(2)

『本当に何が起きても知らないからな』

 夜。金に物を言わせて拝借した一組の夜具を敷き、行燈に火を入れて、鬼はいつ出て来るのかとまるで幼子のように掛け軸に見入っていた依代たちに、最終通告をして出て行った誠二郎。

 いい加減。夜も更けましたからもう、休みましょうと、どこか怯えを含んだ声で再三、再四、再五ともなる祥之助の促しに、『結局出て来ませんでしたね』と、心底気落ちした様子で呟いた依代が渋々従って、薄い布団に潜り込み、刀をしっかりと抱きしめて横になった姿を、はやり祥之助が『その寝方どうにかしてください』と苦言を呈しても聞き流した依代の横で、夜具もなく寝転がった祥之助。

 どちらからともなく穏やかな寝息が聞こえて来た深夜も丑三つ時が過ぎた頃だった。

 先に目覚めたのはどちらだったか。

『恨めし~恨めし~』

 聴く者の魂を震え上がらせるかのように、怒りと恨みを絞り出すような声が聞こえて来た。

「依代様」

 小声で祥之助が名を呼べば、

「しっ」

 依代は短く黙るように指示を出す。

 座敷の中は異常な寒さに見舞われていた。

 秋も半ばともなればそれなりには寒くもなるが、それでも、吐く息が白くなるほど冷えることはない。

『恨めし~恨めし~』

 カタカタカタカタと小刻みに震える軽い音。

 行燈の火は消えていて、月明かりすら届かない座敷の中は真の闇。

 生身の人間では自分の手すら見えないほどの墨のような闇の中に、甘いような腐ったようななんとも言えない臭いが立ち込める。

『恨めし~恨めし~』

 カタン。カタン。と比較的、軽いながらも大きな音がして、ぎしり、ぎしりと畳を踏み締める音が続く。

 鬼が掛け軸から現れた――

 祥之助が息を飲み込み、躰を強張らせるのを依代は感じていた。

 依代は刀をしっかりと両手で握り締め、鬼が自分のすぐ頭の上を横切るのをじっと息を殺して見守った。

 握り締めた刀はカタリとも動かない。震えない。

 ならばきっと大丈夫。

 依代は絶対の自信を持って眼を閉じた。

 開けても閉じても世界の色は変わらない。

 それでも、鬼の出現に高鳴る鼓動を治めることには役立った。

 期待に胸が躍っていた。空気は冷え冷えとしているのに、体の芯が熱を持ち、横を鬼が通る気配に体も心も震えていた。

『恨めし~恨めし~』

 鬼の嘆きが、鬼の恨みが、何事もなく通り過ぎて行く。

 ぎしり、ぎしりと短い廊下を鬼が行く。

「まるで無視ですか」

 障子戸を開けた気配も音もない。

 鬼が障子戸をすり抜けたのは明らかで、依代は身を起こして苦笑を漏らした。

「無視してもらえて良かったではないですか」

 情けない声を上げて祥之助も身を起こす。

「どこがですか。目の前にこんなに美味しいご飯があるというのに、綺麗に無視されてしまっては少しばかり傷つきます」

「そんなものに傷つく必要はありません」

 ウソ泣きよろしく、袖口で目元を押さえる依代に即座に突っ込みを入れながら立ち上がる祥之助。

「まぁ、傷つく云々は冗談ですが」

「でしょうね」

「冗談ですまないのが鬼の行方です。私たちが無理に押しかけて泊まり込んだことで、何かしら鬼の逆鱗に触れて誠二郎さんが襲われては堪りませんからね」

「そういう心配をするぐらいなら、初めから泊まり込むなんて無茶は止めてください」

 と言いながら、両者互いに明かりもつけずに座敷を出る。

 先導するのは祥之助。

 いつ何が起きてもいいように、着の身着のままだった二人の足に迷いはない。

 足音を極力立てないようにして短い廊下を渡り切ると、鬼は誠二郎の休んでいる座敷には目もくれず、そのまままっすぐ外へと出て行った。

「外へ行くようですね」

 暗闇の中、二つの緑色の小さな色が揺らめいて依代を導く。

 外は、屋敷の中とは比べ物にならないほどに明るかった。

 月明かりがあった。闇が薄れ、鬼の姿が影となって捉えられる。

 人々は完全に寝静まっていた。動く者の気配は一つとしてない。

 故に、人々は知らない。どこか澱んだ生ぬるい風が吹いていることを。

 秋の夜長に延々鳴きまくる虫たちの声が一つとしてないことを。

「どこまで行くんでしょうか?」

 鬼は進む。『恨めし~恨めし~』と言いながら、道に沿って迷うことなく足を進める。

 祥之助は依代を導きながら、鬼とは一定の距離を保って進む。

 やがて鬼は立ち止まった。

 村の中でも比較的大きく立派な栗の木の生えた家屋だった。

 依代と祥之助は、その向かいの家屋の陰に隠れて、鬼の動向を見守った。

 依代がいつでも駆け付け様に抜刀できるように刀の柄に手を添えているのを緑色の瞳で祥之助は見る。

「乗り込むつもりでしょうか?」

 小声で訊ねれば、

「招かれていなければ入ることは出来ません。おそらく立ち止まったということは、入れないということだとは思うのですが……」

 と、少しばかり自信無げに依代が返したときだった。

 どご、どご、どご。と鈍い音。

 見れば鬼が戸口を叩いていた。

『返せ~。返せ~』

「返せ?」

 聞こえて来た声に祥之助が眉根を寄せる。

「一体何を返せと言っているのでしょうかね。それともワタシの聞き間違いですか?」

「いいえ? 私にも『返せ』と聞こえますね」

 互いに見合って首を傾げる。

 そんな風に見られているとも思ってもいない鬼は、それから数度、どご、どご、どご。と戸口を叩きながら『返せ~。返せ~』と繰り返し。

 一切の反応がないと解かると一拍ほど身動きを止めた後、

『返さぬならば返してやる』

 と、何かを放る真似をした。

 更に一拍後。鬼はくるりと踵を返した。

 そのまま無言のままに歩き始める。

 今度は『返せ~。返せ~』とも『恨めし~恨めし~』とも言わなかった。

 ただただ無言のままに、背中を丸めて去っていく。

 祥之助は、目の前を鬼が通り過ぎて行った瞬間、物陰から飛び出して鬼が戸口を叩いていた家屋に近づいた。

 供に飛び出した依代共々、戸口に耳を寄せて中の音を拾おうとするも、

「……」

「……」

「……何も、聞こえませんね」

「そうですね」

「あいつは何をしたんでしょうかね?」

「解りません」

 と、上下で視線を混じ合わせ、揃って夜道を戻る鬼へと視線を向ける。

「他にも寄るところがあるのでしょうか?」

 と祥之助が疑問を口にすれば、

「とりあえず、追いましょう」

 依代は促して、祥之助が追った。

 だが、鬼はどこにも寄らず、まっすぐに屋敷に戻って来た。

「……戻ってきてしまいましたね」

 どこか拍子抜けたように祥之助が呟けば、

「もしや、いよいよ誠二郎さんを襲うつもりでしょうか」

 少しだけ、ほんの少しだけ責任を感じたような声で可能性を口にした依代。

 しかし、

「……まるで無視ですね」

 素通りだった。見向きもしなかった。足を止めもしなかった。

 まるで喧嘩中の家人が、互い同士の行動そのものを無視しているかの如く、ものの見事に無視をして、鬼は自分の棲み処へと帰って行った。

 カタン、カタン。カラカラカラ。

 よいしょと、何かを跨ぐような仕草で右足から掛け軸の中へ戻って行く鬼。

 その振動で、間の抜けた軽い音が座敷に響く。

「…………」

「…………」

「まさか、これほどまでに何もないとは……」

 拍子抜けも拍子抜け。

 祥之助がすっかり気の抜けた声を上げる。

 あれやこれやと鬼が出て来た時に起きるであろう最悪の事態を想定していた祥之助にしてみれば、何もないに越したことはないが、あまりにも本当に何もないことに、戸惑いすら覚えていた。だが、

「まぁ、何もなかったことは幸いです。では後は朝までゆっくりと休みましょう」

 と、背後の依代を振り返ったときだった。

 依代はそこにはいなかった。

 一体どこにと焦った祥之助の背後から、聞こえて来たのは依代の声。

「鬼さ~ん。少しお話しませんか?」

「は?!」

 入れ違い様に祥之助を横切り、掛け軸の前に移動した依代が、バンバンと掛け軸を叩きながら呼びかける声だった。

「なななななな何をなさっているんですか!」

 思わず後ろ帯を引っ張って声を張り上げる。

 対して依代は不思議そうな顔で祥之助を見上げ、

「何って、もう一度出て来てもらおうとしているだけですが?」

「何故ですか!」

 泣きたい気持ちで叫べば、

「何故も何も、この目を治してもらうためですが?」

「治してくれるとは限らないでしょう! 夜に鬼を呼ぶのは止めてください!」

「ですが、夜でなければ出て来てくれないのかもしれないじゃないですか」

「それでも! 夜は鬼の時間なんです! せっかく何事もなく済んだのですから、大人しく寝てください!」

「でも、せっかく何事もなかったからこそ、あの鬼は安全なのかもしれませんし……」

「寝ましょう!」

「でも」

「寝ましょう」

「もしかしたら」

「寝てください!」

「……」

「寝・て・く・だ・・さい!」

「……」

「もう一度言います。今夜はもう、寝てください」

「…………祥之助の、意地悪」

「意地悪で結構ですから、寝てください」

「せっかく出て来てくれたのに」

「綺麗さっぱり無視されたんですから諦めてください!」

「まるで振られた気分です」

「まるでも何も振られたんです。傷心しながら寝てください」

「…………祥之助の、意地悪」

「なんと言われようとも、依代様の安全第一を言い渡されていますので譲りません。というか、しつこい女人は嫌われますよ」

「う……」

「なんなら出てきたらすぐに起こしますから、今日はとりあえず寝てください。お願いしますから休んでください。長旅の疲れがあるでしょうに」

 と、拝むように心底心配した目を向けられて、ようよう依代は「仕方がありません」と頷いた。

 渋々といった様子で布団に横になり、刀を抱えて早々に寝息を立てるのを聴きながら、ホッと息を吐いた祥之助は、一度だけ掛け軸を睨み付けて、その前に座って眼を閉じた。

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