いたします」

「え?」

 突如戸口から入って来た見知らぬ娘を見て、今にも左足を腐り落とされそうになっている男の妻は戸惑いの声を上げていた。

 明け方、何の前触れもなく突如上がった絶叫は、共に寝ていた夫のもの。

 心の臓が飛び出すほどの驚きと共に目覚めた家族は、冷や汗とも脂汗とも言えない汗を滝のように流しながら、痛みにのたうち回っている大黒柱の姿を見た。

 悲鳴によって突如起こされた面々は、一瞬何が起きているのか理解できなかった。

 完全に油断していた。想像すらしなかった。まさか、あの忌々しい痣が再び家族の大黒柱の足を襲うなどということを。

 実際に目の前で見ていても俄かには信じられなかった。言葉もなく目を見開いて見ていることしか出来なかった。

 それを動かしたのは、数多の針――いや、鉄串に刺し貫かれているような痛みと熱に襲われている大黒柱自身。

 ガッと隣で手を付いて、血の気を引かせて固まっている妻の腕を、握り潰さんばかりの強さで掴み、獣のごとき咆哮を上げたとき、兼一(かねいち)は『誠二郎を連れて来る』と家を飛び出した。

 苦しみ喚き、呻く父親の姿を見た幼い子供たちは、一様に怯えて年老いた祖母が部屋の隅で抱きしめて宥める。その孫を抱く祖母の顔も、我が子を失う恐怖に顔を引きつらせて怯えていた。

 大黒柱は痛みに苦しみのたうち回る。涙を流し、涎を垂らし、痛い痛いと。熱い熱いと。助けてくれと懇願しては合間に咆える。絶叫だった。

 見ていることしか出来なかった妻は、金縛りに遭ったかのごとくその場から逃げることも出来ずに、目を逸らすことも出来ずに、ただボロボロと涙をこぼしながら見ていることしか出来なかった。掛ける言葉がなかった。言葉自体が出て来なかった。

 早く速くと願うことしか出来なかった。速く誠二郎を連れて来てくれと、兼一に願うことしか出来なかった。

 すっかり日が昇り切り、家の前に野次馬が集い始めていることすら気付かず、時の流れすら麻痺していた時、がらりと戸口が開いたなら、弾かれたように妻は戸口を見た。

 連れて来たぞ! という、頼もしい息子の登場を疑いもせず。

 だが、実際目の前に現れたのは、まったく見たことのない娘だった。

 漆黒の長い髪。白い肌に紅葉柄の小袖に臙脂色の袴。不釣り合いな黒い刀を腰に、人ならざる瞳の色を持った娘が、何故かふわりとした微笑みを浮かべて立っていた。

 二の句など次げなかった。

「だ、誰だい?」

 と問えたのは、娘の後ろから更に見知らぬ男と、見知った顔の誠二郎が現れたから。

 誠二郎がいるなら、兼一はどうしたのかという当然の疑問を持てたから。

「誠二郎さん? あんたを呼びに行った兼一は?」

 縋るように問い掛ければ、誠二郎は眉を顰めて気まずそうにサッと視線を逸らした。

 意味が分からなかったが、嫌な予感だけがむくむくと膨れ上がる中で耳朶を打つ大黒柱の絶叫に、妻は身を乗り出して懇願した。

「とりあえず、兼一のことは後にして、あの人のことをまた治しておくれ! 頼む、この通り」

 と頭を下げて目を上げたとき、妻は見た。誠二郎の手に掛け軸の姿がないことに。

 何故? と不信感が溢れ返った。

 姿を現さない息子。目を合わさない誠二郎。持参されなかった掛け軸。神隠しの噂。急き立てるように上がる大黒柱の悲鳴。

 嫌な予感しかしなかった。頭の中が白くなりそうだった。

 罵りたいのか懇願したいのか、何をどう口にしたらいいのか分からぬ妻が、口を無意味に開閉する――その横で。

「祥之助。状況を説明してください」

 微笑みを浮かべた娘が、見知らぬ青年に声を掛ける。

「はい」

 と一言応じた青年が、娘の前に出て、

「失礼しますよ」

 当然のように畳の上に上がり、

「な、何をするんだい?!」

 妻の言葉を完全に無視すると、『痛い痛い』とのたうち回っていた大黒柱の腐り始めた足を両手でいきなり掴み、

「あーこれは酷い。既に足の表面が腐り始めています」

 顔を顰め、嫌がるように少し引きながら、恐ろしいことをさらりと口にした。

「それは、足だけですか?」

「はい。足以外に異常は一つとして見受けられません」

「そうですか。だとすれば問題はありません。私にも『それ』しか視えていませんから」

「では?」

「はい。どうやら病の正体は高濃度の瘴気によるものだったようですね。何故そんなものが人体の一部にだけ宿ったのかは知りませんが、解決できます」

「なんなんだ、あんたら! 一体、何なんだ!」

 がっしりと、万力のごとき力で足を固定された大黒柱が、涙を流し、唾を飛ばしながら怒鳴り声を上げる中。

「祥之助。お願いします」

「はい」

 と娘の言葉に応じた瞬間だった。青年の表情が一変した。

 それまで嫌悪感とも言える表情を浮かべていた青年の顔から、一切の感情がごっそりと抜け落ちた。

 まるで能面のような無表情になったのを間近で見た妻は、思わず悲鳴を飲み込んだ。

 自分の大事な夫に何をしようとしているのかという疑問はあった。余計なことはしないでくれという警戒心もあった。だが、何一つ言葉に出来ないうちに、能面と化した青年は、左手で大黒柱の足首をしっかりと掴むと、その腐り始め、腐臭を放ち始めた黒紫色に変色した足を、右手で撫でた。

「え?」

 拍子抜けの声が妻から漏れた。それ以外に妻の心情を語る言葉はなかった。

 青年が変色した足をゆっくりと撫で上げる一方で、右手が通過した傍から何の変哲もない足が現れたのだから。

「え? え? え?」

 狐にでも化かされているかのようだった。

「え?」

 と、これは、それまで痛みと熱さと死の恐怖に支配されていた大黒柱が上げたもの。

 初めは何をされるのかと怒りと恐怖でどうにかなりそうな頭の中で憎しみすら込めて睨み付けた見知らぬ青年。しかし、その青年が足を撫で上げ終えた瞬間。痛みも熱も綺麗さっぱり消え去ったのだから無理もない。

 何が起きたのか理解できない大黒柱とその妻。

 何事もなかったかのように存在する足に大黒柱は手を這わせ、何の異常もないことを知ると、感謝よりも何よりも戸惑いの表情を浮かべて、妻と青年の顔を見た。

 手足を腐らせる痣が消えた。《奇跡の掛け軸》でしか取り払われなかった病が消えた。

「あ、んたたちは一体……」

 と、掠れた声で妻が声を掛けたとき、青年は上がり框に腰を下ろし、自らの袴をめくり上げたのを見て、問い掛けを飲み込んだ。

 青年の右足が、大黒柱が蝕まれていたのと同じように黒紫色に染まり切り、ぐじゅぐじゅと腐っていたから。

 だが、青年の顔は能面のまま。眉一つ。睫毛の一つも震えない。やせ我慢などではないことは何故か分かった。冷や汗の一つも掻いていない。

 大の男が体裁も何もかもを投げ捨ててのたうち回るほどの痛みを伴うはずなのに。

 何故? という恐れに近い疑問を抱きながら青年を見ている妻の目の前で、微笑みを絶やさない娘が一歩青年に近づいた。

 そして、誰もが息を飲み込んだ。

 止める暇すらなかった。誰も想像などしなかったことが起きたのだ。

 娘が、腰の刀を抜くと、何の迷いもなく、いきなり腐り始めていた青年の足に深々と刀を突き刺したのだ。

 不思議な色の刀だった。漆黒の刀身に稲妻のごとき金色の模様が刻まれていた。

 誰も言葉を告げることが出来なかった。

 何が起きたのか理解することを拒むかのように。現実ではないと拒絶するかのように。

 その目の前で、まるで刀に吸い込まれるように黒紫色の痣が足首から消えて行くのを見てしまえば、混乱は最高潮に達した。

 一体自分たちは何を見せられているのか。

 誰一人言葉を掛ける間もなく、完全に痣が消えたと同時に刀を引き抜く娘。

「ありがとう、祥之助」

「お役に立てて何よりです。依代様」

 呆然唖然。言葉を失っている人々の視線を一身に浴びながら、労う娘と、痛みなど何も感じていないとでも言わんばかりに、目を伏せて応じる青年。

「あ、んたたち」

 と、娘と青年に対して戸惑いの声を上げたのは誰だったのか。

 おそらく、声を発した本人ですら自覚などなかったかもしれない。

 それでも娘は、何事もなく立ち上がり自身の傍に青年が並び立つ頃には、螺鈿細工の施された黒い鞘に刀を戻し、満開の桜のようなふわりとした笑みを浮かべて一度深々と頭を下げると、上げた後にこう言った。

「どうも。お初にお目にかかります。私は北の方で《奇生種屋(きしょうしゅや)》を営んでおります、依代と申します」――と。


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